6 断罪劇には幕が引かれ、登場人物たちの人生は続いていきます
シスフォルトは、パチンと軽く、指を鳴らした。
――その瞬間。
フワリと風が舞い、彼の体はキラキラとした光に包まれた。
会場の中一杯に、歓声が上がる。
光の粒子が舞う光景はとても美しく、私も思わず、「わぁ!」と声を上げてしまった。
しかし光が散ったあとに現れたものを見て、また別の意味で、「わあっ!?」と声を上げることになった。
「シ、シスフォルト様!? えっ、なぜ!?」
光の中から現れたのは、私の大好きな、あのフワフワの毛皮。
黒ぶち模様の、スンとした態度の。
五年間ずっと、私の側に寄り添ってくれた、大切な、あの……
「く、黒ぶち猫ちゃん……っ!?」
そこには、いつもの澄ました顔で、いつもの猫がいた。
思考が追い付かず、私は息をするのも忘れて、猫に釘付けになる。
そんな私のことなど、どこ吹く風。
猫はいつも通りの涼やかな歩みで、私の周りをスタスタと、一周してみせた。
「なっ!? えぇ!? シスフォルト様が、黒ぶち猫……!? な、なぜ!?」
「猫が好きなので」
猫が喋った! シスフォルトの声で……!
会話が噛み合っていない気がしたが、動揺しすぎて、突っ込みを入れるどころではなかった。
あまりの衝撃に、私は体の動かし方も忘れて、ただただ固まり、呆けてしまった。
私に背を向け、猫――シスフォルトはルルナに言葉を続ける。
「あなたに『殺してやる』と追いかけられるのは、正直言って迷惑でしたね。『クソ猫』などという言葉遣いも、男爵家の令嬢としてどうかと思います。そして何より、」
シスフォルトは、これ以上ないほどの、清涼感あふれる声音で、言い放った。
「『タマタマを焼き落としてやろうか!』と怒鳴られながら、夜に火魔法を飛ばして追いかけまわされた時は、さすがに肝が冷えました。淑女が門限を破り、寮を抜け出して、私の寝込みを襲ったあげく、去勢を強要してくるとは……随分と乙女らしからぬ、特殊な趣味をお持ちなようで」
私はギョッとした。
まさかそんなことが起きていたとは初耳だ。……聞こえた妙な単語には、今は触れないでおく。
たぶんシスフォルトは、嘘は言っていない、の、だろう。
ルルナは猫を追いかけまわし、暴言を吐いて、残酷なことをしようとしていたらしい。――の、だろう、けど。
相手が人間の成人男性だったとわかった今、彼女の行為は完全に、猟奇的な痴女のそれである。
言われた直後、ルルナは顔色が赤いのか青いのか、わからない状態になってしまった。
湧き出てくる汗がダラダラとドレスに落ち、シミを作る。
化粧を含んだ汗は、彼女の純白のウエディングドレスをまだらに染めていた。
ルルナは口をハクハクさせながら、頭を抱えだした。
ブツブツと、何か呟いている。
「……なんで……どうしてよっ……この世界は……この世界で私は……ヒロインなのにぃ……っ! ……こんなの、シナリオになかった……だって、たかが背景の猫が……何で……? あの時……イベントを……ミスったから……? ……えっ……ねぇ……待って……このあと私……どうなるの…………?」
様子のおかしいルルナを庇うように、セバスチャンが怒鳴り声を上げた。
さっきまであんなに引っ付いていたのに、二人の間には心なしか距離が出来ている。
「ルッ、ルルナを侮辱することは許さんぞ!!」
「侮辱?」
シスフォルトは再び魔法の光に包まれ、人の姿へと戻った。
キラキラ舞う光の中、今までより一段低い声で、セバスチャンへ言い放つ。
「婚約者であったメルーシャ様を侮辱し続けてきたあなたが、どの口で言う。人目をはばからず浮気相手との色に耽り、しまいには夜会に彼女を一人で入場させて恥をかかせ、わざわざ大勢の前で婚約を破棄して浮気相手を娶るなど、正気の沙汰ではない。男として、人として、心底あなたを軽蔑する。恥を知れ、愚か者が!」
この人も、声を荒げることがあるのか。
私は思わず、ポカンとしてしまった。
そして直後に、思い直す。
……いや、二度目だ、と。
彼が怒りをあらわにしたのは、二度目だ。
セバスチャンが私に手を上げそうになった時にも、彼は私の前に立ち、怒ってくれたのだった。
いつも澄ました顔をしている彼が、感情をあらわにする。
それだけでも不思議な心地がするというのに、自分に関わったことで彼がそういう風になるというのは、何だかものすごく、心がもぞもぞする。
この例えようのない心地は、一体何だろう。
胸に何かが満ちて、くすぐったいような、温かいような、落ち着かない心地だ……
セバスチャンは何か言い返そうと、半開きの口でモゴモゴしている。
そんな彼には目もくれず、話は終わったとばかりに、シスフォルトは私に向き合った。
何事もなかったかのように、サッと手を差し出す。
「お待たせしました。では、行きましょうか」
「え、あ……は、はい……!」
私はアワアワと手を取り、今度こそ彼と共に歩み出した。
一連のおかしな劇を囲んで見ていた貴族たちが、ザッと道を開け、そして弾んだ声を浴びせてくる。
『良いものを見た! 最高のパーティーだ! ありがとう!』
『お幸せにー!』
『あの猫、餌やったのに無視しやがって、って思ってたけど、人間だったのか。どうりで』
『あなたの高笑い、私結構好きだったわよ!』
どさくさに紛れて、妙なことを言われた気がしたが、気のせいだと思っておく。
未だ舞台に取り残されているセバスチャンとルルナも、貴族たちのざわめき声を、大いに浴びている様子だった。
『去勢って……おっかない女だなぁ。ゾッとするわ……』
『猫に向かって火魔法を使うなんて信じられない……なんて残忍なのかしら』
『あの二人、よりによってシェグリスタ公爵家の方を怒らせてしまうなんて。今後が大変そうねぇ』
『あいつら結婚したって言ってたよな。ははっ、これからは夫の股が危ないな!』
人ごみを抜け、彼と私はバルコニーに出た。
もうすっかり日は落ちて、空は濃紺に覆われていた。
人の声は少し遠くなり、夜の澄んだ空気が静かに二人を包み込む。
今更ながら何を話したら良いのかわからず、私は目を泳がせる。
二人きりになると、途端に緊張してきた。
思えば、大きくなってから男の人と、こういう場で二人きりになるなんてこと、なかった気がする。
理由は言わずもがな、である。
どうしたら良いのかわからずソワソワしていると、彼から話しかけてきた。
彼はスッと頭を下げた。
「猫の件、黙っていてすみませんでした。神官が変姿の魔法で見回りをしていることは、学生には伏せておく決まりがあったもので。表立って介入することができず……私のせいであなたを振り回し、苦しい思いをさせてしまいました」
「いえ、そんな! 謝られることでは……! でも驚きました。本当に、黒ぶち猫はあなただったのですね?」
「はい、私です」
真顔でサラリと肯定された。
私は今までのあれやこれやを思い出し、冷や汗をかき始める。
と、同時に、顔に熱がのぼってきた。
「ええと……こちらこそ申し訳ございませんでした……その、私、結構不躾なことを、色々と、しましたよね……?」
「いいえ、お気になさらず。猫相手でしたから。……でも、考えてみると、なかなか得られない経験を、させていただきましたね。色々と」
彼はなにやら考え込むような顔をしている。
やめてほしい、何も、思い出さないでほしい。
顔から火が出そうだ……
私はバルコニーの手すりにへたり込み、呻き声をあげた。
彼も隣で手すりに寄りかかる。
そして私に、穏やかな声を落とした。
「あなたに心を寄せた五年間は、楽しくも苦しい日々でした。あなたには婚約者がいましたから。今日本当は、この夜会で猫として、あなたとの最後の逢瀬を楽しみ、抱えていた気持ちを葬るつもりでいたのです」
私は顔をあげ、彼を見上げた。
相変わらずの涼しい顔をしていた。
けれど、なんとなく、瞳が揺れている気がする。
彼は姿勢を正すと、私の真正面に立った。
まっすぐに目を見つめて、優しい声音で告げる。
「私は、あなたのことを心から愛しています。これから先も、あなたの心の支えとなり、共に思い出を築き上げていきたく思います。どうか、私の側にいてくれませんか」
彼の言葉を聞き終える頃には、私の目には涙の膜が張っていた。
まるで、私が黒ぶち猫にかけてきた言葉への、返事のようだったから……
五年分の私の愛は、私の可愛い猫に、ちゃんと届いていたのか……
「……まさか人間の言葉になって、こうしてしっかり返事が返ってくるとは、思いませんでした」
私はこぼれてくる涙を気にもせず、彼に答えた。
「私も、あなたを愛しています。ずっと優しく、温かく、私に寄り添い続けてくださったあなたに、心を寄せております。五年前から……そして、これからも」
震える声で答えると、彼は私を、力強く腕の中へと閉じ込めた。
「これからは私が、あなたのことを思い切り可愛がろうと思います」
彼は私の頬にキスを落として、そう言った。
その顔は、甘く情熱的な笑みをたたえていた。
■
半年間の婚約期間を経て、私メルーシャと、シスフォルトは婚姻の儀を挙げた。
あの日、家に帰って、婚約破棄からの求婚の話を両親にしたら、二人ともひっくり返ってしまった。
突然、おかしな経緯で公爵家との縁ができたのだ、無理もない。
彼の邸宅には五匹の猫がいて、私は日々、毛だらけになりながら、猫たちを愛でている。
たまにその中に、澄ました黒ぶち猫が混ざることがある。
見つけた時には、フワフワな毛を思い切り撫でまわし、めいいっぱい抱きしめる。
そうしないと、黒ぶち猫が拗ねてしまうので。
拗ねた猫は機嫌の回復に、私の高笑いを所望してくるので、なかなかに厄介である。
そういうわけで、私は日々、黒ぶち猫を特別ひいきして、愛を注いでいる。
それからこれは余談であるが、セバスチャンとルルナは、二か月ほどで離縁となったそうだ。
やはりあのパーティーが、祟ったようで。
あの夜、パーティー会場のど真ん中で起きた舞台劇は、その後の社交界の話題をかっさらっていった。
愛だ恋だのドロドロした話に、少しばかり下のネタが絡んだゴシップは、噂好きの貴族たちのツボに入ったようだ。
ルルナには『玉取り夫人』やら『金的夫人』などといったおかしな通り名がつき、これを恥じたセバスチャンの実家側が離縁したらしい。
そしてセバスチャンに関しても、貴族間で広まっている噂がある。
それは、セバスチャンは子を作れないのではないか、という噂だ。
短期間に二人の女性と縁が切れていることと、ルルナの通り名が変に飛び火した結果だそう。
『股に魔法をかけられ、子を作れなくなってしまったので、求婚しても女性側からフラれるらしい伯爵家の次男』といった噂を、私もチラッと耳にした。
もちろん事実ではないのだけれど、噂話というものは伝わるうちに、変な風に改変されていくものなのだ。
あの『断罪卒業パーティー』および、『悪役令嬢とヒロインの日々』のことは、未だに貴族の間で、面白おかしく語られ続けている。
果たしてルルナに二度目の、そしてセバスチャンにとっては三度目の縁談は来るのだろうか。
彼らの未来は、神のみぞ知るところであろう。
――なんてことを、神官の旦那様が、私の隣で澄ました顔で言っていた。
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