舞台裏 はじまりの口づけ
トゥスタの王城で暮らすようになった今でも、黒猫はときどき手作りの菓子を振舞ってくれる。
彼の料理の腕は城内でも有名らしく、王太子時代に「お世継ぎでなければこの手で一流の料理人にお育て申し上げたものを」と料理長が涙ながらに語ったという逸話を知らぬ者はいない。当の本人も、「もしも王子だってわからなかったら、料理長に弟子入りしてたかもな」と満更でもなさそうに苦笑していた。
そんな黒猫がわたしのために暇さえあれば菓子を作っているという噂は、瞬く間に城中へ広まった。王城の厨房を預かる料理長が太鼓判を押した国王の菓子を食べられるということは、宮仕えの者たちにとって憧れの的らしい。世話をしてくれる女官たちも、黒猫が菓子を携えて訪ねてくるたびに心底羨ましそうな目を向けてくる。
「よう」
昼食を終え、午後の講義がはじまる前のわずかな時間。まるで見計らったように黒猫がひょっこりやって来た。
その手には、なんともいい香りを匂わせる包み。ああ、女官たちの視線が地味に痛い。
「今空いてるか?」
「ようこそいらっしゃい、料理人さん。今日のお土産は何かしら?」
「胡桃入りのスコーンと、野苺のジャムにございます」
「それじゃあ紅茶にしましょうか」
わたしの言葉を合図に、てきぱきと女官たちがお茶の準備をはじめる。その手際のよさに先ほどの名残は微塵もない。すばらしい仕事ぶりだ。
あっという間に支度を整え、女官たちは一礼して退がっていった。
「……あなたの臣下は本当によくできているわね」
「おじい様の代から、城内で働く者たちの教育にも力を入れてきたからな。その賜物さ」
黒猫は包みからスコーンを皿に取り分ると、とろりとした赤いジャムを添えてくれた。
「どうぞ召し上がれ」
「いただきます」
わたしはジャムを乗せたスコーンを口に運んだ。行儀悪く卓に頬杖をついた黒猫は、目を細めて尋ねてくる。
「どう?」
「あなた、やっぱり今からでも料理長の弟子になったら?」
さっくりとしたスコーンの素朴な味に、甘酸っぱいジャムがほどよく合っている。香ばしい胡桃のほろ苦さともちょうどいい。
「お褒めにお預かり光栄です。けど、それは遠慮しとこうかな」
「あら、どうして?」
スコーンには紅茶、と教えてくれたのは乳母だった。彼女のクッキーは黒猫に負けぬほど美味だったが、紅茶を淹れることも上手だった。
「俺の料理を食べてくれるのは、あんただけでいいや」
さらりと言われた台詞に、わたしははしたなくもむせてしまった。
「おいおい、大丈夫か?」
「あ……あなたのせいでしょう!」
涙目になりながら睨むと、黒猫はにやにやと笑った。最近、頓に見ることが多くなった意地悪い表情だ。
「照れてるのか?」
「……割と都合のいいところがあるわよね、黒猫って」
「小鳥は割と素直じゃないな」
黒猫の指先が波打つ栗毛をもてあそぶ。彼はわたしの髪を気に入っているらしく、こそばゆいいたずらをたびたびしかけてくる。
「かわいげがなくて悪かったわね」
「俺は充分かわいいと思うけど?」
大きな掌が頬に触れた。とろけるように微笑む金緑色の瞳を見ていられなくて、わたしは顔を伏せた。
黒猫は、知っているのだろうか。
(陛下は、太師閣下の令嬢にご執心らしい)
彼が作ってくれる菓子が、城内でささやかれるもうひとつの噂に拍車をかけていることを。太師とは年若い王の師傅であり、黒猫の治世においては前宰相――乳母の夫君を指す。そしてわたしは現在、その養女ということになっている。
わたしに対する黒猫の態度は『寵愛』といわれ、太師の養女としたのも、いずれ妃にするための準備なのだと人々は考えているようだった。
黒猫は何も言わない。
互いの想いは確かめ合ったけれど、その先へは一歩も進んでいない。わたし自身、黒猫とともに生きていくために、王としての彼を支えていきたいとしか考えていなかった。
だが周囲を納得させるためには、目に見える関係が必要なのだ。
君主と臣下――あるいは、王と王妃。
今のわたしは、そのどちらともいえない宙ぶらりんな存在だ。だからこそ、わたしを見る人々の目には危惧の色がある。若く未熟な主君の治世を揺るがす火種となるのではないかと。
黒猫は……どんな未来を望んでいるのだろうか。
わたしは――。
「ジャムがついてる」
不意に、唇を親指の腹でなぞられた。
驚いて顔を上げると、猫目石のような双眸がすぐそこにあった。体の奥底からカッと熱くなるような熱が静かに燻っている。
黒い睫毛がゆっくり閉じられ、吸い寄せられるように唇をそっと塞がれた。
優しいばかりの感触に、わたしはようやく口づけられているのだと気づいた。
「…………甘いな」
唇を離した黒猫は、ぽつりと呟いた。
「……それはそうでしょう。甘くなかったら、おかしいわ」
「そうだな」
ぼうっと応えたわたしに、ちょっと笑ってみせる。両手で頬を包みこまれ、彼はもう一度唇を寄せた。
ついばむような接吻だった。
わたしは何も考えられず、ただやわらかな熱を感じていた。ふたりの体温にジャムが溶けて、もっと甘くなった気がした。
長いような短いような時間が経って、黒猫はようやく顔を離した。
「……なぁ、小鳥」
頬に触れたまま、ほんの少し高い声がささやく。
「俺はさ、自分の作った料理をおいしそうに食べてくれるあんたの笑顔が好きなんだ。大叔母様や大叔父様だってそうだけど、一番俺の料理を食べてほしいのはあんたなんだよ」
黒猫は椅子から立ち上がると、わたしの前で騎士のように跪いた。
「あんたにはいつでも笑っててほしい。ずっと一緒にいたい。だけど、それだけじゃなくて……あんたに触れたい」
心臓が跳ねた。
燃えるような瞳が、まっすぐそれを鷲掴んだ。
「俺に、その大義名分をくれないか」
黒猫はときどき、焦れったいほど優しい。
たとえば、今はもういないあのひとのように、ただひと言命じれば済む話なのだ。それが許される存在なのだから。
いつだって、黒猫は手を差しのべて、わたし自身に選ばせてくれる。後悔や苦しみを負わないように。
優しく愛しい、わたしの黒い猫。
「……あなたを好きになって、よかった」
どうしてか泣きたくなって、けれどこぼれたのは笑みだった。
わたしは黒猫の肩に手を置くと、気恥ずかしさを押し隠して顔を傾けた。
すぐに離れたけれど、黒猫はぽかんとした顔で固まったままだった。
「あの……黒猫?」
おそるおそる呼びかけると、彼の腕がわたしを掻き抱いた。
「………………あんたを傷つけて、泣かせちまう日がきっと来る」
震えを押し殺しきれていない声が、それでも、と懇願する。
「それでも、俺は、あんたじゃなきゃいやだ」
「……ええ」
わたしはたくましい体を包みこむように、黒猫の背を抱き返した。
「運命を選ぶときが何度訪れても、わたしはそのたびにあなたの手を取るわ」
だから、どうか。
「一緒に連れていって。あなたの行く未来へ」
抱擁がゆるみ、顎を捕らえられる。
黒猫の切ないまなざしを焼きつけて、わたしは静かに目を閉じた。
かつて母を狂わせた、王の妃としての苦難が待っていようとも。
この口づけを忘れることは決してないと、わたしは確信した。




