第8話 光をまとう少女
いつからだろう。
先輩の傍にいつも寄り添っていたあの人の姿を見なくなったのは。
あまり表には出さないけれど、先輩はこのところ元気がない。
やっぱりそうだったんだ。
悦子は静かな怒りを覚えてしまう。
一時的な同情心で先輩に気をもたせておいて、結局あの人はいなくなった。
本人に悪気がある感じではない。それでもやるせない気持ちがどうしても消えなかった。
私だったらずっとそばにいるのに。
そんな気持ちを隠して、鞄を置いた先輩に声を掛ける。
「お疲れ様です」
「お疲れ様」
普段と変わらない声。でもその奥にある痛みを悦子は感じ取っていた。
「今日はどうします? キャンバスをセッティングするんなら私がやりますけど」
「ありがとう。でも今日はスケッチブックに描こうかな」
包帯が取れてからもうしばらく経つが、先輩はまだ右手を使って描いていなかった。もしかするとまだどこか痛むのだろうか。
悦子はすぐに手を貸せるように、今日も誠司の隣の席に座る。
「ごめんね。気を遣わせて」
「いいんですよ。これぐらい部長として当然です」
もっと頼って欲しい。
悦子は心の中でそう言ってみる。
きっと先輩は私の心に気付かない。
絵を描く以外、駄目駄目な人だから……。
「田丸さんの絵、観たよ」
「えっ?」
唐突に言われたので少し声が裏返った。
「猫と少年。あのコンクールに出す絵、とても良かったよ」
「ありがとうございます……」
頬に血が集まって来るのを悦子は感じた。
猫がいるものの、あれは先輩をモデルにした絵だった。
そのことを先輩はどう受け止めているのだろう。
「あの猫、今頃どうしているんだろうね」
薄曇りの窓の外に目を向けて、先輩は静かにそう言った。
この様子だと、あの絵に関して特段何も意識していなさそうだ。
「きっと今頃お昼寝中ですよ」
悦子は少年が向けた窓の外に目を向ける。
他の部員が美術室に来るまでの僅かな時間。
このささやかな隙間に、悦子は言い尽くせない幸せを感じていた。
ここ藤ヶ丘高校は一年の行事の中で、最も学園祭に力を入れている。
学園祭の出しものとして、美術部は毎年自由なテーマで絵を展示していた。
それなりに人は観に来てくれるが、ただの展示なのでそれほど盛況なわけでは無い。
学園祭の機運が少しずつ高まっていく中、美術部の作品レイアウトを決めようと顧問の島田に呼び出された悦子は、クラス毎の準備を抜け出して美術室へとやって来た。
「失礼します」
「おお、田丸、すまないな」
窓を開けて外を見ていた島田が、少し体を横に向けて軽く手を上げた。
そして悦子は教室の中ほどに設置されたイーゼルとキャンバスに目を向けた。
「もうレイアウト始めてたんですか?」
「いいや、まだだよ」
島田は無言で設置されたキャンバスを指さす。
まあ見てみろと無言で急かされ、悦子はキャンバスと向き合った。
そして次の瞬間、悦子はキャンバスの前で息をすることを忘れた。
「高木の描いた絵だよ」
窓際にいた島田がそれだけ言った。
言われなくとも分かっていた。
今目の前にあるこの絵を描けるのは先輩以外いなかった。
「すごい……」
それだけしか出てこなかった。
言葉で表現することがはばかられるくらい、向かい合ったキャンバスは美しかった。
そこには眩いほどの夕日の中を跳躍する、美しい少女の姿が描かれていた。
長い黒髪を大きくなびかせ、全身で逆光気味の夕日の中に飛び出したその姿は、どこまでも伸びやかで、今まさに地上の束縛を離れ、本当の自由を手に入れたかのように絵の中で躍動していた。
「ううっ……」
悦子は、その一瞬の輝きを切り取ったような絵を見つめたまま嗚咽し、涙を流していた。
「うっ、うっ……」
涙が止まらない。
それは観たかった先輩の傑作をこうして観られたからなのか、それとも……。
「なあ田丸。喜んでやろうじゃないか」
「……」
「あいつは描き切った。この絵を一年以上もかけて」
「そんなに……先輩は……」
きっと先生は全て分かっていたのだ。
「おまえの観たかった絵だ。ゆっくり観ればいい」
そう言い残して島田は美術室を出て行った。
島田が教室を出て行った後、悦子はその場で膝から崩れ落ちた。
そのまま両手で顔を覆う。
「せんぱい……」
声を押し殺してひとしきり泣いたあと、やがて悦子は涙に濡れたままの顔を上げて、もう一度、光をまとう少女の絵を見上げた。
「こんな風に先輩の絵を観ることになるなんて……」
そう、この日、悦子は失恋したのだった。
先輩の描いたあの絵は大賞を獲った。
そして、美術部の中でもう一人、今年は銀賞を獲った生徒がいた。
「田丸悦子殿。この度の全国高校生芸術コンクールに於いて、貴方の作品は銀賞に選ばれました。よってここに賞します」
大賞を獲った先輩の表彰のあと、悦子は生まれて初めて壇上で表彰された。
たくさんの拍手をもらい、本当に嬉しかった。でも本当に嬉しかったのは賞や拍手では無かったのかも知れない。
こうして先輩と思い出を作ることが出来た。それが一番であったのだと悦子は思うのだった。
先輩は一時話題の人となった。
在学中二度目の全国コンクールでの大賞。それはかつて誰も成し遂げたことのない偉業だった。
先生が作品のエントリーをギリギリまで待つよう言っていた意味を、悦子はあの絵に向き合ったときにようやく知った。
先生は見ていないようで、生徒たちのことをよく見ていた。
気付いていなかったのは自分の方だったのだ。
ずっと前から先輩は、何も言わずとも先生を信頼していた。
先生と生徒という枠を超えて、きっと彼らはお互いの本質を理解し、目に見えない強い絆を作っていたに違いない。
先生は最も先輩のためになるように行動した。
そして、きっと私にも……。
先生はいつから気付いていたのだろう。
言葉にはしなかったけれど、悦子は見かけあまりぱっとしない顧問に、人知れず感謝をしたのだった。




