十三章 : 虹色の浮橋、未来へ ... 前
薄く濁った空の下、降り積もっていく雪の合間に、ふと、太陽が覗いた。
「あれ、一輝君。久しぶり」
時に引き摺り下ろされて、高くは昇れない太陽。
腫れた目のすぐ下に濃い隈、憔悴しきった笑顔が雫に向けられる。
「ごめんな、いきなりでさ」
「ふふ、君みたいなお日様が芸術に興味を持ってくれるなら、僕はどんな努力も厭わないよ」
努めて明るく、笑い返した。
雫にとっては見慣れた笑顔。
今の一輝に限らずに、此の表情で此処を訪れる者は多い。
ガラクタ館。別の渾名は、“記憶館”。
どうしたの? そう柔らかく問い掛けた時、差し出されたのは短い楽譜とナイフだった。
「此れ、置いといてくんねーかな」
「……うん、分かった」
―――――行っちゃったんだね、祈咲。
そして、おそらくカノンも、もう、此処を訪れることはないだろう。
楽譜のタイトルは、“共に”。
『君と一緒に、何処までも』。
描かれている舞台は“楽園−EDEN−”、冤罪のイヴにアダムが宛てた、手紙のような物語。
其の旋律は、だがソプラノだ。
静かな此の曲は女性の独唱、“イヴ”が歌うように作られている。
あの二人にぴたりと嵌まる曲。
三枚ほどの其れを一枚ずつ捲れば、所々に書き込みがあった。
伴奏の最中に、イヴの言葉。
そのイヴに重ねて、テノールの音。
ずっと、一緒に。
カノンと祈咲はきっと此れを、歌っていたのだ。ずっと。
「さんきゅ」
安堵感に満ちた無邪気な笑みで、その楽譜の上にナイフを乗せる。
此れを最初に持っていたのは、おそらく彼の兄、果刹だ。
粉雪が被らないように、自分のストールを掛けた。でも、
掛かって少し滲んだ方が、此の季節らしくて良いかも知れない。
きっと明日には薄く積もる、単体では儚い妖精たちを見てふと思う。
妖精――――そう言えば彼女も、粉雪のような人だったか。
「一輝、汽車間に合わねぇぞ?」
少し離れた所から、太陽を呼ぶ明るい声。
一輝と共に目を向けると、彼の従兄と旅行鞄が其処にはあった。
「おう」
「じゃあな、雫。よろしくな」、そんな短い科白を残し、彼は其方へ駆けようとする。
「一輝君」
「ん?」
―――――君も、行ってしまうんだね。
少し声を張って呼び止めると、不思議そうに、其れでも振り向いて、くれた。
明るく暖かな、初冬の太陽。此間までは、初夏にいた。
「頬……どうしたの」
え? と問い返し、瞬きをする。
思わず右頬に手をやって、合点がいったようだった。
目と同じように腫れた頬。
此処に来た時から、何となく気になってしまったもの。
「ちょっとな。情けねーだろ?」
変わらない笑顔で彼は笑う。
先に歩き出した従兄に歩調を合わせる一輝はもう振り返らなかった。
“悪い、槙桧−まきひ−”。
従兄に軽く手を合わせながら言う、さっぱりとした笑い声が聞こえた。
「………行っちゃった」
雪の中に、霞む背中。
もう帰って来ることはない、記憶の中に溶けいく人々。
引き金の少女を思い出せば、彼女の言葉もまた、蘇る。
あの日と同じ白く磨かれた壁にはやはり白い影が、たった一人で映っていた。
薄い灰色と白の床に、一人分の足音が木霊する。
―――――“ねぇ、雫。白は好きなの?”
不意にあの日の少女の声が、耳を掠めたような気がした。
機械的に進めていた足が、その幼い声に思わず止まる。
何処か現実から浮き出た、白が、とても似合う少女。
“生死”の絵をぼんやりと眺める彼女を初めて見た日、自分は、そう言えば天使だと思った。
脆弱なイメージが雪と重なり、言葉を交わせば、雲と変わった。
其れでも彼女は、白かった。
「―――――あんまり、考えないよ。分かんない」
あっさりと、其の言葉に返す。
白――――世界から浮いた色が、ひとつ、消えた此の世界。
ねぇ、カノン君、
君の築き直した此の世界は、僕にはほんの少しだけ、退屈過ぎるかも知れない。




