第六章 三河小豆坂(2)
日がだいぶ傾いてきた。
すでに右筆と下役、それに奉行の二人は退出して、代わりに勝千代と万千代が御座敷に来ている。
吉法師は上段の間で足を投げ出し、脇息に頬杖を突いていた。
眉根を寄せて不機嫌そうな顔であるが、実はくたびれて眠たいだけである。
「五郎右衛門殿はどうにも融通が利かなくてダメですね」
勝千代が眉をひそめて言った。
彼は足軽衆の鍛錬に立ち会って来たのだ。
「服部兄弟とやり合ってばかりというか、あの二人に完全にコケにされてます。やっぱ青山様は偉大でしたよ。黙ってそこにいるだけで周りがピリッと締まってましたから。代わりに和ませ系の内藤様でもいてくれたら、また違うんでしょうけど、もうずっと三河に貼りつきっぱなしでしょう」
「……いまは兄上の与力として安祥じゃ」
吉法師は欠伸を噛み殺してから、言う。
兄とは備後守の庶長子である三郎五郎のことである。
諱を信広といって、吉法師より六つ年上だ。
備後守から三河領内の安祥城の城代を任されており、内藤はその与力として派遣されている。
万千代が腕組みをして、
「城の勘定も芳しくありません。美濃攻めで失った馬や武具の補充、戦死者の家族への弔慰金で出費が嵩んで、このところの平手様は額に青筋を浮かせっぱなしで」
「敗け戦で死んだ……命を落とした者への手当ては、やり過ぎだったんじゃないですか」
勝千代が言った。
「殿の気持ちはわかるんですけど、御当家としては得るもののない戦だったでしょう」
「青山の妻子に報いてやりたいと思うたのじゃ」
吉法師は眉間の皺を深くして答えた。
「されど青山ばかりを贔屓にできぬゆえ、その余の者にも手当ていたさねばならぬと思うた」
「やっぱ青山様が偉大だったんですよ」
犬千代も腕組みをして、うんうんとうなずきながら言う。
「古狸の林様を抜きにして、実質二番家老だったでしょう」
「それじゃあ古狸の林様が数のうちにも入らないみたいでしょう」
くすくすと笑って万千代が言い、勝千代もまた、にやりとして、
「いや実際、目玉も態度もデカくて無駄に存在感あったけど、いま考えると、いったい一番家老として何をしていたのやら」
「……であるな」
万千代、犬千代、勝千代は笑い合い、吉法師も口元を綻ばせる。
そこに庭先から声がかかった。
「……失礼いたしまする」
一同が座敷から庭を見やると、岩室十蔵が地に片膝をつき、頭を下げていた。
隣には同じ姿勢の七、八歳の少年がいる。
「うわっ、いつの間に……びっくりした」
犬千代は驚きの声を上げて、
「もしかして、あなたが岩室十蔵殿? そんな忍者みたいに庭先から声をかけて来なくても……いや忍びの者なんでしょうけど」
「岩室にござる」
十蔵は答え、言い添えた。
「いかにも忍びと呼ばれる務めをいたしてござる」
「余人はおらぬ。こちらへ上がって参れ。そこでは話が遠い。儂は、ここから動くつもりは、ないぞ……」
吉法師が脇息に頬杖を突いたまま、今度は欠伸を隠さず言った。
遠慮をさせないためであろうが、それにしては無作法である。
十蔵は苦笑して、
「幼子の頃よりも子供じみたことを仰せられる」
そう言いながらも立ち上がり、少年とともに沓脱石から上がって濡縁まで来た。
そこでまた揃って片膝を突き、
「されば、こちらにて」
「その子は、十蔵の子か。面立ちがよく似ておる」
たずねる吉法師に、十蔵は「は……」と頭を下げた。
「小十蔵と名づけております。七つになりまする」
「我が小姓といたそう。犬千代、きょうより面倒を見てやれ」
「え、オイラ?」
目を丸くして自分の顔を指差す犬千代を、じろりと吉法師は睨んで、
「不服であるか」
「いや不服なんてとんでもない、むしろ喜んでお引き受けしますけど」
犬千代は、ふるふると首を振ってから、その首をかしげ、
「でも忍者の弟分なんて、オイラに面倒見きれるかなって思ったんです」
「小十蔵に忍びの技は教えておりませぬ。でき得れば侍として奉公させることを願うておりましたゆえ」
十蔵は答えて言ってから、あらためて吉法師に頭を下げた。
「若殿への御奉公、叶いますでしょうか」
「そのつもりで連れて参ったのであろう。そのほうの子であるからではなく、そのほうが儂に奉公させるに値すると考えた者であるゆえ、我が側近くに置こう」
「は……ありがたきお言葉にございまする」
十蔵は深く頭を垂れた。
小十蔵も同じように頭を下げる。
「よろしくお願いいたしまする」
「うむ」
吉法師がうなずくと、勝千代が、
「そしたら名前は十千代ですかね」
「……む?」
「いやほら、オレが勝千代で、万千代、犬千代でしょう。だったら小十蔵の十からとって、十千代」
「儂は吉千代ではなく吉法師であるが」
「でもだって殿は殿であって小姓じゃないですもん」
「……であるか」
「いやあの、恐れながら」
小十蔵は顔を上げ、恐る恐るといった様子で申し出た。
若い頃の父親をそのまま幼くしたような綺麗な顔立ちである。
「わたくしは小十蔵で、ようございます」
「うむ。考えておく」
吉法師は、あっさり流しておいて、十蔵にたずねた。
「されば十蔵そのほう、よもや次の戦で死のうと思うてはおらぬか」
「望んで死のうとは思いませぬ。なれど難しき戦になろうと覚悟はいたしておりまする」
「……であるか」
吉法師はうなずいて、
「今川治部大輔、あるいは太原崇孚やも知れぬが、大敵か。山城入道より油断ならぬか」
「治部大輔と太原崇孚、いずれも大将として采配を振るい得る傑物にござる」
十蔵は答え、つけ加えて、
「また恐れながら、いずれも名家の生まれにござりますゆえ、もとより家臣と領民との心を捉えておりまする」
「ふむ。山城入道とは違うのう。我が父上ともじゃ」
吉法師は脇息から身を起こし、姿勢を正した。
「十蔵。死ぬなとは申さぬ。そのほうにも意地があろう。死ぬべきときは、己で選ぶのであろう」
「は……」
「されど、いずれ儂がこの尾張一国を掌中にいたして、美濃も三河も併呑いたそうというとき、我が側近くには、そのほうのように我が意を紛うことなく汲む者があれば心強い」
吉法師の言葉に十蔵は、また深々と頭を垂れた。
「ありがたきお言葉……我が懐の内に大切に抱いておきまする」
週末、信貴山へ上って参りますので、週明けまで更新が滞りまする…




