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第三話(前) 豆どころじゃない柴犬
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結論から言うと、この世界に『宇内園思杏』なる人物は存在しなかった。
「お前さんの言うやつとそっくりそのまま同一って女はいねえよ。だが、それに最も近い人間は見つかった。『芝詩杏』って女だ。外見的特徴や校内での態度、評判は九割がた一致する。生年月日と血液型はピッタリ。そして面白いことにその母親には離婚歴があって、再婚前の夫の姓はズバリ『鵜内苑』。……いやァおじさんもビックリしたゼ、とんだ『偶然の一致(Synchronicity)』もあったもんだ」
無機質な白に包まれた病室、尚の横たわるベッドの脇でグリアはヒヒヒ、と笑った。
本来、他人の体のパーツを移植するということは大変な危険の伴う行為であり、この世界の医療技術でも限りなく不可能に近いとされている。だが、ちょうど一週間前、グリアはその手術を二時間足らずで容易くやってのけた。
彼は今、執刀中にも外さなかったサングラスをかけたまま、小型の地球儀をくるくると回している。
「電話の方はすぐに直ったゼ。ただし連絡先との接触は諦めな。俺は故障を直せても、いない人間や組織を創ることはできねえんだ。あと、ついでに財布の方も調べさせてもらったけどな……十円玉が白銅で出来てるわ、奥には二万円札とかふざけたモンがあるわ、何なんだあれは? ガキのおもちゃか?」
いざという時のために忍ばせておいた大金も、この世界では価値がないらしい。
それを聞いても尚は何の反応も示さなかった。耳に届いてすらいなかったかもしれない。
この世界に宇内園思杏の相似存在がいたと分かったところで、その命は前回――一週間前の被害で既に終焉を迎えているのだ。
尚にとって大切な、唯一の理解者とも言える彼女は、世界のどこにも存在しない。
自分が異世界に来たと分かった時点で思い描いていたことではあったが、仮説と実証とでは受けるショックにも雲泥の差があった。まして、その死体を実際に目の当たりにしたとなれば。
「ヒーローってのは孤独なもんだ」
尚が返事をしなかったせいか、グリアは話題を変えてきた。
「圧倒的な力は怪物も人間も寄せつけず、守るべきものに理解されないまま、次第に何のために戦うのかも分からなくなり、それでも因果からは逃れられねェ。それがヒーローの持つ闇の一面だ。そいつはアイツらも、お前さんも変わんないんじゃねえのかい?」
尚はやはり答えない。かすかに聞こえる波の音だけが窓越しに聞こえ、グリア自身もそれで構わないというように話を続ける。
「ま、俺はヒーローじゃねえから分かんねえけどよ。ただ言えることは、お前さんというヒーローは無限に広がる無数の世界の中でも一人きりだってことだ。そうだろ? お前さんのパートナーは立場や遺伝子を変えながらも世界を跨がって存在していた。俺や赤香たちも、姿や名前を変えてそっちの世界に存在してるのかもしれねえ。――だがお前さんは独りだ。この織骨グリア様の調査能力を持ってしても『こっちの飛白尚』は見つからなかったんだ、存在するわけがねえ。お前さんは二重の意味で『ヒーローの孤独』なんだよ。……その理屈で言うと、赤香たちもこの世界以外にゃ存在しねえってことになるか? まあ、いずれにせよヒーローでない俺からすればどうでもいい話なんだが。ヒヒヒ」
尚は、色素が微妙に異なる右手を握りしめようとする。しかし一センチほどしか指は動かず、代わりに鋭い激痛が走った。
「おいおい、まだリハビリ中なんだ、無理すんなよ。もう一回手術するのは流石に面倒くせえ」
グリアはサングラスを持ち上げ、口角を上げたまま立ち上がった。
「逃げだそうと思うなよ? 帰る場所もなきゃ待ち人もいねえお前さんを、俺はこれでも歓迎する腹なんだゼ。……まあ見張りは当分つけたままだから、完治するまでは彼女の指示に従え。わんわん団の対応は当分、赤香ときいろの二人で行わせる。いいな?」
有無を言わさぬ低い声でグリアは言い、病室を出ていった。残された尚は窓の外を眺める。ガラス越しに、都会の喧騒とはほど遠い景色が見えた。
ここは一週間前に大量虐殺が起きた場所から直線距離にしておよそ九百キロ離れた、九州北部の漁師町。潮の香りは届かないが、夏日を反射する海面のゆらめきがはっきりと目に入る。漁船が右から左へと走っていき、堤防の上には小指の先ほどの釣り人が糸を垂らしていた。
なぜ舞台はのどかな海沿いの町に移っているのか。その答えは七日前、前回のポメラニアン戦の終了後にある。
廃ビルをまるまる買いとって作られた戦隊アジト、その地下にある処置室のもとへ、息を切らして駆けてくる人影があった。笹呉赤香である。
死臭を拭いきれていない彼女は大慌てで階段を降り、ふらつきながらも観音開きの扉を叩いた。中から、一滴の汗も垂らしていないグリアが顔を出す。どうやら手術が完了した直後のようで、奥にある台には裸の尚が寝かされていた。手首には丁寧に縫合された跡が見える。
グリアが何か言おうとする前に
「ミミちゃんがいないんです!」
と、赤香は一切れのメモ用紙をサングラスの前に突き出した。
「What?」
グリアは一歩後ろに下がり、そこに書かれた文字を声に出して読む。
「『WSW257° 923507.1831m』? なんだこりゃ?」
「ソファの上に置いてあったんです! ついさっきまでミミちゃんが寝てて、アタシがちょっと……ええと、お花摘みに行ってる間にそれがあって、代わりにミミちゃんが、えと、あの!」
「まあ落ち着けよ。……お前が目を離してる間にあいつはいなくなってて、このメモが置かれてたんだな? どっか心当たりは? あいつが行きそうな場所は?」
「そ、そう言われても…………あっ!」
「何か思い出したか!?」
「買い物の続き! きっとスーパーに行ってるんだ! そっか、あんなことがあったせいでパーティなんて忘れてたけど、さすがはミミちゃんだよ! 司令、アタシちょっと見てきます!」
「……いや、スタッフに向かわせよう。お前にゃまだ休息が必要だからな」
「おお、珍しく優しいですね。アオくんも無事そうですし、これで心置きなく眠れるってもんです!」
無論、鳥海の行き先がそんな場所でないことにグリアが気付いていないわけがなかった。
もしも買い物に行くだけなら、こんなメモをわざわざ残すはずがない。こんな、次のわんわん団出没地帯が書かれたメモなど。
それはつまり、少なくとも次回の戦闘までに顔を出さない意思表示だと解釈できる。『場所の予知』――ありとあらゆる座標を瞬時に導き出す鳥海の能力は戦隊の方向性を左右する重要な能力だが、戦闘の役に立つことは少ない。なぜなら非・変身状態において彼女の予知はキロメートル単位でしか働かないからだ。誤差は五キロ範囲内。まあ、変身せずにそれだけの芸当ができること自体が彼女の凄まじさではあるのだが……。
But、とグリアは考える。
このメモには、キロどころかミリ単位の座標まで示されている。そんな針に糸を通すような予知は変身していなければ不可能だ。戦隊監視用の隠しカメラが捉えた、通算三度目の鳥海の変身。あの僅かな時間で、しかも覚醒から冷めやらぬ脳だというのに、ここまで正確な予知を可能にするのか……とグリアは柄にもなく感心した。
だが、最大の疑問は『鳥海がどこへ消えたか』である。通常状態でも常人離れした感知機能を持つ鳥海が、本気を出して戦隊から逃げたとなれば追う手だてなど無いに等しい。
アジト内はもちろん、全国各地に遍く設置してある監視装置の隙間を逃れ、一般人に紛れて潜伏する戦隊所属のスタッフたちの脇を、欺くように通り過ぎるのだ。今、この瞬間にも。
「で、肝心の発信機は、と……」
グリアはビルの最上階にある司令室へ向かい、五つあるモニターのうち一つを眺めた。緑色に点滅する光は乗用車並みの速度でスーパーマーケットへと移動していた。
「あのバカ……」
*
これから一週間後――つまり現在、メモの座標付近にて。
「しっかし遅いわねえ……もう六日よ?」
青々と茂る芝生の上。ゴスロリに身を包んだ田北きいろはキャンプ用の折りたたみ椅子に座って、人形の髪を専用の櫛で梳いていた。その上には海水浴用のパラソルが大きく広がっている。気だるげなことを言う田北とは反対に、ジャージを着た赤香は注意深く辺りを観察していた。
「ミミちゃんのことだもん、間違いないよ」
自信に満ちた声。赤香は鳥海が姿を消した理由に薄々勘づいていたが、深く考えるのはやめていた。ただ長年の親友だからこそ、何か言えない事情があるのだろうと、そう自分に言い聞かせていたのだ。
二人がいるのは堀と松林に囲われた、古城に見下ろされる公園である。古城と言ってもつい二十年ほど前に復元されたもので、知名度もさほど高くない城郭だ。付近には黒金の門と高い石垣、休憩用のベンチや城の名が彫られた石碑がある。
「そこを疑いはしないけどねェ……こう日差しが強くちゃお肌が傷ついちゃうじゃない」
田北はそう言うが、今日は極めて日が照っているわけではなかった。松林は風に葉を鳴らし、涼しげな木陰が芝生にかかっている。
そんな散歩日和とも言うべき環境に関わらず、二人以外の人影はなかった。
「日焼け止めを容器丸ごと使っておいて、それを言うの?」
風が、黒いレースのスカートを大きくなびかせる。
「というか……下着つけなよ。日焼け以前の問題だよソレ」
「フフフ、そこはポリシーよ。心配せずとも、私のおっぱいは垂れないわ」
「や、訊いてないし」
「見る? でも残念。言ったように、紫外線のもとにお肌は晒したくないのよ」
私の裸は、私に見られるためにあるんだから、と田北は言った。赤香と会話をしながらも、その視線は人形から逸れることはない。
赤香は溜め息をつく。(そんなこと言ったって、たきたっきーに紫外線なんか関係ないのに)
病的なまでに色素の薄い田北の皮膚。それは日頃の日焼け防止の効果などではない。
超スピードの赤香、超感覚の鳥海と言うならば、田北きいろは『超防御』。
伸縮自在の爪を用いるカプセルや盾のみならず、彼女の皮膚そのものも能力の影響で強化されているのだ。変身せずとも、市販ナイフで簡単に血を流させることは難しい。熱感覚や痛覚も結果的に鈍くなっており、太陽光線の影響もほとんど受けない。
痛みに弱く、スピードを活かした特攻で敵を屠る赤香とは対照的な性質である。
「ブラがないと乳首が擦れて痛いって聞いたけど、どんな感じなんでしょうね……」
そう呟きながら、ゴスロリの上から大きく膨らんだ胸の先端をつまんでいる田北。
――どうやら性格も対照的であるようだ。
赤香は自分の胸を触ってから、田北の方をチラッと見て
(か、かなわないっ!)自分が井の中の蛙であったことを痛感し、肩を落とした。
そのまま言葉もなく、それぞれが人形いじりと見張りに集中し、そろそろ一時間が経とうとした時――
「きゃん! きゃんきゃんっ!」
甲高い鳴き声が遥か頭上――本丸の屋根から聞こえた。
見上げると、逆光でよく色は分からないが、犬の形をしている影。地上から見るだけでも三匹はいるだろう。太陽を背にし、黒き巨体は高くジャンプした。三つの影が青空に踊ったと同じく、唸りを上げるサイレン。
田北は人形を腰のリボンに挟み、ゆらりと立ち上がった。長い前髪の隙間から、にんまりと曲がった口が覗く。
「さあて、たっきたきにしてやりましょうか……!」
そう笑って、どこからともなく取り出されたラジオペンチが左小指の爪を噛み――難なく剥がした。
ゴシックロリータは金色の輝きを放ちながら形を変えていく。レースに装飾され、田北の体を洋菓子のように包んでいた布地はみるみるうちに光沢のあるビニールに近い質感となり、体のラインをくっきりと反映させる。
「ホント、たきたっきーって不健全な恰好してるよね……」
スーツの基本構造自体は赤香と何ら変わりないはずだが、スタイルが他二名と違いすぎるせいで別物のようだ。
最後にビビッドイエローのヘルメットを装着した田北を見て、これで色がピンクだったら犯罪ものだよ、と赤香は思った。
「あ、たきたっきー、アタシの変身も手伝っ――」
言い終わらぬうちに、二人の目前に茶色い影が落下してきた。
それが何という犬種なのか、どのくらいの牙と爪を持っているのか。
――そんなことを確認する間もなく、わんわん団の尖兵は落ちていった。
鳥海の予知した地点を中心に掘られた、半径七メートル、深さ二十メートルの巨大落とし穴。
一匹目がすっぽりと穴に飲み込まれるのを見て、二匹目と三匹目は瞬時に体を捻ったようだが、いくら柔軟な肉体を誇るわんわん団でも空中を泳ぐことはできなかった。一匹目を二匹目が、二匹目を三匹目が押しつぶすように穴の中へ姿を消していく。
「よっしゃあ! 計算通りィ!」
ガッツポーズする赤香。
「さあて、たきたっきー! アタシも変身するから……って、おーいぃ! 何してんのさ!」
いつの間にかカプセルに包まれていた田北は、下部に空いた穴から細い足を突き出し、まさに穴へ飛び込もうとする直前だった。
「何って……いつも通り、わんちゃんたちが『私を殺すに相応しい』かを検証するのよ。知ってるでしょう?」
「それについては、理解からないけど分かってはいるよ。そうじゃなくて、アタシの変身だよ。早いとこ変身しないと、そいつらがいつ登ってくるかも知れないんだし……」
「そんなの、私が知ったことじゃないわ」
からかうでもなく、冷たく突き放すようでもなく、ただ「当然でしょう?」と言うような。
「私は他でもない『私』の目的のために、こんなダッサイ服を着ているのよ。わんちゃん達が人を殺そうが、あなたがどうしようが、どうだっていいことよ」
「さ、作戦を無視する気!?」
声を無視し、田北は穴へと飛び込んだ。
少しして、犬たちの鳴き声が激しくなった。ろくに動く間もない狭い空間内から、爪と爪がぶつかる音、ぎりりと歯を軋ませる音。いずれも金属音に聞き間違えそうになることから、犬たちの殺傷能力の高さがうかがわれる。人類が技術力を結集させても張り合うことのできない刃を、わんわん団は自分の一部として使いこなすのだ。その厄介さは、数々の死闘を繰り広げてきた赤香自身が一番よく知っている。
だが、田北きいろの爪は人間のそれでありながら、肉を裂くために発達したわんわん団のそれを大きく凌駕しているのだ。
地の底からは激しい咆哮に紛れて、彼女の笑い声が聞こえてくる。
「く、くふふふふふふふふふふふふふふふ!」
余裕だ。その声には苦痛もなく、嘆きもなく、恐怖もない。
犬たちは前回のポメラニアンと同じように、人間の匂いのする半透明の物体を壊そうと躍起になり、穴を登るという行為すら忘れてしまうだろう。田北が飽きてしまうか、犬たちが消耗し切るかが戦いの終わるときだ。
後者の場合、ケリは赤香がつけることになる。田北の性格はあくまで自分中心、わんわん団に直接攻撃をすることはしないからだ。その結果、犬たちが力を取り戻して町を襲っても、彼女はどうも思わない……『自分を殺しうるかどうか』さえ明らかになれば。
だが、いくら消耗しているとはいっても、わんわん団に対抗するためには変身能力が不可欠。
今すぐでなくてもいいけれど、赤香の鳩尾は殴られなければならないのだ。
田北が相手をしている間、町へと出向いて「アタシのみぞおちを殴ってください!」と頭を下げれば、そのうち物好きな人間が実行してくれるだろう。そうでなくとも、アジトに戻ってグリアに頼めばいい、そうするだけの時間は充分にある。田北が犬たちに失望しきってしまうタイムリミットは、過去最高で三十分に及ぶのだ。廃校を改造して作られたアジトまでは、ここから走って十分ほどで着く。それから『超スピード』を使えば余裕を持って、疲れ切った犬たちを処分できるだろう。
しかし――笹呉赤香は、それをしない。
「うおおおおおおおッ!」
叫びながら、穴へ跳び下りる!
言っておくが、彼女は前述した方法を考えつかなかったわけではない。
ただ、仲間が敵のど真ん中へ突っ込んでいくのを見て、すぐに助けにいかない赤香ではない。
当然、彼女は田北の防御性能をよく理解している。その上で、スピードを活かせない閉所へ、無防備のまま、考えなしに飛び込む……笹呉赤香は、馬鹿なのだ。
叫び声はカプセルの中にまで響いた。田北は半透明のカプセルの上部に赤い影が映っているのを見て、先ほどから浮かべていた笑顔を硬直させた。
「ば、馬鹿じゃないのォ!?」
いくら犬たちがカプセル破壊に専念しているといっても、流れ弾ならぬ流れ爪というものがある。こんな狭い空間で犬たちの攻撃を食らわないなど不可能だ。そもそも落下の衝撃に耐えられるかも分からない。
赤香は大の字に体を広げ、田北――攻防の中心地点を目がけて落下してくる。
振り上げられた凶爪の先端が赤香の首を切り落とそうとした瞬間――カプセルの上部がグン! と伸びてそれを弾いた。
「た、たきたっきー!」
伸びた爪はパクリと口を開き、蛇のように赤香を飲み込んだ。それから爪は元のカプセル型になるように縮み、最初よりも一回り大きなカプセルとなった。
「痛っ!」
落下の衝撃そのままに内壁へとぶつかる馬鹿一人。
「……はあ」
「ありがとっ! 助かったよ、さっすがたきたっきー!」
「…………早く出て行ってくれないかしら。綺麗な私の綺麗な体から」
「えへへ……そうだね。アタシまた考えなしに行動しちゃって、迷惑かけちゃったね」
笑顔のまま、赤香の目が滲む。田北はそれを見ながらも、不機嫌そうに鼻を鳴らした。
「早く出てと言ってるでしょ。出て、食われるなり刻まれるなりされるといいわ。自業自得よ」
「うん……でも自己中は自己中なりにさ、一つお願いしてもいい?」
田北は否定しようと口を開いたが、先に赤香が
「みぞおち殴ってくんないと、出てってやんない」
田北は普段めったに吐かない溜め息をして、赤香を助けてしまったことを後悔するのだった。




