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水色桔梗の雫 ~異伝本能寺の変~  作者: つむぎ舞
六月三日
19/84

近衛前久

 路地を走る童達の甲高い声が通り過ぎていく。

 通りからは夕食の煙なども立ち始めているのもわかる。

 昨日の出来事はまさに天下の一大事であっただろう。戦のあった下京とは異なり、ここ上京は平穏な一日を終えようとしている。


 その中で内裏だいりだけは慌ただしさに包まれていた。

 京郊外に焼け出され逃れていた民が町の仲に戻り始めたのである。彼等は行き場を失い戦火に晒されなかった上京へ、そして天皇という心の拠り所へと助けを求め来たのである。


 平安京全盛期にあった巨大で絢爛たる内裏は度重なる戦乱や出火によって焼失し再建されていない。

 今の内裏はもともと皇族の居として整えられた里内裏であり、非常時の仮御所としての役割を果たす場であった。


 外堀と内裏の内堀との間にある空き地に里村紹巴さとむらじょうは達町衆の助けによって仮小屋が建てられ数百の民がそこに収容された。

 その噂を聞きつけまた新たに救いを求める者達が押し寄せてくる。

 あっという間にその数は千を越え、公家達はその対応で手一杯になっている。


 上京に住まいを構える息子の屋敷に身を落ち着けた公家の近衛前久このえまえひさは、剃髪したばかりでまだ青みを帯びた頭を左手で少し撫でた。

 彼は自身との関係が深かった織田信長の死を悼む為に出家の形を取り法名を龍山と号していた。


 ここ数ヶ月、近衛前久と織田信長は不和であった。

 織田信長との鷹狩りの最中の会話にて「一国を譲る」と言われたことを真に受けていたのである。

 織田家の合戦に軍兵を率いて参戦し、すでに参陣公家衆としては千五百石という破格の好待遇を受けていたにも関わらず、甲斐国の武田攻めに際して「わざわざ軍を率いて参ったのだからいつかの約定を果たして欲しい。どこの国を所望できるのであろうか」と得意げに語ってしまったのが発端だった。


「手勢を率いての参陣は誠に大儀である。しかし功なく所領を与えたとなれば家臣達にも示しがつかぬ」

 織田信長は自分をそう叱責してそのまま甲斐の地に置き去りにしたのである。

 非は自分にあったが這々の体で帰京した事で織田信長に対してつむじを曲げていたのは事実、時が経ち先日の本能寺での催しにて謝辞を述べようとしたがまだ目通りは許されなかった。

 もう少し反省せよという意味だったのだろうか、今となってはその真意を知る術はない。


 明智光秀が謀反を起こし織田信長を殺害したという噂が京の民の間では囁かれはじめている。明智軍が誰に知られる事も無く忽然と京に姿を現したことがその噂に更なる信憑性を与えてしまっている。

 また、京の郊外では明智者の騎馬隊が逃げている京の民の多くを惨殺したという話までが聞こえてきた。 

 明智光秀にとっては不本意な流言に、彼を不憫に思う気持ちが近衛前久には湧いてきた。居室に戻り、書きかけの日記を見つめると、昨日の出来事を思い起こし筆に乗せていった。




 六月二日の未明、近衛前久は本能寺へすぐに救援に向かうべきと行動を起こしたが、太刀一振りにこの身一つでは如何ともしがたい。

 だからまずは従者一名を連れ立って誠仁さねひと親王の住まう二条御所へと駆け込んだのである。

 二城御所警備には公家の番衆の他に五十名に満たないが村井貞勝むらいさだかつの管轄の織田兵がいる。中でも近衛前久自身が警護にと推挙した鈴木孫一一派の雑賀衆の持つ鉄砲が頼みの綱であった。


 だが開いた大手門をくぐったそこには野盗の群れにも似た異様な兵達が跋扈していたのである。織田の兵士の遺体が鎧を剥がれて地面に積まれ、頼みの雑賀衆の姿は確認できなかった。おそらくこの者達の手に掛ったと考えるべきだろう。


 その場に力なく崩れ落ちた近衛前久を、二城御所を占拠した軍兵の将らしき僧形の男が迎えた。

「ご安心されよ。我らが大将の命により、朝廷に関わる方々には危害が及ばぬよう配慮せよと申しつかっております。誠仁親王一族の方々にも退去の準備をして頂いているところ」


「その大将は何者であるか?」

「知らぬままの方が良いでしょう。それを知った者を私は斬らねばなりません」

 その一言に恐怖で押し黙った。


「織田信長の滅亡は必定、その後は我らこの下京を防壁として次々に現れるであろう織田の軍を迎え撃つ所存。京はその戦いで灰燼と化すでしょう。そして我らも皆討ち死に致すのが宿命。近衛前久様は上京へと逃れるがよろしかろう」


 僧形の男はそう告げると自分を丁重に二条御所から追い出したのである。

 二条御所を出た近衛前久は残る織田軍のある妙覚寺へは向かわず、上京にある内裏へと馬を駆けさせた。

 僧形の男の物言い、この事件に朝廷が関与しているのでと前久は疑い、このまま単身援軍に赴くよりも、天皇の言葉を以てこの戦を収める事が出来るかもしれぬと判断したからだった。


 織田信長と親交を深めるようになてからは、内裏へは一年の内数度出仕する程度の関わりしか持っていない。

 正親町おおぎまち天皇は自分の言葉に耳を貸すだろうか。不安な気持ちは大きかった。

 途中、二条御所の方角から多数の鉄砲の音が聞こえた。

 雑賀衆が生き残って戦っているのかとも思ったが、銃声はそれきり二度と鳴ることはなかった。


 内裏へと辿り着き正親町天皇への拝謁を願い出たが、夜も明けぬ早朝とあって院の建物の一つで控えて待つことしか出来ず、ただ刻だけが過ぎていった。

 内裏に下京の喧騒は伝わってきていたが、何が起こっているのか知る者はここにはいなかったが、夜が明け始めた頃、走る公家達の言動から明智光秀の軍が現れたのを知った。


 真偽の程は分からぬが明智軍が二条御所を攻撃しているという話し声も聞こえてきた。

 朝廷もようやく動き出し、明智光秀の元へ使者が送られ、彼等は内裏に戻ると、「明智軍は二条御所へ立て籠もっている賊を討伐中である」とのみ伝えたのだった。


 正親町天皇への拝謁は明智軍が京を去った後にようやく実現したが、その時にはもう織田信長と織田信忠の死を内裏の誰もが口にしていた。

 正親町天皇は言葉では織田信長の死を悼んでいたが、その口元には笑みが見えた。そして正親町天皇の気持ちの具体的な表れは、織田信長滅亡の祝いの酒宴の手配を命じた事からも明らかだった。


 情報が交錯する中、手傷を負った正親町季秀おおぎまちすえひでが内裏へと戻ると、自身が織田信忠とその郎党と共に二条御所内にて奮迅の働きをし、織田信忠の最期もこの目で見届けたのだと誇らしげに周囲に吹聴していた。

 誰しもがその話を聞き、彼は明智軍と戦ったのだと思い込み、やはりこれは明智光秀の謀反であったのかと囁いた。


 織田信忠が二条御所で倒れたのは間違いないのだろう。

 近衛前久が出会った僧形の男と謎の軍兵達、彼等が明智光秀の手の者ならばその後の二条御所の戦いは起きていないはずである。

 明智光秀謀反を語るには早計ではないか? そうは思っても自身が体験した事をその場で皆に告げることは出来なかった。

 自分は公家の中では親信長派の筆頭と目されている。それだけにここ内裏には敵が数多く存在するのだ。

 

 


 近衛前久は書き終えた日記を閉じた。

 織田信長の死に際し、自分は結局何も行動を起こせなかった。剃髪はその事に対するせめてもの償いであった。

 二条御所で出会った僧形の男、名を火車かしゃと言ったか。

 生前悪行を重ねた者を地獄から迎えに来る業火の車の姿をした魑魅魍魎ちみもうりょうの名である。

 その名の通り、彼は織田の父子を道連れにして消えていった。

 あの時自分は信長殺しを画策した主犯の名を命を賭けても知っておくべきだった。

 誰に語ることは出来ずとも、今なおこの胸中に悔いとして残る好奇心はそれで満たされた事だろう。


 近衛前久は内裏で行われる信長滅亡を祝う酒宴に持ち込む祝い酒の支度をと家人に命じた。

 彼は天皇とその周辺の者達に近づき、独自の内偵を進める決意をしたのだった。

 今の自分の立場でそれが容易に出来るとは思えない。

 武士の真似事などせず朝廷内で権を握っておればという後悔の念は、今心の中で強くなるばかりであった。


          *          *


 夜の安土城には今宵も提灯に火が灯され、遠目には華やかな佇まいを見せている。城下町の火災は自然に鎮火し、その場所は今はもう深い闇の中である。

 山の麓から長く伸びる大手道を蒲生賦秀が率いる三千の兵に守られながら、城に残っていた女房衆やその下女達が下っていく。

 彼等が向かう先は蒲生家の居城日野城である。

 その長く続く松明の列が遠くに消えるまで、明智光秀とお市は天守からそれを見送った。


「光秀殿はまだ、迷っておられますか?」

「自らの心に決断を下したつもりでした。ですが未だに迷いはあるようです。

 ただここに座して事の成り行きを見守るだけでいいのでは? そんな気持ちにもなります。

 私がこれから成そうとする事は果たして正しいと言えるのだろうかと」


「兄様もよく、自らの選択に苦悩しておられましたよ」

「そうですか、信長公も」

 お市様は頷いて見せ、奥で眠る織田信長の方へと視線を送った。


「結局、兄は悟ったのだと思います。自分で前に進まねば何も変わらぬ。その行いの正邪の判断は後の世が下せばよいと」

「お市様は織田信長公を恨んでおられましたか?」

 明智光秀が申したのは、近江国浅井家を織田信長が攻めたことにより、最愛の夫浅井長政(あさいながまさ)を亡くした事についてである。


「確かにあの時は兄様を恨みました。ですが兄妹とはおかしなもの、時が経つにつれ自然と心のわだかまりも溶けていきました。そして気付いたのです。兄様もその時苦悩したのだと」


 黙って見つめる明智光秀に、お市様は少し微笑みそのまま話を続けた。

「兄様は己が進む道はすでに自分だけのものでは無くなったのだと私に申しました。織田信長の進む道に賭け、その命を散らした多くの者達がいる。彼等の想いを無駄にはできぬのだと」

「浅井長政殿もその一人であったと?」

 その問いにお市様は答えなかった。


「兄様は非道な行いを幾つもしました。時に敵に対して、時にお味方に対して。

 その理由を語ることをしないので、世間では悪鬼羅刹の様に言われることもしばしばですが、兄様はその行為を当たり前とは思っていませんでした。

 全てが正しいわけでなく、過ちも多くあったでしょう。成功も後悔も誰に語ること無く全て一人で乗り越えてきたのです」 


 少し間を置いて彼女は言った。

「だから私は、今はもう兄様を恨んでなどいません」

「強いお方なのですな信長公は。私など遙かに及ばない」


 織田信長公に仕えて間もない頃の自分はただ明智家の再興のみを考えていた。織田家であれば自分を引き立ててくれる。ただそれだけで織田信長の家臣となった。

 運に恵まれ坂本の地を賜りその望みを果たすことは出来たが、それまで自分は織田信長という人物を見るという事はしていなかったと思う。


 天下布武を目指すという事は誰もが考え得るものではない。

 織田信長公をそう突き動かしたのは彼自身の野心や野望であったかもしれない。

 それでもそれは自分をより高見へと至らしめる挑戦であり、彼はそれを自らに課したのだ。

 権を弄びただ私服を肥やすような輩にはとても出来ぬ事だろう。


 各地を治める大名達が劣っていたわけでは無い。だが彼等はある程度の領土を得るとその内に自らを閉じ込めてしまったのだ。

 朝廷は力ある者が現れ幕府を開けば全国の武家がその元に集い、日ノ本は一つになるという幻想を未だ抱き続けている。そして自らが能動的に動こうとは決してしない。

 

 この日ノ本全てを自らの力のみで統べ治めていく。そんな織田信長公の考えは他に類を見ない発想であった。

 織田信長という人が築く世というものを見てみたい。いつしか自分の中にはそう思う感情が膨らんでいた。

 織田信長公が目指した夢、それはすでにこの明智光秀の夢でもあった。


 その夢が今、目の前で破れようとしている。

 だが明智光秀ある限り、その夢を終わらせはしない。

 織田家中に於ける明智の立場はまだ小さい。しかし明智だけでなく残された者達がその心を継ぎ、織田信長という人が目指した世を実現することは必ず出来ると信じている。


 お市様の言葉をもう一度噛みしめて目を閉じ、自身の胸中を眼前に広がる夜空に向けて明智光秀は語った。

「心知らぬ人は 何とも言わばえ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」 


  

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