二章 : 永遠は無味な文字に挟まれ ... 前
人を寄せない古い屋敷は、街の鬼門の方角に、ひっそりと静かに佇んでいる。
象徴染みたセンター市街、かつて“ミカルの膝元”と呼ばれた区域から離れるに従って、徐々に人気の無くなる道。
異常なほどに閑散とした――――滅多な事がない限り、誰一人として見受けられなくなる頃合い。
代わりに雑木林が迎え、道は一つに絞られていく。
低めで、細く、か弱げな、今にも萎びて消えそうな木々。
まばらに生え立つそれらを抜けると目の前に、重厚な館が現れる。
夜よりも深い闇を背負い、其れでも足りぬと云うように、窓は遮光の暗い布地で覆われていた。
薄い色彩の石壁だけが、庭の中央に浮かんでいる。
個人資産というには広過ぎるほどの、前庭は荒れ果てていた。
外れた表札。
入ってくれと言わんばかりに半分だけ開けられた門。
脇のランプも片方は、未だ弱い光を纏っているが、片方は完全に黙している――――其の、古い屋敷の中で。
骨董調の肘掛椅子が、重みを受けてぎぃと鳴いた。
深く沈みこむクッションの上。
かつて或る人の特等席だった此の場所に、緩く足を組み座る少年。
おそらく彼の年齢よりも、幼く見える顔立ちは、重たげな本に取り囲まれた此の場にとって似合うとはお世辞にも言い難く、むしろ異質。
其れを象徴するかのように、頁を捲る少年の手も、彼の目も、退屈を物語っている。
数歩離れれば文字など追えない薄闇の中、今唯一の光源である小さなランプの灯りを受けて、彼の頭上のシャンデリアが、時折自らを主張した。
朧で柔らかな暖色系の薄明かりは、先代の主であったなら、躊躇わず利用しただろう。
だが少年は、見向かない。
元より、“読んで”などいなかった。
欠片ほどのリアルも感じられない、重苦しいだけの数多の蔵書。
何百と、たとえ千を超えても、其の背表紙の一つにだって、興味を持ったことは無い。
近年のものさえ“アンティーク”だと感じさせる、部屋中に満ちた魔法の中で、適当に開いた紙束はやはり、面白いとは思えなかった。
飽きる事無く此処に居た、つい最近の椅子の主を思い出す。
古事記述から物語まで、常に小難しい書物ばかりを片手に置き。
ゆったりと、しかし翌日には違った本を手に時を過ごしていた彼は、此の椅子に腰掛ける様も、まるで全てが其れを考案された段階から、“彼”のために在ったと言うように、相応しく様になってはいたが。
「わっけ、分かんねぇ」
他にすべき事が無かったというのも相成って、真似をしようと此処へ足を運んだのはほんの十数分ほど前だろう。
元々性格の差異は顕著で、真似てみようと思い立っても、自分には無理な話だった。
頁が薄く、厚みのある其れ特有の、篭った音を響かせながら。本は放られ床へと落ちる。
椅子の傍らにあるデスクまで、身を乗り出して頬杖をつき。舞った埃と其の中心を横目で見遣る。
描かれていない言葉を持たない相手が、何処か、仕打ちを訴えている気がして。
言いようの無いばつの悪さに視線を外し、深く、溜息を吐いた。
―――――“幸せが逃げていく”、などと、言い出したのは誰だろうか。
脳裏に過った程度の低いその呪文に、バッカみてぇ、と悪態を吐く。
「笑ってたって、結局逃げてくモンじゃんよ―――――」
立ち上がり、拾い上げた本。
此れを必要とした人は、もう二度と、此処へ踏み入ることはなく。
いつか、此処は埋まるのだろう。
遥か昔から根気強く溜め込まれていった、膨大な数の記憶と共に。
本は朽ち、書簡は砕け、其処に埋め込まれた著者の心は―――思想や言葉や行いは―――“無かったもの”へと戻るのだ。
時は其れほどに残酷で、世界はそれほどに無慈悲なもの。―――――そして現は、救い無い。
「お前も、おれも。みんな、置いてかれてさぁ……ッ」
崩れるように膝を付く。分厚い本に手を置くと、表紙の無機質さが際立った。
人との関わりを失くした途端、まったくの無味になる字の羅列。
いつか人の世が生んだ其れは、あまりにも人によく似ていた。
人と関わりを失くした人間とて、また無。だから――――死者に意味など無いと。
嘆く言葉と虚しさだけが、止め処なく溢れ積もっていく。
「兄さん」
戻ってきてもいいじゃんか。
絞り出されて潰れた声音。
それとも今居る此の場所は未だ、底辺でないと云うのだろうか。
自分の世界の“唯一”を、“標”を失くしても、未だ尚。
沈んだ部屋で顔を上げ、変色したカーテンと壁との間に隙間を開ける。
其れの向こうに一筋の、月明かりでも探すように。
「………無理か」
宵の出迎えには少々早い朔の空。
月の白夜が続いた日々は、天に勝るほど幸福だったと知っている。
“月”――――彼の人が、沈んだ世界という地獄。
其処からどれ程手を伸ばしても、地獄の底から這い上がっても、天には到底届かない。
異教の神話に描かれた、堕天の翼を広げても。人の世がやっとだったのだから。
翼など無い自分が行ける範囲など、高が知れているだろうと。
思えば、随分楽になる。




