第73話「ねこのいどころ大作戦08:現れた事実」
ついに、8年越しに「航宙船長「まる」」本編復活です。
航宙船2隻を抱える三毛猫の船長、いや、船団長の「まる」は、母港となる小惑星を得るために巨大ロボットトーナメントに出場、しかし、トラブルの連続で、特に、仲間の一人である阿於芽は何故かまるたちが使う巨大ロボットに憑依してしまう。
そして、まるは巨大ロボットトーナメントが何者かによって妨害を受けている事実つかんで行動を開始、
阿於芽と技術主任の秋風の二人は、突如として現れた謎の男を解析していた。
そして明かされていく謎。物語は佳境に向かいます。
(承前)
光速の一千万倍の超超光速度航法で飛ぶ航宙船には旅の興奮はない。
一切の信号が届かないからレーダーもビューワもほとんど真っ暗だ。
実際には、航路上のすべてを破壊する超超光速度航法によって、生命や誰かの所有物の損壊が起きることを防ぐために、航行は最長でもナノ秒単位で細切れに移動と停止を繰り返すので、停止の時間だけ仄かに光が届く。それにより、論理上はちらちらと彼方の星が動いているように見える筈なのだ。
だが残念ながら現在の改良された航法装置では、移動と移動の間の停止時間はピコ秒単位の一瞬であり、光量は人の目が感知できるほどではない。
レーダーに関しても状況は似たり寄ったりで、多数の停止時間から集積された情報が反映されるに過ぎない。光速の一千万倍の速度の世界で、光と同じ速度しか出ない電波のレーダーは全く役に立たないに等しい。亜空間搬送波にしても、通常空間との位置の正確な対応ができない上に、やはりノロノロと進むリクガメの様相を呈している。つまりはろくな探知手段もなく、目隠しで飛んでいるといっても間違いではない。
唯一、敏感な人や猫が、かすかな雑音のようなノイズを感じるだけだ。
そして、まるは猫だったから、移動の間の8秒の暗闇を見据えたその目には、かすかな光が見えていた。それは、〈コピ・ルアック〉のブリッジでは、まるだけの特別な時間でもあった。
かすかな光の乱舞は、大きく迂回するコースの影響を受けて、まるで乱気流のように緩やかな渦を巻いて見えた。まるでこれから起きる波乱を象徴しているようで、まるは背中の毛が少し逆立つのを感じた。
「船長、ドライブ終了です。ここからは衝突危険性を排除できないため、通常ワープに移行します」
「ありがとう太田君、頼むわね」
太田航宙士の言葉に、そのエメラルドのようにきらきら光る半球状の眼を微動だにさせずに、まるは淡々と返事を返した。通常ワープのワープシェルには微弱ながら光は届く。亜空間中にいる船は静止状態であり、突入してきた光は亜空間上で通常速度に戻るため、ワープ速度によるドップラー効果の影響を受けない。移動中のデッキから星の光が見えるのはそのためだ。別に移動を演出するためにCGやビデオを流しているわけではない。
赤黒く鈍く光る星雲を背景にして、若い青い星がほの光っている。おそらくは数十万年ほども前に、超新星の燃えカスを上書きするように、新たな星を作るガスが流れ込んだのだろう。
<今日も宇宙はこんなに奇麗なのに、私の周りではなぜこうも事件ばかり起きているのかしら>
まるが独りごちていると、脇に立っていたラファエル副長が、下部ブリッジから届けられた演算結果を見て知らせてきた。
「船長、目標まで3分です」
「ありがとう副長、さあて、くそったれの敵のご尊顔を拝むとしましょうか」
§
まるたちが危急の事態に対応している間、阿於芽と秋風は、謎の男の解析を進めていた。
『皮膚サンプルの遺伝情報は不明、だが明らかに生体と思われる組成、か。これまでの解析結果と変わらないな』
「待て待て阿於芽、各所の粘膜からはもう少し面白い情報が取れているぞ。見てくれ、鼻粘膜なんだが不純物が付着していないんだ」
『ちょっと待てよ、それ呼吸していないってことじゃないのか』
「だが、明らかに気体の出入りは確認できるんだ。第一、もし中に君の体が入っているなら、正常な空気を吸入しないと君の体が死んでしまうのじゃないか?」
『僕の体はそんなに柔じゃないよ、真空でだって生きていられる』
「……君が化け物だってことを忘れていたよ」
『なんだよ。心外だなぁ、こんなにかわいい生き物を捕まえて化け物呼ばわり』
「かわいい生き物は普通、指の股から無限に伸びる肉の紐とか出しませんが」
人類をはるかに超えた進化の果ての魑魅魍魎、上位階梯の生命体との「共生」の副産物として、阿於芽はいくつも奇妙な能力を身に着けていた。その中で極めつけの一つが秋風のいうところの「肉の紐」だ。
これは、正確には物質かどうかすら疑わしい謎の代物で、秋風の文言にウソ偽りなく、物理的には無限にどこまででも伸びる上、どうやら「彼の気分で」ふわふわに柔らかい状態から、無限に近い硬度を持たせることも出来る。〈コピ・ルアック〉の頭脳にして人類を追い越して進化の先へと進み、くだんの魑魅魍魎の仲間入りをした超コンピュータFERISですら組成を解析できないという謎の紐だ。
しかも阿於芽は、これを任意に出すことができる上、不可視の状態で何かに張り付けることもできる。そして一度この紐を張り付けた物体は、彼の意思次第で遥かに離れた場所からですら何らかの異空間を通して瞬時に引きずり寄せることができるし、逆に阿於芽がその紐を手繰り寄せて、瞬間的に距離を無視して移動することもできるという、でたらめな代物だった。
特に不可視の紐については、阿於芽は「アンカー」と名付けていて、常にあちこちに張り巡らしておいて、神出鬼没を気取って瞬時の移動を楽しんだり、ピンチになった「まる」や仲間たちの救出に一役買ったりもしていた。
『イチゴ色でラブリーだと思う』
「やめてくれ、気持ちが悪い」
秋風が本気で嫌がっているのを見て、阿於芽(のVR映像)である黒猫は、まるで笑ったかのようにその真っ赤な口をパカッと開いた。
本猫の意図がどうであれ、それは一見して「邪悪」としか言えない表情だった。
「冗談はさておき、|非侵襲方式(切ったり刺したりしない)の物理的解析はもうこれ以上の成果を望めないな。そろそろ彼を起こしてヒアリングの続きをやろう」
秋風の提案に、黒猫は頷いた。
本来、猫の仕草では頷く行為は了解の意味ではないが、延命薬物によって数十年以上生き続け、人と接していた長寿の個体である阿於芽は、人の仕草を無意識に真似るようになっていて、精神だけの状態に近い現在でもそれは無意識に仕草に表れている。
そして、二人が話題にしている件の謎の男は検査の姿勢が体に合っていないのか、軽く頭痛がするらしく、起きてから頭を抱えていた。
「大丈夫か?」
「え、ああ。少し頭痛がするだけです」
「早速だけど、僕らが調べた結果によれば、やはり君は人間ではないね」
「なっ……」
『まず、皮膚に本来存在するはずの常在菌がいない。その体は人工のものだ。そして、機械ですら長時間放置すれば表面に菌類が付着するだろうが、君にはその痕跡もない。つまり君は製造されてから日にちが経っていないんだ』
黒猫がうろうろしながら得意げに解説すると、秋風が補足した。
「つまり、君はますます、その阿於芽が使っていた人型プローブである可能性が高い、ということになる」
矢継ぎ早に二人がまくしたてたせいで、男はしゅん、としてしまった。
「すまない、ちょっと事を急ぎすぎたかな」
「ああ、いいえ。それは大丈夫です。では、この僕……僕の心も作りものなんでしょうか」
『問題はそこだ』
阿於芽はしゅっと彼の膝に飛び上がると、せりあがって顔に前足を押し当て、男の目を覗き込んだ。
『この時代になっても、人工知生体の成功例は少ない。いや、正確に言おう。「人工知生体を作る技術は、銀河系の高次生命体、いわゆる上位階梯の存在……化け物連中からの監察処分中にある地球人類には制限されている」んだ』
阿於芽の言葉に、秋風は驚いた。
「なんだそれは、初耳だぞ」
『知らなかったのか。まあそうだよなあぁ、知ってたら抗議の山だろうし。純粋な人工知生体は、24世紀に人類から失われた技術の一つなんだ』
「まる船長と僕はFERISを作り上げたぞ?」
『そしてFERISはあっという間に次の階梯に進んでいってしまったろ?』
「……まさか、それがわかっていたから黙認されていたのか」
『でなきゃあの羽賀さんが、自らハッキングしたコンピュータを放置するわけがないじゃないか』
二人のやり取りに、男は困惑した。
「あのう、それが私と何の関係があるのでしょう」
「いいかい、僕らは君に対してゲーデル・トラップというテストを行った」
「はあ」
「これは、君という知性が人工物か否かを、ゲーデルの不完全性定理に基づいて判定するものだ。……あ~、分かりにくいか」
「それはつまり……」
阿於芽がくるりと尻尾を振りながら、秋風から解説をもぎ取った。
『嘘つきのパラドックス、っていうのがあってね。「私は嘘をついている」という文言は成り立たない、ってやつ』
「……嘘をついている、という言葉自体が嘘になるので嘘をついていないことになるけれど、それは文言自体と矛盾してしまう……」
『そのとおり! なかなか頭いいね君。で、それをもっと数学的に厳密にしたのがゲーデルの不完全性定理。さっきみたいな文言は「設問自体が矛盾していて意味を持たない」で切り捨てられるけど、今回のゲーデル・トラップは、じゃあ知性体の思考全般に矛盾する答えを投げかけたらどうなるか、を見るテストなんだよね。で、我々はこれを無意識の君に適用した』
「……どうなるんですか?」
『人工知能であれば、無数の問いに対処中に、不審なループに陥ってしまう。フェイルセーフが働くから止まってしまうことはないけれど。その動作の有無で、君が生物か、人工知能化を判別できるんだ』
「おほん」
阿於芽に話を奪われた秋風が咳払いをして主導権を取り戻す。
「検査の結果では君は人工知能ではない、もしくは我々では作れない高度な人工知能だ」
「どういうことです?」
「今、地球人類圏では君のようなほぼ完全な人工知生体を作る事は出来ないんだ。つまり、君は本物の知的生命体である可能性が高い」
『だから安心したまえ。君は無から生まれたわけじゃない』
ここで大仰に一息ついて、黒猫はそのきらきら光る青い目をまっすぐ男に向けると、ひとこと言った。
『つまり、君という存在は、以前からどこかに存在していたんだ』
§
「敵からの通信です」
副官らしき影が伝えてきた。ゆったり優雅に座っていた司令官と思しき影は手をひらひらさせて応えた。
「無視しなさい」
「それが、回路に強制割込みしているので、切るにはいったん全システムをシャットダウンしないと……」
「どういう技術を使っているのよ……敵の通信を遮断する方法を探しなさい」
優雅に構えていた女は起き上がって仁王立ちした。
『さあて、捕まえたわよ』
響き渡る合成音声。音声の主は「まる」だった。
「あんの糞猫っ!」
明らかにまるを知っている口調だ。
「いいわ、チャンネル開いて」
「はっ」
通信に現れたのは見慣れた三毛猫。まるだった。
「どうも初めまして」
明らかに初対面ではないのだが、女はまるにそう嘯いた。
「初めまして、かしら? 私にはあなたの行動から思い当たる人物がいるのだけど」
通信のまるは一呼吸置いて、猫の顔らしからぬ「ニイッ」という笑顔になった。まるでチェシャ猫だ。そして意地悪な声で付け加えた。
「いや、人じゃなかったかしらぁ?」
ちぃっ。
女は舌打ちをした。
通信のまるは続けた。
『お久しぶりね、ラスター。このく・そ・ね・こ』
まるの言葉に、ラスターは切れた。
自分も独白で糞猫呼ばわりしていたが、実際に言葉にされるのとではわけが違う。
「糞猫はあんたでしょうが!」
『もうこういう稼業は引退したと思っていたわ。いろいろ鬱積していたものは晴らしたんじゃなかったの?』
「うるさい! 私にだっていろいろ都合はあるんだから」
『面倒くさいわねえ。おおかた誰かに良い報酬でも提示されて、犬みたいに尻尾振ったんじゃない』
まるに尻尾のことを指摘され、ラスターは頭に血が上った。
猫のまるには優美な長い尻尾がある。ラスターのそれは有るか無きかの折れ曲がったカギ尻尾だった。尻尾で感情を表す猫にとって、ほとんど見えない尻尾は劣等の表れとなる場合もある。特に、知性化された猫同士の間では。
「私の尻尾のことを言うな!」
そう。女の中身。それはまると同じく猫だった。
まるとは全く異なる経緯で知性化された、別の世界線の猫。
自分の運命を呪い、運命から逃れるためにまると対立した。
諸悪の根源である次元を超えた存在「ワーム」を消滅させて、彼女は軛を解かれ、一匹の猫に戻った。いや、戻るはずだった。しかし既にその時には彼女には多くのしがらみがあり、彼女が航宙船の指揮も出来ない獣になるには少し時が遅すぎた。
『ねえラスター。こういう厄介ごとを起こすのはもう止めにしない? 必要なら私が援助を……』
「必要ない!」
優等生からの施しなんてまっぴらである。
ラスターにはラスターなりの矜持があった。
人間の基準としての善悪などどうでもよかった。彼女は猫なのだから。
だが、猫だからこそ守りたいものがあった。
それは縄張りだ。
彼女からしてみれば、まるは人間に毒されすぎているように思えた。
猫は一人で動くものだ。航宙船を動かす必要性から、ラスターは部下を連れていたが、それらは彼女の細胞から作られた劣化コピー(クローンとは違う)であり、基本的には一人と変わらないと思っていた。
それに。
「知っているわよ、まる。あなたこの大会で優勝しないとやばいんでしょ?」
『な、何の話よいきなり』
「あらあ、とぼけなくてもいいのよ。2隻以上の船主になったから、母港が必要になったのよね?」
ラスターの雇い主が調べ上げた情報だった。
まるは答えなかった。図星をついたことがわかって、ラスターはまるでチェシャ猫のような笑みを浮かべた。
いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも! この女は私の頭の上を優雅に尻尾を振りながらさっさと飛び越えて行って、正義の味方づらをして手を差し伸べてくる。
それがどれだけ鬱陶しいことか。
たまには出し抜いて地団駄くらい踏ませてやりたいじゃない?
「別にあなたの妨害をしたいわけではないけれど、こちらの仕事の都合上、あなたにこの大会の優勝賞品を渡すわけにはいかないわ」
『……敵対宣言ってわけね』
「ええそう。また楽しみましょう」
副官であるバロンという雄猫(これも彼女の劣化コピーではある)が耳打ちで、まるの通信を遮断する準備ができたことを伝えてきた。
ラスターは頷くと、再びイスに深く座ると、にやにや笑いながら3Dキャプチャカメラに手を振った。
「では、いずれ相まみえる時まで」
そう言い残すと回線を切った。
「ワープシェル展開、攪乱ワープ。あの女の顔はしばらく見たくないわ」
「はっ」
彼女の顔からは通信で見せた余裕の笑みは消え、苦虫を噛み潰したような表情だけが残っていた。
§
「ログを追いかける?」
「ああ、そうだ」
「誰がどこにログを残しているっていうんだよ。彼は別にコンピュータが作り出した疑似人格でも何でもないことは明白になったばかりだろ?」
『誰もコンピュータのログを追いかけるとかいう話をしているわけじゃない。僕のライフログを追いかけるって話だよ』
「君……阿於芽のライフログ?」
『そもそも、この時間線の初期段階では、僕は単に老衰して死ぬだけの猫だったはずなんだ』
そう、まるが知性化される元を作った事故を追って、知性化されたオセロットヤマネコのピンインが時間線を遡って干渉するまでは。
『僕は元の時間線ではありえないくらいに長生きして、その結果、羽賀氏と接触して、彼の半身の感染を受けた。だから今の僕は生まれたんだ』
うろうろと歩き回る黒猫は突然人のように立ち上がると、指をパチンと鳴らした。もちろん普通の猫にそんな真似は出来ない。
たぶん本物の阿於芽の体でも結構難しいだろう。
彼は立体映像で投影されるバーチャルな肉体で遊ぶすべを身に着けつつあった。
『もしかしたら……僕にとりついた羽賀氏の一部ってのには知性があった?』
「それは自分で否定していなかったか? 一度も接触には成功していないんだろう?」
『ああ、僕は僕の半身との交流を幾度となく試みたが、すべて失敗した。僕の半身には羽賀氏の半身のような心は存在しないって思っていた』
そう言いながら、黒猫は困惑して座り込んでいる謎の男のそばまで歩み寄った。
『そこに現れたのが君だ』
黒猫は体をそれとなく接触させながら、男の周りをくねくねと歩き回る。
『君は一体いつから存在していた?』
男は天を仰ぎながら考えた。
自分がいつから存在したか、そんなことに答えられる人間はそう多くない。
幼少期の記憶がある人だって、自分が存在を始めたときの記憶なんてそうそう持っているものではない。
なぜなら大脳や体の感覚器官が発達しておらず、記憶と呼べる形のデータを保持していないからだ。
もし存在していたらそれは外挿的に入力された記憶、例えば前世の記憶とかだろう。
「思い出せません……」
興味深そうにキラキラ目を輝かせながら、黒猫はさらに男を注視した。
『異世界転生してきた主人公さん、なんて話は無いわな。脈絡が無さすぎる』
はあ。
男は正直「そういうものでもアリなんじゃないか」とか、考えていた。
彼を取り巻く状況は突飛過ぎていて、どんな無茶でも通りそうだ。
『よっし、じゃあ根競べだ。君の耐性試験を行う』
黒猫はそう言うと、指をぱちんと鳴らした。器用なものだ。
阿於芽の合図で、ウイッ、ウイッとサーボの動作音を立てながら、台車に乗った巨大な水槽のようなものが登場してきた。ご丁寧に階段付きだ。
「さて、ここに用意したのは吸入可能な高濃度酸素水だ。中には探査用のナノマシンがたっぷり仕込んである。この中に入ってもらえるかな?」
「わかりました、もう何でもOKです」
そういいながら水槽に取り付けられた階段に向かっていくと、そろそろと昇って行った。
水槽に入る前に阿於芽をじっと見て、一言付け加える。
「……ただあの、お手柔らかにお願いします」
黒猫は答えず、ただニヤリと笑っただけだった。
やり取りを見ていた秋風は腰に両手を当ててため息をついた。
「彼を水槽に入れるのと、君のライフログと、何の関係があるんだよ」
『ちっちっち、秋風君。急いてはいけない』
黒猫は無理やり後足で立つとくるりと回転したが、よろけて倒れた。ホログラフ的な体でも、重力や関節のシミュレーションは有効なようだ。
『あたた、カッコつけもうまくいかないなんて……とにかくだね、彼の入った水槽の水には大量のナノマシンが入ってる。こいつはネットワークで、恐らくは僕のライフログを蓄積したプロセッサ、つまりはあのデカ物につながっているんだ』
とととっと水槽の階段を上り、水面をつつく。
男性は中で目を白黒させている。
『おーい、さっきも言ったけどこの水は呼吸できる。思い切って吸い込みたまえ』
水中の男は阿於芽に向かってうなずくと、目をつぶり、それから意を決したように水を吸い込んだ。
すぐにゲボガボと激しく咳き込んだが、しばらくすると落ち着いたようだ。
『よっし、肺に酸素水が満ちたようだ』
黒猫は舌なめずりをする。
『さて、この水に含まれるナノマシンは何をするものか。通常の計測機器では不可能な方法で、体表のあらゆる開口部から体内に侵入して、この男の体の中にあると想定される僕の痕跡を探すんだ。それこそ全身くまなくね』
秋風は難色を示す。
「だがその手の試みは失敗してるじゃないか」
『何もわかっちゃいないな君は……いいかい、外に出ている僕と何らかの接点がある、ということは完全な防壁は作れないって事なんだ』
「君が最初にまる船長と対峙した時、同じようなこと考えて失敗してなかったか?」
阿於芽は一瞬「うっ」という嫌そうな顔をした。彼が最初にまると対峙した事件である。結果的にまる、羽賀氏、知性化されたヤマネコのピンインの3人に加え、一時期阿於芽の飼い主だった土岐氏が参戦したことで阿於芽は敗北を認めて一時ピンインの傘下に入ったのだ。秋風自身はこの件に関わってはいないので、たぶん記録を読んだか何かしたのだろう。
『あ~……、あれはほら、女の子には譲らないといけないじゃない?』
なんだかんだと言いつつ手は動かしている阿於芽は、手ごたえを感じたようだ。
『お、きたきた。やっぱり開口部か。彼の耳の穴から接続可能だ、脳に侵入するよ』
なんとなく胡麻化されているような気もしないではなかったが、秋風も阿於芽の補佐で作業に入った。
「オーケイ、彼の身体からの信号接続確認」
『サンキュー秋風。よしモニタリング開始。大体はノイズだねえ……脳波みたいなものは検知されない……いや、これはなんだ』
「ホログラフ情報っぽいなぁ、大脳スキャン時の情報に近そうだ。復号を試みてみる」
『よし、じゃあ僕は僕のライフログとの照合準備だ』
息の合ったテンポで二人は男からサルベージした情報の解析作業を進めていく。
『捉えたぞ』
阿於芽は舌なめずりした。ギラギラした目で真っ黒な顔に赤い舌がチロチロする様は本気で邪悪な顔である。だが、その顔は徐々に驚愕に歪む。
『なんてこった』
阿於芽は男性の入った水槽を見た。水槽の中の水がまるで沸騰するような動きを始めている。水はやがて生き物のように動き出すと、男性を包んだまま水槽から持ち上がり始めた。
「やばいやばいやばいやばいやばいやばい、やつの正体はとんでもないものだ、秋風、ここを封鎖しろ、逃げるぞ」
「よく分からんがわかった!」
ただならない黒猫の様子に、トドのような体形の秋風が疾風のように動いた。コンソールから封鎖を指示すると、黒猫を小脇に抱えようとして我に返った。
「阿於芽、お前はどうやって逃げるんだよ!」
『僕? 僕が逃げられるわけないじゃないか。僕の体はあの渦の中心にあるんだから。秋風は奥さんだってできるんだから、こんなのに巻き込まれちゃいけない』
封鎖指令で実験室との間の隔壁が動作を始めている。秋風の目はきょろきょろと動いて解決策を探した。件の男はもう周囲の水を球形にして空中に浮遊している状態だった。
「一体全体これは何が起きているんだ」
『どうだっていいから、秋風はさっさと退避しろ!』
出入り口と阿於芽と謎の男を順々に超高速で目を動かして見比べていた秋風は、目を閉じて、ふ―――っとため息をついてから、何やらぶつぶつと言い始めた。
「阿於芽……猫神様の名前を貰っているけれど、お前は貧乏神、いや疫病神か。貧乏は俺が引いたクジだ。覚悟は出来てる。そうだ落ち着け、落ち着け、どうすれば良いかなんてとっくに分かってるんだ……」
『秋風!』
「ラボの制御室コンテナに入ってロックする。あそこなら少々のことは耐えられる!」
秋風はそう叫びながら、毅然とした態度で実験室の片隅にある制御室の機器とそのコンソールを収めたコンテナの中に入り、フォースフィールドによる障壁を張り巡らした。
『秋風! 奴のほとんどは恐らく、僕の中にいた上位階梯のエイリアンだ。しかも今はどう見ても正気じゃない。そんなちゃちなフォースフィールドじゃもたない!』
「なら秘蔵のこれだ!」
フォースフィールドが見る間に黒褐色に変わる。それは〈コピ・ルアック〉の戦闘時外装にも使われている強固なフォースフィールド、通称「焙煎豆フィールド」である。
『相手はあの魑魅魍魎たちと同じ、いや、理性が無い分もっとひどい。時空構造ごとぶっ壊される可能性だってあるんだ』
「だったらどのみち、ここから光年オーダーで離れてもあんまり意味ないんじゃないか?」
二人が言い争っている間も、かの男と周辺のナノマシンを含んだ水は激しく動いている。そして、あやしく光りながら徐々に渦を形成し始めていた。
「これで〈上喜撰〉ぶっ壊したら、まる船長から大目玉じゃすまないな」
阿於芽も必死で現状を考えていた。
「ところで阿於芽、あいつがヤバいのは分かるが、解析で何を見たんだ?」
『あいつが暴走を始める直前に捉えたホログラフ情報を見てみろよ』
「そんなので簡単に分かるなら苦労ないんじゃないか? パターン青!とか言って敵を判別するような……」
ホログラフ情報は、ほぼ相手の正体を表していた。
次元ワーム。時空を糧として食い荒らすもの。かつてまるとそのクルーを別時間線の21世紀に閉じ込めて「喰おう」としていた存在。
「な、な、なんであれが映ってるのさ」
『例の戦いの終盤に僕が次元ワームを取り込んだだろ。その時に僕の中の上位階梯存在の中に、奴のわずかな欠片が入り込んで生き延びていたんだ』
阿於芽は、感情の薄れた声で言いながら、男だったものを凝視した。
そこには光る渦があり、どうやら男自身はその存在が消えてしまっていて、中にいた何者かが見え始めていた。
そして、そこには二つの存在が見えた。
不確定なゼリー、とでもいえばいいだろうか。そういうものの塊、次元ワームと思しき細長いものと、その中に黒くて丸まったもの。その黒い塊を見て阿於芽が叫んだ。
『あった、僕の体!』
「ああ、見つけた。でも、あんなとんでもない奴と一緒だぞ。どうする?」
『何とかして引きはがせれば、あとは僕の力であれを止められると思う』
「どう考えても不可能そうなことをさらりと言うなよ」
『そうかい? ここには僕と君がいるんだぜ?』
「……わかったわかった、黒猫船長様の言う通りにしましょうか」
二人とも軽口は叩いているけれど、声も表情も、全く軽くはなかった。
(続く)
現れたまるたちの仇敵ともいえる存在「次元ワーム」。
彼らはどうやってこの危機を乗り越えるのか!
次回をお楽しみに。




