12 ―高貴な後押し―
結局、開会式に間に合わなかったか……
私は両肩に食い込んでいる荷物を降ろすと、つられるように園舎の踊り場に腰を落とした。
とりあえず一息つこう。
目の前に広がるグラウンドでは、ちょうど年少組のお遊戯が始まるところだった。
スピーカーからは何年か前に流行ったアニメ映画の主題歌のイントロが流れ始めた。
園児たちは所々にラメの入った光沢のあるゆったりとしたポンチョを着込み、その魚を模した衣装を曲のリズムに合わせて上下に揺らしている。
たしか数年前に家族でこの映画を見に行ったっけ。
あれ? 結局この主役の女の子は人間になれたんだっけ?
あぁ、私はあの時、途中で居眠りしてしまってラストを見逃したんだっけな。
映画の後に入ったファミリーレストランで私だけ話題に付いていけなくて内心焦っていたっけな。
ふう。
顔を上げて軽く息を吐き、ズボンのポケットから運動会のプログラムを取り出した。
ちーちゃんたち年長組の出番はもう少し先になるな。
開会式に間に合わなかったのなら、もう少し家でゆっくりしてきたらよかった。
まあ、逃げるように家を出てきた私がよく言ったものだが。
開会式の様子は撮れなかったが、次こそはキッチリと仕事しなければ。
あの場所を確保できていれば撮影については全く問題は無かったのだが…… 今となっては年長組の出し物の前に予めカメラマンエリアに並んでおかなくてはいけないな。もう、最前列で撮影できる場所はそこしかないわけだし。
せめて、それくらいはしないとな。
エルドラドが取れなかったのなら、他の事で喜んでもらうしかない。
この日のために新しく購入したデジタル一眼カメラと、三脚と集音マイクを追加で購入したホームビデオ。
これでなんとか、ちーちゃんに認めてもらおう。
今の私に出来るのはこのくらいだ。
これだけ、なんだな……
「はぁぁ……」
私の体全体から周囲の空気をも巻き込んで加重するかのような不快な深い溜息と雰囲気が滲み漏れた。
イカン。しっかりしなくてはいけないのに気力が下がりっぱなしだ。
こんな有様ではとてもじゃないが、娘を喜ばせることなんて出来はしない。
しかし気持ちは焦れど、心の最下層に沈みこんで鎮火寸前の情熱は一向に浮上する気配を見せなかった。
……私には無理なのだろうか
「失礼ですが、年長組のちーちゃんのお父様でいらっしゃいますか?」
不意に透明感のある声が耳に届いた。私は地面に落としていた目線を声の元に向けると、目の前にはひとりの若い女の子が立っていた。彼女は私に笑顔を向けながら丁寧に会釈した。
……誰だったかな? ちーちゃんの友達のお姉さんかとか?
私はもう一度彼女の姿を確認した。
ベージュのワンピースに身を包んでいる彼女は、両の掌を体の前で軽く重ね、ピンと背筋を伸ばして優雅に微笑んでいる。彼女の胸元のフリルや部分的に使用されているレースは控えめな主張で、彼女を品良く彩っている。
秋の緩やかな日差しの中、優しい風を受けて凛と佇む彼女は、返事のない私に「あの……?」と再び声を掛けた。
「あ! 失礼しました。は、はい。私が父親ですが…… あなたは?」
どこか高貴さを感じさせる不思議な雰囲気に見とれてしまっていた。慌てて返事を返しはしたものの、あきらかに挙動不審な返事になってしまった。
彼女は少し戸惑った様子を見せた後、再び柔らかい笑顔で私に言った。
「失礼致しました。先程の開会式にてご挨拶させていただきました、当園の園長を勤めさせていただいております『藤 多華子』と申します」
そうか。園長先生か。
なるほど…… って、おい!
園長先生だって?
そんな馬鹿な。見たところ大学生、いや、落ち着いた雰囲気からそう見えなくもないが、よくよく見るとまだ高校生くらいではないのか?
それで園長ってどういうことだ?
馬鹿のように口を開けて固まっている私を見て彼女が首をかしげた。
「失礼ですが、ひょっとすると開会式にはいらっしゃらなかったでしょうか?」
「あ、は、はい。そのとおりです。実は先程到着したばかりでして開会式には間に合わなかったのです……」
彼女は微笑みながら、なるほどと小さく頷いた。
「やはりそうでしたか。わたくしが先程の開会式の壇上にてご挨拶させていただいた際も、保護者の皆様が同じような顔をしてらっしゃいました」
そのときの様子を思い出したのか、彼女はくすりと小さく微笑んだ。
「わたくしは本年度から当園の園長に就任させて頂いておりましたが、こうして保護者の皆様の前で直接ご挨拶させて頂いたのは今日が初めてのことでした。そのため皆様を少し驚かせてしまったようです」
……い、いや、待て。ひょっとすると物凄く童顔な人なのかもしれない。
ものすごく聞きづらいが、どうしても聞いておきたい。
話はそれからだ。
「あ、あの。女性の方にこのような質問は無作法とは思いますが…… 大変失礼ですが今、おいくつですか?」
「はい。今年で十七となります。とある高校に在籍しております」
彼女は全く気にする素振りも無く、とても気になる発言をした。
『ナンデヤネン!!』
とりあえずこれだけは最初に言っておきたかった。
出来ることなら二重括弧ではなく、一重括弧で叫びたかったくらいだ。
女子高生で園長先生? 一体どういうことだ。
本年度から若い園長に代わったということは聞いていたが、それがさすがに女子高生とは聞いていなかったぞ。多分、保護者の多くは知らなかったんじゃないのか……
「実は先代の園長はわたしくの祖母なのです。ある事情で急遽わたくしが今年から園長となりましたが、祖母は理事長として今も実質当園の運営と管理をさせていただいております」
私の動揺を察したのか、彼女は簡単な説明を入れてくれた。
背景は判明したが、その『女子高生が』の部分がどうにも理解できない。
彼女は少し悪戯っぽい微笑みを浮かべて、胸の辺りに掛かるダークブラウンの緩く巻いてある髪の先を触りながら、こちらの表情を伺っている。
気のせいか、私のことをマジマジと観察しているような気がする。
私の反応を見て面白がっているのだろうか。
それ以外に私に他人の興味を引くような個性に心当たりは無いしな。
ところで、この女子高生園長先生は私に何か用事があるのだろうか?
あまり見られているのも何か照れるものがあるので思い切ってこちらから切り出した。
「と、ところで私に何かご用でしたか?」
「あっ、これは大変失礼しました」
彼女はその小さく美しい右手を口元に当てると、気がついたように用件を切り出した。
「実は先程の園舎裏での件で、是非とも直接にお礼を申し上げさせていただきたくてお呼び止めしてしまいました」
あのタバコの一件のことか。
おそらく現場にいた保母さんから事情を聞いたのだろう。
「先程は誠にありがとうございました。当園の園長として感謝の言葉を申し上げさせていただきます」
彼女は体の前で手を重ね、深く丁寧にお辞儀しながら続けた。
「本来なら我々、園関係者が対応しなければいけないところを、その危険も顧みず、身を挺して消火していただいたことを聞き、その行動と勇気に深くお礼申し上げます」
私はその行動に至るまでの自分の行動を知っている。
知っているからこそ、それを素直に受け取れない。
「い、いえ。大したことではありませんから頭を上げてください」
その後も丁寧に繰り返される感謝の言葉の数々に、私はすっかり恐縮してしまった。
幸い誰も怪我人が出なかったそうだし何よりだ。
強いて言うなら弱高級レジャーシートが大火傷したくらいだ。
すると彼女は、『そうそう』と手を合わせて何かを思い出したように振り向いた。
「高橋さん、例の物を頂けますか?」
彼女の振り向いた先には、タキシードを着込んだ初老の男性が控えていた。
『高橋』と呼ばれた初老の男性はスマートな動作で手に持っていたケースから綺麗に折りたたまれた緑のシートを取り出すと、『どうぞ』とそれを彼女に手渡し、一歩後ろに下がって静かに目を伏せた。
え? あなたはいつから其処に居たんだ? まったく気がつかなかったぞ……
ところでその『いかにも』な『いでたち』は、もしかしてあなたは『執事さん』?
メディアなんかで存在は知っていたが生で見たのは初めてだ。てっきり空想上の生き物かと思っていた。
しかし、その『生執事』を従えているということは、彼女は正真正銘、本物のお嬢様ということか。これも初めて見た。あとで二人にサインでも貰っておくべきなのだろうか?
『お嬢様女子高生園長先生』と肩書きが広かる一方の彼女は、ゆっくり私に歩み寄ると、その緑のシートを差し出しながら言った。
「差し出がましいとは思いましたが、消火の際にお手持ちのシートを破損してしまわれたと伺っております。本日は当園に保管されていたこのような物しかご用意できませんでしたが、後日改めて同じ物をこちらでご用意させていただきたいと存じますので、本日のところは何卒こちらのシートでご了承いただけませんでしょうか?」
「え…… あ、気になさらないでください。家に戻った際に替わりのシートを持参してきましたのでご心配には及びません。それにシートはもう……」
そう言うと私は、一時間ほど前には淡い緑で覆われていた聖地に目をやった。
その幻影は今はもう、青々と広がるシートにその面影すら掻き消されていた。
事情を知ってか知らずかはわからないが、彼女は聖地に目をやると少し悲しそうな目をして俯いてしまった。
そして何かを決心したように、うん。と呟くと、笑顔を上げて予想外の発言をした。
「わたしく、実は今日、ちーちゃんのお父様にお会いすることを非常に楽しみにしていたんです」
「え? 私に、ですか?」
驚いた。まったく心当たりがない。
ちーちゃんが自分の父親のことを何か面白おかしく話していたのだろうか。
「園の子供達はみんないい子です。わたくしはあの子達のことが大好きなんです。ですが恥ずかしながら正直に申しますと、決して最初からそのように思えていたわけではないのです……」
次第に語尾が小さくなってしまった彼女は、少しだけ言い辛そうに続けた。
「わたくしが今の気持ちに気がつくことができたのは、ちーちゃんのお陰なんです」
「ちーちゃんのお陰?」
「はい。わたくしはちーちゃんに助けてもらったのです。わたくしのほうが大人なのに、おかしいですよね」
彼女は俯いて顔を少しだけ赤くしてモジモジしてしまった。
ちーちゃんが助けたというのはどういうことなんだろうか。とても気になるんだが、彼女を見る限りとても恥ずかしそうにしているので聞きづらいな。こちらから詳しく聞くことはやめておくか。
ものすごく気になるけど……
「あまり大きな声では、いえ、立場的にこのような発言は決して許されないのですが……」
彼女は少しだけ周りを確認すると、すぅはぁと小さく深呼吸をした。
「――わたくし、ちーちゃんのファンなんです! 大好きなんですっ!!」
『お、お嬢様っ』と高橋さんが思わず声を掛けたが園長先生は右手を伸ばして彼の制止を拒んだ。
危うく私も釣られて『お嬢様!? 一体何を』と言いそうになってしまった。
「ちーちゃんは可愛くて優しくてとても真面目で思いやりがあって、それでいて芯の強い子なんですっ!」
彼女は顔をうっすらと紅くして身振りも添えながら、どれだけちーちゃんがすごいかということを熱く語り始めた。
もしかしたら、ちーちゃんにとっては無意識な出来事だったのかもしれないが、きっと彼女にとっては、その時のちーちゃんの行動が本当に嬉しかったんだろう。
そしてそれは彼女の救いになったのだろう。
それは必死にそのことを説明しようとしている彼女から十分に感じ取ることができた。
だが、その熱心に過ぎる姿は先程のおしとやかなイメージを少し壊してしまっていたが……
彼女はちーちゃんの素晴らしさを|一頻≪ひとしき≫りプレゼンし終わると、不意にその表情をみるみる曇らせていった。
「……そんな彼女が、最近少し元気が無いことを、ご存知ですか?」
その言葉は私の心に鈍い痛みを与えた。
えっ? ちーちゃんは幼稚園でも元気が無かったのか…… そんなことすら知らなかったとは……
「……心当たりがおありですか?」
彼女の言葉が一層深いところに突き刺さる。
私がダメなばかりに娘につらい思いをさせている。
私は返す言葉が見つからずに、ただ、うな垂れていた。
「その…… ご家庭の事情に他人が口を出すなど、失礼を十分承知なのですが…… その……」
言い辛そうに、でもどうしても抑えることが出来ない気持ちが溢れ出て、彼女は私の目をまっすぐに見つめて言った。
「――ちーちゃんを元気づけてあげられますよね!? そのお気持ちはありますよね? 彼女の気持ちに応えてあげる勇気は持っていますよね?」
彼女は先程までの『おしとやかなお嬢様園長先生』ではなく、年相応のひとりの『高校生のお姉さん』となって真剣に私に確認していた。
私が元気づけてあげられるか? 今となっては自信がない……
その気持ちがあるか? 気持ちはある、つもりだ……
勇気はあるか? その勇気と情熱の全てを掛けたエルドラドは結局……
彼女の意を決した真摯なまでの問い掛けに対してすら、私は自分の今の感情の答えを出せずにいた。
どうにかしたいとは思っている。だが、うまくいかないのだ。だから自信がない。
私は口を結んだまま、その真剣な彼女の瞳から目を逸らしてしまった。
「――ハッキリしてくださいっ!!」
私の余りに煮え切らない態度に業を煮やした彼女は、私の目の前までツカツカと近づき、その感情を爆発させて私にぶつけてきた。
「お嬢様、多華子お嬢様。少々お声が大きいかと……」
私は彼女の剣幕にただ驚いて動けなかったが、さすがに執事さんは慌ててはいなかった。落ち着いた様子のまま興奮している多華子お嬢様に音も無く優雅に近づき、穏やかな口調で彼女をなだめに掛かった。
「高橋は黙っていてくださいっ!」
高橋さんは『申し訳ございません。お嬢様』と丁寧に頭を下げながら優雅に後方へスライドしていった。
高橋さん……
「あんなにいい子が居て何を躊躇っているのです! あんなにいい子が悩んでいるなんて、とても納得できません!! ――わたくしでは助けてあげられないんです。だから……」
その気持ちは最後まで言葉にすることはできず、彼女は唇を噛みながら俯いてしまった。
「わたしくはもう、あの子があんな顔をして涙を流しているところを見たくはないんです…… あの絵を前に、ずっと動かない手にクレヨンを握り締めて小さく震えている姿なんて……」
彼女の瞳には、今にも零れ落ちてしまいそうな涙が浮かんでいた。
この人は心からちーちゃんの心配をしてくれている。
本気で、真剣にちーちゃんのことを思って私にその気持ちを伝えているのだ。
それなのに私は、娘のために目に涙まで浮かべてくれている彼女を安心させてあげることができない。
情けない限りだ……
そんな私の心情を察したのか、彼女は顔を上げ、再び私の目をしっかりと見据えた。
「わたくし、実は拝見しておりました。朝の場所取り競争でのあなたを。そして園児達の衣装を守ってくれたあなたを。さすがちーちゃんのお父様と思いました。でもその後、あの場所失っていることに気がついて…… 開会式に姿が見えないことに不安を感じてしまったのです」
そうか。見ていたのか。
それで私が落ち込んでいるのではないかと心配になったんだな。
「わたくしは嬉しかったのです。競争の時、ちーちゃんのためにあれだけ必死にがんばっている姿を見て、やはりお父様はちーちゃんのことを真剣に考えているのだと解ったからです。園舎裏での騒動の際の行動をみて、決して勇気がない方ではないとわかったからです」
――それなのにっ!
「それなのに、あの場所がないと、ちーちゃんのことを喜ばせてあげる自信がありませんか? もう行動することを諦めているのですか!?」
彼女の瞳は強い光を帯びて私の目を覗き込んだ。
私は、私はどうなんだ……
いままで戒めてきた自己主張をエルドラドのために再び奮い立たせて今回の競争に望み、結果的にそれを得ることができなかった状況に、『ああ、やはりな』と納得していたと思う。
それが私が今まで生きてきた中で確認してきた『私』の『いつものこと』だ。
「えぇーもぉーー、じれったいですわねっ!」
お嬢様は私の煮え切らない態度に失望を通り越して怒りの感情を見せていた。
彼女は拳を握りワナワナと体を震わせながら、ひっそりと背後に忍び寄ろうとしていた高橋さんを目の気合だけで牽制した。
「もう諦めるのか、まだまだ頑張るつもりなのかハッキリしてっ!」
いつものことだ。もうどうしようもない。
どうしようもないのだが、なんとかしたい……
「が、頑張りたいと思っているのです。ただ、私にはその自信が、ないのです……」
彼女は今更何を言っているのだと思っているだろうか。
しかし、情けないことに『どうせまた』という考えが頭から離れないのだ。
「私には自信がない? でしたら今日一日、その目の穴をかっぽじってあなたの娘の姿をよく御覧なさいっ! あの子に有って、今のあなたに無い物がわかるはずよっ!」
この先生はいい先生だ。
ちょっと感情が出やすいところはあるけど、とても優しい人なんだろう。
素直にありがたい気持ちでいっぱいになる。
だが、目をかっぽじったら失明してしまうだろう……
怒られそうだから指摘はできないが。
「あなたの娘がしていることを。あなたの娘ができていることを。そしてその結果、あなたの娘が友達からどのように思われているのかをよく観察なさいっ!」
ちーちゃんを見ろ……? あの子から学べと言うことだろうか。
確かに。現にちーちゃんにはこれほど真剣に心配をしてくれる先生がいる。
それはきっと彼女の行動の結果なのだろう。
もしも私に無いものに気がついたとして、私にもそれを実行することができるのだろうか。こんな私にも……
「……それに、あなたは気がついていないのかもしれませんが、あなたの行動の成果はキチンと出ています」
彼女は演技を終えて入退場門に流れ込む年少組のチビ魚たちを指差した。
そのチビ魚達の衣装は秋の柔らかな陽光を微かに反射させ、園児達の可愛らしい動きにあわせてキラキラと輝いていた。
そのキラキラは、嬉しそうに走る園児達の笑顔を一層眩しく輝かせていた。
「あの衣装はあなたが守ってくれたものです。もしもあの時、あと少しでも消火が遅れていたら、あの衣装は恐らく……」
彼女は唇をキュッと結んで私を見つめた。彼女の黒水晶のような瞳は小さく揺れていて、やがてその綺麗な輪郭を溢れそうな涙によって歪ませた。
彼女はそれが流れ落ちる前に、俯きながら足早に私の横を通り過ぎていく。
私の背後で足を止めた彼女は小さな声で私を叱責して去っていった。
「ちーちゃんがあなたから一番欲しかったものは、本当にエルドラドだったの? ――もっと勇気を持ちなさい」




