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冤罪追放令嬢、義兄の結界は逃げ道ゼロの溺愛でした  作者: 風谷 華


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20/22

第18話 真相

夜は、言い訳にちょうどいい。

光が薄くなって、顔色も、沈黙も、都合よく隠してくれる。


クロエの部屋は、夜の中でもさらに静かだった。

王都の中心に近いこの屋敷は、外から見れば“公爵家の娘にふさわしい”華やかさをまとっているのに、彼女の私室だけは違う。派手な香も、重たい装飾もない。見せびらかすための光がない。


この国はギフト社会だ。

戦う力、支配する力、派手に見える力が価値になる。

逆に、地味な力は軽く扱われる。笑われる。便利に使われて、最後に捨てられる。


クロエはそれを、身をもって知っていた。

正確には、”知っているのに、知りたくなかった”。


窓辺の椅子に腰を下ろし、黒猫ジオの背を撫でる。

黒い毛並みは夜に溶けるのに、触れると確かに温かい。

森で境界が溶けかけたあの夜から、彼だけがクロエの輪郭を繋ぎ止めてくれた。


『まだ怖くて緊張している匂いだな』


「……消えないよ。舞踏会が終わっても」


慈善舞踏会。

花蜜の幻惑。

涙と香りで世論を操る女――セラフィナの仮面が剥がれ、場は一度ひっくり返った。軌跡視の騎士が物証を出し、流れは変わった。

けれど、王太子エリックはまだ立っている。

誓約支配――同意を奪い、言葉を鎖にする男は、まだこの国の“上”にいる。


クロエは喉の奥を押さえた。

言葉が怖い。

「はい」と言わされる恐怖。

「同意しただろう」と笑われる恐怖。

自分の口で自分を縛られる恐怖。


そして――もうひとつ。

守りの名で囲われる恐怖。


セドリックの結界。透明な檻。

守ると言いながら、命令の形をした言葉。

冷たい目。

「勝手にしろ」と突き放す声。

それでも護符を持たせ、護衛を増やし、外に刃が届かないようにする手。


(優しさなのか、支配なのか)

(私には、まだ見分けられない)


そのとき、扉が叩かれた。

二度ではなく、一度だけ。

呼ぶというより、確認するみたいな音だった。


クロエの指が止まる。

護衛が先に来る足音がない。使用人の気配もない。

静けさの底に、ひとり分の輪郭だけが立っている。


ジオが起き上がり、耳を立てた。


『硬い匂い。……でも嫌な匂いじゃない。硬い』


硬い匂い。

セドリックお兄様の匂いだ。


クロエは喉を鳴らすようにして声を出した。


「……誰」


返事は迷わなかった。


「セドリックだ」


平坦で、拒む余地のない硬さ。

それなのに、今日はその硬さが、逃げない印にも聞こえた。


クロエは鍵に手をかける。

鍵を回す音が、やけに大きい。


(檻の音みたい)


それでも、開けた。

扉を少しだけ開くと、廊下の灯りが細く差し込み、セドリックの輪郭を切り取った。

高い背、きっちり整えられた髪、夜でも崩れない姿勢。

“守護結界の男”。

囲い込みを成立させる男。


「入る」


「……何しに来たの?」


クロエの言葉は棘がなかった。

棘を立てる余裕がない。怖いから、静かになる。


セドリックは一拍だけ止まった。


「……入っていいか」


命令の形を崩した。

たったそれだけで、クロエの胸が小さく揺れる。

怖さが消えたわけじゃない。けれど、薄くなった。


クロエは一歩退いて道を作った。

セドリックが部屋に入ると、ジオが当然のように二人の間へ座った。門番みたいに。


『ここ、うち。勝手に踏むな』



セドリックは扉を閉め、椅子を指した。


「座れ」


命令の形。

クロエは眉を寄せる。だが、椅子はクロエに寄せられている。

近づかないための距離の取り方。

支配のための配置ではなく、“ここから先は踏み込まない”と示す線に見えた。


クロエは椅子に腰を下ろした。

ジオはクロエの膝に丸くなる。


セドリックは向かいの椅子に座り、背筋を伸ばした。

まるで裁判の席のように感じた。



クロエが先に聞いた。


「……こんな時間に、何」


セドリックは答える。


「もう逃げるのをやめようと思って」



クロエは視線を落とし、言葉の端を握る。


「……何かを話す気になったの?」


セドリックの眉がわずかに動く。

その小さな動きが、彼の中で何かが決壊しそうな予感を連れてくる。


「俺の話だ」


クロエの胸がきしむ。

怖い。

けれど、聞かなければ前に進めない。

“檻”の形を変えるには、檻の材料を知らなければならない。


セドリックは淡々と告げた。


「俺の両親は事故で死んだ」


言葉は短い。

落ちた金属片みたいに冷たい。

クロエは息を止める。


「母は男爵令嬢だった」


男爵。

この社会で、軽んじられやすい立場。

派手なギフトも、戦闘の力も持たない者が多い。

踏まれやすい階級だ。


「父は公爵家の次男だった。……二人は駆け落ちした」


クロエの胸の奥で、屋敷が避け続けた噂の空白が繋がる。

“触れるな”とされてきた部分だ。


「祝福はなかった。家は二人を切った。

俺は、平民として育てられた」

「だけど両親は、俺を愛してくれていた」


セドリックはそこで一度、息を吐いた。


「事故で二人が死んだ日から、俺は“期待しない癖”だけを身につけた。

持てば失う。望めば壊れる。だから最初から、何も持たない」


クロエの指先が冷たくなる。

その“癖”が、彼の冷たさの骨格に見えた。


「……それで、公爵家に引き取られたの?」


「そうだ」



セドリックは続ける。


「絶望の中、引き取られた日、クロエがいた」


クロエの喉が熱くなる。

”クロエ”という響きが、今夜は少しだけ柔らかく聞こえた。


「クロエは俺を見て笑った。

『お兄様!』と呼んだ」


クロエは目を閉じる。

クロエは一人っ子だったから、

お兄様ができて、嬉しかった。


「……覚えてる」


「俺の心はあの瞬間、あったかくなった」


セドリックの声が、ほんの僅かに低くなる。


「家族を失って空洞になったはずの心に、勝手に灯がともった。

希望の光だ。

それが……恋だと気づくのに、時間はいらなかった」


クロエの呼吸が止まる。

“恋”という言葉が、今までの冷たい言葉の上に落ちて、割れる音がする。


「でも、クロエには役目があった」


セドリックの視線が鋭くなる。

怒りではない。責任の形をした鋭さだ。


「公爵家の娘。跡取り。王太子の婚約者候補。

“公爵家の娘が従兄に懐いている”なんて噂は、蜜みたいに広がって毒を混ぜる」


クロエは苦く笑う。

噂は真実より速い。

人は理由より雰囲気を信じる。

セラフィナの涙と香りが、まさにそれだった。


「そして何より……王太子の耳に入る」


セドリックが言った瞬間、部屋の空気が一段冷えた。


「王太子は、自分のものに他人の視線が向くだけで機嫌を悪くする。

支配できないものを嫌う。

だから俺は決めた。

なるべく関わらない。なるべく距離を取る。心を悟られない」


クロエの胸が痛む。

“守るための距離”。

それがどれほど残酷か、今なら分かる。


「おまえが手を伸ばしてきたら一歩引いた。

笑いかけられたら目を逸らした。

頼られたら別の者に任せた。

冷たく。冷たく。冷たく。

……それが守ることだと信じた」


クロエは唇を噛む。

あの頃、自分はずっと追いかけていた。

隣に立ちたかった。

笑ってほしかった。

なのに、いつも壁があった。


「その冷たさは噂になった」


セドリックの声が少しだけ硬くなる。


「『公爵の甥は公爵令嬢を冷遇している』

『血縁があっても情がない』

『可哀想に』

……噂は事実より速い」


クロエの背筋がぞくりとする。

その“可哀想”は、いつも刃だった。

守るふりをして刺してくる刃。


「王太子はその空気を嗅いだ。

『公爵家の中ですら大切にされない娘』

『地味で価値が薄い』

『飾り』

そういう評価を嬉々として受け取り、最後は平然と婚約を壊した」


クロエの胸が、ひゅっと縮む。

断罪の舞踏会。偽造手紙。慈善金の紛失。

涙と香りに満ちた会場。

弁明を封じる誓約支配の圧。


「婚約破棄。断罪。追放。森への投棄」


セドリックの喉が一瞬だけ詰まったように見えた。

彼はそれでも言葉を切らない。


「報告を受けた瞬間、俺の喉の奥が焼けた」


クロエの手が震える。

ジオが膝の上で体をずらし、クロエの手に頭を押しつけた。


『クロエ、まだここにいる。戻ってきてる』


クロエは小さく頷く。

今、ここにいる。

それだけが救いだ。


セドリックは続けた。


「直接手を下したのは王太子だ。

でも刃を研いだのは……俺の距離だった。

守るつもりで冷たくした。

その冷たさが、おまえを“守られない者”にした」


クロエの目の奥が熱くなる。

泣きたくない。

涙は幻惑の道具にされるから。

でも、熱は止められない。


「……森で、私を見つけたとき」


クロエが言うと、セドリックの瞳がわずかに揺れた。


「クロエは土と葉に溶けかけていた。

命の輪郭が消えそうだった」


クロエの記憶に、湿った土の匂いが戻る。

葉擦れ。冷気。闇。

生きたいとも死にたいとも思えない、“生きているのか分からない”境界。


「その瞬間、俺の中で何かが決壊した」


セドリックは視線を逸らさない。


「王太子が要らないなら。世論が狂っていると言うなら。

この世界が勝手に価値を決めるなら――俺が守ると決めた」


クロエの胸が跳ねる。

“守る”。

その言葉は、檻の匂いも連れてくる。

でも今夜は、檻だけじゃない匂いが混ざっている。


「守るために囲う。守るために嫌われる。守るために冷たくなる。

もう二度と誰にも傷つけさせない」


セドリックはそこで、指先をわずかに動かした。

空気が淡く脈打つ。

目に見えない膜が、部屋の端で呼吸するみたいに震えた。


守護結界。

囲い込みを成立させる力。


「守護結界は、“守りたいもの”に反応する」


クロエは息を呑む。


「だから、あの夜……結界は勝手に強くなった。

理屈じゃない。命令じゃない。

……守りたいが先に来た」


クロエは震える声で言った。


「じゃあ、私の周りだけ結界が強かったのは……」


「そうだ」


セドリックは即答した。

言い逃れしない。飾らない。


「俺は、眠るおまえの髪に触れかけて止めた。

触れたら守りに欲が混ざる。欲が混ざれば歪む。

だから代わりに――光を張った。透明な檻だ」


クロエの喉が痛い。

檻。

でも“嫌われ役でいい”という決意が、檻の材質を少しだけ変える。


セドリックは、まっすぐ言った。


「好きだ」


派手じゃない。甘くない。

ただ、逃げない一語。


クロエの頭の中で、雪が落ちるみたいに静かに何かが崩れる。



クロエは言葉を絞り出した。


「……私、嫌われてたと思ってた」


「嫌っていない」


セドリックは短く言う。

短いのに、刺さる。


クロエは視線を落とした。


「でも私は……檻が怖かった。

守りって言われても、奪われる感じがした。

冷たい言葉で、私の輪郭がまた溶けそうだった」


セドリックは否定しない。

“許せ”とも言わない。

そこが彼の誠実さだと、クロエは今夜初めて思った。


「分かっている」


その言葉が、命令ではなく受け止めに聞こえる。

クロエの胸の奥が、少しだけほどける。


クロエは、怖いところに手を伸ばす。


「……私のギフトのこと」


クロエのギフトは、セドリック以外知らない。

それは守りであり、弱点でもある。

地味で、軽視される力だからこそ、踏まれる。


セドリックの目が鋭くなる。

支配の鋭さではない。守りの鋭さだ。


「誰にも言うな」


「言ってない。お兄様にしか」


セドリックは一瞬だけ息を吐いた。

その吐息だけが、ほんの少し柔らかい。


「それでいい。

クロエのギフトは利用価値がある。

エリックに知られたら、誓約で縛られる。

……俺はそれを許さない」


“許さない”という言葉が、支配にも聞こえるのに、今夜は違う。

それはクロエの輪郭を守る線だ。


ジオが満足そうに目を細める。



クロエは小さく笑った。

息のある笑いだった。

雪の中で弾む息みたいに。


クロエは言った。


「……でも、今すぐどうこうはできない」


「いい」


セドリックは急がせない。

甘い言葉で埋めない。

それが逆に怖いくらい誠実だ。


「好きって言われても、私の中には檻の感覚が残ってる。

冷たい言葉の記憶が、怖いまま残ってる」


セドリックは立ち上がらない。近づかない。触れない。

“距離”を、今度は正しく置く。


「それでも生きていればいい」


命令じゃない。願い。

守りたいが先に来る、あの結界の脈と同じ温度。


ジオが膝から降り、二人の間に座り直す。

小さな黒い塊。境界の番人。


『こいつ、言うの遅い。でも言った。

 クロエ、嫌われてなくてよかったな』




セドリックはようやく立ち上がり、扉へ向かった。


扉が閉まり、廊下の灯りが消える。

クロエの手の中に、鍵が残る。

檻の鍵に見えたものが、今は“自分の家の鍵”に見える。


クロエは鍵を握りしめた。

金属の冷たさが、なぜか心地いい。

輪郭があるからだ。


窓の外、庭の木々が夜風に揺れる。

枝の先はまだ冬の硬さを残している。

けれど根は、見えないところで春の準備をしている。


(形は、変わる)

(檻にも、家にもなる)


クロエはジオを抱き上げ、額を軽く寄せた。


「ねえ、ジオ。怖いままでも、進めるかな」


ジオは欠伸をして、目を細めた。


『怖いまま進むのが、生きるってことだろ』


クロエは息を吐いた。

部屋の静けさは、さっきまでの静けさとは違う。

夜の中に、まだ小さな灯りが残っている。


生は、続く。

輪郭を失いかけた命が、今度は自分の手で輪郭を取り戻していく。


クロエは窓辺の木を見た。

芽吹きはまだ遠い。

でも、根はもう動いている。


(私は――誰のものでもなく、生きる)


その誓いは、誓約支配の鎖とは違う。

自分のための誓いだ。


静かな夜が、クロエの背中を押した。



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