第六準備 〜潜伏〜
その男はゆっくりとこちらに近づいてきた。
俺は不信感を抱く。
先ほど俺を拉致しようとした女。その仲間かもしれないからだ。しかし、この男は顔を隠そうとはしていない。
細く鋭く鍛えられた筋肉が、服の上からでも分かった。どこまででも痛めつけ、膨張することを止めた筋肉は小さくまとまり、強靭な肉体へと変化させている。
髪の毛は短く切られており、中性的な顔立ちからは女性らしさも窺えた。
否、下へ目線をずらすと、明らかに胸筋ではない小山が二つ。
「おっぱい」
小山の正体を思わず口走ってしまった。少し小さいけれど、脂肪が筋肉に変わっているだけだと思えばたいしたことはない。
目がキラリと光る。
「な、なぬ? お前はロクではなくおっぱいなのか?」
聞き覚えのある名前が彼女の口から飛び出した。俺の名前はロクで間違いないらしい。
しかし、俺はそんな不埒な名前じゃないですよー。
喉が潰れているのかハスキーボイスで低音な、女性の声が発するそのフレーズはなんと言い難し耳の安らぎであることか。ああ、なんかやべぇ。
しかし、俺の名前は卑猥ではない。それは頭だけだ。
「おっ…ぱいじゃない。けど俺は自分の名前が分からん」
不思議そうに首を傾げ、顎に手を当てる。
そして唐突に、
「君はロクで間違いない。私の目は正しい」
ふんと自慢げに言ってのけた。
「お前は誰なんだ? さっき俺を襲った奴らの仲間か?」
「はっ、そうならば私は今にでもお前を攫ってる。
奴らがこんなにも悠長に喋るわけなかろう」
「は、はぁ」
「私は13、“イーサン”だ。よろしく」
「名前を変えてもいいのか?」
「構わん。番号を変えるのは生き恥だから誰もせんが、なにせ桁が多い輩もいるからな。読み方ぐらいは変えても罰は当たるまい」
だそうだ。ならば俺も格好良く改名しようかな。
……ロクが一番かっこいいか。
「俺になんのようだ? なんで俺が攫われそうになったことを知ってる?」
おい、目が泳いでるぞ。バタフライ泳法でばっしゃばっしゃと泳いでるぞ。
「と、通りすがりの……筋肉が落ちて……屋根で見物……じゃなくてお昼寝してたら……男女が二、三人おって……」
「嘘をつくなら上手につけよ」
彼女はむっと顔を歪めた。女の子らしい表情にぐっとクるものがあるが、首から下の筋肉が台無しにしている。
なんだよ通りすがりの筋肉て。しかも落ちたのかよ。幼稚園児の絵日記か。
「お前、性格最低だな。彼女できねーぞバカ」
小さな記憶の棘が揺れて心の傷が抉られる。愛想笑いで誤魔化していると、彼女は負けたと言わんばかりに口を割った。
「ハチの家を監視していたら奴らが現れてな、見ておったら一人が屋根を破壊して侵入していくからその他の奴らを無力化していたんだ。そしたらお前がワイヤーで上がってきてどこかへ行ってしまうから……」
ということらしい。
それであの女以外に誰もいなかったのか。
「それで、俺に何のようだ?」
俺は彼女に問う。彼女は楽しそうにけたりけたりと笑う。
「君に頼みたいものがあるんだ。
ハチを殺す手伝いをしてほしい」
彼女の願いは唐突だった。
しかし、それほどの衝撃を感じない。
記憶を取り戻したばかりで、混乱し切ってあたのだから。これ以上驚くことがあるのか。
「なんだ?あいつに恨みでもあんのか?」
「ある」
「お、おう…そうか」
はっきりというイーサンに戸惑いを感じた。脳筋には敵わない。
「一応言うがこれは取引だ。さっきお前を狙う輩がいただろう?あいつらからお前を助けてやる。その代わりにお前は私を手伝え」
「あいつらってなんなんだ?」
よく出てくるワードにそろそろ好奇心を抑えきれなかった。
「黒の街の武力集団だ。スラム上がりが多いから手段が手荒い。奴らも王を狙っておってな、ハチたちと敵対してる。三つ巴だな」
「何この世界、恐ろしい」
とりあえず、だ。お前を助けてやる。追ってはすぐそこだ。
言って彼女は俺の後ろに手をかざした。すると背後から悲鳴が聞こえる。みると炎で萌える人影が目に映る。
「大丈夫だ、しにゃせん」
そして俺の手を引き、ある場所へと誘導した。
俺の逃走劇が幕を開けた。




