第7章:生存者の意志
堂々たる松の高枝に身を潜め、女狼は鋭い眼差しで光景を見下ろしていた。
体中の筋肉は緊張していたが、動くことはなかった。
漆黒の毛並みは、雪に覆われた枝の影と同化していた。
わずかに青く光る瞳だけが、彼女の存在を示していた。
耳はピンと立ち、周囲の音を逃さぬように回転していた。
冷たい風が運ぶ、微かな気配すらも逃さず捉えていた。
風が木々の間を吹き抜け、雪の渦を巻き上げる。
しかし、彼女は動かなかった。
揺れる白い尾が、かすかにリズムを刻み、集中の深さを物語っていた。
逃げていない……戦っている。
恐怖はない……あるのは純粋な意志。
興味深い。
だが、なぜそこまで必死に戦う?
何と?
自分自身か?
彼女は興味深げにその様子を観察していた。
鋭い視線は、下にいるヴェイルに釘付けだった。
彼の動き一つ一つ、迷い、怒りの閃きまでも見逃さずにいた。
説明のつかない好奇心が、静かに胸に芽生え始めていた。
地上では、最後の狼がゆっくりと進んでいた。
巨大な足が雪に沈み、足跡を刻みながら接近していた。
それはまるで、避けられぬ運命へのカウントダウンのようだった。
血に濡れた口は機械のように開閉を繰り返し、
鈍く光る牙を淡い光の中に覗かせていた。
ヴェイルは立っていた。
だが、すでに限界に近かった。
肩は重く垂れ下がり、息は荒く胸を上下させる。
彼の足元の雪は、鮮やかな赤に染まっていた。
右脚の深い傷から流れる血は止まらず、彼の危機的な状態を示していた。
苦悶の表情を浮かべながらも、彼は屈することを拒んでいた。
「ハァ……ハァ……まだ……終わってない……」
ヴェイルはかすれた声で息を吐きながらも、挑むように言葉を放った。
声は弱々しかったが、明確な意志が宿っていた。
脚は震え、凍えた指は武器すらまともに握れなかった。
それでも彼の瞳は、諦めぬ激しさを灯していた。
限界だ……
だが、それでも立っている。
これはただの勇気じゃない。
何かを証明したいのか?
自分に?
世界に?
なぜそこまで必死になる?
彼女の中で、その興味はさらに強まっていた。
その瞬間、狼が飛びかかった。
筋肉が滑らかに弾け、雪が宙に舞う。
輝く牙が目標を狙い、獰猛な視線がヴェイルを貫いた。
ヴェイルは反射的に横に飛んだ。
手が雪をかき分け、必死に武器を探す。
足元の折れた木の幹に手が触れる。
彼はそれを力強く握った。
粗い樹皮が手のひらに食い込んだ。
「今しかない……次はもうない……」
ヴェイルは心の中で覚悟を固めた。
喉の奥から絞り出すような叫び声とともに、
彼は全力で幹を振り下ろした。
バキッ。
鈍い音が、木の幹が狼の頭蓋を叩き割る衝撃とともに、雪の森に響き渡った。
獣の体は雪の中へと重く沈み込み、白い飛沫が空へと舞い上がった。
そのまま動かなくなった狼は、脚を投げ出し、虚ろな目で空を見上げていた。
衝撃によって、観察者のいる枝がわずかに震えた。
幾つかの雪片がふわりと落ち、凍てつく風に運ばれて流れていく。
だが彼女は動かない。
その目は、依然として男の姿を見つめ続けていた。
やったな。
だが、もう立っていられない。
そこまでして得るものがあるのか?
人間とは、なぜここまでして戦うのだ……
彼女は興味と分析が交じった視線で見下ろしていた。
下では、ヴェイルが一歩後ずさった。
足が震え、ついに膝をついた。
「ハァ……ハァ……やっと……終わった……」
かすれた声が彼の唇から漏れる。
膝をついたヴェイルの手は、冷たい雪へと沈み込んだ。
氷のような感触が裸の皮膚を刺すが、それよりも強烈だったのは、全身を襲う圧倒的な疲労だった。
荒い呼吸で肩が上下する。
意識をつなぎとめるだけで精一杯のようだった。
疲労と痛みに染まった顔に、かすかな笑みが浮かんだ。
生きてる……
本当に、生き延びたんだ……
信じられないという思いが、ヴェイルの中を駆け巡る。
ゆっくりと頭を垂れ、周囲の雪を見つめた。
そこには、血が広がっていた。
純白の雪と、深紅の血――そのコントラストが、現実味を奪う。
どうして自分が生き残ったのか。
それが不思議でならなかった。
意識がぼやけ、時間の感覚さえ歪んでいく。
頭上の枝の陰から、女狼はその姿を見つめ続けていた。
瞳は猫のように光を帯び、まるで彼の思考を読み取っているかのようだった。
体は動かさない。
だが、白い尾がかすかに揺れた。
鋭い観察の裏に、静かな思考が渦巻いている。
お前の意志は、どこまでお前を運ぶ?
そして、立ち続けるために、何を差し出す覚悟がある?
彼女は内心でそう問いかけていた。
膝をついたままのヴェイルは、周囲に転がる狼たちの遺体へと視線を向けた。
青白く輝いていた銀色の毛並みは、今や命を失い、静かに横たわっている。
だが、その体からは、わずかに残った光がまだ揺れていた。
魂の残滓かのような柔らかな輝きが、空中に漂っていた。
「……あんなに強かったのに。今は、もう……何もないんだな」
ヴェイルは驚きと安堵の入り混じった声で呟いた。
重い沈黙が、森の中に落ちる。
その静寂はまるで、森そのものが息を止めているかのようだった。
風さえも、今は動かない。
その瞬間だけが、時から切り離されたような、聖域めいた空気に包まれていた。
その時、狼たちから漂っていた光の粒が、ゆっくりと動き始めた。
空気の中を舞うように踊りながら、やがて一点に集まり始める。
雪に染み込んだ赤の中に、光が集まっていく。
ヴェイルの背中を震えが走る。
疲労は一瞬忘れ去られ、代わりに混乱と不安が胸を支配した。
眉をひそめ、目を凝らす。
彼の目の前で――
いくつもの物体の輪郭が、ゆっくりと雪の中に浮かび上がり始めていた。
最初に現れたのは、一本の粗末な短剣だった。
鍛造は雑だが、刃は確かに存在し、この過酷な環境で生き抜くために作られたように見えた。
その隣には、乾燥肉の塊がいくつか置かれていた。
薄い光を反射する表面は、かすかに香りを放ち、食欲をそそる。
そして最後に、血で染まった雪の上に、簡素だが清潔な包帯が静かに置かれていた。
まるで、今すぐ使えと言わんばかりに。
ヴェイルはその場で動けずにいた。
混乱と疲労が思考を鈍らせ、目の前の光景を理解できなかった。
「……なんだ、これ?」
彼は目を見開いたまま、言葉を漏らした。
その声はかすれ、ほとんど聞き取れないほどだったが、困惑と警戒を帯びていた。
視線は目の前の物たちを行き来する。
まるで、それらが解けない謎のように感じられていた。
「こいつら……あの狼たちから?
でも、どうして……?
こんなの……普通じゃない。
いや、ここ自体がもう普通じゃないか……」
小さく呟きながら、彼はなおも目を離さなかった。
手が物の上でわずかに宙を彷徨う。
掴もうとする衝動と、慎重であれと告げる理性がぶつかり合っていた。
「罠か……?
それとも、チャンスか……」
彼の声は、微かに震えていた。
動こうとするたびに、体の筋肉が疲労で悲鳴を上げる。
だが、それでも必要性が勝った。
ゆっくりと、ヴェイルは腕を伸ばした。
本能と生存本能が重なり合い、限界を超えて彼を動かしていた。
震える手が、短剣の柄に近づく。
凍えた指が、冷たく硬い感触に触れる。
その瞬間、背筋に寒気が走った。
疲労と警戒が一気に高まり、彼の手は止まった。
目は、短剣をじっと見つめていた。
呼吸が止まり、吐く息が白く空に溶けていく。
「……変だ。
なんで今、こんな物が……
いや、理由はどうでもいい。
これを取らなきゃ、次はない」
そう呟き、ヴェイルは残る力を振り絞って柄を握った。
金属の感触は粗く、整ってはいなかった。
だが、だからこそ、確かな手応えを感じた。
この世界で生き残るために必要な、ただ一つの武器。
「……よし……大丈夫だ……集中しろ……」
ヴェイルはゆっくりと短剣を引き寄せ、目の前に掲げた。
完璧ではない。
刃はすでに摩耗し、柄も歪んでいた。
だが、今の彼にとって、それは希望そのものだった。
「これでいい。
他に選択肢はない」
彼は短剣を腰に差し込んだ。
凍えた指で、なんとか固定する。
そして、視線は残る二つの物体へと移った。
乾燥肉と包帯。
まるで誰かが意図して残したかのように、整然と並んでいた。
「食料……
それに、治療道具……
贈り物か?
試練か?
いや、どっちでもいい……
必要なんだ」
そう呟きながら、ヴェイルは再び手を伸ばした。
ヴェイルは手を伸ばし、乾燥肉を掴んだ。
予想していたよりも軽く、そのざらついた質感が保存状態を物語っていた。
彼はそれを小さなサコッシュに詰め、震える手で丁寧に蓋を閉じた。
最後に、包帯を手に取った。
布は冷たく、やや硬かったが、清潔だった。
このような環境では、それだけで貴重な贅沢だった。
「……これが、命を救うかもしれない」
彼は静かに呟いた。
包帯も同様にサコッシュへとしまい、しっかりと保護されているか確認した。
単純に見えるその動作一つ一つが、彼には莫大な努力を要した。
筋肉は悲鳴を上げ、視界はかすみながらも、彼は動きを止めなかった。
その高所では、女狼が枝の影に溶け込むように、静かに佇んでいた。
雪を纏った枝の陰で、彼女の体は完璧に静止していた。
明るく青く輝くその瞳が、ヴェイルの動きを一瞬たりとも逃さず見つめていた。
まるで獲物を見定める狩人のように、その視線は鋭く、計算されていた。
彼の一つ一つの動作。
その迷い。
その息づかいまでも、彼女の観察眼からは逃れられなかった。
闇に浮かぶ白い尾が、ゆっくりと左右に揺れる。
一定のリズムを刻むその動きは、彼女の思考の深さを映し出していた。
迷いながらも、彼は進もうとしている。
動く前に考える。
状態を考えれば……悪くない。
人間にしては……なかなか、だな。
彼女は冷静かつ興味深げに、その姿を見下ろしていた。
そして、ひとつの動き。
滑らかで無駄のない所作で、枝の上で身を起こす。
完璧なバランスと静かな威圧感が、その姿に宿っていた。
足元の木がわずかにきしむ音を立てた。
それはまるで、彼女の静寂を尊重するかのような、かすかな囁きだった。
一歩を踏み出す。
その動きは、まるで木々を滑る影そのものだった。
そして、彼女は跳んだ。
静かで、しなやかで、優雅。
雪の枝の間にその姿は吸い込まれ、やがて完全に消えた。
風に揺れる松の葉の擦れる音だけが、彼女の存在をかすかに示していた。
下では、ヴェイルはその気配にまったく気づいていなかった。
膝をついたまま、雪の中にいた。
降り続ける雪は、すべてを無視するかのように静かに積もっていく。
その肩に白い層が降り積もる。
冷たく、そして静かに。
それはまるで、彼の生存を見届ける、無言の証人のようだった。