第1話 断罪の舞踏会
シャンデリアの光は、いつだって嘘みたいに綺麗だ。
天井の高い大広間に吊り下げられた水晶が、炎のような灯りを幾重にも砕いて、床に、壁に、人の頬に、微細な光の鱗を撒く。誰の顔も少しだけ上等に見える。少しだけ幸福に見える。
――だからこそ、私はこの場所が怖い。
クロエは扇で口元を隠し、笑っているふりをした。口角を上げるだけ。頬の筋肉を動かすだけ。そうしていれば、誰も「本当は息が苦しい」なんて気づかない。
王都の慈善舞踏会。名目は貧民救済の寄付集め。実態は、貴族たちの品定めと、勢力図の再確認――そして、王太子婚約者の“最後の顔見せ”。
クロエの背中に、視線が刺さる。
「……公爵令嬢のクロエ様、相変わらず地味ね」
「王太子の婚約者っていうけど、華がないわ」
「ギフトも未発現なんでしょう? 運が悪いわよねぇ」
囁きは、扇の裏側をすり抜けて耳に入ってくる。慣れている。慣れているはずなのに、今夜はやけに痛い。
この国では、ギフトがすべて――とまでは言わない。けれど、ギフトの強さが“価値”に直結しているのは確かだ。
支配系、戦闘系、治癒系。派手で、国を守る力があるものほど称賛される。王族がその類を持つなら、なおさらだ。国民は安心し、貴族はひれ伏す。
そして、地味なギフトは笑われる。役に立つとしても、面白みがない。絵にならない。
クロエはまだ、ギフトを知らない。
いや――“知らない”というより、“表に出ていない”。
発現には個人差がある。遅い者もいる。けれど社交界は、待ってはくれない。
(……私は、ただの公爵令嬢。王太子婚約者の器じゃない)
そう思ってしまう瞬間が、何度もあった。
それでも、婚約は結ばれた。
なぜなら、公爵家は金と権力を持っているからだ。
国政に顔が利く父。王都のいくつもの慈善院を支援し、王家にだって“借り”を作っている母。海沿いの港や鉱山まで押さえ、流通の根を握っていると噂される一族――それがクロエの家。
つまり、私は“私自身”ではなく、公爵家の札として選ばれた。
クロエは、薄いシャンパンを口に含む。泡が舌を刺し、喉を冷たく通っていく。熱が出そうなほど火照った頬が、少しだけ落ち着く。
そのとき、背後からざわめきが変わった。
音が、すっと引く。波が引くみたいに。
「王太子殿下がお越しよ」
「……あの誓約支配のギフト、恐ろしいわ」
「一言で人の人生を縛れるんですもの。王族に相応しい力よ」
人々が道を開ける。
その先に、王太子エリックがいた。
背が高く、肩幅が広い。銀糸を織り込んだ夜色の礼服が似合いすぎるほど似合っていて、歩くたびに空気が変わる。周囲は自然と背筋を伸ばし、笑みを作る。
エリックの視線が、クロエを捉えた。
――ほんの一瞬。
まるで、壁の染みに目が滑ったみたいに、関心が通り過ぎる。そして次に、その視線が“吸い寄せられる”先がある。
彼の腕に、セラフィナが絡んでいた。
侯爵令嬢セラフィナ。慈善舞踏会の主催者側。淡い桃色のドレスが胸元を華やかに飾り、髪には小さな花が散らされている。笑みは柔らかく、目元は潤んで、誰もが「清らか」と形容したくなる。
近くにいるだけで、甘い香りがした。
蜂蜜と、花弁と、どこか涙のような匂い。
(……香水? いいえ、もっと……)
喉が妙に乾く。胸の奥がふわふわと浮くような感覚。
クロエは小さく息を吸い直し、規矩正しく頭を下げた。
「王太子殿下。お招きいただき、光栄に存じます」
エリックは、微笑んだ。唇だけで。
「来てくれて“助かった”よ、クロエ」
助かった――その言い方が、妙に引っかかる。
「公爵家の名があると、場が締まる」
そう言って、彼はクロエの目を見なかった。セラフィナに視線を落とし、指先で彼女の手袋を撫でる。
セラフィナは、恥じらうように頬を染めた。
(……これが、王太子妃候補の扱い?)
クロエの胸の奥で、何かが小さく折れる音がした。
だが、ここで表情を崩したら終わりだ。クロエは笑ったまま、扇で口元を隠す。
「殿下のご健康をお祈りしております」
セラフィナが、ふわりと近づいた。花蜜の匂いが濃くなる。彼女の瞳が、真っ直ぐクロエを見る。
「クロエ様。今夜は、王都の子どもたちのために……たくさんの寄付が集まるといいですね」
優しい声。祈りのような言葉。けれど、その奥に、薄い刃が潜んでいる気がする。
クロエは頷きかけて――その瞬間、大広間の端で誰かが叫んだ。
「大変です! 慈善金が……慈善金が消えました!」
ざわ、と空気が裂ける。
音楽が止まる。笑い声が止まる。扇の動きまで止まる。
人々の目が、一斉に慈善台帳の置かれたテーブルへ向かう。銀の箱が開け放たれ、中は空だ。
「そんな……」
「今夜集まった寄付は、どこへ?」
「鍵は……管理は誰が……」
慈善金。貧民街の薬、冬の毛布、孤児院の食事。金が消えるというのは、ただの不祥事ではない。ここにいる誰もが「正義」を装って怒れる最高の事件だ。
そして――正義は、しばしば残酷だ。
セラフィナが、一歩前に出た。
胸元に手を当て、震える唇で言う。
「お願いです。どうか、誤解のないように……。私は、ただ、子どもたちのために……」
潤んだ目。落ちそうで落ちない涙。甘い香りがふわりと広がる。
空気が、セラフィナの味方になっていくのが分かった。
「セラフィナ様がそんなことをするはずない」
「慈善にあれだけ尽くしていらっしゃるのに」
「可哀想に……」
クロエの背筋に、冷たいものが走った。
(……この空気、嫌だ)
そのとき、誰かが紙束を持って駆け寄ってきた。
「証拠が……見つかりました!」
紙が掲げられる。薄い羊皮紙。封蝋。筆跡。
――そして、その下にある署名。
『クロエ・レグラン』
クロエの視界が狭くなる。
「嘘……」
震える声が漏れた。
「クロエ様が慈善金を移し替えるよう指示していた、と……こちらの手紙に……」
「筆跡も一致しています」
周囲の視線が、クロエへ向き直る。
さっきまで“地味”だと笑っていた視線が、今度は“罪人”を見る目に変わる。
「……公爵令嬢が?」
「王太子妃候補が慈善金を?」
「最低だわ……」
クロエは息を吸おうとして、吸えなかった。
(違う。私は――そんなこと、していない)
言おうとした。けれど喉が、言葉を拒んだみたいに固い。
セラフィナが、ゆっくりと涙を落とした。
「クロエ様……。どうして……。私、あなたのこと、信じたかったのに……」
その一言が、火を点けた。
信じたかったのに。裏切られた。悲しい。可哀想。
優しい言葉ほど、人を殺す。
「弁明させてください!」
クロエは一歩踏み出した。扇を落としそうになるほど手が震える。
「その手紙は偽造です。私の署名に見せかけて――」
「クロエ」
エリックの声が、低く落ちた。
クロエの言葉が、途中で切れる。
エリックは、微笑んでいた。あの、唇だけの笑みで。
「見苦しい」
たった一言。けれど空気が凍る。
「慈善金を盗んだのが事実なら、公爵令嬢であろうと王太子妃候補であろうと、処断は必要だ」
クロエの胸が、ぎゅっと縮む。
「待ってください! 私は――」
「誓約しろ」
エリックが、さらりと言った。
その言葉に、会場がざわめいた。
誓約支配。王太子のギフト。誓いを結ばせ、破れば罰が下る。人の意思を縛る力。国を守ると言われる力。――そして、最も嫌われる支配。
クロエの手足が冷える。
「今、この場で誓え。『自分は慈善金に一切触れていない』と」
言ってしまえばいい。触れていないのだから。
でも、誓約は“言葉”だけじゃない。条件の取り方がある。罰の形がある。王太子の気分ひとつで、誓いは刃になる。
それに――この場の空気が、すでにクロエを殺している。
誓った瞬間に「言い逃れした」と言われる気がした。誓いの言葉尻を捕まえられ、罰を与えられる気がした。
そして何より、エリックの瞳が言っていた。
――どうせ君は、邪魔だ。
クロエは唇を噛んだ。血の味がする。
「殿下……どうか、彼女にも事情が……」
誰かが言いかけた。だが、すぐに声は消える。空気が許さない。
そのとき、クロエの視界の端に、ひとりの男が見えた。
長身の深い青の礼服を着た切れ長の目をした男。
胸元にはレグラン公爵家の紋章が入っている。
セドリック。クロエの義兄。次期公爵。守護結界の使い手。
――そして、いつだって冷たい人。
助けて、と口が動きかけた。
でも、その前に、セドリックが口を開いた。
「……恥を晒すな、クロエ」
クロエの全身が、硬直する。
「公爵家の名を背負うなら、最低限の品位くらい守れ」
品位。最低限。恥。
言葉が、クロエの喉に鎖を巻きつけた。
(……やっぱり。私は、嫌われてる)
セドリックは、クロエを見ない。彼の目は、王太子の方にだけ向いている。
「殿下。公爵家としても、今回の不祥事は遺憾です。必要な処置は……」
必要な処置。
クロエの耳が、遠くなる。
エリックが満足そうに頷いた。
「よろしい。ならば決定だ」
王太子の声が、広間の中央に響く。
「クロエ・レグラン。お前との婚約を破棄する」
ざわり。歓声にも似たざわめき。
セラフィナが、震える肩で涙を拭った。周囲が「可哀想」と囁く。
エリックは続ける。
「そして――追放だ。王都を出ろ。今夜中に」
クロエの足元が、ふっと抜けた。
シャンデリアの光が、滲む。綺麗な嘘が、壊れていく。
誰かがクロエの腕を掴んだ。衛兵だ。爪が食い込むほど強い力。
「待ってください! 私、私は――!」
クロエは叫んだ。けれど声は、音楽のない広間に吸われていくだけで、誰にも届かない。
セドリックは、最後までクロエを見なかった。
ただ一度だけ、すれ違いざまに冷たい声が落ちる。
「……自業自得だ」
その言葉が、刃だった。
――本当に?
自業自得?
クロエは足を引きずられながら、最後に見た。
セラフィナが、エリックの腕に手を添える仕草を。
エリックが、まるで当然のようにそれを許す顔を。
甘い香りが、追いかけてくる。
蜂蜜と花弁と、涙の匂い。
シャンデリアの光が、嘘みたいに綺麗なまま。
その下で、クロエは一つのことだけを理解した。
――私は、ここで死んだ。
生きているのに、息をしているのに。
尊厳というものが、音もなく潰れていく。
衛兵が言った。
「森へ」
クロエは、目を見開いた。
「……森?」
「王都の外れだ。罪人に宿はない」
森。
夜の森。
護衛も食糧もなく。
クロエは笑ってしまいそうになった。笑えないのに。
(……私は、森に捨てられるんだ)
シャンデリアの光が背後で揺れる。
偽物の光が、最後まで綺麗だった。
――そして、扉が閉まった。
クロエを、夜へ追い出すように。




