第9話 キャミーシャを救い出せ
キャミーシャの悲鳴にルチカは本を閉じ、その場から慌てて立つ。
もしや本棚の上から落ちてしまったのでは……と危惧したがどうやら杞憂で、キャミーシャは元の位置から離れていないようだった。
しかし何故か毛を逆立てており、さっきまでのおっとりとした表情はどこへやら、何かに怯えているようにも見える。
(何かあったのかしら……?)
ルチカは異変を探るべく、つま先を伸ばして本棚の上を覗こうとする。
(み、見えない……)
小柄なルチカでは、本棚の上はおろか、一番上の段の本すら届く自信がない。仮にジャンプをしてもやはりキャミーシャの様子を見ることは叶わないだろう。
(とりあえず離れて見てみようかしら)
そう思いつつ、ルチカが移動しようとしたその時。
「キュッ!」
キャミーシャとは違う変な鳴き声がして、ルチカは再び本棚の上へ目線をやる。
そこには変わらずキャミーシャがいるが、ルチカの方を見て訴えている。
「もしかして降りてこれな……い!?」
ルチカの目の前に映るのは、あのそわそわと動いては逃げていく、想像することすら躊躇する虫。
「ぴぎゃあああ!!」
──誰であろうゴキブリである。
(ななな、なんでこっちに……!)
どこから来たのかも分からないソイツは、今まさに宙を舞いながらルチカの顔に着地しようとしていた。
このままではルチカが避けるよりも先にゴキブリに触れる方が早い。
時すでに遅し。ルチカの運命はもう定まっているのである。
「ニャニャニャ!」
しかし、キャミーシャは違う。運命に抗うべく、首元から数本の氷の矢を作り頭上へ浮かべていた。
「ニャニャッ!」
そして、数本の氷の矢は目にも止まらぬ速さでルチカの目の前に来て、ゴキブリの身体を貫いた。
ゴキブリは声もなくぱたりと床に倒れると、ぴくぴくと足を動かしてから間もなく息を引き取った。
いくらキャミーシャの氷魔法に火力はなくとも、虫一匹をこらしめるのには十分な一撃だろう。
(す、すごい……)
ルチカはゴキブリの死骸からそそくさと離れると、キャミーシャが上っている本棚の側面に寄りかかった。
「あ、ありがとうキャミーシャ。あなた、とっても強いのね……」
「にゃんにゃんにゃー」
これくらいちょろいちょろい、とでも言いだけにキャミーシャは鼻歌を歌っている。
その可愛らしい歌声を聞きながら、ルチカはキャミーシャの悲鳴を思い出した。
(……鼻歌を歌っているけど、キャミーシャもゴキブリに怯えていたのかしら)
だとしたらゴキブリが降ってきたことにも説明がつく。
おそらくキャミーシャが休んでいた本棚の上にゴキブリがいて、驚いたキャミーシャが悲鳴を上げたのだろう。
そして、その悲鳴に慌てたゴキブリが、ルチカの顔に落ちてこようとしていた。
(一瞬の出来事だったけれど……何だかとても疲れたわ)
ルチカが長い吐息をついてぼーっと部屋を見る。
さっきの件もあってか掃除を始める前より埃が浮かんでいるような気さえする。
その中には数本の氷の矢が魚のようにぷかぷかと泳いでいる。
やがて氷の矢はルチカの上に飛んでいくと、プスッと間の抜けた音がした。
「ニャニャニャー!?」
その直後、またもキャミーシャの大きな悲鳴が響き、ルチカは顔をぺしぺしと叩きながら立ち、何歩か後ろに下がって本棚を見上げる。
「……え?」
そこには自分で作った氷の矢がしっぽに突き刺さり悶えているキャミーシャの姿があった。
目元にはうっすらと涙が浮かんでおり、その場で足をバタバタとさせている。
「どうしてこんなことに……。と、とりあえず落ち着いてキャミーシャ! 」
ルチカの言葉に、しかしキャミーシャは落ち着き気配を見せず、混乱しているのか走ってしまった。
「ま、待って、その先は……」
「にゃん!? にゃんにゃあ!」
ルチカの静止に聞く耳を持たず、キャミーシャは本棚の上からジャンプし──安全用の柵を飛び越え、そのまま落下してしまった。
「キャミーシャ!!」
名を呼ぶ声とドテッという鈍い音が重なり、ルチカは顔を真っ青にしてはしごを降りていく。
キャミーシャの元へ駆け寄ると、ぐったりとしており意識もないようだ。
しっぽの先に刺さっていた氷の矢はいつの間にか消えている。落ちている時にどこかへ飛んでいったのだろうか。
「と、とにかく治癒魔法を……」
ルチカは護身用に持ってきていた杖をポケットから取り出しキャミーシャに向けようとする。
しかし、思うように杖の先はキャミーシャの方を向かず、握った右手がカタカタと震えている。
(お、落ち着いて、落ち着くのよあたし……!)
そう言い聞かせながら、ルチカは右手に左手を重ねて深呼吸をした。
(大丈夫、大丈夫だから……)
少し経つと震えが止まり、杖の先がキャミーシャに真っ直ぐに向いていた。
「あとは魔法をかけるだけよ」
(……あたしなんかにできるのかしら)
学園で落ちこぼれ。無駄に知識だけあって実践ではほとんど上手くいかない。毎回再試験を受けて合格したかと思ったら、ついには一度目の再試験ですら不合格になった。挙句の果てに家出してみんなを悲しませている。
──こんなにもだめだめで悪い子が魔法を使っていいのだろうか?
「なに卑屈になってるの……。ここでやらなきゃもう誰も救えないじゃない……」
カタカタと震え出した右手。ルチカは唇を噛んで誤魔化そうとするが、震えは全く止まらない。
それどころか杖はルチカの手元を離れ、床にころころと転がってしまった。
「なに、やってるのよ……助けなきゃ。助け、なきゃ」
もう一度杖を握ろうとするが力が入らない。まるで右手が杖を拒んでいるかのようだ。
それを嘲笑うかのように、杖はゆっくりと転がっていく。
「おや、何かあったのかい?」
そこへランプキンが駆け寄ってくると、キャミーシャを見て目を丸くした。
「私がいない間にいったい何が……」
どうやらランプキンはこの部屋からいなかったようだ。
そういえばキャミーシャの悲鳴にランプキンが来ないのは不自然だ、とルチカは今更ながら思う。
「……ごめんなさい。あたしが悪いの。ごめんなさい、ごめんなさい……」
ルチカは膝から崩れ落ちると、頭を床にこすりつけてランプキンに謝った。
「お、落ち着いてルチカさん。見たところ傷はなさそうだ。だから、ね? 一度頭を上げてくれないかい?」
「……」
ルチカは無言でゆっくりと頭を上げると、キャミーシャを抱える。
体温は温かく、毛並みも柔らかい。か細いながらも息をしている。
「とりあえず食堂に行こうか。隣には私の部屋があるから、そこから救急箱を取って来るよ」
「……ええ」
ルチカは操られるように立つと、目線をキャミーシャに向けたまま何度も謝るのだった。
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