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水色桔梗の雫 ~異伝本能寺の変~  作者: つむぎ舞
六月十五日
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丹波国亀山城

 十五日の早朝、老ノ坂の陣が破られ防御の指揮を執る妻木範之つまぎのりゆきの討ち死にが丹波国亀山城に伝えられた。攻め手は中川清秀なかがわきよひで高山重友たかやましげともの率いる四千の軍、もう半日も待たずに彼等はここに押し寄せてくる。


 明智家の本城、丹波国亀山城に居残りを決めた木村吉清きむらよしきよは城を退去した城代の妻木広忠つみぎひろただの言葉を思い返していた。

 彼は自分にこう告げたのだ。


「この亀山城を敵に無傷で渡せば敵軍はこの巨城を守る為にかなりの数の兵を割かねばならず、更にその城下町を敵の略取の場とすれば、僅か四千程度の兵力、奴らは自らの行為でこれ以上先に進めぬ様になる。それで福知山城や黑井城といった地域の避難の時を稼ぎ被害を抑えられるだろう」


 明智軍の山崎の地での敗戦と、山崎の地より離脱してきた馬廻り百騎より主君明智光秀は丹波国に帰還せずを告げられると、妻木広忠は老ノ坂の陣に亀山城が持つ守備兵力の一千の全ての投入を決定し、同時に城下町と近郷の村々に「明智軍が時を稼ぐ間に退避せよ」との高札を掲げさせた。

 妻木広忠は更に亀山城は開城し無傷のまま敵に渡すことで敵の足止めの一助とすると申すと、明智光慶あけちみつよしの側室のふさや城内に残る者達に周山城への退避を命じ、広忠自身は有志を募って「近江国坂本城にて羽柴軍との一戦を行う」と言い残して城を去った。

 結局、無人の開城では羽柴軍を恐れて逃げたと思われ武士の面目が立たぬと城に居残ったのは木村吉清と隠岐惟恒おきこれつねの二人とその郎党達だけであった。


 しかし妻木広忠の思惑の一部は大きく外れた。

 老ノ坂の陣に全兵力を投入したのは領民達退避の時間稼ぐ為、山崎の地より戻った精鋭百騎を加えて実際かなりの時を稼いだにも関わらず、亀山城の大手門前には数百にも及ぶ民が持ちきれぬ程の荷を抱えこの亀山城に匿って欲しいと殺到してきているのだ。

 命の危機を前にしても自らの築いた財を捨てきれぬ欲深さ、明智という心の拠り所にすがろうとする心の弱さ、それを妻木広忠は見落としていた。

 民はただ逃げればいいのだ。それで命は救われる。なぜそれが理解出来ぬ。混乱と恐慌に襲われ城門前で右往左往する民の姿に、木村吉清は歯がみした。


 羽柴軍四千が押し寄せてくる姿が城の高見から見えた。

 城下町の外れで中川軍と高山軍は停止し静かに陣を構え始めたが、残りの半数は統率の取れぬ狂った獣の如く城下町内へと殺到してくる。

 町の大通りを進み家々の戸を蹴破っては押し入り、そこに留まっていた民は発見されると次々に斬り殺されていく。

 木村吉清と隠岐恒の二人と僅かな数の郎党達はその光景を為す術無く見守ることしか出来なかった。


 城下町を羽柴軍の兵達が覆い尽くし殺戮の場と化す中それは現れた。

 水色桔梗の旗印を掲げた騎馬隊、何十倍もの敵兵を木の葉の如く蹴散らしながら、それは一直線に進んでいく。


          *          *


 味方は僅かに五十騎、圧倒的な戦力差にも関わらず我らを率いる若殿、明智光慶はそれに臆すこと無く平然と騎馬を走らせた。

 先頭を駆ける若殿の背を追いながら、妻木範賢つまぎのりたかは死の恐怖とは程遠い高揚の中にいた。

 

 不謹慎な話だが丹後国へ使者として向かう若殿の補佐の任を受けたのは、それが一番楽が出来そうだと踏んだからだった。実際、丹後国への往路は護衛の者達だけで全てを決め、若殿がそこに入る余地は無かった。

 この若殿を危険に晒さぬ事が我らの使命、しかし丹後国での混乱収拾に我らが手を貸すに至って、若殿は積極的に我らと交わり言葉を交わし、一人の仲間として我らに接した。

 気づけば我ら、若殿を中心に動く集団へと変貌していた。

 この若者は面白い。

 この人の側にある事が快感だった。これまでの自分に無かった感情が芽生えているのを妻木範賢は確信している。他の者達も同じかもしれない。

 この無謀にも見える突撃にも誰も異を唱えず、苦笑いの表情だけで若殿の後に続いている。福知山城にて加わった三十騎は我らの動きに従っただけだろうが、それでも敵が目前に迫ると腹を括った様だ。


 丹後国長岡家を味方にする使命に失敗し、長岡家は羽柴方に旗色を変えての丹波国への進軍を決定した。彼等の進軍は羽柴方に付いた一色家に人質として捕われているたま様を死なせぬ為の苦渋の決断。占領した地域での略奪や殺戮行為は行わぬと長岡忠興ながおかただおきは我らに約束してくれたばかりか、羽柴軍に追われる明智者達の庇護まで申し出てくれたのだ。

 我らの後方から長岡軍が迫る中、福知山城主明智秀満(あけちひでみつ)は不在、その子である三宅重利みやけしげとしはまだ幼子であり城は三宅一族と秀満の家臣達によって守られていた。

 若殿は城の皆に事情を説明し長岡軍に福知山城を開城せよと命じると、明智家の本城亀山城を目指し出発した。

 この時、若殿と共に戦うと集った福知山城兵から騎乗の者三十のみを伴ったのだった。


 羽柴軍の旗印ひしめく城下町、大通りの敵を明智騎馬隊は一直線に断ち割った。

 中川清秀と高山重友の軍の数増しの為に付けられた羽柴軍二千は、元々統率の取れていない雑兵の集まり、明智光慶率いる騎馬隊の一撃はこの勝ち戦に浮かれた羽柴軍を大混乱に陥れた。

 大通りを駆け抜け反転し再び城下町へと突入した時、全ての敵が蜘蛛の子を散らすように逃げ出していた。

 明智騎馬隊の働きに華を添えるように亀山城からは太鼓の音が響いている。


 若殿は敵の状況を見て冷静に判断したのではない。目の前で行われていた民に対する殺戮行為に対する怒りがそうさせたのだ。

 若殿のその激情は声になって自分に問うて来た。

「範賢、妻木広忠はなぜ民を城に入れ助けないのか?」


 鳴り響く太鼓の音以外に亀山城に動きらしきものはない。伝令を城に走らせ状況の説明を求めるとその回答はすぐに得られた。

「亀山城は既に空城。妻木広忠は無人の城と城下町を敵に対する枷として、他の城下に羽柴軍が進軍できぬようこの地で足止めする腹づもりとの事、退去命令に従わぬ領民が逃げ遅れ城へと押しかけた様です」

「妻木広忠がそう決定したのであればよし」


 若殿は思考を切り替え亀山城の城門前に詰めかけた領民達に「逃げよ」と叫ぶがその声に誰も耳を貸そうとしない。家財を満載した荷車にしがみつきながら助けを求める視線だけが我らに注がれる。

「範賢、この者達はなぜ逃げないのだ」

「荷を、自分達の財産を手放せないのです。それを手にするまでの苦労を思えば気持ちも分からぬではないですが」

「城に入れば確実な死が待つだけであろう」

「この者達を扇動している者がいるのかもしれませぬ。城に入れば命が助かる。財も守れると」

「扇動者…」


 若殿は荷車に積まれた荷に火を掛けよと配下の者達に命じると、自らも下馬して炎を掛け、嫌がる者達を地面に引き倒した。

「明智光秀が一子、明智光慶である。お前達は明智の戦に足手まとい、すぐにこの地を離れて北へと向かえ。従わぬ者は全て斬り捨てる」


 この集団の長らしき老婆が若殿の前に何やら不満の声を上げながら立ち塞がる。

「お前が元凶か」

 容赦なく若殿の刃はその者に振り下ろされた。

 これを見た人々は非道と侮蔑の声を若殿に浴びせながら逃げ散っていく。そんな恨み節の声の中で若殿は一人その老婆の前で膝をついた。

 若殿が咄嗟に導き出した答えが扇動者の処分であった。

 この老婆が民をここへと導いた事で多くが逃げ遅れたのだ。当然の処置だったが若殿はおそらくそう考えてはいないだろう。そして今は悔いる時では無い。


「範賢、私は民を守ると誓ったのに、何という事をしてしまったのだ」

「後悔など後でいくらでも出来る。今は自身の務めを果たせ」


 妻木範賢は明智光慶の胸ぐらを掴んで力ない体を立ち上がらせ、その呆けた顔に平手を入れた。自分をきっと見つめ返す若殿の顔に生気が戻った。

「すまぬ範賢、取り乱した」

 自分に詫びる若殿の言葉に、妻木範賢は思わず目を伏せた。


「態勢を立て直した敵が来ます」

 そう告げる声。

「二十騎、私に続け」

 若殿の言う二十騎とは安土城から若殿に追従してきた者達を指す。当然の如く乗馬した自分に若殿が命じた。

「我らが敵を引きつけ城下町から引き離す。範賢、お前は残りを指揮して領民を城下町から退避させ、出来るだけ遠ざけよ」

「承知」

 出来ぬとは言えなかった。

 進み行く若殿達に背を向け、妻木範賢は自身の使命を復唱した。


          *          *


 再び亀山城へ向けて走り出す羽柴軍。

 雑兵達が身勝手に押し寄せた前回と異なり、今度は中川清秀がそれを率いて進んで行く。明智軍による抵抗を警戒して慎重であった中川清秀と高山重友の二人であったが、その抵抗が軽微であると知り腰を上げたのだ。


 進み行く羽柴軍に並走する形で駆ける明智光慶達二十騎、しかし羽柴軍はこちらに見向きもしないでひたすらに亀山城を目指して進軍していく。

 未だ半数の羽柴軍は後方で動かない。

 自分達の存在が全く無視されている事実に明智光慶は舌打ちし、目の前の敵の注意をどうすれば引けるか思案した。

 幼少の頃より経文や詩歌を学び、数年前からは兵書も学べと父に命じられた。

 その中に平地の騎馬一騎に対して歩行八人でこれを倒すという記述があった。ならば我ら二十騎は兵百六十人の武力があり、それは少数といえども一角の戦力と見なされるべきはずだった。

 得た知識をどう活かすかが大事。それも父の言葉だった。


 明智光慶は騎馬を止め追従する家臣達の方を振り返った。

「ご自身の名を名乗りなされ」

 返ってきたのはそんな単純な言葉だった。

 羽柴軍の大義名分は謀反人明智光秀とその一族郎党の討伐、敵にとって自分の名は本城である亀山城よりも重い。

 再び疾駆して大声で叫んだ。


「明智光秀が一子、明智光慶。ここに見参」

 駆けながら三度、四度と自身の名を叫んだ。敵の雑兵達がこちらに視線を向けるも進軍方向は変わらない。誰でも良い、将に我が名が届けば。


「若造が見参だと。わざわざ来てやったとは生意気な。あれを討って手柄首とせよ」

 歩行の将の一人がそう叫び周囲の兵を率いて向かい来る。それに釣られて更に多くの兵達も自分達の方へと向きを変えた。明智光慶はしっかりと彼等を引きつけてから駆けだした。

 このまま敵を振り切らぬようその場で逃げながら、自分達に彼等の刃が届くと思わせねばならない。


 家臣の一人が先頭を駆けると志願した。

 彼等は父明智光秀直属の馬廻りの精鋭、実戦経験は自分より遙かに豊富であり、戦の呼吸というものを心得ている。任せるべきだと思った。

 明智光慶は騎馬の列の一人として加わり、必死に駆け続けた。


 我らが成そうとしているのは敵を引きつけた後に逃走するのではなく、敵の中を逃げ回りながらこの場に敵を釘付けにしておく事である。

 敵の中から飛び出しては再び敵の中に飛び込む。

 騎馬を率いる先頭の武者が速度の緩急や向かうべき方向を手で合図している事に気付いたのはしばらくしてからだった。

 突然馬列が大きく弧を描いて敵兵の群れから離れた。

 理由はすぐに分かった。後方の羽柴軍から騎馬武者だけの小隊が三つ出て来たのだ。その一つに進行方向が塞がれ大きく向きを変えたのだ。

「この辺りが限界です。離脱を試みます」

 そう言われて頷いた。しかしそう簡単ではなかった。


 何度も離脱しようと試みるが敵の騎馬隊は三つ、その悉くが失敗して歩行の群れの中へと追い込まれそうになる。

 もう馬が持たないと伝えられた。

 福知山城からの強行軍、乗馬の疲労が限界に近い。

 明智光慶は明智騎馬隊に停止を命じた。


 数度の突破の失敗の中で敵は我らをすでに完全包囲の中に閉じ込めている。大きく外側に歩兵の輪が出来、その内側を三つの騎馬隊が駆け回っている。

 こちらの停止に合せて敵の騎馬隊も動きを止めた。

 その中の一騎の武者が進み出てきて名乗り、一槍手合わせ願いたいと申してきた。名の前半が聞き慣れない発音だった。切支丹キリシタンが使う奇妙な名だ。

 出て行こうとする家臣を槍を横に突き出して止めた。明智光慶自身が一人駒を前に進める。


「明智光慶である。その申し出、この私がお受け致す」

「ここは戦場、わっぱといえど容赦はせぬ」

 重い甲冑を纏い体格も自分より大きな相手、まともにぶつかれば弾かれる。冷静に見ているつもりがどこか苛ついている。童と呼ばれムキになっているようだ。


 大きく槍を振って駆けだした相手を明智光慶は自身の騎馬を止めたままで迎え撃つと決めた。経験の少ない馬上で馳せ違えば間合いを見切ることが出来ない。

 背筋を伸ばし胸を大きく突き出すように大きく構えて相手の攻撃を誘った。

 馬の勢いを乗せて突き出される槍、明智光慶は顔が乗馬のたてがみに埋まる程に背を丸めてそれを避け、手綱を引き乗馬を回しながらありったけの力で自身の槍を大きく横から後方へと振る。

 狙ったのは敵の首、相手を打った衝撃で槍が跳ね返る。その力で崩れそうになった態勢を立て直した。

 馬が回りきり視線が向くと無人の乗馬が走り去り、鎧の男は落馬して地面に仰向けになって倒れていた。駒を進めて男に馬上から槍を突きつける。


 男は胸の前で十字を二度切り目を閉じた。

 潔いその姿を見て明智光慶は槍を引き家臣達の元へと騎馬を返した。我らはあの騎馬隊がいる限りこの包囲の輪からは抜け出せない。そんな中でこの男一人殺して何の意味があるのか。

 気持ちを切り替えた。どうやってこの窮地を脱するか。

「半数で三つの騎馬隊それぞれを足止めし、その僅かな時で歩行の突破を図ります」

 そう告げられた。自分には出来ない決断だった。

  

 後方から駆けてきた数騎に気づき、敵の騎馬隊が割れた。

「ジェスト様」

 そう呼ばれた男が白地に金十字の飾りを付けた馬に乗り我らの前に進み出てくる。彼の首筋にある大きな刀傷が印象的だった。

 摂津国高槻城城主、高山重友だと彼の名を知る者が教えてくれた。


「強いな明智軍は、そしてお父君も強かった。明智光慶殿には我が家臣が命一つ借りた様だ」

 気の高ぶりはそのままに、敵意を感じない物言い。

 明智光慶は彼等のその姿に目を止めた。高山重友をはじめとする騎馬武者の誰もがすでに負傷しており、兜の立物が折れた者、鎧は壊れその綻びすら修理されていない。

 彼等は父光秀や斉藤利三の率いる軍と戦いそれを撃ち破った。それが凄まじき戦いであった事をその姿が示している。


「借りは今すぐお返すしするとしよう」

 高山重友はそう言うと馬首を返し旗下の騎馬隊全てを連れ後方の陣へと引き返していく。

「手柄は全て中川清秀殿に譲る」

 そう声を上げて中川清秀率いる軍に彼は告げた。これで活路が開ける。


「すぐにこの場を全力で離脱する」

 明智光慶の声に最後の力を振り絞って駆け出す明智騎馬隊。羽柴軍の包囲の輪が縮まっていく。

 一点を斬り抜けるという訳にはいかない。

 敵は綺麗な円を描いて迫るのでは無く、いくつもの小隊が固まりとなり礫のように自分達目指して次々に降ってくるかの様にも見える。

 それを一つ二つと避けながら駆けて少しづつ外へ外へと向け進んで行くのだ。


 明智光慶は右肘にべたつく違和感を感じた。

 肘を上げたその内側が血で濡れている。右脇腹に手を当てると左の掌が真っ赤になった。自分は手負っている。

 痛みの元凶は右肩から背にかけて、そこが大きく裂けているようだ。避けたと思った槍が自身の背を穿っていた。

(血が、こんなにも血が流れている。いや、こんな傷程度大事ない)

 意識を眼前に集中させようとするが、唇が震え意識がぼやける。傷の影響では無い、心が何かを恐れている。血に怯えたのではない、血を流した後に訪れる『死』に自分は怯えた。


 判断が遅れて騎馬の列が左に急転回するのについていけなかった。

 自分一騎だけがそのまま直進して敵の歩行の群れの中へと飛び込んだ。突き出される無数の槍を払いのけるが、気が引けているのかうまく力が乗らない。

 殺意を剥き出しにしたギラつく敵兵の目を見つめながら叫んでいる。完全に混乱していた。言葉にならない叫びを自分は今発している。


          *           *


 必ず救い出す。

 妻木範賢は羽柴軍の包囲網を外側から突き破り、一人戦う若殿、明智光慶を目指して駆け続けた。


 城下町に止まり逃げ遅れていた領民達を何とか追い立て北の福知山城方面へと脱出させた妻木範賢は、馬首を返して囮となった若殿達の元を目指した。

 彼等はすでに敵の包囲下にあり逃げ場を失っている。

 敵の包囲は二重で、千五百近い歩兵が囲む包囲の輪の内側を、数隊の騎馬隊が走り回っている。騎馬の存在が厄介だったが、その騎馬隊がなぜか後方へと退いていった。そして味方の騎馬隊が脱出の為に駆け出すのが見えた。


 左右に向きを変え円を描きながら脱出の機会を覗う二十騎、外から我らが突入すれば道が開ける。

 突如一騎が列から飛び出した。

 他を生かすために敵中に突っ込んだ囮かもと思ったが、近づくほどにその姿は鮮明になった。

 明智光慶、若殿だった。

 全力で走る馬で急な方向転回は出来ない。十九騎の騎馬は大きく円を描きながら若殿を目指している。そこに届くのはこちらの方が先、力任せに歩行の集団を踏み潰して進んだ。


 蒼白な顔の若殿と目が合った。

 自分が知る明智光慶とは明らかに様子が異なり、彼は自分に救いを求めている。力ない声で名を呼ばれた。

 下馬して若殿に群がる敵に斬り込む。

 妻木範賢の眼前で明智光慶の胸に数本の矢が吸い込まれ馬上から姿が消えた。この場の味方の密度が一気に増えた事で周辺を一時的に制圧した。

 幸いなことに敵の大半は駆け続ける十九騎を執拗に追いかけている。

 若殿は落馬の衝撃で一時的に意識を失っている。妻木範賢は彼の鎧の胸に刺さった二本の矢をへし折り、右肩から背にかけての傷を鎧の隙間に布を詰め込む事で押えた。

 胸の矢傷が深くないことを今は祈るしか無い。助けを借り若殿を馬に乗せ自分と抱き合うようにしてその体を支えた。

 亀山城に羽柴軍の旗が翻っている。城に逃げ込むことは出来ない。

「我らは周山城へ退く」

 そう告げ駆けだした自分に続く者は六騎程、他は討たれたか時を少しでも稼ごうとその場に踏み止まった。駆け続けていた十九騎が合流してくる。


「我らの馬はもう限界、若殿を頼みます」

 そう言うと速度を上げ前方を塞ぐ敵に向けて最期の突撃を敢行し、馬上から敵兵に向けて跳びかかった。追い抜き様に自分に一別して次々に道を切り開くべく敵兵の中へと躍り込む。

 若殿を生かすためにそれぞれが自分の成すべき事を成している。消えていく明智者の命、彼等の願いを背に受けて妻木範賢は血路を駆け抜けていく。


 駒を止めたのは完全に敵の包囲網を振り切り城下町郊外の丘に立ってからだった。残った味方は自分を含めて四騎、最早軍と呼べる数ではない。

 四千の敵に僅か五十騎で挑んだのだ。生き残れただけでも奇跡だろう。

 

 若殿が声を発したのは周山城へと向かう道中の山道だった。

 熱も出て意識が混濁しているのか自分の呼びかける声には答えてくれない。

「父上、父上ごめんなさい」

 自分の胸の中で若殿が小さな声でそう呟く。死なせはしない。

 妻木範賢は震える明智光慶の体を強く抱きしめていた。

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