第八章 天王向島(8)
目も眉も、口髭も『ハ』の字を描いていた。
口そのものは『ヘ』の字で、その下に尖った顎が突き出している。
細面で鼻筋は通っているのだが、なんとも癖のある顔立ちであった。
頭は青々と剃り上げている。
これが斎藤山城入道である。
日頃の政務を行う居館は稲葉山の麓にあり、その門前に井ノ口の町が広がっていたが、先の備後守による美濃攻めで、ともに焼き払われた。
居館は建て直されたが、町はいまも再建途上だ。
随所に用いられた檜の新材の香りの濃い書院で、山城入道は上座で胡座を掻いている。
それと向き合うかたちで、烏帽子に直垂という使者の正装をした平手は端座している。
平手の斜め後ろには堀田道空が同じく直垂姿で、銀の筋の入った髪を一つに束ねた上に烏帽子を載せ、澄ました顔で座していた。
ほかには山城入道の横手に若い近習が三人、控えている。
これは他国の使者を迎えるに当たっての、山城入道の護衛であろう。
開け放された障子戸の外には池泉庭園が望めるが、木々は植え替えられたばかりで枝ぶりにまだ勢いがない。
奇岩のいくつかには焼け焦げた痕が残り、割れているものもある。
山城入道は手にした扇子で、おのれの首筋をぽんぽんと叩きながら、言った。
「備後守殿が和睦を望まれておるとの話じゃが」
扇子を指先で僅かに開き、ぱちりと音を立てて閉じて、
「先に備後守殿と越前朝倉殿の願い通り、土岐美濃守様、また次郎様を、この美濃の屋形としてあらためてお迎えしたことで、すでに和睦は成ったものと思うておるのじゃが」
「されば、その和睦を末永く破れがたきものといたすため、備後守は山城入道様と固き絆を結びたいと願うておりまする」
平手が答えて言うと、山城入道は、また扇子で自身の首筋を叩く。
「では備後守殿は、いまの和睦は破れやすく先行きの短い仮初めのものとお考えじゃな。さて、それであるなら何のための戦であったのじゃろうか」
庭に目をやり、
「先の戦で、この井ノ口の町は丸焼けとなった。ようやく屋敷は建て直したが、庭が元通りになるのは、いましばらく先じゃろう。無論、町人どもにも家を焼かれ家財を失い、命を落とした者もあるじゃろうて。さても戦とは虚しきものじゃ」
「その儀につきましては主人、備後守も遺憾に思うておりまする」
平手は頭を下げた。
「しかしながら前美濃守、宗藝様に美濃にお戻りいただくことは、備後守の主筋である斯波武衛様の、たっての願いにございました。ともに守護職にある者として、任国を離れ流浪せられていた宗藝様に御同情申し上げたのでございましょう。それゆえ朝倉殿と合力の上、山城入道様に御敵いたして美濃へ攻め入るよう、武衛様から備後守へお指図があったのでございます」
「では、あの戦は武衛様のお指図か」
じろりと睨みつけてきた山城入道に、平手はさらに深く頭を下げる。
「は……」
「当節の守護職とは神輿がごときものと思うていたのじゃが、尾張では守護の武衛様に、さほどの力がござるのじゃな」
「…………」
山城入道の皮肉に直接は答えず、平手は言った。
「宗藝様に美濃にお戻りいただいての濃尾両国の和議は、宗藝様と武衛様との交誼によって成り立つものにございます。されど、まことに美濃一国を差配なされておりますのは山城入道様にございますれば、我が主人、備後守といたしましては、山城入道様との縁を深めることにより末永く濃尾一和が得られることを望んでおりまする」
つまり美濃でも実権は守護の土岐家ではなく山城入道にあるのだから、ともに手を結ぼうという呼びかけである。
「ふむ……」
山城入道は胡座から、片膝を立てて座り直した。
「よく舌も頭も回る者じゃわ。備後守が使者に立てるだけのことはある」
平手の後ろに控える道空に、じろりと目を向け、呼びかける。
「西美濃衆も、しきりに尾張との和睦を勧めおる。そこで澄ましておる道空居士の口車に乗せられたんじゃろうが」
「口車だなんて」
道空は目を丸く見開いて、おどけてみせた。
「わたしは常に皆様の利益になることを考えておりますのに」
「商人は銭金の利益を望みおるが、武家が重んじるのは名利なんじゃ。名誉を伴わない利益など武家にとっては、あり得んのじゃわ」
「平和をもたらして国を富ませるのは立派な名誉ではありませんか」
「その平和が信用ならんのじゃ」
山城入道は、じろりと再び平手に目を向けた。
「備後守殿が望む和睦の条件、道空居士を通して伝えられておるが、もういっぺん、そなたより聞かせてもらえるじゃろか」
「されば我が主人、備後守は山城入道様の御息女、帰蝶姫様を子息、勘十郎の正室にお迎えしたいと望んでおりまする」
答えて言った平手を「ほらそれじゃ」と、山城入道は扇子で指した。
「勘十郎殿と申すは、いったい誰じゃ。備後守殿の正室腹の長子は三郎殿といったはずじゃろが」
「されば申し上げにくきことなれど、三郎には不行跡のことありますれば、備後守は、いずれこれを廃して三郎の弟である勘十郎を嫡子に立てる腹づもりにございます」
「そう思うておるなら、早うそういたせばよいじゃろが。それもせぬまま、この山城の娘を勘十郎殿とやらの嫁に寄越せとは話の後先が違うじゃろ」
「は……まったくもって仰せの通り」
平手は深く頭を垂れて、
「されど備後守が案じておりますのは、すでに那古野一城の主となって子飼いの兵も抱えております三郎が、廃嫡と決まった途端に謀叛を起こすこと。それゆえ山城入道様に勘十郎の御後見を願えれば、誠にありがたきことにございまする」
「それは尾張の内輪の事情じゃろ。我ら美濃には関わりのないことじゃわ」
山城入道は自身の首筋を扇子で、ぽんぽんと叩く。
「こちらは娘を嫁に出す。代わりに備後守殿は、どうなさると申されたのじゃったか」
「大垣城をお返しいたしまする」
平手の答えに、山城入道は自身の膝を、ぱしんと扇子で打った。
「ほらまたそれじゃ。この際じゃから、はっきりと申すが、あの欲深き備後守が一度手に入れた城を、戦に敗れたわけでもなく手放すことなど、あり得んじゃろが。それは、まことに備後守の考えか。そなたの一存ではないのか」
「三郎の隠居料の名目にて、それがしが必ずや備後守を説き伏せまする」
「その三郎を預かれというのも迷惑な話じゃ」
山城入道は、ぱちりと扇子を鳴らす。
「舅と婿との対面の名目で国境のどこやらへ三郎を連れ出し、その場で搦め捕って我がほうへ引き渡すと申すが、そのあと備後守が大垣城を返さぬまま知らぬ顔を決め込んだら、どうなるんじゃ」
じろりとまた道空に目を向けて、
「え? 世の者は、この山城をどのような目で見るじゃろか、道空居士よ」
「恐れながら山城入道様が婿殿を騙して、生け捕りにしたと思うでしょう」
道空が苦笑いで答えると、山城入道はうなずいた。
「そういうことじゃ。先に帰蝶を嫁がせた土岐次郎様も不意の病にて儚くなられたものを、世の者どもは面白おかしく山城入道に毒飼いされたと噂いたす」
扇子で自身の入道頭を叩き、
「これも山城が不徳の至り、されど哀れなのは娘の帰蝶よ。婿が舅に毒飼いされての出戻りなどと後ろ指をさされておるのに、この上また山城が新しき婿殿を騙して捕らえたなどと言われれば、もはや嫁ぎ先などなくなるじゃろう」
じろりと平手を睨んで、山城入道は言った。
「この山城の、さらなる悪評が広まれば、美濃の国衆の心も離れよう。西美濃衆は尾張との和睦ではなく備後守への寝返りさえ望むやもしれぬな。西美濃衆が家来になれば備後守にも和睦などより、よほど得になろう」
「…………」
口をつぐんでいる平手を、山城入道は再び、扇子の先で指した。
「さても恐ろしきかな備後守は。我が子、三郎もろとも、この山城まで罠にかけようと狙うておるか」
「……山城入道様が当家の家長、備後守に信が置けぬと申されるのも致し方のないところにございます。美濃と尾張は長年、干戈を交えて参りましたゆえ」
平手は平伏した。
「されど恐れながら申し上げまする。三郎を虜囚として美濃へお引き渡しいたし、その隠居料として大垣城をお返しする儀は、全くもって、それがし平手の一存にございまする。備後守よりの指図は、美濃と尾張の縁を深めるため帰蝶姫様を勘十郎の御正室にお迎えしたいという、その一事のみ」
「では、話はこれまでじゃな。帰蝶を勘十郎とやらの嫁に欲しいと申すなら、まず三郎を廃して勘十郎を嫡子に立て、この山城の娘を嫁に迎えるにふさわしいかたちを整えよ」
山城入道は、ぱちりと扇子を鳴らす。
「備後守の父子の喧嘩に、この山城を巻き込んでくれるなと、そう申せ」
「は……承知つかまつりましてございます」
平手は平伏したまま言った。
しかし、それに継いで、言い出した。
「……されば、これよりはこの平手中務、備後守の使者ではなくその子息、三郎の幼き日より側にある傅役として申し上げさせていただきます」
「なんじゃ。まだ話があると申すか」
もはや面倒に思って眉間に皺を寄せ、ぞんざいな口調でたずねる山城入道に、平手は告げた。
「は……山城入道様が備後守に信が置けぬと申されますなれば、是非ここは一筆、備後守へお遣わしくださいますようお願い申し上げまする」
「一筆? 貴殿は信が置けぬと、あらためて書状にして書き送れと申すか」
呆れる山城入道に、平手は顔を伏せたまま、
「いえ、そうではなく……帰蝶姫様の三郎への御輿入れにつきましては、あらためて吉日を選び取り計らおうと」
「……なんじゃと」
山城入道は、あんぐりと口を開けた。
「勘十郎がダメなら、やはり三郎の嫁に帰蝶を寄越せと申すのか」
「あくまで書状の上のことにございまする。いや、いずれ三郎が備後守に成り代わり当主となりました暁には、あらためて帰蝶姫様と三郎との婚儀につき、お考えくだされましたら幸いにございまするが」
平手が言うと、山城入道は、ぱしんと扇子で膝を打った。
それから道空に、大声で呼ばわった。
「堀田道空! なんなのじゃ、この茶番は。この平手という者は蝙蝠か。備後守の意に沿って勘十郎とやらを立てるかと思えば、それが成らぬと見て今度は三郎を立てようと申す。道空そのほう、どこまでこの猿芝居の筋立てを承知しておった!」
「承知していたなど、とんでもない」
道空は、ふるふると首を振った。
一つに束ねた長い髪が、頭の後ろで馬の尾のように揺れた。
それから、にっこりとして答えて言った。
「わたしが平手殿から聞いておりましたのは、大垣城を三郎様の隠居料として美濃方へ引き渡すと、そこまでです、はい」
「ではいったい、どういうつもりじゃ平手そのほう!」
声を荒らげる山城入道に、平手は落ち着き払って答えた。
「恐れながら山城入道様の御存念が何処にあるや、あらためさせていただきました」
「何じゃと」
「備後守の望むがままの和議に応じられる構えなれば致し方もなし。備後守の威勢はいよいよ上がり、三郎に挽回の手立てはありませぬ。されど山城入道様が、なお備後守に信を置かず、和睦を望む西美濃衆を抑えて、引き続き尾張を敵とみなすお覚悟なれば……ここは是非、三郎にお力添えくださいませ。必ずや三郎、備後守に成り代わり尾張一国を差配いたしましょうゆえ、その上はあらためて濃尾の和議を取り交わしたく存じまする」
「…………」
山城入道は、ヘの字の口を閉じ、ぽんぽんと入道頭を扇子で叩いた。
眉根を寄せて、しばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「……つまり備後守が信じられんでも三郎を信じろと」
「は……」
答えて言った平手は、なお平伏したままである。
それを、じろりと一瞥して山城入道はたずねた。
「三郎とは、いかなる者か。うつけ者との風聞は聞こえて参るが、まことはどうなのじゃ」
「されば身なりは婆娑羅を真似て、礼儀作法は軽んじまする。風雅の道は、ようやく学び始めたばかりにて、さほどの心得はございませぬ。なれど政事に勘働きが鋭く、よき家来を選んでこれを行わせ、怠りある者は除きまする。また津島や熱田であぶれ者の次男三男坊らを集め、常雇いの足軽として鍛錬いたし、いまや精兵となっており申す。よきにつけ悪しきにつけ人のやらぬことをやろうとなさる御方にございまして、好かれる者には好かれ、厭う者には厭われまする」
平手の答えに、山城入道は「ふうむ……」と、うなった。
「それほどの者を備後守は、なぜ厭う。末頼もしき我が子とは思わんのじゃろうか」
「憚りながら申し上げれば、備後守は、我が意のままにならぬ者は好みませぬ。嫡子として立てようと望む勘十郎は、行儀がよく愛嬌もあって、備後守には三郎よりよほど可愛く見えるのでございましょう」
「その通りであるなら先々を考えれば、我が美濃にとっては三郎より勘十郎のほうが与し易い相手じゃぞ」
「しかしながら備後守は、まだ四十前にございまする。勘十郎への代替わりまで、あと十年はございましょう。山城入道様には、それをお待ちになられましょうや。信の置きがたき備後守を、そのままにして」
平手は言ったが、これにはしかし、山城入道に向かっては口に出せないことがある。
備後守は、もしかすると、どこやら病んでいるかもしれない。
最近対面した際に、備後守の顔が、妙に浮腫んで見えたのだ。
もちろん一時的なものかもしれない。
すぐに死を招くような重い病でもないかもしれない。
しかし備後守が遠からず、病によって死ぬか人事不省に陥るとすれば、どうなるか。
「…………」
山城入道は、ぱちりと扇子を鳴らした。
再び「ふうむ……」とうなってから、口を開いた。
「よかろう。尾張で父子の争いが始まれば、当面は我が美濃に攻め寄せては参らんじゃろう。平手そのほうが望む通りの書状を遣わそう。そして三郎が勝ちを得た暁には、帰蝶を嫁にくれてやることも考えようではないか。じゃが、この山城が三郎を手助けするのは、あくまで書状のみじゃ。それを如何ように用いるかは、平手そのほうと三郎との才覚次第。目論見と外れた書状を受け取り、備後守がどのような顔をいたすかは、見てみたいものじゃがのう」
「は……その書状のみにて充分な御助力。誠にありがたく存じまする」
相変わらず平伏したまま言上する平手に、山城入道はたずねた。
「しかし平手そのほう、まことに初めから三郎を立てる腹づもりであったのか。儂が勘十郎に帰蝶を娶せることを承知しておったら、そのまま備後守の忠臣面で尾張へ帰っておったんじゃないのか」
「…………」
平手は答えなかった。




