第六章 三河小豆坂(1)
那古野城の主殿。
つまり本丸の屋形である。
そこに御座敷と呼ばれて、城主が政務を執る部屋があった。
上段の間に吉法師が座して、その前に文机が置かれ、筆と硯が用意されている。
下手には文机が六つ並び、うち四つは右筆と呼ばれる書記役の席である。
あとの二つは奉行の肩書で呼ばれる村井吉兵衛、島田所之助の両名の席だ。
右筆は書き上げた書面を、自ら村井の席へ運んで差し出す。
村井は内容を改めて問題がなければ、控えていた下役に渡し、島田へ回付させる。
島田は回された書面を確認すると、それを犬千代に預け、犬千代とともに吉法師の前へ進み出る。
そして、
「天神社の禰宜、六郎大夫がこのたび買い入れたる田地の安堵状にござる」
などと説明して、犬千代が差し出す書面に吉法師の花押を据えてもらう。
島田は席へ戻ると、その書面を宛先や内容ごとに仕分けておき、あとで村井とともに添え状をつけ、各宛先へ発給するのである。
書面は判物と呼ばれるものであった。
主に家臣や社寺に宛てて領地の支配権など各種の権利を保証するものである。
村落に褒賞や災害復興そのほかの理由での免税特権や、商人に領内の自由通行権を与える場合もある。
村井は右筆から受けとった書面を確認するだけでなく、次に作成するべき文書の指示も出している。
何を作るべきかは手元の帳面に控えてあるようだが、ほかの者に見せることはない。
犬千代はちらちらと気にしているが、彼は島田の傍らに控えているので、村井の手元は見えないのである。
村井は髪に白いものが混じり始めた温厚そうな顔つきの男だ。
長身であるが、平手と違って若い頃は戦場で名を馳せた、などということはない。根っからの文官である。
一方の島田は、四角くて厳つい顔をしている。
そんな顔立ちだが、やはり文官である。
「それがし、武より文にて御役に立ち申す」
などと公言して憚らない。
自分で役に立つと言うくらいには、書類仕事は卒なくこなしてみせる。
右筆の一人が仕上げた書面を村井に差し出した。
「村井様、弥勒院への寺領安堵状、これでいかがでしょうか」
「はい。よろしいかと思います」
村井は書面に目を通してから、手元の帳面を開き、
「では次は御城下の乾物商、五兵衛なる者が頓死したのちの身代について娘と後妻の双方から訴えのありました件ですが……少しお待ちください」
先に仕上がった書面を村井が下役に渡そうとしたところを、さっと犬千代が進み出た。
「こちらはオイラ……わたくしが」
ついでに犬千代は村井の手元の帳面を覗き込もうとしたのだが、それより早く、村井は帳面を閉じてしまい、
「では島田殿へお渡しください」
「……かしこまりました」
犬千代は僅かに眉をしかめながら、受けとった書面を島田へ回付した。
「島田様、お願いします」
「拝見いたす」
島田は書面を受けとると、ちょいと小さく犬千代を手招きする。
「?」
犬千代が自分の顔を指差すと、島田がうなずくので、犬千代は相手のそばに寄る。
島田は、村井が右筆に仕事の指示を出しているのを確かめてから、声を潜めて犬千代に言った。
「村井殿の手控、気がかりであろう」
「ええ、まあ」
「それがし一度、覗き見たことがござるが、何やら兎やら蛙やらが描かれてあるばかりでござった」
「へええ?」
「あれはおそらく、なすべきことが全て己の頭の中に収まっておるのでござる。ただそれを知られると、記憶ばかりを頼りにしては忘れておることはないかと疑われるので、帳面に書きつける真似をいたしておるのでござろう」
「……でありますか」
仕事の段取りを全てを頭の中に収めてあるらしい村井にも驚きだが、島田も謹厳実直そうな顔をして、他人の手控を覗き見るなど俗っぽいところがある。
島田は書面を一通り確かめてから、犬千代に返した。
「よろしいかと存じる。では殿の判形をいただこう」
島田は席を立ち、犬千代とともに吉法師の前に進み出た。
「次は弥勒院への寺領安堵状にございまする」
「……であるか」
吉法師はうなずくと、村井がまだ右筆と話し込んでいるのを見やってから、犬千代を手招きする。
そばへ寄った犬千代に、吉法師は小声でたずねた。
「村井の手控には何が記されておる」
「覗く前に隠されちゃいましたけど、島田様のお話ですとウサギやカエルが落書きしてあるだけだとか。手控には書き込んでいるフリで、実のところ全部頭に入ってるみたいです」
「それであのように抜かりのない働きをいたすか」
吉法師が驚きに目を見開くと、島田が、
「いやそれは戯言にござる」
「はあっ?」
犬千代は呆れて島田の顔を見た。
吉法師も眉をしかめて島田を見るが、島田は真面目くさった顔をして胸を張り、
「ほかの者の手控など覗くのは、よろしくないと存じる。書きつけたフリをして兎や蛙を落書きしておるなどと、よもやお信じになるとも思いませなんだ」
「いやいやいや、島田さんあなた、そんな真顔で言われたら信じるしかないでしょう。戯言はよくないと思います」
犬千代は抗議するが、島田は胸を反らし、
「顔も芸のうちにござる。腹芸と申しましてな、使えるものは何でも使うのが政事というものにござる」
「そんなもっともらしい顔で言うけど、からかってるだけでしょう?」
「……でござる」
島田は真顔のまま言ってみせ、吉法師は犬千代と顔を見合わせた。
犬千代は吹き出し、吉法師も口元を綻ばせて首を振る。
「……であるか」




