舞台裏 分かち合う果実の名は
サイト開設五周年記念企画。今までと、これからのありがとうをこめて。
黒猫の指は色白でほっそりしている。
剣士らしく節くれ立ち、指の腹は硬くかさついているけれど、どこか華奢で優美な印象がある。彼の左手がナイフを持ち、右手に持った林檎の皮を滑らかに剥いていく様子に、わたしは惚れ惚れと見入ってしまった。
刃を当てながら器用に林檎を回し、するすると赤いリボンをほどいていく。小ぶりの果実はあっという間に素肌を晒し、黒猫はそれを均等に切り分けて皿に盛りつけた。
「ほら、剥けたぞ」
「……ありがとう」
ひとかけらつまんで口に運ぶ。しゃくりと果肉を噛み砕いた瞬間、たっぷり詰まった蜜の味が弾けるように広がった。真っ赤な色を纏っていたのに、甘酸っぱい香りは仄かに青い。
黒猫は次の林檎の皮を剥きはじめていた。わたしたちの間に挟まれた卓の上には、つやつやとした紅色の林檎が籠に山盛りになって輝いている。北部の領地で収穫された今年はじめての実りだ。
およそどの国でも、初物というのは真っ先に王家に献上される。王族の舌でその年の出来栄えを確かめるのだ。それは支配者の特権であり、同時に統治者の義務でもある。
「どうだ? 今年はかなりいい出来だって領主が言ってたけど」
「とても甘くておいしいわ。果肉もほどよく固くて瑞々しいし、色も香りもいいと思う」
「なら当たりだな」
黒猫は手を止めてちょっと笑った。わたしはもうひとかけら手に取ると、彼の口元に押しつけた。
「あなたも食べてみなさいな」
猫目石の瞳が瞬いた。黒猫は薄い唇をゆっくり開き、白い果肉をしゃくりと食んだ。
しゃくり、しゃくりとひと口ふた口食べ進めていく、なんだか懐いてきた野良猫に餌づけしているような気分だ。彼は最後のかけらまで食べきると、果汁に濡れたわたしの指先をぺろりと舐めた。
こういうとき、黒猫の目は悪童のようにきらめく。これ見がよしに口元まで舐めて笑った。
「確かに、甘い」
わたしは熱くなる顔をごまかすようにぎゅっと眉をしかめた。きれいに果汁を舐め取られた指をどうすればいい。
「婚前だというのにはしたないのではなくて?」
「我が婚約者殿はまこと貞淑でいらっしゃる。夫となる身としては心強い限りだが、いささか寂しくもありますれば」
黒猫は楽しそうに頬をゆるませている。その表情が実に腹立たしくて、彼の手元から剥きかけの林檎を奪うと一気にかぶりついた。
「あっ、こら」
まだ剥き終わってねぇぞとたしなめられるが、無視して乱暴に咀嚼する。しかし、丸々とした林檎はわたしの口には大きすぎて、滲み出る果汁が唇の端からこぼれ落ちてしまった。
「言わんこっちゃねぇ」
黒猫の手が伸びて、指先で口端を拭われる。荒れた指の腹は果汁にしっとりと湿っていた。
わたしは思わずその指をぱくりとくわえてしまった。くわえてから、自分の行動に仰天して固まってしまう。わたしはいったい何をしようとしたのだ。
黒猫もこれには驚いたようで、双眸を丸くしていた。微妙な沈黙が下りてくる。
「……うまいか?」
困ったような呆れたような質問に、わたしは力なく首を横に振った。林檎の果汁は溶け去って、しょっぱい人肌の味しかしない。
口を離すと、濡れた指先からつうっと細い糸が伸びて切れた。たちまち羞恥に襲われたわたしに黒猫は苦笑をこぼした。
「小鳥は、いつまで経ってもかわいいな」
それはどういう意味なのと尋ねる前に、わたしは後頭部を抱き寄せられるように唇を塞がれた。もう両手では数えられないほどくり返した、恋人との接吻。
ついばむような軽い触れ合いからはじまって、お互いの体温と呼吸を確かめるように深くなっていく。自分のものではないだれかの舌先が口の中に忍びこんでくるという事態に未だに慣れない。けれど、いやではない。
わずかに距離を空けて、黒い睫毛の奥で熱に揺らめく金緑色の光を見つめ、視線に気づいた彼がふっと煙るように笑う瞬間がとても好きだ。ぎゅうっと抱き締められて、何もかも忘れてしっかりとした肩に頭を預けているときだけ、わたしは恋に溺れるただの少女になれる。黒猫は、わたしだけを慈しむ少年でいてくれる。
小さな林檎ひとつにも満たない刹那があるからこそ、わたしたちは背負うと決めたすべてを放さぬままともに生きていけるのだ。
「口直しになったか?」
からかうような口調で問うてきた黒猫へ、いくぶん余裕を取り戻したわたしは半眼で微笑んでみせた。
「これに料理長お墨つきの林檎のパイをつけてくれたら上出来ね」
「……訂正する。小鳥は少しかわいくなくなった」
「強かになったと言ってちょうだい」
わざとらしく遠い目をする黒猫の頬を軽く引っ張って、わたしは今度こそ破顔した。
ささやかな歓びの果実は、長い道のりのあちこちで食べきれないほど待っているに違いない。
かつて名もなき虜囚だったわたしが、レイシアのユリエルと呼ばれた最後の冬のある日。