【間話】 冷たい噂の、始まり
公爵家の門は、いつも整いすぎていた。
剪定された蔦、磨かれた敷石、噴水の水音――感情が入り込む余白がない。
そこへ、ひとりの少年が連れて来られた。
セドリック。
公爵の弟の子。つまりこの家の“甥”だ。
けれど血縁があることは、救いにも鎖にもなる。
両親は事故で亡くなった。
突然、世界が音を失って――「家」という言葉が空洞になった日から、彼は“期待しない癖”だけを身につけてきた。
だから引き取られたこの屋敷でも、望みは持たない。
持てば、また失う。
そう思っていた。
「こちらへ」
使用人に促され、長い廊下を進む。
窓から落ちる光は冷たく、床に影だけが伸びていた。
扉の向こうに、声がある。
「……セドリック?」
聞き慣れない、でも妙にあたたかい声。
扉が開くと、そこにいたのは少女だった。
淡い色の髪、整えられた衣装。けれど、目だけはまっすぐで――この家の“中心”に生まれた人間の目だった。
クロエ。
公爵家の娘。王太子の婚約者候補。
そして、公爵家が“跡取りとして育てている”唯一の娘。
その肩に、見えない重圧が乗っているのが、子どものセドリックにも分かった。
クロエは、彼を見た瞬間――迷わず笑った。
「お兄様!」
その呼び方に、セドリックの胸が変に鳴った。
従兄だ。血縁はある。
だから“兄”と呼ぶのは形式として正しい。
正しいはずなのに、胸の奥に刺さる。
クロエは初日から、セドリックの後ろをついて来た。
廊下を歩けば小さな足音がぴたぴたと重なり、
書斎の前で立ち止まれば、隣で背伸びをし、
庭の木々を見れば同じ方向へ顔を上げる。
「お兄様、ここって迷路みたい」
「お兄様、寂しくない?」
「お兄様、今日はね――」
言葉は軽いのに、触れた場所だけ熱が残る。
家族を失って空洞になったはずの心に、
勝手に灯がともっていく。
――希望の光。
クロエに「お兄様」と呼ばれるたび、胸が速くなる。
それが恋だと気づくのに、時間は要らなかった。
要らなかったからこそ、彼は怖くなった。
(だめだ)
クロエには役目がある。
王太子の婚約者候補として、跡取りとして、誰より“正しく”育てられている。
この世界はギフト社会。
派手で支配的で戦闘向きの力が価値になり、地味なものは笑われる。
そんな場所で――
「公爵家の娘が、従兄に懐いている」
「甥が、公爵家の娘に特別扱いされている」
そんな噂は、蜜のように広がり、毒を混ぜる。
そして何より、王太子の耳に入る。
あの男は“自分のもの”に他人の視線が向くだけで、簡単に機嫌を悪くする。
守りたい。
触れたい。
でも触れた瞬間、彼女の未来を壊すかもしれない。
だからセドリックは決めた。
なるべく関わらない。
なるべく距離を取る。
心を悟られない。
クロエが手を伸ばしてきたら、一歩引く。
笑いかけられたら、目を逸らす。
頼られたら、別の者に任せる。
冷たく。
冷たく。
冷たく。
それが守ることだと、信じた。
――そして、その“冷たさ”は、噂になった。
「公爵の甥は、公爵令嬢を冷遇している」
「血縁があっても、あの子には情がない」
「可哀想に」
噂は事実より速い。
人は“理由”より“雰囲気”を信じる。
王太子は、その空気を嗅いだ。
「公爵家の中ですら大切にされない娘」
「地味で、価値が薄い」
「飾り」
そういう評価を、あの男は嬉々として受け取り――
欲望のままに浮気し、笑い、最後は平然と婚約を壊した。
婚約破棄。断罪。追放。森への投棄。
報告を受けた瞬間、セドリックの喉の奥が焼けた。
(俺が……やった)
直接手を下したのは王太子だ。
けれど、刃を研いだのは、自分の“距離”だった。
守るつもりで冷たくした。
その冷たさが、クロエを“守られない者”にした。
そして森で見つけたクロエは、土と葉に溶けかけていた。
命の輪郭が、今にも消えそうだった。
その瞬間、セドリックの中で何かが決壊した。
王太子がクロエをいらないなら。
世論がクロエを狂っていると言うなら。
この世界がクロエの価値を勝手に決めるなら。
――俺が、守る。
守るために囲う。
守るために嫌われる。
守るために冷たくなる。
もう二度と、誰にも傷つけさせない。
彼は眠るクロエの髪に触れかけて、止めた。
触れたら、守りに欲が混ざる。
欲が混ざれば、きっと歪む。
だから代わりに。
淡い光を張った。
守護結界。透明な檻。
(俺が悪者でいい)
(俺が嫌われ役でいい)
(でも――君は、生きろ)
そうやって、彼は“冷たい噂”の中心に自分を置いた。
クロエの世界の外側で、刃を受け止めるために。




