第八章 天王向島(9)
斎藤山城入道からの書状を読み進めるうち、備後守の表情は険しくなった。
書状を握る手が、ふるふると震えた。
しかし辛うじて激情を抑え込み、備後守は読み終えた書状を畳んだ。
古渡城の広間に、備後守は平手と二人きりでいる。
ぎこちなく歪んだ笑みを浮かべて、備後守は、平手にたずねた。
「山城入道が娘を勘十郎の嫁に寄越すことを断るのは、考えられぬでもなかった。しかし、吉日を選んで勘十郎ではなく三郎への輿入れを取り計らおうとは、いかなる意味ぞ。え、平手中務よ」
「されば記された通りが山城入道様の御存念にございまする。山城入道様には、この尾張に父子の不和があることを望んでおられるものと勘考いたしまする」
答えた平手に向けて、備後守は眉を吊り上げ、書状を投げつける。
だがいくらか距離が離れていたので、それは平手よりも手前で床に落ちた。
備後守は声を荒らげた。
「山城入道様の御存念か。それを言われるがままに持ち帰って主人に告げるばかりなら、いかなる粗忽者であれ使者が務まるわ。そのほう交渉をまとめるため少しでも知恵を絞らなんだのか。これこれこの条件なれば山城入道様も話に乗りましょうと、そのような探りは入れなかったのか。うつけの家老をしておったゆえ、そのほうまでが呆けたか、平手中務」
「まことに面目なき次第にございまする」
平手は頭を下げる。
備後守は平手から視線を外し、考え込む様子で口髭を撫でた。
「父子の不和を望むじゃと。そのようなことは起こさぬわ。三郎が逆意を抱くより先に、城主の座を取り上げてくれようぞ」
「恐れながら左様に三郎様を御憎しみあるは、いかなるゆえにございましょう」
たずねる平手を、備後守は睨む。
「あやつが行儀もわきまえぬ、うつけ者であるからに決まっておろうが」
「三郎様が婆娑羅に振る舞い礼儀作法に欠けておわしまするは、この平手の傅役としての不徳の至り。まことに申し訳のない仕儀にございまする」
平手は言った。
「されど三郎様は政事には怠りなく、精兵も養いまして常に御家の大事に備えておられまする。それは那古野の城にある与力や家来たちも存じておりますところ。その三郎様を那古野の御城主の座から逐われますのは、家来たちには得心いかず、新たな不和の火種となりましょう」
「一家の当主は、この儂じゃ。儂に従わぬ者を放逐いたすに遠慮などいるものか。まして三郎は実の息子じゃ。息子が父に逆らうなど大罪であろうが。それを罰するに憚りなどあろうものか」
「されば大殿には、三郎様を廃嫡なされるお考えに変わりはござらぬと」
念を押す平手に、備後守は強くうなずく。
「無論じゃ。かような大事、軽々しく決められることではなく、一度決めたからには曲げることはできぬ。三郎は廃嫡じゃ。あとはいつそれを家中に示すかのみぞ」
「…………」
平手は口をつぐむ。
そして素早く考えを巡らせる。
先の美濃攻めで山城入道の逆襲を受けて大損害を蒙って以来、備後守には思うに任せないことが多くなっている。
三河では松平次郎三郎に裏切られ、今川勢を相手に敗北を喫した。
尾張国内では犬山城主である甥の十郎左が、もはや備後守の命に応じず、詰問の使者を追い返して叛意を明らかにした。
十郎左は岩倉城の織田伊勢守との間で盛んに使者を送り合ってもいて、何らかの密約が結ばれたようだ。
犬山と岩倉が反備後守で結託すれば、清須城の織田大和守もどのように動くか、わからない。
備後守は、思うに任せないことばかりの鬱憤を、三郎に向けて晴らそうとしているようにも思われた。
そして、あらためて備後守と対面してわかったが、やはりその顔が浮腫んでいる。
重いか軽いかはわからないが、何らかの病なのであろう。
実は対面の前に、平手が城の台所で働く者たちにそれとなく聞いたところでは、このところ備後守の酒の量が増えているらしい。
もともと酒に強くない備後守である。
その酒量が増えているとは、やはり鬱憤晴らしの意味が大きいのだろう。
「……ではそれがしは廃嫡のお沙汰あるまで、いまと変わらず三郎様の老職を務めまする。変事がございますれば、ただちに大殿のお耳に入れますゆえ」
平手は、そう言った。
備後守に対しては、あくまで従順を装うつもりであった。
その平手を、ぎろりと睨みつけて備後守は告げる。
「勘十郎の一のおとなの話は、なかったものと思えよ。三郎より那古野を召し上げたのちは、そのほう在所に蟄居いたしておるがよいわ」
「……ははっ、仰せに従いまする」
平手は深く頭を垂れた。




