第13話 王都へ戻る
雪は夜のうちに止んでいた。
朝の静けさは残っているのに、空だけが別物みたいに澄んでいる。
雲が裂け、冷たい星が無数に刺さっていた。
――冬の澄んだ星空。
きれいなのに、近づくほど痛い光。
クロエは離れの窓辺に座り、護符を指でなぞった。
胸元に下げた薄い板は、結界と同じ淡い脈を返す。
雪の日に渡された“薄い壁”。
守り。
でも、檻の鍵にも見える。
膝の上でジオが丸くなる。黒い毛並みに、星の光が小さく散った。
『その石、うるさい。壁の匂いがする』
「……うん。私もそう思う」
『でも、死ぬ匂いよりマシだ』
ジオの言い方は相変わらず乱暴で、妙に正しい。
クロエは息を吐いた。白い息が、窓ガラスに一瞬だけ曇りを作って消える。
(勝て。――死ぬな)
セドリックの声が、まだ耳の奥に残っている。
あれは命令だった。
でも――祈りみたいにも聞こえたのが、腹立たしい。
扉の外で控えめな足音がして、二度ノックが鳴る。
「クロエ様。よろしいでしょうか」
レオンだった。
「どうぞ」
扉が開き、冷たい空気が一筋入る。
レオンは礼を崩さずに入ってきたが、その目に、昨日までの“穏やかさ”とは違う硬さが混じっていた。
「王都の動きが、早いです」
クロエの心臓が一度跳ねる。
「誓約支配……また始まった?」
レオンが小さく頷く。
「関係者の口が、次々に閉じられ始めています。
慈善金に関わった会計係、運搬に関わった下男、舞踏会の書記……皆、同じです」
クロエは唇を噛んだ。
「“覚えていない”“知らない”?」
「はい。そして、言葉の端に“同意”の匂いがある。
――自分で自分の口に鎖をつけた者の、目の濁りです」
“同意”。
あの鎖。
クロエは護符を握りしめた。冷たいのに、手を離せなかった。
「……もう、時間がないんだ」
レオンがさらに続ける。
「そして、慈善舞踏会の準備が進んでいます。
主催はセラフィナ様。慈善の名目で、貴族と民衆の支持を集める場です」
涙と香りで世論を操る場所。
甘い匂い。花蜜の幻惑。
第9話で動物たちが繋げた点が、ここで“舞台”になる。
クロエは星空を見上げた。
冷たい光が、瞳の奥に刺さる。
(向こうの舞台なら、向こうのルールで殺される)
なら――こちらも、こちらの武器を持って立つしかない。
「王都へ戻るわ」
言った瞬間、自分の声が静かすぎて驚いた。
叫びじゃない。反抗は足跡になる。
レオンの目がわずかに見開かれる。
「……殿には?」
クロエは頷いた。
「言う。でも許可を求めない。ただ、報告をする」
その言葉の選び方が、昨日の自分と違う。
クロエは小さく息を吐いた。
「呼んでくれる?」
レオンが一礼し、扉へ向かう。
出ていく直前、控えめに言った。
「……護符は外さないでください。殿の命令というより――
あなたの“生存の輪郭”のために」
扉が閉まった。
静寂が戻る。
雪の残り香のする静寂だ。
ジオがクロエの膝から降り、窓の下へ移動した。
結界の境界へ鼻先を向ける。
『外がざわついてる。甘い匂いがする』
「……セラフィナ」
『それだけじゃない。“誓い”の匂いも濃い』
クロエの背中に冷たい汗が走る。
王太子エリック。誓約支配。
そのとき、廊下の遠くで足音が止まった。
空気が一段落ちる。
温度じゃない。人の輪郭が鋭くなる。
扉が開いた。
セドリックは、いつも通りの顔で立っていた。
表情は動かない。
でも、目だけが――外の危険に反応している。
「聞いた。王都へ戻ると言ったそうだな」
クロエは立ち上がった。
膝は少し震えたが、足は止まらない。
「うん」
「駄目だ」
即答。氷の声。
クロエは、一拍だけ黙ってから言った。
「なら、私はここで死ぬのを待つ?」
セドリックの眉がほんの僅かに動く。
怒りではない。警戒でもない。
――“嫌な想像”に触れられたときの揺れ。
「極論を言うな」
「極論じゃない。誓約支配が動いてる。証人が潰される。
私がここで守られてる間に、真実が消える」
セドリックは視線を護符へ落とす。
淡い光が、彼の瞳に映る。
「だから守っている」
「守られてるだけじゃ嫌。取り戻すの。私が」
クロエは言い切った。
「私は道具じゃない。
でも――私は武器にもなれる。地味でも、拾える。繋げられる」
セドリックの沈黙が落ちる。
その沈黙は雪の日と同じで、“重い音”みたいだった。
やがて彼が言う。
「……行けば、向こうの舞台だ。
セラフィナは慈善で民衆を味方につける。
エリックは誓約で口を塞ぐ。
クロエは、押し潰される」
「押し潰されるなら、押し潰されない形にする」
クロエは視線を逸らさない。
「動物の証言は“導線”。
軌跡視で物証にする。
誓約の文言は、言葉尻を拾って穴を探すわ」
ジオが鼻を鳴らす。
『おまえ、前よりいい匂いになった。死ぬ匂いじゃない』
クロエはジオの頭を撫でた。
黒い体温が、胸の奥の輪郭を守ってくれる。
セドリックは、ふっと息を吐いた。
「……勝手にしろ」
クロエの胸が一瞬冷える。
突き放し。いつもの。
でも、次が来る。
「ただし条件がある」
クロエは頷いた。逃げない。
「言って」
セドリックは淡々と、指を折っていく。
「一つ。単独行動は禁止。護衛は倍だ。
二つ。護符は外すな。寝るときもだ。
三つ。ジオを離すな。――猫はなぜかクロエを守っている。
四つ。王太子と対面する場では、俺が“止める合図”を出したら黙れ。議論は後だ」
クロエは喉の奥が熱くなるのを感じた。
四つ目。
口を塞ぐ命令に見える。誓約支配と似た匂いがする。
でも――
昨日より、ほんの少しだけ“交渉”できた。
「……分かった。お兄様に従う」
クロエは続けて言う。ここが大事だ。
「でも最初から黙らない。
私が言葉を奪われたら、また奪われる」
セドリックの視線が刺さる。
冷たいまま、でも一瞬だけ揺れる。
「……その代わり、死ぬな」
短い。乱暴に見えるほど短い。
けれど、胸の奥に残る。
クロエは護符を握りしめ、頷いた。
「死なない」
セドリックは背を向ける。
「出発は明朝。馬車は二台。陽動用だ。
レオンを付ける。物証の回収は最優先。
――王都に着いたら、まず動くな。動くのは私が許すまでだ」
最後が、また檻の言い方になる。
でもクロエは、もう前ほど飲み込まれなかった。
「……動くな、じゃない」
クロエは小さく訂正する。
「“生きろ”でしょ」
セドリックの背中が、一瞬だけ止まる。
振り向かないまま、低い声が落ちた。
「好きに解釈しろ」
扉が閉まる。
離れに、また静寂が戻った。
でも雪の日の静寂とは違う。
音を奪う静けさじゃない。――決意が沈む静けさ。
クロエは窓辺へ戻り、星を見上げた。
冷たい光が、怖いのに、目を逸らせない。
(王都へ戻る。奪われた名前を取り戻す)
床の上で、ジオが小さく歩き、窓際に黒い点を残す。
雪ではない。
冷えた板の上に残る、確かな足音と気配。
『行くぞ。匂いを辿る。嘘を裂く』
クロエは微笑まない。
ただ、静かに答えた。
「うん。行く」
冬の星空は冷たい。
でも、光はある。
小さくても、確かに――“次の足跡”のための光だ。




