★★★★
★★★★
「ごめんなさい」
尚たちはいったん、すぐ後ろにあった工務店に身を潜めた。そこにあった針金で手首をきつく縛り、水洗いした手ぬぐいで何周も覆ってなんとか出血を抑えようとしている。
歯ぎしりをする彼に、赤香はもう一度言った。
「ごめんなさい!」しかも土下座である。
赤香はヘルメットの額に跡がつくほど頭を擦り、尚に向かって精一杯の誠意を示していた。この怪我はあくまで鳥海が起こしたこと。しかも彼女は無意識だったし、ぼうっと手を伸ばしたままだった尚にも原因はあるのだ。だからこれは事故、誰も謝る必要なんてないのだ。
それだというのに赤香は身じろぎ一つせず、詫びの形を崩さなかった。
「これはミミちゃんを止めきれなかったアタシの責任です。煮るなり焼くなり、この際囮にでも使ってください。それくらいのことをしちゃったんだから」
「お、おいおい……」
対する尚には、怒りなんて微塵も感じていなかった。むしろ自分のミスだと反省していたくらいである。
「俺だって元の世界からこんな仕事してるんだ、これくらいの事態は覚悟してるさ。……さすがに痛かったけど、もう慣れてきたし」
「い、痛くないの?」
「そりゃあまったく平気ってわけじゃないけど、動けないほどじゃないぜ」
すごい……と尊敬にも似た返事が聞こえる。
やっぱりこいつは痛みに弱いんだな、と尚は再認識した。
「それよりも、まだ戦いは終わってないんだろ? サイレンが聞こえねえもんな」
「あ、うん。北の方から増援の気配がする。それもさっきより多い……四匹はいると思う」
赤香は姿勢を戻し、箱の表面を見て言った。
こちらの戦力は、効き足を怪我したスピードタイプ、片手を失ったベテランヒーロー、気絶しているリーサルウェポンである。
こんなんで状況を打開する策なんてあるのか?
尚の経験上、ピンチに陥ることは幾度もあった。火の手が上がる高層ビルに取り残され、人質をとられた時、敵がどこか遠距離から狙撃してきたことや、毒ガスを振りまく敵と戦ったこともある。いずれもその場の機転、臨機応変な戦術によって潜り抜けてきた。今回も同様である。
さっきのが四匹か……。攻撃は直線的だが、急速な停止や転回もできる。回転エネルギーがそのまま防御と攻撃を兼ねているため迂闊に手出しはできない。しかしローリングしかできないことを考えると、唯一の逃げ道は空中か?
……いや、この中の誰も飛行能力なんて持っていないし、逃げたところで解決できる話でもない。
第一やつらの弱点はどこにあるんだ? あの状態じゃ急所を狙うとか以前の問題だろう。回転さえ止めてしまえば俺と赤香で何とかできると思うけど、じゃあその回転を止めるにはどうすんだよ? 仮に俺と赤香の力を振り絞って一匹を止めたとして、それが合計四匹。こっちは人数でも個人の戦力でも劣っているんだぞ……。
「ミミちゃんがまた起きてくれれば、勝機はあるかもだけど……」
「でもさっきのは偶然で――」
「ホントにそう思う?」
赤香の眼光が突き刺さる。
「ミミちゃんはだいたい、百回の戦闘中九十九回は最後まで眠ったままだった、何をしてもね。それがアンタとの……その、キ……あれで目を覚ましたんだったら、今度もそうするしか……」
「はあああっ!? 何馬鹿なこと言ってんだよ!」
「う、うるさい! それ以外に考えられないんだから仕方ないでしょ! 早くしないとあいつらここまで来ちゃうし、ミミちゃんには何としても変身してもらわなきゃいけないんだから!」
「ちょっと待て! それって、キスで起こしてからもう一回変身させて、そっからもう一回キスして起こすってことじゃないか!」
「キ、キキキキスキスばっかり言うなあ! とにかくアンタ男でしょ、そんなことウジウジ気にするじゃないよ!」
「気にするわ! 男だからって捨てられるもんと捨てられないもんってのがあるんだよ!」
「ア、アンタはなんでこんなときに下ネタを……!」
「どういう解釈だよ!?」
その時、先ほどよりも格段に大きな地響きが工務店を揺らした。
棚から落下するドライバー。ばらばらと床に散乱するネジ。大きな音を立てて崩れる角材の束。わんわん団が尚たちのいる通りに侵入してきたのだ。
「がるっ! がるるるるるる!」「ぐるるるるるる」「わるるるるるるる」「げるるるるるる」
先ほどまでの二匹とはまた違う、闘志を剥き出しにした唸り声。
それが建物を叩く音、潰れた自動車を更に踏む音とともに、こちらに近づいていた。
「どうする、このままやり過ごすか?」
「ううん、わんわん団は総じて鼻が効くから無理だよ。血を被ったって気付かれる」
「じゃあ……この最終兵器をもう一回起動させるしかないってわけか」
「アタシの親友を『この』呼ばわりしないで」
はいはい、と尚は相槌を打って、脱力した鳥海の上半身を持ち上げた。人形のように軽い。
まぶたの端にはうっすらと涙が滲み、薄く開いた唇からはスウスウと寝息が漏れ、尚の頬を撫でる。
じっと見つめていると赤香に急かされた。そう言いながらも彼女は、親友が尚と接吻する様は見たくないのか、顔を赤らめて目を逸らしている。
「じゃ、じゃあ、いくぞ……」
「だーかーら、いちいち言わなくていいから! ……ごめんねミミちゃん。ホントにごめんなさい……生きて帰ったらアジトのポッキー全部あげるから許して……いや、もう許さなくってもいいから……女として許さなくていいから……。でも勘違いしないで、ミミちゃんのはじめてを奪ったのはアオくん。女の敵はイコールアオくん。恨むべきはアタシじゃなくて……ハッ! アタシ何言ってるの! 恨まれて当然なのはアタシも一緒でしょ! ……でも一番悪いのはアオくん……アオくん……」
横でこんなことをブツブツ吐かれては、出来るものも出来ない尚であった。そしてこの時に、自分がどうやら『アオくん』という呼称で呼ばれていることを知る。
(こいつ馬鹿なだけじゃなくて、クズ属性も持ち合わせてるんじゃないか?)
尚のそんな予感は、鳥海の直感能力を持ってしないでも明らかだった。
地鳴りは刻一刻と大きくなっていく。とうとう尚は意を決し、バイザーを開いた下半分――つまり口元を、他の部品がぶつからないように気を付けながら、器用に近づけた。
「近いよ!」赤香の叫び。
顔が……じゃない、敵の位置だ。
ここから更に変身させて、もう一度キスして……本当に間に合うのか? それにキスしただけで起きてくれる保証がどこにあるんだ?
土壇場になればなるほど、そんな雑念が尚の脳内をぐるぐると回っていく。
混乱する尚とは対照的に、鳥海の寝顔が幼く、純朴なものに見えてくる。
「はやく!」
(ええい、くそっ! こうなったらヤケクソだ!)
尚が本日二回目のキス、人生初となる自発的接吻まで残り一センチとなったその時――
「あ、あれって……。ちょ、ちょっと待ってアオくん!」
窓から外を眺めていた赤香が、乱暴に尚を引きはがした。
ちょうど首根っこを掴まれる形となり、ぐえ、と変な声が出る。
「いきなり何すんだよ!」
「ほら、アレ見てよ!」
言われるがまま外を眺めると、そこでは四匹の巨大毛玉が通りを闊歩していた。
そう、歩いていたのである。
「なんでアイツら転がってねえんだ? それに……」
毛玉たちは四匹でちょうどダイヤ型を描くように並んでいた。まるでVIPを護衛するガードマンのように。ただ、よく見るとその例えはまったく相応しくないことが分かる。
歩く、という行動をするとき、人も犬も通常は前を見ながら進むはずである。だが外の犬たちは、まさにガードマンの真逆というのか、四匹が四匹とも中心部を向いて進んでいた。
尚と赤香は道路の上へ出て、改めてその様子を観察した。犬たちはこちらに全然気が付いていないようである。
十メートル級の巨体たちはポメラニアンという元・小型犬で、そのどれもが息を荒立て、酷く憔悴しているようだった。
いったい何が犬たちを苛立たせているのだろうか?
その答えは四つの視線の先、ふさふさの毛に囲まれた狭き空間にあった。
「な、なんだ!?」
ポメラニアンたちの隙間から尚が見たもの――それは一個のカプセルのようだった。米粒型の生々しい半透明な物体で、それが動く方向に合わせて犬たちも移動しているようだった。
敵の親玉か!? 尚は身構えたが、赤香が右手でそれを制す。
見たところポメラニアンたちは――昨日のダックスフントほどではないが――鋭い爪や牙でカプセルを壊そうとしている。どれもが目を充血させ、あらゆる神経・集中力をカプセル破壊にのみ注いでいる様子だった。
「がるるるるるるる!」「ぐるるるるるるる!」「わるるるるるるる!」「げるるるるるるる!」
それらの猛攻をものともせず、カプセルは尚たちに近づけるところまで近づいてから止まった。距離にしておよそ十二メートル。相対するにしては遠すぎたが、間にポメラニアンを挟んでいる以上仕方なかった。
「たきたっきー! やっと帰って来たんだ!」
赤香がぱあっと輝かせて、大きく手を振る。
(『たきたっきー』……?)聞き覚えのある名前だ。。
「ふふふ、久しぶりねぇササ。……あら、そちらの男性はどなたかしら?」
カプセルの内側から、犬たちの唸りと地面を踏み鳴らす音に紛れて聞こえてくる澄んだ声。姿は見えなくても、その主が年上だと直感する。
「あ、俺は飛白尚って名で――」
「まあ、どうでもいいんだけど」
いきなり遮られてしまった。
からかわれたのではなく、本当に、心の底からどうでもいいと見放された感じだ。
声はなおもカプセルの内側から赤香へ呼びかける。
「それよりもササ。どうやらこの子たち私を殺せないみたいだから、そろそろ片付けちゃってくれないかしら?」
(……今、何て言った?)
耳を疑う尚の横で、赤香は平然と受け答えをする。
「それが実は……アタシ今ケガしちゃってて、倒せるかどうか……」
「あら、いつもみたいに口から入って内臓をぶち破ればいいじゃない。こぉんなにヘトヘトで、隙だらけなんだから」
(あの血生臭い戦法、いつもやってる手なのかよ……)
でも確かに、今のポメラニアンたちはカプセルをどう破るかに必死で、大口を開けながら涎をダラダラと垂れ流している。
「それもそっか、あの程度なら手加減してもいけるし。ええと、じゃあ……」
赤香は一度、深く深呼吸してから
『天に煌めく一番星が、悪を倒せと叫んでいる』ッ!」
それ、毎回言うんだな……。
赤香は無事な左足をぐっと折り曲げ、力を込める。スーツがうっすら発光したかと思うと、残像を残して跳んでいった。アスファルトにはひびの入った足跡がくっきりと残されていた。
その二秒後、一体のポメラニアンが顎を外し、ありったけの血液と赤香を吐き出して、青空を拝むかたちで倒れた。血のシャワーを、赤香と尚、そして『たきたっきー』は全身に浴びる。他三体の犬たちは同胞が死んだことなどおかまいなく、カプセルに爪を立てたままだった。
そして、わずか十秒後。
飛白尚、笹呉赤香、月弓鳥海を苦しめた超巨大ポメラニアン三体は、道路を真っ赤に染め上げて絶命した。
沈黙した街に、ただサイレンだけが響き渡る。