父の失敗
「え、輿入れでございますか?」
「うんそう。陽毬ちゃん、おめでとう」
目を丸くした陽毬に、父は物憂げに告げた。
「どうしてまたそんな……私、まだ女学校の途中ですのに」
「うーん、それがなあ」
父は椅子から立ちあがると、赤と青の模様が入ったガラス戸の前に佇んだ。
時は大正。
富国強兵だの、殖産興業だのと世間は勢いづいていた時代。
だが、陽毬の実家である製糸・製布の老舗、『両口屋』は傾いていた。
品質の良さで知られ、取引の絶えなかった両口屋も、流行りに乗った機械化でつまづいたのが運の尽きだった。
故障続きの機械に、落ちてゆく品質。
残っていた職人も、昔ながらの取引先も去り、父、両口屋三之助に残ったのは借金ばかりだった。
そんな時期に来た縁談が、良縁であるはずがない。
ごくりと唾を飲み込むと、ぼんやりと口髭を弄んでいる父に尋ねた。
「それで、そのお相手とは?」
「……権藤家だ」
父は、目を伏せたまま続けた。
「権藤さま?」
陽毬があまり聞いたことのない苗字だった。
「成金一家の権藤家。その息子の『権藤宿禰』という男」
こほん。
空咳をひとつする。
「時世に乗り、急速に力をつけてきた家で、物産を営んでる。宿禰は二十六歳で……病気療養中だとか」
「成金で、ご病気……」
胸のあたりが、すっと冷えた。
「このお話、お母様は何と言ってらっしゃるの?」
「ああ、無論真紀江も承知しておるよ」
父は髭を引っ張って伸ばすと、あからさまに視線を逸らした。
「ただ、今日は少しその……調子を崩していてな、奥の部屋で寝込んでいる」
「あー」
誰より暇を案じる母にとっても、この縁談は、やはり受け入れ難いということか。
そんなもの、受けるわけにはいかない。
陽毬は机に身を乗り出した。
「あの、このお話、お断りしていただきたく――」
父は一度黙り込み、やがて重たい口を開いた。
「陽毬や。儂にとってお前は、齢四十にしてやっと授かったひとり娘。可愛くて仕方ない、目に入れても痛くないほどだ。だが」
父は、沈黙を一瞬だけ置いてから顔を上げた。
その目は妙に真剣だった。
「赦してくれ! 両口屋家の十六代目当主として、家を潰すわけにはいかんのだ。そのためにはどうしても、権藤家の融資が必要だ」
「ふうん」
つまりは、家を救うための担保というわけだ。
陽毬のつまらなそうな顔に気が付いたのか、父は急に瞳を潤ませた。
「た、頼む陽毬、両口屋家の未来を救うためと思って、この縁談を受けてくれ! どうか儂を助けてくれ」
父の目が〝見捨てないで〟と訴えていた。
「お父様」
人誑しの父らしい芝居と分かっていても、その焦りばかりは本物に見えた。
陽毬は、つい頷いてしまっていた。
「分かり……ました」
父の表情がぱっと輝く。
「陽毬!」
父は、両手を広げて駆け寄り、ぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう、ありがとう陽毬。ちゅっ」
「や、やめて下さいお父様! もう子どもではありませんっ」
——全く、狡い人。
家ではない、子としての情に訴えて。
それでも、あの焦りは本物なのだ。
ハンカチで額を拭き終えると、陽毬は深呼吸をひとつした。
「それで、お父様。お見合い写真や釣書は? 夫となるお方ですもの、お顔くらいは知りたいですわ」
「ん? あーっと……ない」
「〝ない〟ですって? ではお父様は私を、お顔も分からぬお方に嫁がせるのですか?」
キッと眉を上げる。
すると父は、気まずそうに視線を逃がした。
「それが、何でもご子息は、病気のせいでとても人前に出られない姿らしくてな……ぬはは。ん、どうした陽毬、大丈夫か?」
人前に出られないほどの姿とは、一体どれほどなのか。
考えただけで、足元がふらついた。
父は、うなだれた肩を励ますように叩いた。
「まあ、そう気を落とすな。実は、権藤君と秘密の約束交わしたのだ。もし陽毬が献身的に世話を尽くし、ご子息が病から回復した暁には――」
満面に笑みが広がった。
「この婚姻、なかったことにしてくれるそうだ!」
「え?」
縁談を、なかったことにする?
顔も知らぬ病身の男へ嫁げという。
しかも、治れば婚姻はなかったことにできる、などという妙な条件つきで。
怪しい。
おかしい。
きっと、碌でもない事だ。
でも。
――ほんの少し、見てみたい。
その好奇心を、陽毬はどうしても抑えきれなかった。




