第74話
目を開ける。
目を閉じる。
どうやっても目の前は真っ暗で、自分が一体どこにいるのか見当がつかない。光の届かない深海に放り込まれたような気になるけれど、水圧も感じなければ、息苦しさも感じない。暑すぎず寒すぎず、適度な温度に包まれている。
どうして私は、こんなところにいるんだろうか?
確か――――と、思い出そうとした瞬間、剣で貫かれたかのような痛烈な痛みが頭に走り、思考を強制的に中断させられる。まるで思い出すな、と脳が指示でも出しているかのようだ。
だけどそれでも、と痛みで上手く回らない頭の中で、必死に思い出す。シンシュさんに殴られて……それで――どうなったんだ?
その先が、思い出せない。パズルのピースがどこにもない、みたいな感じで記憶が欠落している。
いや、ピースなんてそもそも存在しているのか? 見つけようとしたところで、見つける事はもう出来ない。だからこんな場所に、私はいるんじゃないのか?
だとするとここは――と前(本当に前なのかもわからないが)を向くと、宝石のように煌めく赤い髪を長く伸ばした小柄な女の子が、私の方へとコツコツと、ゆっくりながら、それでも確実に迫って来ているのが見えた。
この女の子、どこかで――? 見た事があるような、無いような……。
「迷える子羊よ、ようこそ――いや、迷える魔物の子よ、の方が正しいのかな」
赤髪の女の子は、やがて私の間近まで来ると少しだけ首を横に傾げながら、そう言ってきた。
迷える魔物の子、か。確かに迷ってばかりだな、と自嘲にも近い笑いが自然と口から漏れる。
「ギャグのつもりで言った訳じゃないんだけどね。だけど笑ってくれるのなら何よりだよ。私は可愛い女の子の笑顔が大好きだからね」
女の子は歯の浮くような言葉を淀み無く、綺麗な声で平然と言い放つ。皮肉なのか、本心なのかもわからない。
「あの……誰なんですか? それにここはどこなんですか?」
そもそもこの子は一体誰で、ここは一体どこなんだ。私は何とか平静を装いつつ、女の子に尋ねた。
「君が知る必要は無いし、教える気も無いよ」
女の子は私の周りをぐるぐると歩き回りながら言う。
「あ、でも、私のこの姿は、君が好きな子の姿だと思うんだけどな」
そして思い出したかのようにそう付け足してきた。
私の好きな人の姿? この赤髪の小さな女の子が、私の好きな人だって?
赤髪?
……まさか。と息を飲んだ後、私は私の前で足を止めた女の子を見る。
「……マーちゃん?」
私は女の子を……ブーゲンビリア王国の王女にして、「マゼンタ姫物語」の主人公――マゼンタ・フォン・ブーゲンビリアの愛称で呼んだ。
「気づくのが遅いよ。会った事も無いし無理も無いけどね」
「当たり前ですよ。だってマーちゃんはもう……亡くなって……え……?」
一瞬で血の気が引いた。目の前に死んでいる人間がいるという事。それはつまり。
「私も……死んで……」
「勝手に殺さないでくれたまえ。普通にまだ生きてる……これは言っちゃいけないんだったっけ。君が目覚めた時には全て忘れるから別にいいか」
「え!? マーちゃん生きてるんですか!?」
「生きてるよ。でも死んだ事にしておいた方がしがらみも無くなるから楽だったんだよ。生きてるって感づいている人もいるみたいだけど、まあそれはどうにかするよ」
「え、生きてるって……えええ?」
自分でも間抜けな反応だと思うが、素っ頓狂な反応をせずにはいられなかった。マーちゃんは結局ブーゲンビリアに連れ戻されて、最期は人知れず亡くなってしまったというのが定説だとされていたから、衝撃なのだ。どれくらいかというと――。
「君の遠い先祖に魔物がいるのではないかって聞いたときくらいの衝撃かい?」
私の考えを完全に見透かしたように、マーちゃんが言った。
だから私は完全な魔物にならずに済んだのではないかと、名医と名高い王都の医者に言われた事がある。もっとも、その魔物がどういう魔物なのかというところまではその人もわからないようだったけれど。
「どうしてそれを……!?」
「ここは君の世界だ。だから君の事なんて筒抜けだよ」
「だとしたら……おかしいです。私はマーちゃんが実は生きてるなんて、知りませんでしたから」
「そっか。じゃあこうしよう。私が君と話しているのも、私が実は生きているというのも、全部君の痛い妄想だ。以上」
「乱暴すぎます!」
「乱暴なのは君だろう。先の一件で心身が擦り切れているシンシュを半殺しにしてよく言うよ」
「半殺し……!?」
またしても血の気が引く。私が、シンシュさんを、半殺しに……?
「落ち着け。オルシナスちゃんが暴走した君を倒して、先生がボロボロになった君とシンシュを治療してひとまずは丸く収まった。目覚めた後どうなるかは知らないけどね」
「オルシナスちゃんが……? それより暴走って……?」
「言葉通りの意味だよ。君は理性を失って、魔物の力を解放してシンシュをこれでもかというくらいに痛めつけた」
「そんな……」
理性を失って、暴走……?
そんな事が、あるなんて、信じたくない。
「それじゃ、もうすぐ目覚めるみたいだから、謝ろうか」
「ま、待って!」
何をどう待って欲しいのかわからないまま、靄のように姿を薄くしていくマーちゃんを必死に呼び止める。
「私はこれから、どうしたらいいんですか!?」
「どうもこうも無い。一度力を手にしたものは、もう力の無い状態に戻る事は出来ない。戻ろうとしても、出来ないんだ」
マーちゃんは、思いがこもったような声で、私に言った。
「だから、せめて有意義な使い方をしたまえ。それがわからないなら先生に聞いてみるといいさ」
そうして「それじゃあね」と言ってマーちゃんが姿を消した途端、暗闇に包まれていた景色が徐々に色を付け始めていったのだった。




