第三話「血だまりの銀狼」
新米トレーナーが最初にしなければならないことは、一匹目の幻獣の馴致だ。
決してたやすいことではない。もちろん、どのトレーナーもアカデミーで馴致の訓練は積んでいる。そのための知識も身につけている。十分な能力は備えているはずだが、それでも、現実に、なかなか一匹目の幻獣を馴致できないまま月日を過ごしてしまうトレーナーは少なくない。
それだけ、幻獣と心を通わせ、たましいを重ねるのはむずかしいことなのである。
もっとも、幻獣を見つけることそのものはそこまで困難ではない。一般に〈コモンクラス〉と呼ばれる種類の幻獣は、この世界のそこかしこに暮らしている、あたりまえの生きものだからだ。
だから、問題は見つけてから先になる。どのようにしてその生きものと通じ合うか。そして、〈ソウルプリズム〉を使用するところまで持って行くか。
それは、規範はあっても、「正解」が存在しない領域だ。個人の感性と才能が問われる。
フレイアは、この三日、幻獣との出逢いを求めて、セレニウムの都を囲む大森林のなかをさまよっていた。
あえて廣野ではなく森を選んだのは、妖精や精霊といった魔法の存在と出会えるのではないかと期待したからだ。
そうでなくても、森には多数の幻獣が棲んでいる。森は、まだ人間の開拓や征服が完全には進み切っていない、闇と神秘を大いに残した領域なのだ。
ただ、そうはいっても、春先の森は必ずしも暗くはない。木漏れ日も差し込み、爽涼な風も吹く。それでも、決して歩きやすくはない土の上をあてもなくひたすら進むことは、精神と体力の双方にとってひとつの試練だった。
とはいえ、フレイアはわずかな痕跡から幻獣の跡をさぐるすべを身につけている。その日、彼女はいくつもの大きな足跡と、そして点々とつづく血痕を発見し、それをたどっていくことにした。
その偶然の発見が、自分をひとつの運命へと導くものであることも知らず。
血の跡は進むほどに多くなっていった。あるいは、自分はこの先に何らかの獣の死骸を発見するだけに終わるかもしれない。そう覚悟しつつ、追跡をつづける。
そうして、どれほど歩いたことだろう、彼女はついに一匹の獣がうずくまっているところを遠くから発見した。あいてには気づかれていないようだった。
途端、全身を緊張と戦慄がかけ抜けた。何百枚もの落ち葉の上に身体を丸めるようにして倒れているのは、一匹の美しい銀狼だった。
否――単なる狼にしては、その毛並みはあまりに美しすぎ、爛々と輝く赤い双眸は不吉に知性を宿しすぎている。
紛れもなく幻獣。それも、これは。
フレイアは、思わず生唾を飲みくだした。
フェンリル――!
それは、まさに百万にひとつの奇跡的な遭遇であった。
幻獣の捜索を始めてからわずか数日。それで〈レジェンドクラス〉に属する神話の魔狼と遭遇する。ありえることではない。
身体の大きさからして、まだごく若い個体ではあるだろう。だが、それにしても、信じられないことだった。
フェンリルはいつの日か世界を滅ぼすとも伝えられる最高位の幻獣の一種で、いかなる魔法の鎖をもってしても捕縛できないとされている。
当然ながら、食物連鎖の最上位に君臨しており、めったに傷つくこともない。そのはずだ。
ところが、いま、現実に、そのフェンリルは重い傷を負っているように見えた。その神秘的なまでに美麗な体躯の下には、大きな血だまりができている。
このままでは、さすがの神話の魔狼といえども、いのちが危ういだろう。
フレイアは決断を迷った。傷ついているとはいえ、フェンリルがその気になれば、彼女など一瞬でかみちぎることができる。そして、本来、このクラスの幻獣は当然、新米馴致師でしかない彼女などの手に負える生きものではない。
いまの彼女よりはるか上の階級、〈マスターレベル〉か〈グランドマスターレベル〉の能力がなければ、フェンリルを馴致することはできないだろう。
ギルドに登録してたった三日で〈レジェンドクラス〉を馴致したトレーナーなど、歴史上、存在するはずもない。
このまま、逃げ去るか。それとも、一命を賭して、その馴致を試みるか。それは、まさに運命的な選択の瞬間であった。
どうする? 彼女は自分自身に問いかけた。もし、フェンリルを捉え、馴致することができたら途方もない功績だ。とはいえ、それはまさに命がけの勝負となる。
何より、怖かった。功績も何もかも無視して、逃げ出したくてたまらなかった。あれほど必死に頭に詰め込んだ情報のすべてが吹き飛んでいた。それでは、いったい、いずれの道を選ぶべきなのか。
静かに目をとじ、またひらいた。
そして――彼女はこのとき、じつに、第三の選択肢を選んだのであった。
まず、その手に持っていた武器を、そっと下に置く。それから、その他の道具も下ろす。また、背に負ったバッグまでその場で外し、さらには身につけていた皮よろいまで脱いで、完全に無防備な姿になった。
あいてが伝説上の幻獣フェンリルではなく、ただのあたりまえの狼か野犬であっても、まったく抵抗しようがない姿だ。それから、彼女は両手をひろげて、フェンリルの前に姿をあらわした。
魔狼が、気づく。立ち上がって唸った。あきらかな怒りの意思が篭もった、あたり一帯に轟くほどのすさまじい大音声だった。
フレイアの全身が自然と震え出す。それでも、意思の力でむりやりに抑え込んだ。
さらにゆっくりと手を広げ、一切の攻撃の意思がないことを示す。即座に襲いかかって来なかったのは、やはりその身体が傷ついていたからだろうか。
そうだとすれば、このクリーチャーは助けを必要としている。重い怪我を負った幻獣を救うことはトレーナーの義務でもある。彼女は逃走でも馴致でもなく、救助を選んだのだ。
とは、いえ。
「お願い、わたしにあなたを助けさせて」
フレイアはささやいた。
フェンリルの世にもまがまがしいルビーのように絢爛と赤いひとみから視線を逸らさず、じっと見つめつづける。
全身を冷たい汗がしたたり落ちた。静かな、異常なまでに緊迫した時間が過ぎ去っていった。
おそらくじっさいには一分に満たなかったに違いない。しかし、一刻にも感じられた。
ふと、フェンリルが、ふたたびその場に座り込んだ。フレイアは全身の力を抜いた。倒れ込みそうな脱力感。だが、へたりこむわけにはいかない――いまは、まだ。
ゆっくりと、元の場所に戻って白い繃帯と、一本の硝子瓶を取り出した。
〈エリクサー〉。セレニウムのアルケミストから入手した魔法の万能薬だ。
幻獣の捜索は非常な危険をともなう。万一、重傷を負ったときのため、大枚をはたいて用意したものだった。これをいま、使うと決めた。
フレイアは片手に瓶と繃帯を持ち、ふたたび手をひろげながらフェンリルに近寄っていった。魔狼は、すべてを見抜いているような聡明な目で彼女を見つめていた。
彼女はその傍らにひざをつくと、まず、傷口を〈エリクサー〉で洗い流し、それから、ていねいに繃帯を巻いた。
魔法薬の効果は絶大だった。その瞬間に完治したわけではないが、傷口がちいさくなり、流血が止まったのだ。
フェンリルが驚いたようにまた唸った。その赤い双眸に、理解と感謝が閃いたように思ったのは、フレイアの身勝手な思い込みに過ぎなかっただろうか。ひと通り治療を終えると、彼女は立ち上がった。何となく、離れがたく、フェンリルに話しかける。
「あなたを、馴致して、自分のものしてしまいたい」
正直に話した。もう、そう語っても、かみ殺される心配はないと信じられた。
「ムリだよね。あなたは〈レジェンドクラス〉のクリーチャー。わたしの手に負えるはずがない。これはひとつ貸しにしておくわね。いつか、わたしが〈マスターレベル〉のトレーナーになったら、わたしの伴侶になってくれる?」
フェンリルはちょっと迷ったから、ちいさくうなずいた。少なくとも、そのように見えた。それで、フレイアは思わず笑い出してしまった。最前までの緊張感が嘘のようにリラックスしていた。
かれは大丈夫だ。決してわたしを傷つけたりしない。そう思った。それで、彼女はフェンリルの巨躯に抱きつき、その頬にそっとくちづけた。約束のキス。
「ありがとう。〈ソウル・トゥ・ソウル〉の契約はまたにしましょうね。じゃ、さようなら」
そして、近くに置いた荷物を置いてその場を立ち去る。フェンリルが名残り惜しそうに彼女を見つめていることがわかって、可笑しかった。
やがてフェンリルの姿は見えなくなった。それで、その偶然が呼び寄せた運命と神秘の体験は終わりとなった。その、はずだった。