茶室のミュゲ
うだるような夏の日差しが照り付ける日、校舎から少々奥まったところにある茶室に鳥居はなはいた。
コバルトブルーの襟のセーラーではなく、白い半そでのYシャツに黒のパンツとカフェエプロン姿は鳥居生花店のユニホームだ。夏休みなので本格的に仕事中というわけである。大きく「茶室1」と書かれた台車にはヒマワリだけでも4種類、ユリや菊の仲間などの定番に、花々を引き立てる葉物など大ぶりのバケツが辛うじて4つ乗っている。
「おつかれさまです、鳥居生花店です!配達にきました!」
勝手知ったる茶室、それも自身が部長を務める華道部宛の配達だが、仕事は仕事。部活は部活。家業とは言え時給750円を頂戴している以上はきっちり働くべきだと思っている。
「…はぁい!」
少し間が空いて奥の方から返事がある。予想通り、スズランだ。恐らくこの声は寝起きだと思われる。
「トリお疲れさまぁ…」
案の定だ。若干セキュリティに問題のあるアナベルは2,3年に1度不審者騒ぎが起きる。あまり目につかない茶室だからこそ鍵を開けたままの昼寝は感心しない。
「蘭、頼むから鍵開けっ放しで昼寝しないで。不用心だよ」
「ごめん、気づいたら寝ちゃってて…ね、許して」
ため息を吐く私の肩に、スズラン――鈴谷蘭は腕を回し、首元に鼻を寄せた。花を運んできた後に遭遇すると、いつもこれだ。私はこの行為を「捕食」と心の内で呼んでいる。自身に纏わりつく花々の香りがスズランの類稀な嗅覚によって暴かれる。食虫植物に捕えられた羽虫はきっと今の自分と同じ気持ちに違いない。脳の奥の方から、バラの棘で作った腕の傷から、チリチリと焼ける痛みを伴って溶けていく。
「ユリ、それから…ピンポンマム?ガーベラ、グリーンもある?」
「だいたい当たり、ヒマワリもいくつか持ってきたよ」
「やったぁ」
「ほら離れて。人に見られたら誤解されるから」
「私は別に良いけど…」
「あのねぇ」
「いっそ噂が立ったらトリを独り占めできるのかなぁ」
頭の中で「聞こえない聞こえない」と唱えながら、スズランの言うことを聞き流す。毒の接種は致死量ギリギリでやめなければ馬鹿だ。死んでしまっては意味がない。
急に涼しい風が玄関に吹き込んだ。
「お茶、飲んでいって」
「あらどーも」
普段は茶室の中で回している扇風機と、氷柱と呼んでいるお盆に乗せた凍らせたペットボトルをスズランが玄関側に向けた。靴を脱いで茶室に上がってのんびり出来ないのを知っている彼女のねぎらいだ。
この毒は私を殺さない。溺れる直前で自ら離れることを繰り返し、少しずつ溺れる時間を延ばしていく。私も出来てしまった耐性にすがり、徐々に溺れることを望むようになった。まるでいつだったかの保健体育で習った麻薬だ。欲しくて仕方がないのを、なけなしの理性で抑え込む。欲しいのは毒なのかスズランなのか。
「茶道部さんがこの間のお稽古で持ち寄ったお菓子が余ったからっておすそ分けしてくれたの」
茶室を使う部で管理している連絡帳を彼女は渡してきた。玄関に腰かけて読み進めると、相変わらず内容は茶道部のお菓子の配給、華道部の害虫駆除報告、筝曲部のお掃除当番の連絡といったところだった。
「はい、良く冷えた加賀棒茶と鳩サブレー」
そう言うとトレイを挟んでスズランも隣に座った。空のコップにピッチャーからお茶が注がれていく。この毒は普段は謙虚で気の利いた子だ。いまどき珍しいのではないかと思う。生徒会との兼任で不在がちな部長に代わり、副部長の彼女は部費の回収、部員の人間関係、雑用などを一手に引き受けてくれている。業者であり、華道部員でもある私がやった方が手っ取り早い請求書と領収書の管理はさすがに自分がしているが、少々申し訳ない気持ちになる。
「ありがと、いろいろ」
「いろいろって何が」
「いろいろ」
「何それ」
「わけわかんない」といった顔でスズランは笑った。
「スズラン」
「え?」
「鈴谷蘭だからスズラン、調香師にぴったりな名前だね」
「花言葉は…純粋とか純愛だっけ?私そういうキャラじゃないよ」
「んー、幸福の再来ってのもある」
「さすがフローリスト。けどやっぱり違う」
「いや、蘭はスズランだよ」
「なんで?」
スズランが軽く寄りかかってくる。間にピッチャーが置かれていたおかげで、いや、置かれていたせいで本当に軽く。
「ねぇ、なんで?」
綺麗に伸ばした黒髪は手入れが行き届いているから滅多に絡まないだろう。しかし、意思を持った蔦のように自分を絡め取るのではないかという錯覚に陥った。それも良いかもしれない。毒に溺れて浮き上がれなくなれば、私はずっと官能に浸っていられる。
「お茶、ごちそうさま」
寄りかかる彼女を押し返し、腰を上げる。明らかに顔に「つまんないの」と書いてあるが、今は気が付かないふりだ。配送の途中であまり油を売るのは良くない。お茶を飲み干したコップをトレイに返し、食べ損ねた鳩サブレ―をエプロンのポケットに入れた。用務室に配達へいった母も店の車に戻ってくるころだ。
「また学校でね」
ガラガラと音を立てて引き戸が閉められた。
「トリの馬鹿」
鈴谷がポツリと呟いて、サブレーを頭から食べた。鳩への八つ当たりだ。
この学校の敷地には紫陽花が多く植わっている。校名のアナベルも紫陽花の品種の一つだ。いつぞやのOGが卒業記念に校名にちなんで植えたのがきっかけで、今では毎年高等部の卒業式の前日に植樹することになっている。いつか校内が紫陽花で埋め尽くされるかもしれない。蕾から咲きはじめは瑞々しい緑、7月ごろになるとオフホワイト、そして8月の今はライムグリーン、咲きはじめより少しカサついた色になる。見ごろはもちろん花らしいオフホワイトの頃なのだが、個人的にはこの時期の色が好きだ。これから秋の花の入荷が始まるとか、部で使う花器の入れ替え、文化祭の展示、クリスマス…考え事をするときに落ち着く色。
うっかり鈴谷にスズランだと告げてしまった。スズラン、鈴蘭、君影草、谷間の姫百合。フランス語でmuguet、ジャスミンやバラと並ぶ三大香料。可憐な白い花に花言葉と和名がよく似合う。そしてその見た目からは想像もつかない強い毒は眩暈、嘔吐、心不全などを起こさせ、最悪の場合人を死に至らせる。私はその毒の虜だ。
毒のせいか昔…といっても小学生のころの記憶が思い出された。麻子ほどではないが、女子にしては背が高い自分は既に高学年の頃には165㎝を超えていた。「はな」という女の子らしい名前と身長、ボーイッシュな見た目のギャップに加え、あまり喋ることが得意でなかった当時、私はいじめの格好のターゲットだった。今思えば小学生男子のからかいだが、あの時の怒りのおかげで私はアナベルにいる。幸い、母も卒業生だったことと、店の出入りがあったために面接はほぼ雑談だった。受験理由を問われて素直に答えると、後の担任が笑うでもがっかりするでもなく、「ようこそ」と言ったのを覚えている。
「あ、サブレー」
ポケットに入れた鳩のことを思い出す。あまり行儀は良くないが、少々急いでいるので歩きながら食べる。同じトリ同士、鳩サブレ―やヒヨコ饅頭など、いつもどこから食べたものかと迷う。最近は開封して一番上に来た部分からと決めているが、頭から食べるのは少々抵抗がある。これが生徒会室だと気づいたらすみれに食べられていたり、ねだられたりしている。迷った末に、尻尾から一口かじると香ばしい香りとバターが口の中に広がった。正統派な味だ。
夏休みも残り2週間で終わる。明日は家の近い優輝と宿題をこなし、明々後日は麻子と買い物の約束、週末は文化祭の予算会議で、その間に家の仕事。あっという間だろう。怒涛のクリスマスシーズンを終えればすぐに正月、卒業式に生徒会の引き継ぎ、入学式。気づいたら卒業が目の前に迫ってきそうな勢いだ。家業を引き継ぐ予定とは言え、今のご時世何があるか分からない。花屋を手伝いながらアナベルの付属大学へ通うか4年間限定で上京するのか、まだ自分の中で決まっていない。特に仲の良い友人3人が自分の進む道を決めている中、何も決まっていない自分に焦らずにはいられなかった。
スズランはどうするのだろうか。調香師、つまり香水を作る職人を目指していることは知っているが、そのための進路について自分は全く知らない。大学を卒業してそのような職種へ就職するのか、専門学校があるのか、海外へ勉強へ行くのか。自分の進路も決まっていないのに人の進路を思い巡らす自分の悠長さに少々呆れた。
一向にかげる気配のない太陽は、耽溺する私を軽蔑しているようだった。