春分(しゅんぶん)
(何かあったか?)
島津義弘は「もしも」の場合に備える。交渉決裂なら、即座に戦闘開始だ。本多忠勝、相手にとって不足はない。
だが、緊張の時間はすぐに終わる。
老武将がこちらに向かって、手を振ってきた。桶の中身は、特に問題ないらしい。徳川家康の影武者、その首が入っているようだ。
あとは「あれ」を、石田三成がいる西軍本陣に届ければいい。
関ヶ原にたった一人で現れた家康らしき男。そいつを東軍が奪還しに来たので、急いで始末した。これがその証拠の首、という筋書きである。
(さて、必要な首は手に入ったことだし)
島津義弘は人質を解放した。
「次はないぞ。戦場で再会するのを楽しみにしている」
これに対して、徳川家康は何も答えなかった。
が、深々とお辞儀をしてくる。
一秒、二秒、三秒。
そして、島津軍で用意した馬に乗ると、徳川家康は本多忠勝と合流した。
「敵が逃げるぞ! 追え! 追え!」
老武将が叫んでいる。しかし、本人も他の兵たちも追う気はない。
家康を伴った本多忠勝と、その配下の騎馬隊が、島津軍の陣地を離脱していく。
この時、小西行長の陣は一時の混乱から回復しかけていた。が、元の木阿弥になってしまう。
とはいえ、今回も東軍は通過するだけだ。大した戦闘にはならず、小西行長の兵たちに被害は少ない。
けれども、すぐに反撃や追撃ができる状態ではなかった。
本多忠勝たちが隣の陣から離脱していったのを確認して、「そろそろか」と島津義弘は部下に告げる。
「待機させているミササギの騎馬隊に、急いで伝えろ」
彼女には前もって、こうなった場合の対応を指示している。それを実行させるのだ。
「敵を追撃しろ。この関ヶ原から逃がすな」
ミササギ率いる騎馬隊三百。そして、ついでにトラカド。彼らが島津軍の陣地から出撃していく。
この時、風向きが西から東へと変わった。関ヶ原に広がっていた狼煙や土煙が、西側から少しずつ晴れていく。
逃走する東軍の姿を、ミササギははっきりと視界にとらえていた。




