第七章 三河小豆坂 其ノ二(9)
吉法師は高々と盛り上げた髪に、揚羽蝶を模した銀の簪を着けている。
小袖に袴姿で太刀を差しているが、その小袖というのが紅の地に金色の揚羽蝶を織り出したもので、袴は緋色に金糸で同じく揚羽蝶を刺繍したものだ。
完全な女装ではないが、女人が「男のような格好」──完全な男装でもない──をしているとしか見えない。
その吉法師が馬上で手綱を握る両腕の間に収まった松平竹千代は、極めて不機嫌だった。
津島湊の河岸を見下ろす堤の上の道である。
勝千代、万千代、犬千代が、いずれも華やかな女人の小袖や袿に、獣皮を継いだ袴を組み合わせた婆娑羅な風体で、徒歩で付き従っている。
天野又五郎も袴こそ自前の「ごく普通」のものだが、紺から緋色へ少しずつ色を変えて染め分けて払暁の海を表した辻が花の小袖を身に着け、一行に加わっている。
これで人目を惹かないわけがない。
すれ違うのは河岸で働く水夫や人足、あるいは商家の奉公人が大半だが、誰もが丸く見開いた目を吉法師の一行に向けて来る。
そのあとの反応は様々で、呆れていたり失笑するのは竹千代が思うところの常識的な態度であるが、これは実のところ少数派だ。
ほとんどの者は面白がっているか、微笑ましいものでも見たような笑顔で、
「吉法師様、きょうも艶やかでございますね」
などと気安く呼びかけて来る。
これに吉法師もまた鷹揚に、
「うむ。商いの景気はどうじゃ。励めよ」
などと気軽に応じているのである。
たまにいる女の通行人は、年増の女房たちまで頬を染めたりして、
「きょうも皆様、麗しいお姿で」
「まことに、若殿様とその御家来衆にこのようなことを申しては失礼とは承知のことなれど、眼福としか申せません」
と、完全に好意的な反応である。
だからといって、その吉法師一行の数に加えて周囲から見られてしまうことが、竹千代には面白くない。
竹千代は苦い薬でも飲まされて我慢しているような顔で、吉法師に言った。
「吉法師そのほう、なにゆえ毎度、儂を巻き込むのだ」
「巻き込むとは、何に、であるか」
「この莫迦げた遊芸者の顔見世がごとき道中じゃ」
「ふむ……」
吉法師はうなずいて、
「遊芸者の顔見世など儂は見たことがないが、竹千代はあるのか」
「儂もない」
むすっと、ますます機嫌を損ねた顔になり、竹千代は答えて言う。
「物心つくかつかぬかで、質として預けられたのじゃ。加藤の祖母様や母様が、ときどき熱田の町へ連れ出してくれたが、それもぞろぞろと監視がついて回ってのこと。面白きものなど、ほとんど目にすることはできなんだ」
「では、なぜ我ら一行を遊芸者の顔見世に譬えるのか」
「見たことはないが話には聞いておるからじゃ。そのほうが儂を連れ出すために図書助殿の屋敷へ参った折も、熱田の町の者は、門付の一行でもなければ上臈がどこぞの御大尽に召されたと思うておったと聞いたぞ」
「ふむ。それだけ目立っておったのなら我が狙い通りじゃ」
吉法師は口の端を綻ばせて、満足気にうなずく。
しかし竹千代は眉間に皺を寄せて、たずねた。
「吉法師が目立ちたがりなのは構わん。だが、なぜ儂を巻き込むのかと聞いておるのじゃ」
「竹千代を守るためよ。こうしておる姿を見れば、世の者どもは皆、織田吉法師が松平竹千代を、おのれの身内がごとく遇しておると得心いたそう。されば竹千代を害しようと狙うは、この儂に刃を向けると同じこととなる。我が尾張で左様な曲事を起こすは容易ではないぞ。儂がこれだけ目立っておるゆえ、儂らを狙う曲者も、すぐに回りの目につこう」
「とてもそうは思えぬ。すれ違う町の者どもに忍びが紛れておって、毒を塗った吹き矢で射られたら、たちまち御陀仏じゃ」
「竹千代は死にたがっておったのではないのか」
「それはそうだが、毒で死ぬのは苦しそうで嫌じゃ」
「ふむ。竹千代は我がままよのう。図書助屋敷で甘やかされておったか」
「吉法師に言われとうはない。近習、小姓ともども婆娑羅な風体で町をそぞろ歩くなど、備後守がよく許しておるものじゃ」
「許されてはおらぬ。勝手にやっておるだけのこと」
「備後守がそれに何も申さぬなら、許されておるのと同じことじゃ」
竹千代が言うと、吉法師は「……ふむ」と少し考える様子を見せてから、うなずいた。
「……であるか」
「得心いたしたか。おのれが備後守から甘やかされておると」
畳みかける竹千代に、吉法師は答えて言う。
「このごろの父上は戦のことしか頭にないゆえ、許すも許さぬもないものと思うておる」
「なんとも都合のいい申しようじゃ。何も言われないからと申して婆娑羅に振る舞うておるのは、許されたと決めつけておるのと同じであろう」
竹千代は呆れるほかはない。
そのとき又五郎が、吉法師に申し出た。
「あの、織田の若殿」
「……うむ」
「なぜ、それがしまで婆娑羅の真似をさせられるのでございましょう」
「そのほうが、どうしても竹千代と一緒に参りたいと申したからよ。我が一行に加わるなら、その姿でいてもらわねばならぬ。それを望まぬのであれば、阿部徳千代とともに留守番しておればよかったのじゃ」
吉法師の答えに、又五郎は黒々とした眉を吊り上げた。
「我が天野の家は、謹厳実直に岡崎の殿様にお仕えして参り申した。婆娑羅など我が家風ではござら……痛ッ!」
又五郎の脳天に、勝千代が拳を打ちつけたのである。
「オマエ、竹千代様への忠義はいいけど、ウチらの殿様への態度には気をつけろよな」
「そうですよ」
と、万千代も、くすくすと笑いながら、
「それに又五郎殿、その辻が花で随分と男ぶりも上がっておりますのに、婆娑羅を好まぬとは何とももったいない。あるいは照れ隠しで申されているのでしょうか」
「そ、そのようなことは……」
涙目で脳天を押さえながらも、又五郎は恐る恐るといった風で、万千代にたずねる。
「……まことに、それがしの男ぶりは上がっており申すか」
「ええ、お召し替えのあとに鏡をご覧にならなかったのですか」
にっこりとする万千代に、又五郎は決まりが悪そうに目を伏せる。
「いや……その、それがし武骨者ゆえ、よくわからぬのでござる」
「よくお似合いですよ」
「それならば、ようござるが……」
照れたように顔を伏せたままでいる又五郎の様子に、竹千代は呆れるほかはない。
「強情者の天野又五郎を、かように手懐けるとは、吉法師の配下どもも、ただならぬ者たちよ」
「……うむ。頼もしき者たちである」
吉法師は満足げにうなずく。
するとそこで、
「……あの」
吉法師に申し出たのは、一行の一番後ろについて歩いていた小十蔵であった。
これが思いきったように足を早めて吉法師の馬に並んで、言ったのである。
「どうして、わたくしだけ婆娑羅でもなく、また童女の姿なのでしょう」
「童女ではない。禿である」
吉法師は答えて言った。
小十蔵は、尼削ぎ髪を模した被り物と、真紅の直垂姿であった。
幼く可愛らしい顔立ちの小十蔵であるから、これが童女としか見えないのである。
「我が織田家は平家の裔である。それゆえ儂は平家の紋である揚羽蝶を着衣にあしらったのじゃ。されば、その供をいたす小十蔵が平家に仕える禿の姿であるのも、故なきことではないであろう」
吉法師の言葉に、犬千代がつけ加えるように、
「禿っていえば平家の耳目になって京の市中の噂を集めて回った連中だろ。忍びの者である岩室十蔵どのを父に持つ小十蔵が、禿姿でいるのも故なきことじゃないよな」
「父はそれがしを侍として身を立てさせるため、殿に預けたはずなのですが」
眉をひそめる小十蔵の肩を、ぽんぽんと軽く犬千代が叩いて、
「いいじゃないか。似合ってるんだから」
「うむ。小十蔵は顔立ちが整うておるゆえ、可憐な娘がごとき尼削ぎ髪が、よう似合うておる」
吉法師も言うと、小十蔵は真っ赤に染めた顔を両手で覆った。
「……もうっ、殿までそんな、からかわないでくださいっ」
勝千代、万千代、犬千代は笑い、吉法師も口元を綻ばせる。
しかし又五郎は呆れた顔をして、竹千代は、やれやれと首を振った。
「この婆娑羅者どもと儂が一味と見られてしまうのは、なんとも恥じ入るばかりじゃ」




