長浜城の戦い①
琵琶湖の水上には多くの兵船が浮かぶ。
琵琶湖の湖賊堅田衆が明智軍に付いたのだ。加えて六月五日の夜明けと共に長浜城の南に明智の大軍が姿を現したのである。
明智軍の安土城占拠が伝えられたのが昨日、近江でも指折りの堅城と呼ばれる佐和山城がその夜の内に破れたのは明白であった。
今、ここ長浜城はかつてない程の緊張に満ちている。
いよいよ危うい、竹中重矩はその胸中を隠したが、横に立つ孝は驚きを隠せないでいた。
竹中久作重矩は数年前まで織田信長の命により羽柴秀吉の与力として仕えた竹中半兵衛重治の弟、彼は明智軍の安土城占拠を聞きつけ、急ぎ美濃から僅か五騎の家臣を引き連れ参じたのである。
竹中家は重治の死後、織田家とも羽柴秀吉とも縁が切れ、一族親族併せて七千石の美濃の豪族へと戻っていた。
織田の臣であれば領地からの織田家への納税は竹中家への禄として免じられ、代わりに織田軍への参陣が義務づけられる。昔の姿に戻ったといえばそれまでだが、領民達はそうは考えず、織田の徴収は厳しくなるばかりだと不平を漏らし、竹中本家の生活も実際には困窮する有様だった。
そんな状況を知ってか長浜城の秀吉の妻おね様より毎月幾ばくかの金銭が竹中家には届けられてきていた。
羽柴秀吉という男は兄の大功を奪い続け大きくなった男としてしか自分の目には映っていない。
現に竹中家は織田信長からも羽柴秀吉からも本来兄が挙げたであろう軍功に対しての報償も加増も、感状一枚受け取った事など無いからだ。
いや、一度だけ兄の死後に羽柴秀吉への士官の話はあったが、自分には承服出来なかった。
此度の明智の謀反も、長浜城での明智と羽柴の戦も知ったことでは無い。
だが厚恩あるおね様だけは救い出したいと思い、長浜城へと赴いたのだった。
竹中重矩が長浜城に入りまず驚いたのは、城兵を取り仕切っているのが二十代半ばの女だという事、彼女の名を孝と言った。
彼女からは快活で気持ちの良い印象を受けた。
おね様の腹心として内政諸事に関わる筆頭女官であるらしく、頭の回転は早いのだろう。すでに今も城兵を持ち場につかせ明智軍を迎え撃つ体制を整えている。
彼女は兵達の様子を見回る補佐役を城兵の中から選ばずに、長浜城退去の進言をおね様に一喝され渋い顔をしていた自分にお願い出来ないかと声を掛けてきた。
歩きながら城兵の配置に不備が無いかと質問を浴びせられ、最初はなぜ余所者の自分にそんな事をさせるのか、三十七歳と自分の方が年上だからか? などと考えてはみたが、時折自分の顔を覗き見る彼女の表情や仕草には、気丈には振る舞っていても不安なのだという気持ちが感じ取れた。
彼女はそれを配下の兵達には知られたくないのだ。
自分が選ばれた理由を察し、竹中重矩は思うままを彼女に告げた。
「兵の気持ちの手綱を締めすぎている。そう感じます」
竹中重矩の言う意味が理解出来ぬという表情を彼女はする。彼女は遠くでこちらの様子を覗うだけの明智軍に届かぬ鉄砲を構えさせ、姿勢を崩さぬよう命じ続けている。
「敵の攻める力を気力を込めた一撃で弾き返す。戦にも呼吸というものがあります。今のままでは戦が始まる前に兵達の気力が尽きてしまう」
「呼吸ですか」
「敵を攻撃する時息を一気に吐き出す。気合いの様なものでしょうか。今はその力を最大限に引き出すために呼吸を静かに整える状態でなければなりません」
彼女は何度か息を吸っては吐き出し、自分の胸でその意味を理解しようとする。
「なんとなく分かる気がします。すぐに兵の力を抜かせます。さすがは竹中様」
「言われる程の事ではありません。戦を経験した者なら誰でも出来ると思います」
「お察しの通り、私は戦は初めてなのです」
自身を謙遜した物言いのつもりだったのだが、彼女に対して失礼な言葉だったとすぐに気付いた。慌てて言葉を取り繕ったが、孝は重矩の動揺を感じ取ると顔を上げて意地悪く微笑んだ。
少し得意げに話した自分に女人らしい一撃で返されたのだと思った。
してやられたかな? そう思ったのも束の間、彼女の次の言葉には絶句した。
「明智軍に勝てるでしょうか?」
おね様を守ろうとする一途な想いと無知から来る勇気なのか、彼女を更に傷つけぬ為に「無理だ」とは答えられなかった。
物見の報告では明智軍は陸上からの兵だけでも一万五千にも及び、対して城兵は一千程である。
城に籠もるとはいえ実に十五倍を超える数の敵相手に勝機は無いに等しい。
「ここは戦うよりも逃げるべきだと思います。ここで戦っても美談として語られるだけ、命は謀反人明智を倒す時に懸けるべきかと」
「無駄死にするなと竹中様は言われるのですね」
「兄の重治の言葉です。『死ぬ事は何時でも出来る。最後に勝つために最善を常に考えろ』とです」
「半兵衛様のお言葉でしたか。そうかもしれません。おね様に話してみます」
それから彼女は上目遣いに重矩の顔を見た。
「竹中様はもうお城を出られますか?」
自分の言葉が気になったのだろう。この仕草は彼女の不安な気持ちの表れでもある。
「竹中家は私などではなく兄重治の血筋の者が継げば良いのです。私はここで最後まで皆さんと共に戦いましょう」
彼女は嬉しそうに目を細めて白い歯を見せた。よしと気合いを入れおね様のいる本丸へと歩き出す。
一人残された竹中重矩は、空を見上げ流れる雲を見つめた。
美濃の山奥で何事も成さず朽ちる事を恥じていた。
自分にもっと才覚があれば、偉大なる兄に並ぶ事は出来ずとも竹中家を栄えさせる事は出来たはずだ。
大家に仕え、武功を立て家を繁栄させる。
他に比べて自分が劣るとは思えない、一軍を率い戦場を好き放題暴れ回る気概もある。だが結局、その機会であった羽柴家への士官の話を自身の感情を優先して棒に振った。
織田信長の命による兵糧の強制徴用により民の不安は高まり、領内一揆を抑える為にわずかな兵さえ割くことが出来ず、この戦にも自身が率いる郎党はわずかに五騎。
明智の大軍を前に自分は何と無力な事だろう。
残るは意地。
おね様とあの孝とかいう女官でさえ明智軍に怯まず戦おうとしているのだ。この城の有様を見てしまった今となっては、彼女達を置き去りにして逃げ出すなど出来るはずもない。
城内の各所から警鐘が鳴り響く。城兵達が慌ただしく動き始めた。
「竹中様、山本山城の阿閉軍が攻め寄せて参りました」
自分の名を走りながら呼ぶ孝の声が聞こえた。
彼女は結局、おね様を説得に至らなかった様だ。やはりここで戦い抜くしか道はない。
彼女は自分の側まで来ると、胸いっぱいに息を吸い、それをふっふと何度か吐き出して見せる。その姿は可笑しかったが、彼女なりに真剣なのだ。
彼女は二ノ丸の櫓の上に登り、兵に太鼓を打たせた。幾つもの鉄砲が阿閉軍に向けて狙いを定める。
竹中重矩も思い至り、櫓の上の孝に声を掛けたが、気付かなかったのでもう一度大声で彼女の名を呼んだ。
彼女が反応したので、大声で続けて用件を伝える。
「孝殿、私に一隊をお預け頂けませぬか」
分別の無い物言いだが、この時はそんな事は考えていなかった。ただ込み上げてくる気持ちが自分にその言葉を吐かせていた。
孝は少し思案し一度大きく頷くと、櫓を降りて何処かへと駆け去って行った。
* *
長浜城の北側から阿閉軍による攻撃が開始された。
長浜城は大手門から本丸に至るまでに渦巻き状に築かれた曲輪を通り抜けねばならない。そしてそれぞれの曲輪の内側には落下防止の柵が設けてあるだけで、身を隠す場所も殆ど無い。
一の木戸をわざと明け渡し、曲輪内に侵入して細長く伸びた阿閉軍の隊列に、水堀を隔てた高見から次々と応戦の銃声が鳴り響く中、敵の注意が手薄な城の南門が開かれる。
竹中重矩は乗馬の手綱を握り槍を構えて飛び出した。
その後には五騎の郎党と羽柴軍二百の騎馬が続く。
すぐ目前に城下町を迂回し南へと回り込もうとする阿閉の一軍が迫るっている。
槍を突き入れその中へと躍り込んだ。
竹中重矩の頭の中に浮かんでいたのは一人の女性の顔、自分が城に残ると決めた時、「ありがとう」と言った孝の実にいい笑顔だった。
おねの筆頭女官の孝蔵主についての資料が全く無く、彼女については出家前の名を孝とさせて頂いています。




