十二章 : 蒼銀の月、小鳩の血... 後
あの金木犀の彼さえも、自分の手に掛けはしなかったのだと、其の時初めて気がついた。
自分の手の平に残る赤。あまりにも、鮮やかだった。
小鳩の血。宝石のように、愛おしい赤。
かつて愚かな天才たちが挙って求めたエリクシールは、きっとこういう、命の色だ。
微かな息遣いに聞き惚れる。
―――――君の一切が手に入ったと、思ってしまうのは罪だろうか。
彼の名を担う存在が、其れを問うことは莫迦げているが。
「―――――シン」
ふと、耳を掠めた名に、全身を包んでいた痺れが解けた。
Canon−正典−なんていう名前よりも、余程自分の物だと感じられる其れ。
「覚えてたの」と、問い掛ける。
ぼんやりと柔らかな少女の笑みが、そっちこそ、そう言っているような気がした。
懐かしい、と思うほど、昔の事だとは思っていない。
夥しい時間は流れたけれど、―――――時は、止められる。
時間と共に褪せるものなど何もなく、あの日の記憶は鮮明で、君は、まだ“大切”なもの。
「ごめんね」
祈咲の見せる笑顔が何時でも柔らかく、儚く寂しげな事に気付いていないわけがなかった。
哀しそうな微笑みの奥で、耐えていた。
カノンの視線の先に“自分”はいないのだと、彼女は当然のように知っていて。
だから、こうなったのだろう。
首を振る、少女に、其の先言葉は与えなかった。
何もかも、嘘になる気がした。一切が、所詮戯言ではないかと。
慈しむような微笑みは、其れでも彼女に向けていたのだと。
此の感情は紛れもない、今の自分のものなのだと。
「……祈咲」
カノンは一度として、過去に零れ落ちた存在の事を口に出したりしたことはない。
祈咲と過ごした時間の中で、思い出した記憶さえ頭に残っていないのが何を意味するのか。
気付かないほど、愚鈍ではない。けれど、
何にせよ、犯していることは変わらない。
力の抜けた指先が、微かにカノンの服を引いた。
小さく動いた唇に、聞き漏らすまいと耳を寄せる。
「あ……のね、」
―――――伝えないと。
薄れる意識の中で、たったひとつ、どうしても伝えなければならないこと。
短い一言は脳裏で繰り返されるだけで、音として、出ていかない。
もどかしかった。
此れほど早くと思っているのに、焦燥感だけが募っていく。
たとえ、カノンが此の世界を見ていなくても。
其の視界に、カノンの見ている、世界に。
私を入れてくれていた事は知っている。だから、
―――――“私、は”………
あの人が、いなくなってからも。
貴方だけは、鮮やかだった。
―――――“カノン”、
ねぇ、もう一度名前、呼んで?
貴方の呼ぶ“祈咲”がとても、好きだった。
呼ばれる度に、此処にいるように云い付けられている気がしたけれど。
少し強く握られる手が―――痛いほどの、離せば薄らと赤くなるほどに―――自分を求めて、くれているようで。
此処に、繋ぎ止めてくれている。辛くて、切なくて、嬉しかった。
声が出ない。仕方ないから、もう一度彼の服を引いた。
唇に、耳が触れる。
声が無くても、届きますか?
―――――きっと。きっと、貴方なら。
カノンなら、分かってくれる。
私が何を言わなくても、分かってしまう人だから。
―――――“しあわせ”
貴方の優しさに、浸っていられたことが。
貴方の腕の中で、貴方が、送ってくれることが。
貴方にもう一度、出逢えたことが。
オルガンの音色、綺麗な歌声、髪を撫でてくれる指先の温度、薬のように柔らかい言葉。全部。
―――――幸せだったの。カノン。
ぴくりと揺れた、彼の体。
其れだけで伝わったと分かった。
最期の、幸せ。
大切に抱いて瞳を閉じる。
ありがとう。きっと、私はずっと――――――――――
+ + + +
“幸せ”。声なく紡がれた言葉に、目を見開いた。
呼吸が聞こえなくなって、耳を離して見下ろすと、其処には彼女の笑顔があった。
幸せだと、確かにそう言ってくれたのだろう。
良い夢を見ているかのような寝顔。
起こさないように、揺すらないように、彼女の目尻に溜まった涙をゆっくりと拭う。
「祈咲………」
初めて彼女を、抱き締めた。
粉々になってしまいそうで、伸ばせなかった此の腕で。
あの小春日に見た花は、喪失感が先駆けて、此の手に乗せるのが限界だった。
人形のようだった彼女は、きっと此れほどに愛らしい花ではなかっただろう。
夢もない、ただ洞々と深い眠りの中で。その前は―――――、
抱き締めることも、出来なかった。
何処かで一度だけ読んだ、古臭い人の物語。
少女を失くした黒い天使は其の中で、蒼い月の空へ帰って行ったと描かれていた。
莫迦莫迦しくて、ふぅんと放り出していた。
此の世に“天”など、無かったから。
“生死”の果てに、天の国など最初から存在していないから。
罪の名を背負った黒羽の天使は、人間として、“此処”にいる。
―――――もし、その“天−そら−”があったなら、
「違ってたかも……知れないのにね?」
僕らと人の運命は、間違いなく相入らないで。今も。




