立秋(りっしゅう)
その頃、松尾山ではまたもや忍者が斬り倒されていた。
自分の部下がまた一人。服部半蔵は怒りを押し殺して、相手と対峙していた。ここで冷静さを失うわけにはいかない。
(小早川秀秋の配下に、これほどの者がいたとは)
この優男、あまりに強すぎる。生かしておけば必ずや、徳川にとっての大きな脅威になるだろう。
そのことを部下たちもわかっているようだ。誰も退こうとはしない。決死の覚悟だ。
忍者の一人が優男に斬りかかっていく。
まだいくらか距離があるものの、優男の手がわずかに動いた。
たったそれだけで、斬りかかろうとしていた忍者の背に、血の染みが広がっていく。
だが、一瞬で絶命するわけではない。死体になるまでのわずかな間に、この忍者は前へ前へと進んだ。命が尽きるまでの意地の歩行。
で、最後は前のめりになって倒れる。
と同時に、そのすぐ後ろから別の忍者が現れた。仲間の体を遮蔽物に使って、優男に接近したのだ。
仲間の意地を無駄にはしないと、奇襲を仕掛ける。自身の最速で忍者刀を振るった。
しかし、軽くのけ反る優男。
そうやって回避しながら、利き腕を前へと突き出していた。
その手には刀が握られている。力を入れている感じはないのに、今攻撃してきた忍者の胴を、刀が貫通していた。
ところが、刺された忍者は笑っている。これで一時的にでも、優男の刀を封じることができた。あとは仲間に任せる。
すると後方から、別の忍者が走ってきた。
死ぬ間際の仲間、その背中に躊躇なく、忍者刀を突き刺した。この正面にいる優男も、まとめて串刺しにしてやる!
だが、忍者刀の先端が優男に届くよりも前に、なぜか仲間の背中が急にこっちへと戻ってくる。攻撃中の忍者に、勢いよくぶつかってきた。
優男が腹の方から強く蹴ったのだ。自分への攻撃を妨害しつつ、なおかつ、自分の刀を忍者の体から抜くことにも成功している。
さあ、優男による反撃だ。血を吸った刃が走る。忍者、危うし。
しかし、この攻撃で血しぶきが舞うことはなかった。
そうなる前に、一つの金属音が攻撃を中断させている。
服部半蔵だ。優男と刃を交差させていた。
この時、優男の後方からは、半蔵の部下が忍び寄っていた。
服部半蔵が優男の注意を引きつけておき、その間に別の者が背後から攻撃するのだ。
ところが、服部半蔵の胴にいきなり、優男の蹴りが来る。
腹筋に力を込めて耐える半蔵。
が、すぐに思った。「しまった」と。
次の瞬間、小早川秀秋似の優男は自分の刀を捨てた。半蔵を完全に無視して、反対側へと体を向ける。
で、忍び寄っていた忍者による忍者刀の突き、これを余裕でかわした。
そのあと、忍者の伸びきった腕を、下から叩き折る。まるで枯れ木を折るかのように、あっさりと。
鈍い音がした。さらに悲鳴も続く。
だが、その声はすぐに小さくなった。
優男が忍者の喉を深く斬り裂いたのだ。血しぶきによる虹が架かる。
優男の手には手裏剣があった。腕を叩き折るのとほとんど同時に、忍者の懐から盗み取ったらしい。
さらに、その手裏剣を投げる。先ほど服部半蔵の妨害によって仕留め損なった忍者、その頭部に命中させた。あっさり絶命させる。
こんな光景を見せられているのに、服部半蔵は動くことができなかった。
腹筋に力を込めた時、自然と脚にも力が入る。そのせいで下半身が、いわゆる硬直状態となり、すぐには動くことができなかったのだ。
半蔵は悔やむ。
だから、優男はあんなにあっさりと、自分の刀を捨てることができたのだろう。半蔵からの反撃がすぐにはない、と確信していたのだ。
また、この男ならいつでも殺せる。そう思ったからこそ、優男は殺す順番にこだわらなかった。
恐るべき実力。戦闘において、半蔵は勝てる気がしない。
とはいえ、まだ打てる手はある。
服部半蔵は忍者刀を鞘に戻すと、口笛を吹いた。「今すぐ退却せよ」という合図だ。
レンゲだけでも逃がして、優男の存在を東軍に伝えさせる。
そのための時間稼ぎが、自分の最後の仕事だ。
こんな時のために、「次の服部半蔵を誰にするのか」は、すでに指名してある。三代目の半蔵よ、あとは任せた。
そこでふと、本多忠勝の顔も頭に浮かんでくる。
(忠勝、すまん。拙者はここまでのようだ)
この間に優男が、先ほど捨てた自分の刀を拾っている。
その刃で、喉から血を噴く忍者を袈裟斬りにした。血まみれの体が地に倒れる。
次の瞬間だ。服部半蔵は前へと大きく跳躍した。
優男に向かって、空中で抜刀の構えをとる。
相手は即座に反応してきた。
ここで刀を抜く半蔵。これが最速の一撃だ。
しかし、その刃は受け止められてしまう。
服部半蔵は尻餅をついた。
その前には優男が仁王立ちしている。
「他の忍者とは感じが違うな。ひょっとして、お前が服部半蔵か?」
突然、優男の表情が曇る。
腕を折られ、喉を斬られ、しかも袈裟斬りにされた忍者が、まだ生きていたのだ。最後の力を振り絞って、優男の片脚にしがみつく。
だが、頭部に刃を突き立てられて、今度こそ完全に絶命した。
ここで服部半蔵は最後の反撃に出る。
体勢を起こしながら、渾身の一撃を優男に向かって放った。自身の防御は一切考えない。何とか相打ちに持ち込めれば。
視界が研ぎすまされていた。自分が持つ忍者刀、その先に意識の大部分が集中している。
小早川秀秋似の優男が少し焦っていた。それでも刀を鋭く振り下ろしてくる。予想以上に速く、これはまずい。
両者の間で、大きな血の花が咲いた。
体の正面から袈裟斬りにされて、服部半蔵は一瞬で意識を失う。
一方、優男は横によろけた。そして、前のめりに倒れる。
その背中には、一本の「苦無」があった。胸の裏側に深く突き刺さっている。
半蔵による退却の命令を無視したレンゲ、彼女が無我夢中で投げた「苦無」だ。
これが結果として、小早川秀秋と服部半蔵の実力差を埋めた。
半蔵の刃も、小早川秀秋に届いていたのだ。両者袈裟斬りによる相打ちである。
たった一人残ったレンゲは木々の間から飛び出すと、瀕死の半蔵を背負って走り出した。
(急いで逃げないと)
背中からの息はか細い。レンゲの忍者装束に生温かい血が染み込んでくる。
と同時に、その血が急速に冷えていくのも感じた。
(早く馬を手に入れないと)
こうして松尾山での戦いは決着した。
そして、もう一つの戦い、本多忠勝と立花宗茂による戦いも、いよいよ最終局面を迎えようとしていた。




