秋分(しゅうぶん)
同時刻、島津軍の陣地にある「ほったて小屋」では、島津義弘が一人で文を読んでいた。
その前には桶がある。
そこには今、人の頭が一つ入っていた。
徳川家康の身柄と交換に、島津義弘が東軍に要求したものだ。
徳川家康、その影武者の首である。
島津は捕らえていた男を、東軍に奪還される前に斬った。そう主張するための証拠だ。今回の一連の騒ぎ、この首を石田三成に送って終わりにする。
そんな首と一緒に、桶の中に入っていたのが、この文だ。黒田長政の花押と印判がある。
東軍で特に警戒すべき策士は二人だ。
走りながら物を考える服部半蔵と、座って物を考える黒田長政。
その片方からの文だ。何かの罠かと警戒したくもなる。
なにせ黒田長政の父は、あの黒田官兵衛だ。豊臣秀吉の軍師で、主君の秀吉さえも、その才覚を恐れた。
(だが、長政は官兵衛とは違う)
今回の騒ぎ、黒田官兵衛が裏ですべての糸を引いている、というのは考えにくい。
それにしては、不測の事態が多すぎる。官兵衛なら、そこまで偶然を当てにはしないだろう。
(これはもう必要ない)
島津義弘は黒田長政からの文を握りつぶした。
そのあと茶碗で水を飲む。
(甘いな)
島津義弘は桶の中に目をやった。
この首、徳川家康に似ているようで、あまり似ていない。
当たり前だ。本物の影武者の首ではないのだから。
(黒田長政め)
影武者を殺すのはしのびないと、あの男はその辺にあった死体の首に細工をした。口の中に綿を詰めて頬をふくらませたり、死化粧を工夫したり。
島津義弘は黒田長政の過去について回想する。
まだ豊臣秀吉が織田信長の家臣だった時だ。『本能寺の変』が起こるよりも前。
黒田官兵衛が裏切ったと早とちりした信長が、人質だった幼少の黒田長政を殺せと命じた。
悩む秀吉。どうする秀吉。
黒田官兵衛が裏切ったとは、まだ決まっていないのだ。
そこで助け船を出した人物がいる。秀吉に仕えるもう一人の軍師、竹中半兵衛だ。
すべての責任を自分がとるからと、黒田長政を匿った。
竹中半兵衛は大病を患っていたが、そんな体で秀吉に頼む。自分はもうあまり長くは生きられない。もしも、黒田長政を匿っていることが露見したら、この竹中半兵衛一人が勝手にやったことだと、信長様には言うように。
それで黒田長政は生き延びることができた。黒田官兵衛と竹中半兵衛、二人の軍師の友情によって。
裏切りの疑いが晴れた時、黒田官兵衛は泣いた。息子の生存と共に聞いたのは、親友である竹中半兵衛の病死だった。
戦国の世では、人質の命は軽い。また、影武者の命も軽い。
そんな過去を持つ黒田長政だ。影武者を殺さずに、他の首を用意したとしても、不思議はない。
しかも、そのことをこっちには黙っていればいいのに、わざわざ文に書いて知らせてくるとは・・・・・・。
(本当に甘いな)
この文には、黒田長政の花押と印判がある。
他の東軍武将たちにとっては、「西軍と内通している証拠」にも見える。そういう者たちの目に触れるようなことがあれば、黒田長政の立場は、まずいことになるかもしれないのだが・・・・・。
それに、偽物の首を送ってきたのだ。交渉決裂だと島津側が判断すれば、あの家康は叩っ斬られる。そういうこともあり得たのだ。
(ひょっとして、そっちが狙いだったか)
いや、その場合は、東軍全体に与える影響が大きすぎる。
新たな影武者に本物を引き継がせたところで、「良からぬ噂」は流れるだろう。あの家康は本物なのか、偽物なのかと、疑心暗鬼の種がばらまかれることになる。
それがやがては、東軍の崩壊につながるかも・・・・・・。
黒田官兵衛あたりなら、その隙に天下を狙うくらいは考えそうだが、黒田長政からはそういった覇気を感じない。
(・・・・・・)
しばらく熟考したあとで、島津義弘は微笑する。
(黒田長政め、この島津義弘を本気で信用したか)
こしゃくなことをする奴だ。主君の命や東軍全体の命運がかかっているのに、敵を心から信用するとは。
島津義弘はつぶやく。
「馬鹿め」
と同時に、こうも思う。
「新しい時代が近づいているのかもしれんな」
戦国の次の世だ。これまでとは違う価値観を持った若者たちが、次々と台頭してくる時代。
だからこそ、島津義弘は考える。
この戦国の世は、大きな合戦で幕引きを迎えるべきだ、と。
それこそ、のちの世に「天下分け目の戦い」と呼ばれるような大合戦で。
その光景を島津義弘は思い浮かべる。
ところが、それを破る者が現れた。
「よぉ! いつぞやは世話になったな」
黒い覆面の男が、「ほったて小屋」の中に入ってくる。
島津軍の具足を着ているが、自軍の者ではない。
その正体について、島津義弘はすでに気づいていた。
かつて九州の覇権を争い、命のやり取りをした相手、立花宗茂だ。
その手には今、一本の槍が握られている。
あの槍をどのくらい扱えるのかは、先ほど見物させてもらった。東軍最強の本多忠勝とほぼ互角。
島津義弘は茶碗を軽く揺らしながら言う。
「復讐に来たのか?」
過去に島津軍は、立花宗茂の実父を殺していた。




