清明(せいめい)
逃げる東軍。
その最後尾にいるのは、一人の男だ。黒い名馬に乗っていて、手には天下の名槍を持っている。
そして、鹿の角を模した兜をかぶっていた。黒い具足の肩からは、金色の大きな数珠をかけている。
あれが東軍最強の男、本多忠勝だ。
その背中をミササギは追走していた。
伏兵の気配を察知できる、そんな特技がミササギにはある。
なので、部隊の先頭で馬を走らせていた。異変があれば、いち早く察知することができる。
ミササギは主君の命令を頭の中で繰り返した。
――敵を追撃しろ。この関ヶ原から逃がすな。
あれは、あのままの意味ではない。
本当の意味は反対だ。
――追撃するふりをして、あの東軍が関ヶ原から逃げる手助けをしてやれ。
これが正しい意味だ。うちの主君は東軍に対して、合戦での決着を望んでいる。
こうして自分たちが追走していれば、それが邪魔になって、西軍は弓や鉄砲を使うことができない。
このくらいの距離を保ちながら、関ヶ原のすぐ外まで追いかけるふりをする。そういう密命を受けていた。
こちらの意図にどこまで気づいているのかは不明だが、本多忠勝の騎馬隊は逃げに徹している。一切の攻撃をしてこない。
それでいい。そのまま、そのまま・・・・・・。
ところが、この状況を打ち破る者が現れる。
「ここは任されよ!」
部隊の真ん中あたりにいるはずのトラカドが、いきなりミササギのすぐ横に飛び出してきた。
そして、止める間もなく、
「拙者が先行する!」
単騎で本多忠勝との距離を縮めていく。密命のことをトラカドは知らない。
ミササギは困った。
トラカドの馬は速い。あれなら東軍に追いついてしまう。
そこで不意に、本多忠勝が馬の足を緩めた。
「あとで落ち合う」
自分の部下たちにそう言うと、黒い馬の頭をこちらに向けてきた。
これに対して、トラカドも馬の足を緩める。
やがて両者は、槍の届く間合いで対峙した。どちらの馬も足を止めている。
ミササギは迷った。この二人を無視して、東軍の騎馬隊を追いかけるか。
「手出しは無用」
槍を構えながら、トラカドが告げてくる。すでに気合い十分のようだ。
その言葉でミササギは決心する。
「わかりました。思う存分どうぞ」
自分の馬を止める。部下たちにも、そうさせた。
相手の騎馬隊が関ヶ原の東側へと逃走していく。
あれを追う必要はない、とミササギは思った。
それよりも見てみたい。
この場にたった一人で残った男、本多忠勝。
その戦いを間近で見ることができるのだ。
トラカドの気持ちも少しはわかる。
東軍最強の男と戦ってみたい、そんな欲求は自分にもある。
主君からの命令は、
――追撃するふりをして、あの東軍が関ヶ原から逃げる手助けをしてやれ。
手助けをする対象には、「本多忠勝」も含まれているに違いない。
しかし、こうなった以上、ここでトラカドを止める方が不自然だろう。他の西軍も見ている。
(あとは成り行きに任せますか)




