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水色桔梗の雫 ~異伝本能寺の変~  作者: つむぎ舞
六月十五日
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堀秀政

 日が沈む前に坂本城への総攻めをと告げる黄母衣衆達の進言を全て押さえつけ、堀秀政ほりひでまさは城外に敷いた本陣の陣幕内に留まり続けた。


 自分は一体何を耳にしたのか。

 坂本城内にて明智家の重臣溝尾茂朝(みぞおしげとも)が我が側近である奥田直政おくだなおまさに語ったという言葉を何度も思い返してはその真偽を心の中で問うていた。

 

 明智光秀は謀反など起こしておらず、本能寺を襲撃した敵対勢力の手から織田信長公を救いだしたが、安土城までお連れした織田信長公はその傷深く落命されたという。

 この話を亡き主君明智光秀の汚名返上の為の苦し紛れの虚言として笑い飛ばすことは簡単だ。しかし今更そんな嘘を申して何の意味があるだろうか。

 それは逆に彼等の主君の信念に基づいた決起を汚す事にもなるではないか。

 では誰が織田信長公を襲撃したのか? その真なる敵を放置して我らは何をやっているという事になる。


 明智光秀謀反を自分に対して明確に表明したのは羽柴秀吉、織田信孝、丹羽長秀の三人であった。織田家の二つの方面軍を束ねる彼等がそう申すのであればと自分はその言を信じたが、彼等の誰も明智の使者が何を語ったのかを自分に伝えることはしなかった。否、明智の使者の存在そのものを明かさなかった。

 それは自分の存在が軍内で軽んじられたからかもしれぬが、今自分が知った明智側の言い分を含むならば、それが故意に隠蔽されたのではとの疑念が残る。


 堀秀政の疑念をより深めるに至ったのは山崎の戦の後の羽柴軍の動きであった。

 近江国への進軍は自分の率いる八千の軍だけでも十分すぎると思えた。

 使者として坂本城に入った奥田直政によれば坂本城内の兵力は百程度であるし、甲賀衆を率いる山岡兄弟より得た情報では安土城にはすでに明智軍の姿はなく、佐和山城と長浜城を合せても総兵力五百に満たぬ小勢、彼等は城を守る兵というよりも治安維持のために配された兵という印象が強い。

 しかし近江国には羽柴秀長を大将とする羽柴軍の本隊九千と山崎の地で転向してきた近江衆二千を含む一万一千のもの軍が更に派遣され、その軍は大津にまで進軍し瀬田の唐橋の修復を待ち続けている。

 これに対して明智光秀の本拠となる丹波国に送った兵力はわずかに四千のみ。しかもそこに羽柴秀吉の直臣達の軍は参加していない。

 丹波国の明智の拠点は亀山城、福知山城、黑井城の三つ。京の北にある周山城を含めれば四つとなる。それらを攻略するのにわずか四千ではあまりにも少なすぎるではないか。


 当然この采配を堀秀政は羽柴秀長に向け問うたが、羽柴秀吉の妻おねと彼の母の救出の為に軍を長浜城に向けるのだと告げられるとそれ以上何も言うことは出来なかった。

 確かに羽柴秀吉の一族親族に対する拘りは他一つ抜けている所がある。その感情が軍編成に大きく作用したともとれなくはないからだ。

 この自分の抱く疑念を奥田直政にだけは語って聞かせたが、その事は心の中に秘め決して口外せぬ様にと念を押された。


「八千の軍の大将といえど兵達を掌握しているのは羽柴秀吉子飼いの黄母衣衆達、自分達が動かせる兵などここには一兵もいないのです。羽柴秀吉を敵に回すような事があれば明智に通じたとでも理由をつけて葬られるかもしれませぬ」 


 奥田直政もこの羽柴軍の不可解な動きを訝しんでいる様ではあった。


          *          *


 夕刻、敵襲を告げる警鐘の音が鳴り響き、琵琶湖湖上から数百の大小の軍船が現れた。明智方に属する堅田水軍の来襲である。かの軍は船上よりの鉄砲攻撃を得意とする。すぐに沿岸の防備を固めさせたが敵水軍は沈黙を守ったままだった。


 しばらくして堅田水軍の猪飼秀貞いかいひでさだが明智の重臣斉藤利三(さいとうとしみつ)を捕え降伏してきたと告げられた。

 猪飼秀貞が堀秀政の前に現れたのはそれから程なくの事であった。

「堅田水軍頭領の猪飼秀貞、羽柴秀吉殿にお味方申し上げる。その手土産として謀反人明智の重臣斉藤利三を捕えて参りました」

「水軍頭領は確か父君の猪飼昇貞いかいのぶさだ殿であったはずだが?」

「父は明智に殉ずると申して腹を割りました。時勢の見えぬ馬鹿な男ですよ」


 その言が事実かどうかを掘秀政はこの若者に問う事をしなかった。

「猪飼、いや明智秀貞」

 その若者が事ある毎に明智姓をひからかして自らを誇示しているという話は安土城に居た自分の耳にも伝わって来ていた。

「私は明智姓を冠する者を見過ごすことは出来ぬ。この者を捕えよ」


 堀秀政が発した言葉に猪飼秀貞は驚き、その場で尻餅をついて悲鳴を上げる。黄母衣衆達が彼に刃を突きつけた。


「織田の世にあって織田信長公の信頼厚き重臣であった明智光秀。

 その姓を冠する事の重さを貴殿は理解しておらぬようだ。それ故此度の謀反は何よりも許し難く、それに荷担した者は全て重罪に問われる。

 そこに例外などあってはならぬ。堅田水軍の頭領の座と明智の重臣の捕縛如きで自らの助命を計れるとでも思うたか」


 明智姓を持つから処断するというのは事実だが、それ以上に堀秀政はこの若者の成し様が気に入らないというのが何よりも大きかった。

「捕えた斉藤利三は織田信孝おだのぶたか様の在る京へと送り、その男はこの場で処断せよ」

 堀秀政はためらいなくそう命じた。


 突然、陣幕内に見知った顔が現れた。

 羽柴秀吉の重臣の一人である蜂須賀正勝はちすかまさかつ。なぜこの男がここにいる? そもそも着陣を自分に知らせる事無くいつからいたのだ。ここで何をやっている。


「猪飼秀貞殿の身柄はこの蜂須賀正勝がお預かり致す」

 蜂須賀正勝ともあろう男がこんな男を今更どう使おうというのか? 彼は堅田水軍を手中に収めれば近江国での戦が楽になるという。確かにその通りではある。


「京での騒ぎは織田信孝様の手に余る様でございます。堀秀政殿には急ぎ京にお戻り頂き、京の治安回復に努めて頂きたいと我が主のお言葉で御座います」


 蜂須賀正勝は自分にこの軍の大将の解任をも同時に伝えた。

 従わざるを得なかった。羽柴秀吉と自分との力の差は大きすぎる。織田信長公の威無き自分の無力さを堀秀政は噛みしめた。

 

 堀秀政は斉藤利三を送る護送隊と共に京を目指す事となった。

 道中、斉藤利三より此度の明智光秀の謀反について詳細な話が聞けるのではないかとも考えたが、蜂須賀正勝は自分の監視のために数名の黄母衣衆も護送隊に付けて来た。これで迂闊な事は出来なくなった。

 自分の今の状況は、縄で縛られ京へと送られる斉藤利三と変わりはしない。

 ただ、その自分への対応で羽柴秀吉のこれらの行動に対して抱く疑念は更に大きなものへと膨らんだ。


 京の織田信孝様の元へと急ぎ戻らねば。

 織田信孝様の元であれば羽柴秀吉の力も及ばない。羽柴秀吉の心胆について、信孝様と今一度吟味すべきだろう。


 自分が坂本城攻めの本陣を発つのとほぼ同時に、猪飼秀貞を引き連れた蜂須賀正勝とその配下達を乗せた軍船の一部が、その行き先を告げること無く琵琶湖の沖へと移動していく。

 彼等の向かう先にあるのは安土城。

 堀秀政は進む斉藤利三護送隊の列の最後尾の馬上から、消えていく船影を冷ややかに睨み付けていた。

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