周辺情勢六月五日(北畠信意、毛利家)
伊勢国松ヶ島城は金箔に彩られた五層の天守を持つ城で、周囲の城に比べて異彩を放っている。
北畠信意(後の織田信雄)は、その城内の一角に能の舞台施設を設け異能の集団をその管理者として手元に置いていた。
明智光秀京にて謀反の知らせはすでに耳に入っているにも関わらず、彼は今日も能の舞台に立ち鼓の拍子に合せて舞っている。
「尾張国清洲城の長谷川竹、殿の清洲入城は認めぬとの返答に御座います」
六月五日の夕刻、届いた報告を耳にすると北畠信意の手から扇が滑るように落ちた。舌打ちしながら扇を追いかけ、憎々しげに何度も足で踏みつける。
父織田信長も兄織田信忠もこの世から消えた。
ならば跡継ぎとなる自分こそが織田である。
この伊勢国はかつては重要な地であったが、織田家が天下の半分を手中にした今となってはただの辺地、織田を継ぐ者はまず尾張国、美濃国を手中に収め、織田家譜代の臣を纏める事こそが何よりも大事。
それなのに…。
「長谷川めが、家臣の分際でこの私に逆らうのか」
忌々しい、なぜ私を次期織田家当主と認めぬ。北畠信意は苛立たしさにその顔を歪ませた。
六月三日の深夜、明智光秀謀反の報を平然と受けた。
今の世でそれは、当たり前に繰り返されている事ではないか、近年も織田家中では大和国の松永久秀や摂津国の荒木村重の例もある。
兄上はともかく、父信長が討たれた事は意外だった。
慢心からの油断か、それともただ老いたのか、今更考えてもしかたがない。
「父上と兄上が倒れたならば、この私自身が織田である。
私がわざわざ赴き謀反人明智光秀と一戦など何故する必要があるのだ。明智討伐など家臣の柴田勝家や羽柴秀吉にでもさせておけば良い。
私が成すべきは、全てが終わった後に働いた彼等に労いの言葉を掛ける事ぐらいであろう」
集まった北畠家の重臣達の前で、北畠信意はそう述べ、明智討つべしと出陣準備中の軍はその動員を解除した。軍の解散に反対する者もあったが、私がここにある限り織田が滅びることはない。
神戸信孝(後の織田信孝)に遅れを取るでは無いかという進言には目を止めたが、彼は高野山攻めの失敗を隠している。
それを突き、奴など追い落としてしまえばいい。
他の目が明智光秀に集中している隙に、自分は尾張国と美濃国を取り、織田家後継者としての地位を盤石にしておく必要がある。
北畠姓を捨て織田姓へと回帰する。さて、何と名乗ろうか。
二日前の北畠信意は、そんなことばかりを考えていた。
しかしこの方針を一気に覆す事態が起きた。
明智光秀より届けられた父信長生存の知らせ、そこには安土城の奥を仕切るお鍋の方の書簡までが添えられていた。事の真偽を判断すべく、北畠信意は配下の草の者達を急ぎ安土城へと送り込んだのである。
父織田信長より与えられしその者達は、諜報や暗殺に長けた特殊な訓練を受けた者達。
その一族は老人や女子供に至るまでが草として情報収集に当たるのである。彼等を総称する名は無く、ただ「目の者」「耳の者」「手の者」という役割に応じた名で呼んでいる。
鼓の拍子が変わった、草よりの報告が届いたという知らせである。
人を払うと庭先に出た。
姿を見せず、声のみで告げられる報告に耳を傾ける。
やはり父信長は生きている。なぜ死んでいない。
目の前にあった織田家後継者としての地位が崩れ去るのを感じた。凶報を知りながら動こうとしなかった自分を、あの父は決して許さないだろう。
だが、喜ばしい内容もあった。
安土城はもぬけの殻であり、譜代衆や城番衆は尾張国、美濃国へと逃げ散り、今は明智軍のみがそこに駐留しているという状況。
つまり明智光秀は今尚謀反人のままであり、織田家はそれに迎合していないという事。このまま父信長が死に明智光秀が謀反人のままであれば、織田をこの手に出来る。
しかも父の在る安土城本丸は今無人に近い。
北畠信意はそのままの姿勢で一言だけ声の主に問うた。
「織田信長を葬れるか?」
茂みに潜む声は、静かにそしてはっきりと答えて見せた。
* *
「羽柴秀吉め、我らを謀りおってからに」
床机を蹴って立ち上がったのは吉川元春である。彼は拳を握りしめたまま、その場を行き来している。
毛利陣営は苛立っていた。
吉川元春の元に集まった諸将は、一様に苦虫を噛みつぶした様な表情をしている。
その原因を作ってしまった安国寺恵瓊は、居並ぶ将の片隅に座しただ下を向いて項垂れる事しか出来なかった。
六月四日の昼過ぎ、安国寺恵瓊が羽柴秀吉よりの誓書を持ち帰った事で織田家と毛利家の和睦は正式に成立した。
しかしその日の夕刻、堺海上の織田軍内にいた雑賀衆の手の者が、決死の行動で織田水軍を哨戒網を潜り抜け、京での明智光秀の謀反と織田信長の死を伝え来たのである。
当初の毛利家の思惑は、毛利全軍を以て織田軍と対峙し、毛利手強しを印象づけ和議を結んだ後に織田家に従属という形でその傘下へと収まる事であった。
織田信長亡き今、その和睦自体が無駄なものと思え、高松城の城将清水宗治以下、清水宗知、難波宗忠、末近信賀の四名の死は今となっては犬死ににも等しかった。
羽柴秀吉に対して恨みの気持ちを抱くこともなく、ただ立派な死に場所を用意してくれたと浮かぶ小舟の上で涼やかに果てた清水宗治の最後の舞が皆の閉じた目蓋の中に浮かぶ。
清水宗治は毛利家にとって掛け替えのない良将であった。救えた命を自分の独断で奪ってしまった様なものだった。
五国の割譲については現時点で織田に奪われ部分の維持という事もあり、これに皆異存はなかった。だから和睦締結時には良くやったと自分を褒め称えた。
だが京での事が伝わるとすぐにその言葉は中傷と罵倒へと変わった。
この場を取り仕切る小早川隆景と吉川元春、毛利家を支える両翼と呼ばれる彼等の視線でさえ、自分には冷たかった。
この場の皆に安国寺恵瓊は清水宗治は自ら進んで自刃したと告げていた。
自分が独断で彼を死に追いやったという事が知れれば大変な事になる。もはや安国寺恵瓊は羽柴秀吉に肩入れするしか己が身の安全を確保する方法が無かった。
驚いた事に羽柴秀吉は、和睦が成った事でそのまま知らぬ振りをして陣を引き上げるのではと思っていたのだが、羽柴方から一通の書状が届けられたのである。
小早川隆景は本陣に届けられたその書状を、持ち来た兵にその場で読み上げよと告げ、諸将の前でその内容を聞かせた。
「毛利の方々に申し上げる。
京にて我が主君織田信長公が逆臣明智光秀によって討たれ無念の最期を遂げました。私はこれより主君の仇である明智光秀めを討ちに参ります。
我が主がこの世に亡き今、今日結ばれた毛利と織田両家の和睦は無かった事にして頂いても構いません。その折には毛利家との決戦の後、我唯一人となっても京に赴く所存です」
「言いおったな羽柴秀吉。望み通りこの儂が葬ってくれるわ」
陣幕から出て行こうとする吉川元春を慌てて安国寺恵瓊は制した。
「我らの和睦成立のために命を散らした高松城の四人の死を無駄になされますな」
「黙れ坊主、高松城の四人は羽柴秀吉に騙されて命を落としたのだ。彼等の弔いに必要なのは羽柴秀吉の首だけよ」
「いいえ、黙りませぬぞ。織田信長が倒れたとて織田が倒れたわけではありますまい。明智光秀の決起は暴挙であり織田の諸将は彼に付くことを良しとはしないでしょう。
織田は一時的な混乱の後にまた一つに纏まるはずです。我らはその時を考えて動くべきです」
「我らが明智光秀と結び彼に力を貸せば、織田はそれで崩れるではないか。
長年の仇敵を倒す今が絶好の機会であろう。この機を失えば、再び力を蓄えた織田によって毛利は侵略されようぞ」
怒りに任せて怒鳴る吉川元春だが、彼の言はいちいちもっとも。議論の形勢は不利であった。
勢いに押し切られそうになった安国寺恵瓊を小早川隆景の言葉が救った。
「主殺しの明智光秀に手を貸すことは承服出来ん。毛利輝元様の名に傷がつく」
小早川隆景、彼は信義というものを特に大事にする男であった。
「元春、お主に問う。お前はこれまで何と戦ってきたのだ?」
「隆景、それはどういう意味だ」
「我ら毛利は織田と戦っているのではないのか、羽柴秀吉などその先鋒の一将にすぎぬ。結ばれた和睦を反故にしてまで彼を討って何の意味がある。天下に毛利の器の小ささを晒すだけではないのか」
自身の器が小さいと言われた気がしたのだろう。吉川元春は大きく息をついて席についた。
小早川隆景が諸将に向けて続ける。
「しかも羽柴秀吉は、これから主の仇討ちに向かおうというのだ。その背を襲おうなど武士の恥ではないか」
「隆景、我らは騙されたのだぞ」
「羽柴秀吉という男、確かに我らを騙しておったのだろう。そのまま立ち去ればよいものを一戦も辞さずと改めて申してくるとは、何とも小気味良いではないか。だがこれも我らの儀を逆手にとっての謀だろう。なんと狡賢い男よの」
「お前はそれを分かっていながら手を出すなというのか」
「そうだ、ここは羽柴秀吉の嘘に乗ってやろうと思うのだ」
「理由を聞こうか」
「恵瓊殿の申す様に織田は滅びたわけではない。織田に恩を売るならば別にどの将でもよいのだ。さしあたってはそこの羽柴秀吉に肩入れするのが手っ取り早いではないか」
小早川隆景が諸将に問うように周囲を見つめる。
「山陰の事は吉川殿、山陽の事は小早川殿の采配に任せよとの輝元様のお言葉。我ら小早川殿の決定に従いまする」
諸将の同意を得て事は決した。
「恵瓊殿、貴殿にはもう一度羽柴秀吉の元へと赴いて頂く」
「どのようなご用件でしょうか」
「ここでの戦は終わった。我らこれより陣を退く。羽柴秀吉殿は後顧の憂い無く本懐を遂げられよと伝えてくれるか」
「承知いたしました」
「いくつか毛利家の旗印も渡してやれ。それで羽柴秀吉の後ろには毛利が付いていると思わせる事も出来るだろう」
良い方向へと話がまとまり、安国寺恵瓊は胸を撫で下ろした。
一人その決定に釈然としない吉川元春がいる。
「元春よ、お主に一つ提案がある」
「今更何だ。隆景」
「皆の予想が外れ、明智光秀がうまくやった時の為に羽柴秀吉を攻めるのだ。目の前の羽柴軍では無く山陰方面で戦を起こす。それで毛利が羽柴軍の背後を脅かしたという事実が作れる。
羽柴秀吉も苦い顔をするだろうが、当面の彼の戦には支障の無い場所、文句のつけようもあるまい」
「それは面白い。この元春しかと承った。その事全て儂に任せよ」
小早川隆景が頷くと、吉川元春が不敵に笑った。その姿に諸将も笑みを漏らしている。
安国寺恵瓊も羽柴秀吉を攻めるに複雑な思いはあるが、自分達が受けた苦い思いに比べれば、それぐらいの罰はくれてやってもいいだろうと思えた。
立ち上がった小早川隆景は大声で誇らしく言う。
「この戦、我ら毛利家の勝利であった」
その声に皆、一斉に声を上げた。




