明日勝つ為に
近江国坂本城の大手門から羽柴軍が一斉に雪崩れ込むと、放棄した三ノ丸は織田木瓜の旗印で埋め尽くされた。
明智秀満の予想通り、彼等は家屋敷に押し入り略奪を開始し軍の統制は大きく乱れ始めた。
主君明智光秀の命は今日を含めてあと二日坂本城を守れではなく、羽柴軍の安土城入城とそれに続く美濃国、尾張国への進軍をこの坂本城を用いて二日間阻止せよなのだ。
溝尾茂朝の入城により彼の使う五郎の手の者が動き出した。彼等は坂本城周辺に位置する羽柴軍の動きを調べ、我らにそれを報告する。
坂本城を囲む敵は堀秀政率いる八千、これとは別に大津に羽柴秀長率いる一万一千の羽柴軍本隊ともいうべき兵力が存在する。
その本隊から二千の軍が切り離され坂本城包囲の軍に加わった。その軍は山崎の地で我らを裏切った近江衆。
敵の意図は坂本城がすぐには落ちぬと見て彼等を坂本城の押えに残し、城攻囲の八千の軍を本隊に吸収して一万七千の軍を以て美濃国と尾張国を目指そうとしていると読んだ。
羽柴軍本隊が大津で停止しているのは瀬田の唐橋の修復を待っているからであり、それも明日には動き出す。
その進軍を止めるには、目の前の八千の軍をこの地で足止めし続けること、明智秀満はすぐに大手門を開き三の丸の放棄を決断した。
彼等を城内へと引き込み、更には城内を略取の場として開放してやる事でその大半が徴収兵である羽柴軍は一時的にその統率を失う。
加えて攻城の為の地形が新たになる事でそれに伴う陣替えを将達は兵達に指示し直さねばならなくなる。
次の一手は敵の大将を交渉の場へと誘い時を稼ごうというもの、そちらは溝尾茂朝の発想だった。
彼は包囲軍の大将堀秀政は我らに主君明智光秀の死を伝え、一族や重臣達の殉死か投降による開城を迫る機会を覗っているはずであるから、その機会を誘う餌をこちらから用意しようと言うのだ。
溝尾茂朝が用意したのは殿が坂本城に残した刀や書画といった宝物数点、これらが戦火に焼かれ焼失するのは忍びないと、寄せ手大将にそれを引き渡すと申し出たのである。
堀秀政はその条件を飲み、二ノ丸の主君明智光秀の屋敷にて明智定頼、明智秀満と溝尾茂朝の三人で羽柴軍の使者を迎える事となった。
現れたのは包囲軍の大将堀秀政の側近奥田直政、彼の第一声は我らの主君明智光秀の死を伝えるものであった。
大津の南、小栗栖での出来事を知るのは自分と溝尾茂朝の二人だけ。未だ真実を知らぬ定頼様は目に涙を浮かべながらその言葉に耐えていた。
奥田直政はすでに抵抗は無意味と我らに開城を迫る。
「我らは京にて織田信長公の窮地を救い安土城へと送り届けた。しかし織田信長公の傷は癒えず六月十二日に落命なされた。知らぬ者は我ら明智を謀反人と口にするが、それが事の事実」
突然の溝尾茂朝の言葉に奥田直政は困惑の表情を見せる。
「その言葉を信じろと?」
「我らは各地に使者を送り真実を伝えたはずだ。その言葉に耳を貸すことすらせず、更にはその真偽を確かめる使者さえも送っては来なかったではないか。
そうしてさえいれば織田信長公の姿を使者に見せる事が、真実を伝える事が出来たのだ。
しかし織田信長公が亡くなられた今となってはそれも全て後の祭り、だが奥田殿は我らの元に訪れた最初で最後となる織田家よりの使者。我らの真実を是非とも知っておいて頂きたかった」
溝尾茂朝が溜め込んだ想いをぶつけるように言葉を吐いた。彼の言葉が切れると定頼様が幼い口調で、されど力強く声を発した。
「父上は織田の為に働き逝ったのです。我ら明智は理不尽には断固戦う」
我らの言葉に奥田直政は黙り込んでしまう。事の真偽はともかく坂本城に開城の意思が無いと悟った様だった。
溝尾茂朝が譲渡する家宝の目録を読み上げる。それが終わると奥田直政は問いかけてきた。
「郷義弘の脇差し、それが御座いませんでしたが?」
殿が公式の場では必ず帯刀した差物、今それは燕と名乗る少女の元にある。明智とあの娘には奇妙な縁があった。
彼女に追補の手が伸びぬ為にその存在は隠すべきだ。
「その差物はこの明智秀満が亡き殿の元へとお届けする所存。それだけはお渡し出来かねますな」
そう述べた自分の言葉に奥田直政は静かに頷いて見せた。
使者が去ると気を張り詰めた定頼様がその場に崩れ落ちる。その場でお父君の無事を伝えたが不安に駆られた定頼様は泣き出してしまう。
人を呼ぶと革手と女達が現れ定頼様を伴って本丸へと消えた。
明智秀満は城内の者全てを集めよと命じた。
総勢二百名、その半数は一族親族の者達。これが坂本城の全兵力になる。奥田直政を二ノ丸に招き入れた事でその殆どが露見したはずだ。
京から明智軍本隊が帰還した時、この城の兵糧の大半を供出したのだ。坂本城には既に一千の兵力すら籠城させる余裕すらなかった。
外から何とか食料をかき集めて維持してきた現状、羽柴軍に囲まれればそれも出来なくなる。
明智秀満が坂本城に一人辿り着いた時、大津の戦いでの生き残りの二百と城兵五百も籠城しては一日持たずに皆が飢えてしまうと伝えられ、共に戦うと息巻く兵士達に蔵を開き銭を分け与えて追い出さざるを得なかったのである。
集った者達の顔は皆不安に満ちている。殿の死を耳にした者もいるだろう。まず溝尾茂朝が口を開いた。
「羽柴軍が討ったと申すのは私が仕立てた殿の影武者。殿は淀城に身を寄せ羽柴軍に対する反攻の機を待っておられる」
次いで自分がその続きを声に出して言った。
「殿は淀城を発ち河内国の三箇勢と合流、未だ山崎の地に留まる羽柴秀吉本陣を急襲する。その準備の為に二日時を稼げと我らに命じられた」
この言葉でその場の空気が変わった。
「我が殿の命はただ二日城を守り抜けではない。この坂本城を以て大津にて停止中の羽柴軍本隊の進軍を止め、彼等の安土城入城とそれに続く美濃国、尾張国への侵攻を阻止せよなのだ。
我らを織田に対する謀反と叫びながらその実、羽柴秀吉が織田家を潰そうと動いているのだ。美濃国と尾張国という織田家の心臓部を落とすにはそれなりの数の軍が必要となる。
つまり今城を囲む敵軍をこの城に釘付けにしている限り、羽柴軍は先に進むことは出来なくなる」
三ノ丸を戦わず放棄した理由に気付いた者もいるようだ。それよりも自分達を謀反人に仕立て上げ、織田を盗み取ろうとする羽柴秀吉に対する怒りの声が強い。
「今、三ノ丸を放棄して敵の一部を城内に引き込んだのはその為の策の一つ。明日には二ノ丸も放棄し城外の敵のほぼ全てを城に呼び込む。故に本丸が羽柴軍との決戦の場となる」
援軍無き籠城、今城に残る者は皆死を覚悟している。
しかし今はその意義が違う。滅びる主家の運命にただ殉じるのでは無く、明日の勝利を掴む為の戦いである。それが絶望的な状況であっても目的を持つと人は変わる。
明日から始まるであろう本丸での戦いに備えて皆精力的に動き始める。
予想に反して羽柴軍の方に未だ動きは無く、もう日も暮れようとしていた。
* *
羽柴軍の陣から警戒を告げる鐘の音が鳴り響いている。
事態掌握の為に急ぎ大天守へと登った明智秀満の目に琵琶湖水上を坂本城を目指し進み来る数百の軍船の姿が映る。
堅田水軍、援軍の到来に坂本城の城内はにわかに活気づいた。
完全に日が落ちるのを待って坂本城を取り囲む軍船から一隻の小舟が城の水門前で停止した。現れたのは水軍頭領の猪飼昇貞、彼は出迎えに出た自分と溝尾茂朝に羽柴軍への降伏の意思を伝えた。
「明日、我ら水軍は羽柴軍へと降りまする。斉藤利三殿との約定を守り、今宵限りは我ら明智にお味方致す。明智定頼様以下御一門の方々を船に乗せ安全な場所へと送り届けさせて頂きたい」
「斉藤利三殿はどうされたのか」
「我らの助命の為にその命を使えと申して下さいました」
それだけ伝えると猪飼昇貞は船の手配のために兵船へと戻って行く。
溝尾茂朝は定頼様や一族の者達は生き残り明智再興に力を尽くすべきだと言う。自分もその言に賛同する。
残された時は少ない。すぐに城兵以外の明智者は全て船にて落ち延びよと命じた。
驚きの表情を隠せぬまま、妻の革手が大天守の自分の元へと一人現れた。
「私は、あなた様と共に城に残ります」
「ならぬ」
「私が足手まといになるのですね。ではここで今死にます」
「今日が明智が滅びるその日ならばお前と共に死んでもよい。この戦は明智に勝利をもたらす為の戦い。お前には我が亡き後の明智の戦いを託すのだ」
「後の戦いを託す?」
「我が殿ならば必ず羽柴秀吉を討つ。これからは光慶様と定頼様の力で明智家を再建せねばならぬだろう。お前は定頼様の母代わり、まだ幼い定頼様を見守る役目があるではないか。ここはお前の死に場所では無い」
何かを口にしようとする彼女を明智秀満は強く一度抱きしめた。
「託せるものがあり、託せる人がいる。だから私は後顧の憂い無く戦える」
抱擁を解き自分の顔を見上げる妻は目を腫らしながらも健気に白い歯を見せようとする。
「今まで良く私に尽くしてくれた。礼を言う」
「泣きませぬ。私は泣きませぬよ。泣くもんか」
それでいい。明智秀満は革手に微笑みかけた。
下の階から妻を呼ぶ侍女の声、何事かと問う妻に定頼様が革手が参るまで自分の乗る小舟を出すなと命じているという。
「急げ、時が無い」
改めて革手はその場に伏して、明智光秀に立派な御最期をと告げ礼の姿勢を取る。
頷く自分の姿を、後ろ髪を引かれる様に去る彼女の姿を、互いに目に焼き付けながら革手は坂本城から退去していった。
女は愛する者と共にと考える。男も今日がこの世の終わりならばそう考える。
しかし先に未来あるなら男は愛する者には生き残って欲しいと願い、その為には命も省みない。その気持ちを目の前の妻にうまく伝える事は出来なかった。
しかし、彼女の心の中で自分は生きる。
時を追うほどにそれは小さく欠片のようになるが、彼女が生を終える時、自分も共に死ぬのだ。
その様に自分に言い聞かせるのは己の弱さだろうか。
溝尾茂朝の采配により混乱なく退去は進み、夜の琵琶湖を粛々と離れていく小舟の列を彼と共に見送った。
あと一日、明日は激しい戦いになるだろう。
自分も溝尾茂朝も互いにそれを感じてはいるが、言葉に出して語ることをせずに短く微笑み合っただけだった。
沖の大型船が自分達に別れを告げるように鐘を数度鳴らし、そして静かに動き出した。




