周辺情勢六月五日(神戸信孝、土橋重治)
目の前にはうつ伏せに倒れた死体が一つ転がっている。
血に染まった刀を握り立つ丹羽長秀を前にして、ただ神戸信孝(後の織田信孝)は震えていた。
「丹羽、お前は信澄を」
「津田信澄は明智に同心したのです。
本願寺や雑賀が織田信長公を殺した? そんなものは既に存在しない勢力。騙されてはなりませぬ。しかも信長公が生きておる等というたわごとを」
「信澄は織田の一族ぞ」
「明智の手の者にござる。そんな事も見抜けぬのかこの馬鹿者が」
津田信澄を斬ったのは間違いでは無いのか、神戸信孝はそう丹羽長秀に問うたが、返ってきたのは怒りの罵声。
神戸信孝はその場に項垂れ、胸に隠し持ている十字架を固く握りしめた。
「まだそのような物に頼るか」
続けて飛ぶ丹羽長秀の罵声。
父信長より「織田一族たる者がキリシタンとは何事か」と叱責され、丹羽長秀からは棄教する様に何度も勧められてきた。
しかし手放せなかった。心の拠り所が欲しかった。
神戸信孝は小さく蹲り、それでも手に持つ十字架は手放さなかった。
六月三日、明智光秀よりの急使が届き織田信長公の生存と、襲撃の首謀者は石山本願寺の残党と雑賀衆であると伝え来た。
これを聞き、明智討つべしの強硬姿勢から一転し、動くべからずの姿勢に切り替えた津田信澄の態度の変化に神戸信孝も丹羽長秀も不信感を覚えた。
津田信澄が明智に同心した理由として丹羽長秀は自分に二つの事を告げてきた。
一つは津田信澄の実兄織田信兼が明智の密使が津田陣へと入ったと密告してきた事、もう一つは丹羽長秀の佐和山城を明智軍が占拠した事の二つである。
明智光秀が謀反人でないならば、なぜ佐和山城を落とす必要があるのかとであった。
つまり、明智光秀は我らに虚偽の情報を伝えて時間を稼いでおり、津田信澄は我らを裏切りそれに協力しているというのである。
だが自分は躊躇った。津田信澄を斬るという決断を神戸信孝は出来なかったのである。
そして六月五日の日暮れ、軍議と称して石山本願寺跡地の本丸の丹羽陣へと呼び出した津田信澄を神戸信孝の目の前で、丹羽長秀は問答無用で斬り捨ててしまった。
「堺方面より炎が上がっております」
慌てて駆け込んできた伝令の報告に急ぎ外へと飛び出した。
堺南の物資集積地方面が陸も海も一面の炎に包まれ、空が赤く染まっていた。
これに続いて二ノ丸津田信澄の陣にある塔のように聳える千貫櫓から、城外や本丸に向けて鉄砲が発射され、矢が射込まれる。
「しまった気づかれたか」
外の騒ぎに気を取られている間に、津田信澄殺害を彼と共に来ていた従者に知られた。
「すぐに信澄の手勢を討ち取らねば」
丹羽長秀は待機させていた手勢を動かし、本丸から二ノ丸を攻め始める。
合図の太鼓の音で、事前の打ち合わせ通り、城外の神戸信孝の手勢も二ノ丸へと攻め入った。
しかし、城外に集められていた多くの徴収兵達は、今何が起こっているのかわからず、そんな闇の中に矢弾が飛び込んでくる。
銃撃や矢を受けた者は逆上し周囲の者に襲いかかった。
その場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化して同士討ちが繰り返され、我先にと逃げ出す者も続出したのである。
この騒ぎは夜通し続き、夜明けと共に沈静した。
多大な犠牲を払って二ノ丸に籠もっていた津田信澄の軍を掃討したが、その場に残されたのは満身創痍の丹羽、神戸勢併せて六千の軍勢のみであった。
この騒動で雑賀攻めを中止して大阪に戻るはずであった蜂屋頼隆は、そのまま岸和田城へと籠り様子を覗い始めた。
堺南の状況が大阪に伝えられた。
海上にあった紀州国雑賀より町の安全を人質に挑発した湊水軍に属する雑賀船団百隻が離反し、突如襲いかかって来たとの事。
雑賀は滅亡に瀕していたのではなかったのか? 明智光秀の伝令の言葉が神戸信孝の頭の中に蘇る。
更に夜明けと共に安土城よりお鍋の方の書状までもが届けられた。
その文面には織田信長の生存と、軽挙慎まれよと記されていた。
「この有様をどうする。私はどうすればいいのだ丹羽、答えよ」
神戸信孝は一人その場を歩き去る丹羽長秀の背に向けて叫んだ。
高野攻めの失敗の隠蔽に続き、ここ大阪での四国方面軍の半数の同士討ちによる四散、何より織田一族である津田信澄の殺害。
このままでは私は破滅する。
「丹羽、お前が信澄を殺しさえしなければ」
神戸信孝の声を無視したまま丹羽長秀は歩き去り自陣へと籠もると、彼はそれ以来姿を現さなくなった。
* *
海岸に沿って燃える船、陸上から上がる炎と爆発。まさに爽快だった。
「燃えろ、そうだもっともっと燃えろ」
船上に体を晒し高笑いを上げて雑賀水軍の指揮を執るのは土橋重治である。
数ヶ月の船上生活でその顔は潮と日差しで赤黒く焼け、髪も髭も伸び放題。まさに海賊の頭といった風体である。
その肩には毛利水軍の製法を真似て作り上げた焙烙玉の束をぶら下げ、手に持った銛を高く夜空に掲げている。
彼の乗る関船を旗艦とする五隻の小早の船団に、雑賀衆の湊水軍が加わり港や沖に停泊中であった織田の荷船に向けて襲いかかったのだ。
織田家の誇る大安宅船からは轟音と共に大砲が発射されるが、闇の中でのそれは威嚇以上の何者でもなく、ただ虚勢を上げている様にしか見えない。
立ち上る水柱を嘲笑うかのように、雑賀船団は一つの生き物の如く進んで行く。
雑賀衆とか紀州国南西部にある雑賀ノ庄、十ヶ郷、中郷、南郷、宮郷の五つの地域で成り立つ地域集合体の総称であり、この内の二郷、雑賀ノ庄と十ヶ郷がその勢力の中心である。
五年前の織田信長の紀州国侵攻時に、雑賀衆は一時的に降伏してその後再起して蜂起するも、共に戦い続けてきた石山本願寺が織田信長との和睦を結んだ後は、十ヶ郷を治める親織田派の鈴木氏と雑賀ノ庄を治める反織田派の土橋氏との間で抗争が起こり、それは次第に激化していった。
天正九年(一五八一年)十月より開始された織田家による二度目の紀州国攻めは高野山及び雑賀にまでおよび、雑賀には神戸信孝配下の蜂屋頼隆の軍が攻め寄せた。
天正十年(一五八二年)一月、織田軍の後押しを受けた鈴木孫一(雑賀の孫一)率いる手勢が雑賀城内にて反織田勢力筆頭の土橋守重を謀殺し、更には土橋一党の住まう居館を襲撃した。
土橋守重の弟土橋重治は、兄の死を知ると鈴木孫一の手勢と一戦交えるが敗れ、あわやという所を根来寺の千識坊の手勢によって救われ、僅かばかりの郎党と共に少数の船団を率いて織田家と敵対している長宗我部元親を頼ったのである。
神戸信孝の四国方面軍一万の軍勢が四国の讃岐国へと渡海したことで、長宗我部家の対三好戦線は大きな苦境に立たされ、更なる織田軍の渡海を阻止するために、長宗我部元親は土佐国東部を拠点とする池水軍に出撃を命じたのである。
しかしこれは淡路島に陣を張る仙石秀久と安宅清康率いる水軍の出撃により、四国阿波国の沿岸部で対峙したまま膠着状態に陥った。
この時、池水軍と共に出撃した土橋重治率いる六隻の軍船は、小勢の利を活かして織田の哨戒網を潜り抜け、堺沖にまで侵入を果たすことに成功したのである。
六月二日、堺南部に集結していた織田の大軍が大阪方面に移動するのを見て、陸に上げた物見が織田信長の死の噂を伝え来た。
事の真偽はともかく、目の前には無防備な数百の荷船が残され、陸には大量の物資がろくな警備も置かずに野ざらしのままである。
織田軍が混乱しているという事だけは確かだった。
織田に痛撃を与えたくともこちらはわずか六隻の船団。
しかし、沖合の船団の中には雑賀衆の操る船団がある事を知り、土橋重治はまず彼等と接触を試みた。
その船団は織田軍による焼き討ちの免除と一族の命の保証を条件に織田軍へと降り、物資輸送の任に就いていた十ヶ郷の湊水軍の者達だったのである。
鈴木家の治める十ヶ郷と土橋家は近年不仲であったが、頑なに鈴木孫一を敵視した土橋守重とは違い、二つの郷の関係修復に努めてきたのが土橋重治であった。
船団の方も相手が土橋重治であると知ると硬化した態度を改め、進んで彼の成そうとする事に協力を申し出てきたのである。
此度の織田の侵攻に雑賀の民は怒り、十ヶ郷の者達でさえ鈴木孫一についてよく思っている者は既にいない。
そして反織田の気運は雑賀全土に広がりつつある事も知った。
雑賀船団百隻の味方を得たことで、土橋重治は織田軍への攻撃を決意。
目の前の荷船の船団と陸上の物資集積地を焼けば世話になった長宗我部元親への義理も果たせる。
土橋重治は雑賀船団の二十隻だけを戦船として使うことにし、まずその船の積み荷を全て海に投棄させた。残りの船団は、積まれた武器兵糧を持ったまま離反し、雑賀への帰路につく。
雑賀衆の扱う船はどれも伊勢船と呼ばれる大型船であり、船上の武者走りに兵を配置すればすぐに戦船へと姿を変える。
二十隻の船にそれぞれ五十人の戦闘員を乗せ、一千の兵力の水軍が出来上がったのである。
この一連の動きは織田軍に察知されること無く進められた。織田の目は陸にしか向いておらず、海上にまで気を配る余裕が無かったという事なのだろう。
三日間の準備期間を経て襲撃の手配が終わると夜を待った。
織田船団の配置は大安宅船を旗艦とした大きく三つの集団に別れていた。雑賀船団もこのうちの一つに属している。
土橋重治の合図で複数の雑賀船が自分達の所属する集団の大安宅船を取り囲むように近づくと、鍵縄で数名が船の両舷に張り付き、至近距離から頭上の櫓構えに向けて焙烙玉を一斉に投げ入れた。
船上の爆発で織田の兵士が数人海の中へと放り出される。
しかしその程度でこの全面鉄張りの巨大軍船に被害は与えられない。
大安宅船は大砲と鉄砲での応戦の為に側面の狭間を開く。
これを狙って両舷に取り付いた者達が、その狭間の中に焙烙玉を放り込むとそのまま海へと飛び込んでいった。
闇に浮かぶ大きな船影の中からキラキラとした閃光が走り、大きな炎が複数の狭間から噴き出す。
その光景を合図に、土橋重治は全船団に行動開始の命を下した。
敵味方を識別するための赤に塗った提灯を船首と船尾に掲げた雑賀船団の戦闘艦二十隻が、土橋重治の旗艦を中心に集結し、荷を満載した八十隻の船は戦場を離脱していく。
炎を吹き上げる織田の大安宅船を尻目に、土橋重治の艦隊は次の敵船団の固まりに向けて突撃していった。
陸からも大きな炎が上がり始め、数ヶ所から巨大な爆発も起こる。
上陸部隊も集積地の焼き討ちに成功したみたいだ。
この海戦で土橋重治は接舷しての斬り込みと、まだ二隻残っている巨大な大安宅船への接近も禁じた。
鉄張りの大安宅船は海上の砦であり、それを落とすには多大な犠牲を払う事になる。一隻を奇襲によって潰した。それだけでも十分すぎる戦果であった。
そして接舷しての斬り込みは船足を落とす。
敵の数の方が圧倒的に多いこの戦で足を止めることは致命、よってすれ違い様の焙烙玉と矢鉄砲による攻撃のみで対処せよと命じたのであった。
既に百隻にも及ぶ船団の離反、これだけで織田軍の四国への渡海能力は大幅に減衰し、それだけでも大戦果といえた。
あとは織田側の混乱に乗じて叩くだけ叩く。
土橋重治率いる二十六隻の船団は、各船に分配したありったけの焙烙玉と矢弾をすれ違う船の全てに食らわせていく。
間もなく織田の船団は散り散りなって逃げ始めた。
後の報告ではあったが、この行動が混乱を招いたのか、大阪の石山本願寺跡地でも織田軍内で同士討ちが起こり敵軍はその夜の内に四散したと伝え聞いた。
まさに完勝だった。
白み始めた空の下を南下してくる大船団の動きを察知した長宗我部家の池水軍が迎撃の為に出て来たが、それが土橋重治率いる雑賀船団だと知れると、歓喜の声で迎えられた。
「吉報がある。織田信長は死んだ。堺の軍も俺達が徹底的に叩いておいた。四国のことはご存分にと長宗我部元親殿に伝えられよ」
土橋重治の声は池水軍の中に広がり、雑賀船団と池水軍による勝鬨の声が上がった。
「皆の衆、家に帰るぞ」
土橋重治は船団をそのまま南に進め、紀州国和歌浦湾目指した。
雑賀で未だ織田軍と戦い続けている者達を結集し、織田軍を雑賀の地から叩き出す為である。
船上で潮風を浴びながら土橋重治は考えていた。
鈴木孫一は土橋一族を雑賀から除き織田軍を雑賀へと招き入れた。
自身もその時の当事者であり、ここまでは知っている。その後自分は海へと逃れたが、織田の攻撃は孫一の十ヶ郷にも及んだ。
これは明らかに織田側の鈴木孫一に対する裏切りである。
織田信長は鈴木孫一を用いて兄土橋守重を排し、鈴木孫一を裏切り雑賀を攻める事で彼の雑賀衆からの信頼を失墜させ、雑賀の指導者二人を同時に葬ったのである。
あの鈴木孫一がそれを良しとするとは思えない。
「孫一、お前は今、どこで何をしとるんじゃ」
土橋重治はかつての友を思いながら、険しい表情をしていた。




