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一章 : 散り落つ桜の花弁の上で ... 後

「お帰り。早かったんだね、今日は」



信徒が座るべき長椅子で、聖書を読み流していた彼は、軋む扉の音でも耳に入れたのか、カノンが踏み入るより先に、柔らかな微笑みを向けた。


半身を持ち上げる所作に合わせて、柔らかなガウンが品良く揺れる。


何処かの古い物語に、聖者を描くとするならば、彼の姿ほど似つかわしいものは無いだろう――――神への恨み言の所為か、カノンの脳裏にふと過る。


彼はカノンの肩越しに、少女と挨拶を交わしていた。


其の光景を遠巻きに眺める感覚の中、カノンはふっと笑みを零す。日暮れの“赤”を、思い出した。



「もう、直ぐに暗くなるよ」



隠れた皮肉を汲み取って、聖者は低く、「そうかもね」と。


曖昧に消えた兄の返事に、カノンの方も別段思う事は無く、短い会話は其処で途切れる。


無造作に並ぶ楽譜を引いて、オルガンの前に腰掛けた。

所々に付箋が貼られた厚めの其れを、ぱらぱらと捲り流していく。目当てのページに痕を付け、立て掛けて軽く手足を置いた。


聴き慣れた、厳かな音。


一音ごとに躊躇いは無く、しかし丁寧に押さえられていく鍵盤は、奏者が傍らの少女に宛てた旋律を大きく響かせていく。


優柔な曲の舞台は《楽園−Eden−》。


“時”などという言葉は決して生まれない、刹那にも似た永遠を刻み続けていた場所の。

其処に在る以上の愉楽もなく、しかし一切の苦楚もない、閉蔵された狭い箱庭。


他を意に介さず音を紡ぎ、二人の世界を生きる彼らは、神に愛され堕ちたAdamと、彼に愛されたEvaに似ていた。




 + + + +




街最大の負の遺産、塔の時計が夜を示した。


道行く人に時の区切りを告げ知らせ、追い立てる為の奏楽の塔。

無味な鐘の音は頭を押さえ、人は重たげに俯いて往く。


途中で止められた《楽園》、此れも、あの現の喚起が響かなければ、“永遠”かも知れないというのに。




「またね、のんちゃん」



人の世に戻った空間で。

そしてその中で最も哀れな物の一つと彼が言う空間−チャペル−の中で、踵を返した少女は振り向き手を振った。


“また”、一度区切られる時。

「送るよ」と付き添う兄を無視し、少女に片手を上げて返すと、扉が閉まり切る前に彼は背を向けた。


瞳の奥が凍て付くまでには今日も時間は掛からない。


楽譜を棚に叩き付け、二人とは逆の扉から、彼は高台へ登って行く。


次々に浮き始める灯り。

真下に溢れ返るのは、人の喧騒と遅く刻まれる路面の電車が走る音――――どれ程其処から離れていても、見慣れた街の光景は、すぐに脳裏に蘇る。



時計や月日などという、曖昧な規準を信じ込み。

其れさえ人の創造物だと知りながら、従順に其れに従って。狂信者のように駆け抜ける人。


腐り萎びた花が咲く、“エデン”より狭い籠の中で。



「大、嫌いだ」



時などという概念が。移り変わっていく、世界が。


噛み締めた言葉は漏れ出して、新たに積み重なっていく。



―――――いつか、こんな街も、人も、



思いは歪み。彼の呪いは祈りに似せて紡がれる。


風に吹かれて舞った桜が、彼の足下に落ちて平伏す。


枯れかけた其れを無慈悲に強く踏み締めて、「莫迦莫迦しい」、と吐き捨てた。



“此の花びらの色に等しく曖昧で、残らず消えていくと云うなら。

 自然と、移り変わるものなら。



―――――末路は其れに相応しく、



信じられているだけの神さえ、



 『此の花のように枯れますように』”


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