2巻 秋の祭典と今の実力
夏休みが終わり
新学期が始まり
学園。
長い休暇の空気を残したまま、生徒達が次々と戻ってくる。
「あー……終わった……」
「宿題やってねぇ……」
「写させてくれ頼む」
「無理」
そんな声があちこちから聞こえる。
終わらせた者。
終わっていない者。
余裕のある者。
焦っている者。
それぞれが、同じ場所へ戻ってきた。
ミナは静かに歩く。
変わらない廊下。
変わらない空気。
だが、確実に何かは進んでいる。
教室に入ると、セリアが手を振る。
「おはよう、ミナ」
レオンも視線だけ向け、小さく頷いた。
いつもの光景。
それが、どこか安心できた。
やがて、教官が入ってくる。
教室が静まる。
「よし、お前ら」
「休みは終わりだ」
当然の言葉。
だが、続きがあった。
「次の行事について説明する」
教室の空気が変わる。
生徒達の視線が集まる。
「今年も例年通り行う」
「学園祭」
一瞬、ざわめきが広がる。
だが、教官は続ける。
「それと、体育祭だ」
さらにざわめく。
「どちらかには必ず参加しろ」
「両方でも構わん」
「だが、どちらにも参加しない事は認めん」
行事。
戦闘とは違う、もう一つの学園の顔。
実力。
技術。
創造。
そして、個としての存在を示す場。
教官は腕を組む。
「詳細は後日だ」
「それまでに決めておけ」
それだけ言い、教官は教室を出た。
「どっちにする?」
「体育祭かな」
「学園祭も面白そうだぞ」
「展示とか武器披露あるらしい」
様々な声。
ミナは静かに座ったまま、窓の外を見る。
青い空。
穏やかな日常。
だが、その裏で、確実に何かが進んでいる。
セリアが振り向く。
「ミナはどっちにするの?」
レオンもこちらを見る。
選択の時だった。
ミナは窓の外から視線を戻す。
セリアとレオンがこちらを見ていた。
「ミナはどっちにするの?」
セリアが首を傾げる。
レオンも興味はあるようで、静かに待っている。
ミナは少しだけ考える仕草をした。
すでに答えは決まっていた。
文化祭。
現代の技術を前進させるため。
自分の持つ知識と技術。
それを、この時代の形として残すため。
そして体育祭。
自分自身の確認。
魔石を取り込み、変化した身体。
蓄積されている魔力。
どこまで通用するのか。
どこまで到達しているのか。
数値ではなく、実感として知る必要があった。
だが、それをそのまま話す必要はない。
ミナは穏やかに答えた。
「せっかくだから――両方参加する」
セリアの目が少し大きくなる。
「両方?」
「うん」
短く答える。
レオンが小さく笑った。
「ミナらしいな」
無理をする、という意味ではない。
ただ、選べるなら両方選ぶ。
セリアも微笑む。
「じゃあ、どっちも一緒に頑張ろう」
「うん」
自然な会話。
自然な時間。
だが、ミナの中では別の歯車が静かに回っていた。
文化祭では、新しい可能性を示す。
体育祭では、今の自分を知る。
どちらも、未来へ進むために必要なことだった。
ミナは自分の手を見る。
だがその内側には、確かな力が流れていた。
誰にも見えない、自分だけが知る変化。
学園祭と体育祭。
それは、学園にとっての行事。
そして、ミナにとっては、次の段階への確認だった。
門の方から、ひときわ賑やかな声が響いてきた。
笑い声。
はしゃぐ声。
走る足音。
ミナは自然とそちらへ視線を向ける。
見覚えのある顔。
見慣れた歩き方。
そして
「ミナお姉ちゃん!!」
子供たちが一斉に駆け寄ってきた。
その後ろから、少し息を切らしながら歩いてくる人物。
施設長だった。
ミナが育った施設の、家族のような存在。
施設長はミナの姿を見ると、安心したように微笑んだ。
「立派になったね」
その一言だけだった。
だが、その言葉には、何年分もの時間が経ったていた様に。
ミナは小さく頭を下げる。
子供たちはミナの周りを囲み、口々に話し始める。
「すごいねここ!」
「広い!」
「何があるの?」
「ミナお姉ちゃんの作ったのあるの!?」
ミナは微笑む。
そして、収納から小さな袋を取り出した。
子供たち一人一人の前に立つ。
目を見て、手に渡す。
「これ、お小遣い」
「文化祭、楽しんで」
子供たちは一瞬きょとんとした後、袋の中を覗き、目を大きく見開いた。
「え!?」
「こんなに!?」
「いいの?」
「うん」
ミナは静かに頷いた。
ダンジョンクリアの報酬。
その一部。
正確には半分近く。
それでも、ミナにとって価値は金額ではなかった。
この子たちに、自由に選ぶ時間を与えたかった。
欲しいものを、自分で選ぶ喜びを。
子供たちは何度も「ありがとう」を言い、走っていった。
施設長は、少しだけ目を細める。
「……優しい子だね、本当に」
ミナは何も答えず、ただ微笑んだ。
そして。
再び、門の方がざわつく。
整った服装。
落ち着いた歩き方。
首席の二人。
そして、その両親。
一行が学園へ入ってきた。
首席女子――リシアの母。
その視線が、人の流れの中で止まる。
ミナを見つけた瞬間だった。
一瞬、息を止めたように見えた。
次の瞬間、迷いなく歩み寄る。
そして、そのままミナを抱きしめた。
突然のことだった。
だが、強すぎず、弱すぎず、優しく包み込む抱擁。
まるで、ずっと前からそうしていたかのように自然だった。
「……会えて嬉しいわ」
ミナは目を見開いたまま、動けずにいた。
リシアの母は、ゆっくりと離れる。
ミナの肩に手を置き、顔を見る。
優しく、愛おしむように。
まるで、もう一人の娘を見るように。
それは、本能の様なもの
代わりに、微笑む。
「文化祭、案内してくれる?」
ミナは、小さく頷いた。
リシアの母は、ミナの肩に置いていた手を、そっと下ろした。
そのまま、自然な動作で、ミナの手を取る。
指先が触れ、ゆっくりと、包み込むように握られる。
驚くほど、温かい手だった。
まるで、昔から知っている温もりのように。
リシアの母は、その手を繋いだまま、ミナの顔をじっと見つめる。
そして、優しく目を細め、ニコニコと微笑んだ。
「本当に……娘とそっくりね」
声には、隠しきれない喜びが滲んでいた。
隣に立つリシアが、少し照れたように笑う。
「お母様、さすがに失礼ですよ」
そう言いながらも、否定はしなかった。
首席男子、レオンも、改めて二人を見比べる。
髪の色も、瞳の色も違う。
だが、表情の作り方。
ふとした仕草。
まるで、同じ血の流れを感じさせるほど似ていた。
リシアの母は、繋いだ手を軽く引く。
「少しだけ、一緒に歩いてもいいかしら?」
まるで、迷子にならないように手を引く母親のようだった。
ミナは、一瞬だけ驚いたが、拒むことはしなかった。
その温もりが、なぜか心地よかったからだ。
周囲のざわめきの中、二人は手を繋いだまま歩き出す。
その姿は、誰の目にも、親子のように見えていた。
一通り、文化祭の出し物を見て回った。
賑やかな声。
笑い声。
呼び込みの声。
焼き物の匂い。
甘い匂い。
その全ての中で、ミナの手は最後まで、離されることはなかった。
リシアの母は、何かを話すわけでもなく、ただ隣にいるだけだった。
時折、ミナの顔を見て、優しく微笑む。
それだけだった。
まるで、今この瞬間を、確かめるように。
やがて、昼の時間になり、施設長と子供達、そしてリシアとレオンの家族を含めた大人数で、食事を取ることになった。
学園の中庭に設置された、
長いテーブル。
皆で席につく。
子供達は、目を輝かせながら並んだ料理を見ていた。
「これ食べていいの?」
「いいよ」
ミナは笑って答える。
小さな子が、スプーンを上手く使えず、口の周りを汚す。
ミナは、ハンカチを取り出し、そっと口元を拭いてあげた。
「ほら、ゆっくりでいいよ」
別の子は、まだ食べるのが下手で、ミナはスプーンで少しずつ掬い、口元へ運ぶ。
「あーん」
素直に口を開ける。
その様子を見て、施設長が優しく微笑む。
「ミナは昔から、面倒見が良かったですね」
リシアの母も、その光景を静かに見ていた。
その目は、どこか懐かしそうだった。
リシアも、レオンも、何も言わずに見ている。
ミナの仕草は、あまりにも自然だった。
まるで、ずっとそうしてきたかのように。
子供の頭を撫でる手。
口元を拭く手。
優しく声をかける声。
その全てが、温かかった。
リシアの母は、小さく呟いた。
「……優しい子ね」
誰にも聞こえないほどの、小さな声だった。
だが、その言葉には、確かな想いが込められていた。
食事も落ち着き、子供達は満足そうに椅子にもたれたり、まだ何か食べられないかと周囲を見回していた。
その様子を見守りながら、施設長は、リシアの母の隣へと静かに腰を下ろした。
少しの沈黙。
周囲の賑やかな音が、逆に二人の間の静けさを際立たせていた。
施設長は、ミナの方を見つめながら、ゆっくりと口を開いた。
「……あの子には、親がいません」
その言葉に、リシアの母は何も言わず、ただ静かに耳を傾けた。
「どこで生まれたのか」
「誰の子なのか」
「名前すら……最初はありませんでした」
遠くを見るような目で、施設長は続ける。
「施設の前に、置かれていたんです」
「泣きもせず、ただ……空を見ていました」
「不思議な子でしたよ」
リシアの母の手が、わずかに強く握られる。
施設長は、小さく微笑んだ。
「手のかからない子でした」
「我儘も言わない」
「欲しいとも言わない」
「困らせることもない」
「……でも」
一度、言葉を止める。
「いつも、周りを見ている子でした」
「他の子が困っていれば手を貸す」
「年下の子の面倒を見る」
「自分のことより、周りを優先する」
視線は、子供の口元を拭いているミナへ向けられていた。
「まるで……最初からそういう役目を知っているかのように」
リシアの母は、静かに息を吸う。
胸の奥が、締め付けられるような感覚。
施設長は、続けた。
「本名は……」
そこで、言葉を止めた。
一瞬の間。
「……すみません」
「それだけは、教えることができません」
申し訳なさそうに、頭を下げる。
「これは、あの子を守るための約束です」
リシアの母は、首を横に振った。
「いいえ……」
優しく答える。
「十分です」
視線は、ミナへ。
子供の頭を撫で、優しく微笑んでいる。
その姿は、あまりにも、愛おしかった。
食事の後、子供達は施設長に連れられ、文化祭の別の場所へと向かっていった。
少しだけ、静かな時間が生まれる。
その時、リシアの母が、ミナの前に立った。
優しい表情。
だが、どこか覚悟を決めたような、そんな目だった。
「……ミナさん」
静かに呼ぶ。
ミナは顔を上げる。
リシアの母は、ほんの少し迷い、それでも、言葉を続けた。
「もし、よければ……」
一歩、近づく。
「娘にならないかしら…」
周囲の音が、遠くなるような感覚。
風の音だけが、静かに通り抜ける。
ミナは、その言葉を、静かに受け止めた。
驚きはなかった。
予想していたわけでもない。
けれど、理解していた。
その意味も、その想いも。
ミナは、ゆっくりと、
首を横に振った。
否定ではない。
拒絶でもない。
ただ、選択だった。
リシアの母の目が、わずかに揺れる。
笑顔は崩さない。
けれど、その奥に、寂しさが滲んでいた。
「……そう」
それだけを、優しく言った。
責めることも、理由を聞くことも、しなかった。
ミナは、一歩、近づく。
そして、まっすぐに目を見て言った。
「ありがとう」
短い言葉。
けれど、そこには、すべてが込められていた。
拾ってくれた世界への感謝。
出会えたことへの感謝。
想ってくれたことへの感謝。
そして、娘にはなれない、それでも、大切に思っているという答え。
リシアの母は、少し驚いた顔をして、そして、優しく微笑んだ。
「……こちらこそ」
そっと、ミナの頬に手を添える。
「ありがとう」
その手は、とても温かかった。
2日目。
朝から街は、昨日よりもさらに活気に満ちていた。
人の声、笑い声、呼び込みの声。
色とりどりの旗が風に揺れ、甘い匂いと香ばしい匂いが混ざり合う。
ミナは、セリアとレオンの隣を歩いていた。
「今日はどこから回る?」
セリアが楽しそうに振り返る。
その瞳は昨日よりもずっと柔らかい。
「昨日行ってないところ」
ミナは少し考えてから答える。
レオンが軽く笑った。
「じゃあ、中央広場の奥だな。あっちは珍しい出店が多い」
三人は並んで歩き出す。
昨日よりも人が多い。
肩が触れそうになるたび、セリアが自然とミナの手を引いた。
「こっち」
まるで迷子にならないように守るように。
ミナは少し驚いたが、手を振りほどかなかった。
むしろ、その温もりが、少しだけ心地よかった。
中央広場の奥には、昨日見なかった店が並んでいた。
宝石のように光る飴。
見たことのない形の楽器。
小さな魔道具が静かに光っている店。
「これ、音が鳴るの」
セリアが小さな鈴のような魔道具を鳴らす。
澄んだ音が空気に溶けた。
ミナは目を細める。
「……綺麗」
その言葉に、セリアは嬉しそうに笑った。
レオンはそんな二人を見ながら言う。
「昨日より、楽しそうだな」
ミナは少しだけレオンを見る。
「……楽しい」
短い言葉。
でも、それは本当の気持ちだった。
三人は食べ歩きをし、笑い、話し、歩き続ける。
昨日回らなかった場所。
知らなかった景色。
知らなかった時間。
ミナにとって、それはすべてが新しかった。
孤独ではない時間。
隣に誰かがいる時間。
セリアが笑う。
レオンが何かを言って、セリアが怒ったふりをする。
そして三人で笑う。
その瞬間。
ミナはふと、思った。
この時間が、続けばいい。
理由は分からない。
でも、そう思った。
彼女は何も言わず、ただ二人の隣を歩き続けた。
祭りの音に包まれながら。
会場は静まり返っていた。
誰も言葉を発しない。
監督官の一人が、震える声で言う。
「……魔石に、直接……回路を……?」
本来ならあり得ない。
魔石は、自然が生み出す完成された魔力結晶。
そこに人工の回路を書き込むなど、理論上は可能でも
成功した者は、いない。
ミナは静かに答える。
「制御AIが、魔力の流れを監視します。
暴走の兆候があれば、即座に遮断します」
そして、手の中の魔石に意識を向ける。
魔石は、ゆっくりと形を変えた。
小さく、さらに小さく。
指先ほどのサイズに縮む。
会場の誰かが、息を呑む音が聞こえた。
次の瞬間。
ミナが軽く魔力を流す。
魔石は、一瞬で、拳大まで拡張した。
「……!」
ざわめきが広がる。
拡張と縮小。
それは単なるサイズ変化ではない。
魔力量そのものの制御。
密度の制御。
出力の可変。
つまり、あらゆる魔導機器の根本を変える技術。
首席男子、レオンが、呟く。
「……こんなの……」
首席女子――セリアは、ミナを見つめていた。
驚きではない。
確信。
最初に会った時から感じていた、違和感の正体。
この子は、普通ではない。
監督官の一人が言う。
「これは……誰の理論だ?」
ミナは、少しだけ考え、答える。
「……わたしの、です」
その瞬間。
空気が変わった。
視線。
評価。
警戒。
そして、興味。
施設長は、遠くからその様子を見ていた。
静かに目を閉じる。
(やはり……)
予感は、現実になった。
この子は、世界を変えてしまう。
拍手は、遅れてやってきた。
最初は、まばらに。
そして少しずつ、数が増え、
やがて会場全体に広がった。
だがそれは、純粋な称賛だけではない。
理解できないものを前にした時の、戸惑いと警戒が混じった拍手だった。
ミナは、その音の中で静かに立っていた。
手の中の魔石は、すでに元の小さなサイズへ戻っている。
何事もなかったかのように。
監督官達は何かを話し合っている。
企業関係者らしき者達は、真剣な目でミナとデバイスを見ている。
値踏みするような視線。
計算するような視線。
未来を見据える視線。
ミナは、それらをすべて感じ取っていた。
そして、心の中で思う。
この技術を。
常識にしなくてはならない。
特別な技術のままではいけない。
特別である限り、奪われる。
隠される。
独占される。
あるいは…消される。
誰もが使える技術にする。
当たり前の技術にする。
そうなれば、
守られる。
世界そのものが、この技術を守るようになる。
ミナは静かに拳を握った。
そのためには。
足りない。
まだ足りない。
制御精度。
安定性。
量産性。
そして、理論の完成。
白紙の本。
あの古代文字。
未完成の魔法。
すべてが、どこかで繋がっている気がしていた。
偶然ではない。
必然。
白いドラゴン。
魔石。
本。
そして、自分。
ミナは顔を上げる。
会場の光が、まぶしい。
だが、その先を見ていた。
もっと先。
まだ誰も辿り着いていない未来を。
そのために、更なる開発強化が必要だった。
これは、始まりに過ぎない。
ステージの照明が背後で落ちる。
眩しかった光が消え、現実の明るさに戻る。
ミナは静かにステージ脇の階段を降りた。
観客席のざわめきはまだ収まっていない。
技術者達の視線。
企業関係者達の小さな声。
「あり得ない」「理論上は…」「直接書き込みだと…?」
様々な言葉が、断片的に耳に入る。
だが、その中をかき分けるように、「ミナ!」
聞き慣れた声。
振り向くと、セリアとレオンが、駆け足で近づいてきていた。
セリアは目を輝かせている。
レオンは驚きを隠せない顔をしていた。
先に口を開いたのはレオンだった。
「……お前」
「……あんなの、開発してたのか」
声には、驚きと、そして純粋な感嘆が混じっていた。
セリアも続ける。
「すごかった……」
「魔石に直接回路を書き込むなんて……聞いたこともない」
少し近づき、小さな声で言う。
「いつの間に、あんなところまで行ってたの……?」
責める声ではない。
ただ、知りたいという声。
ミナは少しだけ視線を落とした
その奥にある、自分だけの秘密。
「少しずつ、作ってただけだよ」
静かに答える。
レオンはふっと笑った。
「少しずつ、であそこまで行くのはお前くらいだ」
セリアも微笑む。
誇らしそうに。
まるで、自分のことのように。
「ねぇ」
セリアは言った。
「本当にすごかった」
その言葉は、誰よりも重く、誰よりも温かかった。
ミナの胸の奥に、静かに届いた。
周囲のざわめきはまだ続いている。
だが、その中心ではなく、この小さな場所だけが、穏やかな時間に包まれていた。
文化祭が終わってから、数日後。
学園の職員室は、異様な空気に包まれていた。
机の上に積み上げられた封筒。
紙だけではない。
魔力通信による正式文書。
映像記録付きの公式オファー。
差出人はすべて、大手デバイス企業。
学園でも名前を知らない者はいないほどの企業ばかりだった。
ある企業は共同研究を申し出た。
ある企業は技術提供の対価として莫大な金額を提示した。
ある企業は、専属契約を求めた。
そして、ある企業は、技術の独占権を求めた。
学園長は、そのすべてをミナに提示した。
「判断は君に任せる」
「これは、君の技術だ」
静かな声だった。
強制はない。
誘導もない。
ただ、選択を委ねるだけ。
ミナはすべての資料に目を通した。
金額。
条件。
制限。
義務。
そして、支配。
それらすべてを確認したあと、ミナは一つだけ答えた。
「公開します」
学園長は一瞬だけ目を細めた。
「……独占させないのか?」
ミナは首を横に振る。
「この技術は、独占されるべきじゃない」
「常識になるべき技術です」
静かで、揺るぎない声だった。
数日後。
ミナは、魔石への直接回路書き込み技術の基礎理論、安全制御構造、回路記述方式、すべての基礎技術を、公開した。
制限なし。
特許なし。
独占なし。
完全公開。
世界中の技術者が、それを読むことができた。
最初は、半信半疑だった。
だが、再現に成功した者が現れる。
一人。
また一人。
そして、数ヶ月後。
魔石直接回路技術は、一部の特別な技術ではなくなった。
新しい、常識になった。
軽量化された装備。
小型化された機器。
今まで不可能だった設計。
すべてが変わり始めた。
学園の研究室。
窓から差し込む夕日。
ミナは静かに外を見ていた。
これは始まりに過ぎない。
心の中で、静かに思う。
(これでいい)
(技術は、縛るものじゃない)
(未来を進めるためのもの)
ミナだけは止まらない。
誰よりも先へ、進み続けていた。
文化祭の熱気が消えきらないまま、次の行事が始まった。
体育祭。
学園の中央にある広大な競技場。
普段は訓練場として使われている場所だが、この日ばかりは観客席まで解放され、旗や装飾が並び、祝祭の空気に包まれていた。
空は高く、澄んでいる。
夏の名残を残しながらも、風はどこか涼しかった。
競技は、一般的なものも多い。
リレー。
綱引き。
障害物競走。
体力と脚力を競う、純粋な身体能力の勝負。
だが、この学園の体育祭は、それだけでは終わらない。
魔法を用いた競技。
魔力の制御精度。
発動速度。
持続力。
そして、応用力。
それらを競う種目が多数用意されていた。
競技場中央の掲示板には、競技一覧が表示されている。
・魔力加速リレー
・魔法障壁耐久競技
・遠距離魔法精密射撃
・魔力圧縮持続競技
・対魔法障害突破競技
・飛び入り参加可能競技
参加は二種類ある。
事前登録枠。
事前に申請し、選考を通過した者のみが出場する。
そして、飛び入り参加枠。
当日、その場で名乗り出れば参加できる。
ただし、実力不足であれば、危険と判断され即座に失格となる。
完全な実力主義。
観客席では、すでに多くの生徒や家族が集まっていた。
歓声。
笑い声。
期待。
様々な感情が混ざっている。
ミナは競技場の入口付近に立ち、全体を見渡していた。
隣には、レオン。
そして、セリア。
セリアは楽しそうに言う。
「結構本格的ね」
レオンは腕を組みながら掲示板を見る。
「魔法競技は選抜制が多いな」
「飛び入りは……あれか」
ミナも視線を向ける。
飛び入り参加可能競技。
そこには、純粋な力ではなく、応用力を問う競技が並んでいた。
セリアがミナを見る。
「ミナはどれ出るの?」
ミナは少しだけ考える。
身体能力の確認。
魔力制御の確認。
そして、純粋な能力の確認。
「いくつか出る予定」
短く答える。
レオンが少し驚いた顔をする。
「いくつか、か」
その目は興味を帯びていた。
セリアは微笑む。
「楽しみね」
競技場の中央で、開始の合図が鳴る。
鐘の音が響く。
体育祭が、始まった。
開始の鐘の余韻が、空気の中に静かに溶けていく。
最初の競技は、一般生徒によるリレーだった。
歓声が響く。
純粋な脚力。
純粋な速さ。
転ぶ者もいれば、最後まで全力で走りきる者もいる。
ミナはそれを観客席の近くから見ていた。
速い。
だが、遅い。
そう感じてしまう自分に、少しだけ苦笑する。
以前の自分なら、あの中で走ることすら難しかった。
今は違う。
体の軽さ。
視界の広さ。
全てが、以前とは別物だった。
次の競技。
「魔力加速走、参加者前へ!」
係員の声が響く。
これは、身体強化魔法を使った短距離走。
魔力による瞬間加速を競う競技だ。
レオンがミナを見る。
「出るのか?」
ミナは小さく頷いた。
「確認のために」
飛び入り参加受付へ向かう。
周囲の生徒がざわつく。
「あれ、文化祭で発表してた人じゃないか?」
「技術発表の……」
「ミナだ」
噂は、すでに広がっていた。
だがミナは気にしない。
受付を済ませ、スタート位置へ立つ。
隣には、上級生らしき男子生徒。
筋肉質で、魔力の密度も高い。
明らかに経験者。
男子生徒がちらりと見る。
「飛び入りか」
敵意ではなく、純粋な確認。
ミナは軽く頷くだけ。
スタートライン。
足を揃える。
呼吸を整える。
魔力を――流す。
全身へ。
筋肉の繊維一本一本へ。
地面の感触が鮮明になる。
風の流れが見えるような感覚。
「位置について」
静寂。
「よーい」
全員の魔力が膨らむ。
「スタート!」
瞬間。
地面を蹴る。
爆発的な加速。
景色が一瞬で流れる。
風が後ろへ引き裂かれる。
制御。
加速しすぎないように。
あくまで自然に。
だが、気がついた時には。
ゴールラインが目の前にあった。
通過。
数歩進んで、停止。
振り返る。
他の生徒は、まだ半分ほどの位置だった。
観客席が、一瞬静まり返る。
そして、ざわめきが爆発する。
「速っ……」
「何だ今の」
「加速の質が違う……」
係員も驚いた顔をしていた。
「……勝者、ミナ!」
拍手が広がる。
セリアが手を振っている。
レオンは腕を組んだまま、静かに見ていた。
戻ると、セリアが言う。
「速すぎ」
笑いながら。
最高の評価だった。
ミナは自分の手を見る。
震えていない。
暴走もしていない。
完全に制御できている。
確認完了。
次の競技は、「魔法精密射撃」
魔力弾を生成し、遠距離の的を正確に撃ち抜く競技。
参加者は順番に撃つ。
的は、距離ごとに小さくなる。
10m。
20m。
50m。
100m。
そして、200m。
最後の的は、肉眼では点にしか見えない。
ミナも飛び入り参加する。
武器は使わない。
自分の魔力のみ。
手を前に出す。
魔力を圧縮。
球体へ。
安定。
回転。
発射。
音もなく飛ぶ。
100mの的。
命中。
200m。
一瞬、風を読む。
補正。
発射。
遠くで、小さな光が弾けた。
命中。
完全な中心。
観客席から歓声が上がる。
だがミナは冷静だった。
これも、確認の一つ。
競技は続く。
障壁。
持続。
反応速度。
その一つ一つをミナは参加し、測り、確認していった。
勝つことが目的ではない。
知ることが目的。
自分の限界。
自分の現在位置。
そして。
競技の合間。
セリアがぽつりと言う。
「ねえ、ミナ」
ミナを見る。
「ミナって……どこまで行くの?」
その問いは、単なる競技の話ではなかった。
ミナは少しだけ空を見る。
秋の空。
高く。
遠い。
そして答える。
「まだ、途中」
それだけ。
レオンは何も言わなかった。
だがその目は、確信していた。
ミナが、この場所に留まる存在ではないことを。
体育祭は、まだ続く。
そして、最後に用意された競技があった。
飛び入り参加可能。
制限なし。
総合戦闘演習。
午後。
最後の競技。
総合戦闘演習。
限定フィールド内での模擬戦。
防御結界により、致命傷にはならない。
参加者は希望者のみ。
ミナも参加した。
フィールドに入る。
広い。
人工的に作られた岩場や障害物。
複数の参加者が、距離を取りながら位置を確保する。
開始の合図。
瞬間、魔法が飛び交う。
火球。氷槍。風刃。
ミナは動かない。
観察する。
軌道。速度。意図。
次の瞬間、一人が背後から接近。
剣。
振り下ろされる。
ミナは半歩横へ。
避ける。
同時に短剣モードを展開。
軽く当てる。
相手の結界が反応し、光る。
「脱落」
審判の声。
次。
魔法使いが詠唱。
完成前に接近。
短剣を軽く当てる。
脱落。
無駄なく正確に
恐怖すら感じさせる静けさ。
数分後。
フィールドに立っているのは、ミナだけだった。
静寂。
そして、歓声。
大きな拍手。
観覧席から。
セリアとレオンも立っていた。
教官は腕を組み、静かに頷いていた。
体育祭は終わった。
夕暮れ。
空は赤く染まっていた。
帰り道。
セリアが言う。
「ミナって、本当にすごいね」
レオンも続く。
「技術だけじゃない。全部だ」
ミナは空を見る。
赤い空。
一瞬、本の中の言葉が頭をよぎる。
壊れ砕かれる世界。
一筋の希望。
ミナは小さく息を吐いた。
「まだ、途中だから」
歩き出す。
影が長く伸びる。
学園の日常は続いていく。
だが確実に。
ミナは、この世界の中心へ近づいていた。
秋の終わり。
吐く息が、わずかに白くなり始めていた。
朝の空気は冷たく、肌に触れるだけで季節の移り変わりを実感させる。
木々の葉は色を変え、その多くはすでに地面へ落ちていた。
学園の中庭を歩きながら、ミナは小さく手を握る。
「……遅い」
反応が。
走れないわけではない。
戦えないわけでもない。
だが、魔力の流れと身体の反応の間に、わずかな遅延がある。
原因は明確だった。
寒さ。
筋肉の収縮。
神経伝達。
血流。
すべてが、ほんのわずか鈍くなる。
人間としては正常な現象。
だが、ミナにとって、それは“誤差”では済まされない。
部屋に戻ると、ミナはすぐにブレスレット型デバイスを外した。
机の上に置く。
外装を展開。
内部構造が露出する。
中央にある魔石。
そして、新たに用意した魔石を取り出す。
透明度の高い、小型の魔石。
すでにプログラムは書き込んである。
温度制御プログラム。
外気温を検知し、使用者の周囲に微弱な温度調整層を形成する。
身体の表面温度を一定に保つ機能。
冷やすことも、温めることも可能。
消費魔力は極小。
既存の魔力バッテリー技術との併用で、半永久的に稼働可能。
ミナは接続端子へ魔石をはめ込む。
カチ、と小さな音。
魔石は2個から、3個へ。
構造が再構築される。
デバイスが再起動する。
淡い光。
内部AIが構成を認識。
最適化。
完了。
ミナはブレスレットを装着する。
数秒。
空気が変わる。
冷たかった空気が、中和される。
寒くもない。
暑くもない。
一定。
まるで、常に最適な環境にいるかのような感覚。
手を開く。
閉じる。
反応速度。
問題なし。
遅延は消えていた。
翌日。
学園の技術申請窓口。
担当職員が書類を確認する。
「温度調整機能の追加……ですか」
ミナは頷く。
「はい。個人用です」
職員は苦笑する。
「あなたの場合、“個人用”でも世界が変わりそうですね」
冗談のようで、冗談ではない。
書類に目を通す。
安全性。
制御機構。
暴走防止。
すべて問題なし。
「承認します」
即答だった。
「さすがに慣れました。あなたの申請は」
ミナは小さく頭を下げる。
「ありがとうございます」
外に出る。
風が吹く。
冷たいはずの風。
だが、ミナの周囲では、その影響は緩和されている。
一定。
安定。
完璧な制御。
空を見上げる。
灰色の空。
冬が、すぐそこまで来ていた。
ミナは静かに歩き出す。
進化は止まらない。
環境に適応するのではなく、環境を、自分に適応させる。
それが、ミナの選択だった。
冬の空気は、完全に冷たさを帯びていた。
朝の学園。
吐く息は白く、地面には薄く霜が降りている。
校舎の入口横の掲示板には、新しい紙が貼り出されていた。
進級試験のお知らせ
生徒達が足を止め、ざわつく。
「もうそんな時期か……」
「単位足りてるから受けなくてもいいけど、一応受けるかな」
「落ちたら留年だろ?怖すぎる……」
学園の進級条件は、大きく分けて2つあった。
1つ目は、進級試験。
学園が用意した総合試験。
筆記。
実技。
判断力。
魔法制御。
戦闘適性。
すべてを総合的に評価する。
単位が足りなくても、この試験に合格すれば進級は可能。
実力主義のための救済措置でもあり、同時に実力を証明する機会でもある。
2つ目は、単位による進級。
通常授業、実習、課題、演習。
それらを積み重ね、規定単位を満たせば試験を受ける必要はない。
最も一般的な進級方法。
安定した努力の証明。
ミナは掲示板を静かに見ていた。
単位は、足りている。
問題なく進級可能。
だが。
後ろから声がした。
「ミナ」
振り返る。
レオンとセリアだった。
セリアは掲示板を見上げながら言う。
「受けるの?」
進級試験を。
ミナは少しだけ考えた。
進級するだけなら必要ない。
だが、自分の現在位置を確認するには、最適な機会。
今の自分が、この時代の基準でどこにいるのか。
どこまで通用するのか。
ミナは答えた。
「受ける」
レオンが少し驚く。
「単位足りてるだろ?」
「うん」
「じゃあなんで」
ミナは静かに言った。
「今の自分の確認」
それだけだった。
自分の限界。
自分の位置。
自分の強さ。
セリアは微笑む。
「私達も受けるわ」
レオンも肩をすくめる。
「首席が逃げるわけにはいかないからな」
三人は自然に並ぶ。
競うためではない。
確かめるために。
冬の空気の中。
新しい試験が、静かに始まろうとしていた。
テスト週間。
普段は賑やかな学園も、この期間だけは別の場所のように静かになる。
廊下を歩く足音は少なく、話し声もほとんどない。
出入りする学生はまばらだった。
それぞれが、自分にとって最も集中できる場所へ散っている。
校内図書館。
街の図書館。
実技競技場。
空き教室。
訓練用の魔力制御室。
誰もが思い思いの場所で、テスト勉強に励んでいた。
試験開始まで、あと2週間。
この学園の試験は、特別難しいものではない。
普段から授業を理解し、実習をこなしていれば、問題なく合格できる。
未知の問題ではなく。
学んだ事を再確認する期間。
それが、この2週間の本質だった。
⸻
ミナは校内図書館にいた。
大きな窓から冬の光が差し込む。
机の上には、数冊の参考書。
そして、白紙の本。
外から見れば、何も書かれていない本。
ミナの目には、確かに文字が見えている。
古代文字。
未完成の魔法。
まだ解読しきれていない部分がある。
ミナは視線を落とす。
そして一度、本を閉じた。
今は優先すべき事がある。
進級試験、初日。
学園の空気は明らかに張り詰めていた。
普段は開放されている講堂も、この日ばかりは試験会場として整えられている。
整然と並ぶ机。
一定の間隔で配置された座席。
前方には教官達。
窓の外は冬の空。
静かで、冷たい光が差し込んでいる。
カツ、カツ、と靴音が響く。
学生達が順番に入室していく。
席に座る者。
深呼吸をする者。
目を閉じ集中する者。
参考書を最後まで確認する者。
そして
明らかに様子の違う学生もいた。
机に座りながら、落ち着きなく足を揺らしている。
額には汗。
まだ寒い季節だというのに。
指先は震え、何度も手を握り直している。
留年の可能性がある学生。
単位が足りない者。
実技評価が基準に届いていない者。
この試験で結果を出せなければ、進級はできない。
その現実が、重くのしかかっている。
「これより、筆記試験を開始する」
教官の声。
静かだが、はっきりと響く。
「制限時間は90分」
「不正行為は即時失格とする」
「始め」
その瞬間。
一斉に紙をめくる音が響いた。
パラッ…空気が変わる。
全員が問題へと集中する。
ペンの走る音。
紙を擦る音。
息を殺すような静寂。
ミナも問題用紙に視線を落とす。
魔力理論。
回路設計。
安全制御。
すべて、既に理解している内容。
確認。
ただそれだけ。
ミナは迷いなく、解答を書き進めていく。
一定の速度。
無駄のない動き。
焦りはない。
不安もない。
一方で。
数列の前で止まる学生。
制御理論の問題でペンが止まる学生。
ページをめくる手が震える学生。
時間だけが、平等に過ぎていく。
カチ、カチ、カチ……
時計の音が、やけに大きく聞こえた。
試験は。
誰にとっても。
平等であり…残酷でもあった。
一科目目が終わる。
「そこまで」
教官の声と同時に、空気が緩んだ。
それまで張り詰めていた緊張が、糸が切れたように解けていく。
あちこちから
はぁ……
小さなため息が漏れる。
机に突っ伏す者。
天井を見上げる者。
目を閉じる者。
安堵のため息。
そして
絶望のため息。
「……終わった」
小さく呟く声。
誰に向けたものでもない。
自分自身への言葉。
問題用紙と解答用紙が回収されていく。
紙の擦れる音だけが、静かに響く。
ミナは特に表情を変えず、用紙を渡した。
終わった、という感覚も。
解放された、という感覚もない。
ただ一つの工程が終わっただけ。
それだけだった。
休憩時間。
教室の空気は重かった。
「問3、どう書いた?」
「制御係数のとこ?」
「あれって第2式使うんだよな……?」
小声で確認し合う者達。
しかし。
途中で口を閉ざす。
答え合わせは、時に救いになり。
時に、傷になる。
理解してしまうからだ。
自分が、どれだけ出来なかったかを。
二科目目。
三科目目。
終わる度に。
はぁ……
はぁ……
ため息が、増えていく。
最初は小さかった音が。
少しずつ、重くなる。
精神の消耗。
集中力の摩耗。
試験は知識だけでなく、精神力も削っていく。
その中で。
ミナは変わらなかった。
呼吸も。
姿勢も。
視線も。
一定のまま。
ただ淡々と。
問題を解き。
提出し。
次へ進む。
外では、冬の風が強くなり始めていた。
初日の試験は終わった。
夕方の校舎。
試験を終えた学生達は、どこか疲れた足取りで帰路につく。
「思ったより難しかった……」
「実技で取り返すしかないな……」
小さな会話が、あちこちで交わされていた。
ミナは特に誰とも話さず、静かに学園を後にした。
空気は冷たく。
吐く息は白かった。
明日は…実技。
筆記とは違う、本当の意味での評価が行われる。
試験2日目。
午前は通常筆記。
昨日よりも、さらに静かだった。
疲労が残っている者。
開き直っている者。
覚悟を決めた者。
それぞれが、自分の状態で机に向かっている。
ミナは変わらず、淡々と解き進めた。
問題は確認作業に近い。
知識は既に、自分の中にある。
時間を余らせ、静かに提出した。
教室を出る時。
廊下の窓から、実技競技場が見えた。
午後。
いよいよ、実技試験。
昼休憩を挟み。
学生達は実技競技場へ集められた。
広い屋外施設。
地面は特殊な魔力吸収素材で覆われている。
暴発や事故を防ぐための安全構造。
教官が前に立つ。
「これより実技試験を開始する」
緊張が走る。
「試験内容は三つ」
「一つ目、魔力制御」
「二つ目、魔法行使」
「三つ目、応用対応能力」
ざわめきが起きる。
単純な威力だけではない。
制御。
精度。
判断力。
すべてが評価対象。
最初は魔力制御。
水晶柱に手を触れ、魔力を流し込む。
強すぎれば破損。
弱すぎれば不合格。
安定した出力が求められる。
学生達が順番に行う。
光が揺れる者。
暴発しそうになり慌てて止める者。
ほとんど光らない者。
結果は様々だった。
ミナの番。
ブレスレット型デバイスが、静かに脈動する。
手を、水晶へ触れる。
魔力を流す。
一定。
滑らかに。
水晶が、安定した光を放つ。
揺れない。
乱れない。
教官が、僅かに目を細めた。
計測器の数値が、安定した直線を描いている。
理想的な制御。
ミナは手を離した。
水晶の光は、静かに消えた。
次は魔法行使。
指定された的。
距離は30メートル。
精度が求められる。
次々と学生が挑む。
外す者。
かすめる者。
的を壊す者。
ミナは短剣モードのデバイスを展開。
短銃モードへ変形。
小さく、機構音が鳴る。
狙う。
引き金。
――パシュッ
圧縮された魔力弾。
的の中心。
正確に、命中。
的は揺れるが、破壊はしない。
威力も制御している証拠。
教官が記録を取る。
何も言わない。
だが、その沈黙が評価だった。
そして最後。
応用対応能力。
突如。
競技場の一部に、模擬魔物が出現する。
予告なし。
反応速度を見る試験。
ざわめき。
一瞬の遅れ。
ミナはすでに動いていた。
距離を取る。
視線で軌道を読む。
短銃モード。
二発。
――パシュッ、パシュッ
模擬魔物の核部分。
正確に命中。
模擬魔物は光となり、消えた。
完全な対処。
無駄がない。
静寂。
周囲の学生が、ミナを見る。
教官は、記録を終えた。
「次」
それだけを言った。
試験は、まだ続いている。
だが――
ミナの実技は、すでに終わっていた。
全ての試験が終わった。
最後の学生の実技が終わり、競技場の空気が緩む。
張り詰めていた緊張が、ゆっくりと解けていく。
教官が前へ出る。
「以上で、今年度の進級試験を終了する」
その一言で、本当に終わったのだと、全員が理解した。
静かだった競技場に、小さなざわめきが戻る。
安堵の息。
肩の力が抜ける音。
その場に座り込む者。
空を見上げる者。
友人と顔を見合わせる者。
様々だった。
ミナは、静かにデバイスを収納した。
ブレスレットが元の形に戻る。
手首に馴染む感覚。
確実に一つの区切りだった。
「ミナ」
声。
振り向くと、セリアとレオンがいた。
セリアは、ほっとしたように笑っている。
「終わったね」
レオンも小さく息を吐いた。
「ああ……長かった」
だが、その表情は晴れていた。
ミナは小さく頷く。
「うん」
それだけだった。
だが、十分だった。
空は、冬の色だった。
高く。
澄んで。
冷たい。
試験の結果は、まだ出ていない。
結果は既に分かっているようなものだった。
努力した者。
積み重ねた者。
そして、未来を見据えている者。
それぞれが、自分の道を進んでいる。
ミナは空を見る。
白い息が、ゆっくりと消えていった。
冬が、本格的に始まろうとしていた。
試験が終わった帰り道。
空気は冷たかったが、どこか軽かった。
張り詰めていたものが無くなり、世界が静かに広がっているように感じられる。
ミナの左右には、セリアとレオン。
三人で並んで歩く。
白い息が、同じリズムで夜へ溶けていく。
しばらくは、誰も何も話さなかった。
ただ、試験が終わった余韻だけがあった。
やがて――
レオンが空を見上げた。
「なあ、ミナ」
「うん?」
「将来の事、考えてるか?」
突然の質問だった。
ミナ。
セリアもレオンを見る。
レオンは少しだけ照れたように笑った。
「俺とセリアは、もう決めてるんだ」
セリアが、小さく頷く。
「天文学」
その言葉は、冬の空気の中で静かに響いた。
レオンが続ける。
「星の研究者になる」
ミナも空を見上げる。
夕暮れから夜へ変わり始めた空。
既に、いくつかの星が見えていた。
セリアが言う。
「空の星って、不思議なの」
「ずっと同じ場所にあるようで、少しずつ動いてる」
「でも、それだけじゃない」
少しだけ間を置いて。
「まるで、生きてるみたいに動く星があるの」
ミナは視線を空へ向けたまま聞いていた。
レオンも続ける。
「記録上では説明できない動きをする星がある」
「軌道から外れて、また戻ったり」
「一瞬だけ消えたり」
「まるで意思があるみたいに」
セリアの目は輝いていた。
「それを見つけたい」
「観測して」
「何なのか知りたい」
レオンが笑う。
「だから、研究者になる」
「セリアと一緒に」
その言葉に、セリアも自然に微笑む。
当たり前のように。
同じ未来を見ている二人。
ミナは、二人を見た。
そして――また空を見る。
星。
生きているように動く星。
ミナの中で、何かが静かに重なった。
遠い記憶。
遠い時間。
だが、それを口にする事はなかった。
代わりに。
「きっと、なれるよ」
そう言った。
セリアが嬉しそうに笑う。
「ありがとう」
レオンも頷く。
「ミナは?」
その質問は、優しかった。
未来を尋ねる言葉。
ミナは少しだけ考え、静かに答えた。
「私は――」
白い息が、夜へ溶ける。
「やる事がある」
それだけだった。
だが、その言葉は。
確かな意志を持っていた。
三人は歩き続ける。
同じ道を。
それぞれの未来へ向かって。
試験が終わると、学園は一時的に静かになる。
進級試験の採点期間。
教師や教官達は、提出された答案や記録された実技データの確認に追われる。
その間――授業は無い。
試験休みだ。
学園は開いているが、登校は義務ではない。
自主的に来る者。
完全に休む者。
それぞれだった。
校舎の廊下は、人が少ない。
普段は騒がしい足音も、今はまばらだ。
掲示板の前で結果を予想し合う者。
図書館で次の学期に向けて勉強する者。
実技場で自主訓練を続ける者。
そして、何もしない時間を過ごす者。
試験という大きな山を越えた後の、束の間の空白だった。
ミナは学園へ来ていた。
理由は特に無い。
ただ、静かなこの空間が落ち着くだけだった。
実技場の端に立つ。
冷たい空気。
冬の気配が濃くなっている。
ミナは手首のブレスレット型デバイスを起動した。
微かな振動。
すぐに、周囲の空気が変わる。
冷たさが和らぐ。
体感温度が一定に保たれる。
吐く息は白いままだが、寒さは感じない。
魔石を3つに増設した事で、出力と持続時間は大きく向上していた。
魔力消費も、想定範囲内
問題は無い。
ミナはデバイスを停止する。
元の冷たさが戻る。
だが、それも一瞬だった。
再び起動。
今度は出力を少しだけ下げる。
細かい調整。
最適化。
こういう時間が、ミナは嫌いではなかった。
遠くで、誰かの笑い声が聞こえる。
振り向くとセリアとレオンだった。
二人も自主訓練に来ていたらしい。
セリアが手を振る。
「やっぱり来てた」
レオンも軽く手を上げる。
「ミナなら来てると思った」
ミナは小さく頷いた。
三人の試験休みは、静かに、だが確実に、次の時間へ向かって進んでいた。
採点期間が終わり、合格発表の日が来た。
掲示板に張り出される形式ではない。
一人一人に、直接手渡される。
教師から渡されるのは、一通の封筒。
厚くもなく、薄くもない。
中には、各教科の点数。
実技評価。
そして、合否。
すべてが記されている。
ただそれだけの紙。
だが、その重みは人によって違った。
教室の空気は、静まり返っていた。
教師の机の上には、整然と並べられた封筒。
名前を呼ばれる度に、一人ずつ前に出る。
「――次」
名前を呼ばれた生徒が歩き出す。
受け取る瞬間。
小さく息を呑む音。
そして――戻る。
その反応は様々だった。
その場で、すぐに開ける者。
震える指で封を切り、目を走らせ、安堵の表情を浮かべる者。
逆に、表情を固める者。
何も言わず、封筒を鞄にしまい込む者。
まだ、見たくないのだろう。
現実を、少しだけ先延ばしにするために。
友人同士で見せ合う者もいた。
「見せて見せて!」
「そっちはどうだった!?」
笑顔。
肩を叩き合う音。
悔しそうに笑う声。
すべてが混ざっていた。
「ミナ」
名前を呼ばれる。
ミナは立ち上がる。
静かに前へ歩く。
教師は、何も言わず封筒を差し出した。
受け取る。
わずかな重さ。
席へ戻る。
周囲では、既に多くの封筒が開かれていた。
紙の擦れる音。
小さな歓声。
ため息。
様々だった。
ミナは、封筒を見る。
すぐには開けなかった。
ただ、手の中で感じる。
自分が積み重ねた時間の結果。
やがて、静かに封を切った。
紙を取り出す。
視線を落とす。
その瞬間、ミナの表情は――変わらなかった。
ただ、小さく、息を吐いた。
ミナの結果は、満点。
すべての項目に並ぶ、同じ数字。
減点無し。
筆記。
実技。
評価。
すべて。
非の打ち所がない結果だった。
だが、ミナの表情は変わらない。
喜ぶわけでもなく、誇るわけでもなく、ただ――
「そう」
と、心の中で確認するだけだった。
紙を元の封筒へ戻す。
そっと、鞄にしまい込む。
誰にも見せない。
見せる必要もなかった。
それは通過点でしかないからだ。
外へ出ると、空気はさらに冷たくなっていた。
太陽は低く、日が落ちるのも早い。
年の終わりが近づいている。
そして、街には、少しずつ色が増えていた。
赤。
緑。
金。
「クリスマス」
そう呼ばれる日。
誰かの誕生日だとか、亡くなった日だとか、諸説あるらしい。
ミナにとっては、ただの一日。
――だった。
以前までは。
街の店に入る。
暖房の空気。
鈴の音。
店内には、様々な物が並んでいる。
ぬいぐるみ。
本。
文房具。
おもちゃ。
防寒具。
ミナは、一つ一つ手に取る。
思い浮かべる。
施設の子供達の顔。
あの子は、青が好きだった。
あの子は、本を欲しがっていた。
あの子は、手袋が欲しいと言っていた。
事前に施設長から聞いてある。
欲しい物のリスト。
だが、ミナはそれ以外の物も選んだ。
予定には無かった物。
喜びそうな物。
驚きそうな物。
袋が増えていく。
両手に抱えきれないほど。
それでも、魔法は使わなかった。
自分の手で持つ。
重さを感じる。
それが、大切だった。
街の外れへ向かう道。
空は、もう暗い。
吐く息は白い。
袋を抱えながら歩く。
ふと、思い出す。
自分も、ここで受け取った事がある。
小さな箱。
小さな袋。
中身は大した物ではなかった。
だが、嬉しかった。
今でも覚えている。
だから。
今度は、自分が渡す側になる。
ミナは歩き続ける。
静かな夜の中を。
袋の中には、物だけではなく、想いが詰まっていた。
クリスマス当日。
施設の門の前で、ミナは一度足を止めた。
白い息。
静かな朝。
袋を持ち直し、扉を開ける。
「ただいま」
そう言いながら中へ入る。
その瞬間、ミナは、足を止めた。
そこにあったのは、見慣れた光景ではなかった。
大きなツリー。
天井に届きそうなほどの高さ。
緑の枝には、金や銀の飾り。
赤いリボン。
ガラスの玉。
光る魔石の小さな灯り。
ゆっくりと、優しく輝いている。
例年のツリーは、120cmほど。
子供達と一緒に、背伸びをして飾りを付けていた。
それが、今は、何倍もの大きさで、そこに立っていた。
そして、長机の上には、沢山のご馳走。
温かいスープ。
焼きたての肉料理。
色とりどりの野菜。
甘い香りのする菓子。
見たこともないほどの量だった。
「ミナお姉ちゃん!」
子供達が駆け寄ってくる。
嬉しそうな顔。
興奮した声。
「あのね!あのね!」
「すごいツリー!」
「ご飯もいっぱい!」
「ケーキもあるんだよ!」
小さな手がミナの服を引く。
施設長が、奥から歩いてくる。
穏やかな笑顔。
「レオンさんとセリアさんのご両親がね」
静かに言う。
「寄付してくださったの」
「ツリーも、食事も」
「全部」
ミナは、ツリーを見る。
光。
飾り。
その下では、子供達が笑っている。
無邪気に。
何も知らずに。
ただ、嬉しくて。
それだけで。
ミナは、自分の持ってきた袋を見る。
そして、小さく笑った。
「プレゼントも、あるよ」
その言葉に、子供達の目がさらに輝く。
「ほんと!?」
「やった!」
「ミナお姉ちゃんサンタだ!」
笑い声が広がる。
ツリーは大きくなった。
食事も増えた。
だが、変わらないものがあった。
それは、ここが、帰る場所だという事。
ミナは、ツリーの光を見上げながら、静かに立っていた。
楽しい時間は、あっという間に過ぎていった。
笑い声。
走り回る足音。
紙を破る音。
「見て!」
「これ欲しかったやつ!」
「ありがとう!」
子供達は、何度もミナの名前を呼んだ。
その声一つ一つが、胸の奥に残る。
そして、ミナもまた、プレゼントを受け取っていた。
小さな箱。
折り紙で包まれた物。
不格好に編まれた紐。
手紙。
「ミナお姉ちゃんへ」
そう書かれた文字。
拙くて、真っ直ぐで、大切なもの。
帰る時間。
施設の前。
吐く息は白く、夜の空気は静かだった。
「またね」
子供達が手を振る。
ミナも、小さく手を振り返す。
施設長が近づいてきた。
「ミナ」
そして、一つの包みを差し出す。
他の物とは違う、丁寧に包まれたプレゼント。
「これは――帰ってから開けて」
ミナは、少しだけ不思議に思いながらも、頷いた。
「……うん」
それを受け取り、施設を後にする。
帰宅。
扉を開け、灯りをつける。
静かな自室。
いつもと同じ空間。
ミナは、ゆっくりと歩き、ベットのそばへ行く。
頭元に置かれた卵。
両手で包むように触れる。
「ただいま」
優しく撫でる。
ほんのりと、暖かい。
前よりも。
けれど、ミナは小さく息を吐いた。
外から帰ってきたばかりだから、自分の手が冷たいだけ。
そう思った。
卵は、静かにそこにあった。
ベットに腰をかける。
施設長から渡された包みを手に取る。
ゆっくりと開く。
中には、毛糸のブランケット。
柔らかい。
丁寧に編まれている。
端には、小さく刺繍された文字。
「mina」
自分の名前。
そして、一通の手紙。
封を開ける。
中の紙を広げる。
そこに書かれていた文字は、セリアの母のものだった。
流れるような、美しい文字。
短い言葉。
『メリークリスマス』
それだけ。
それだけだった。
だが、その言葉の中に、多くの想いが込められているのが分かった。
ミナは、ブランケットをそっと抱きしめた。
毛糸の暖かさ。
それは、冬の寒さとは違う暖かさだった。
静かな部屋。
灯りの下。
卵と、ブランケットと、手紙。
ミナは、しばらく、そのまま動かなかった。
聖夜の夜。
静かな部屋。
灯りは消え、窓の外には、冬の星空が広がっていた。
ミナは、ブランケットに包まり、
卵のそばで眠りについた。
夢を見た。
白い世界。
音もなく、風もなく、ただ――
空だけがあった。
赤でもなく、黒でもなく、深い、透き通るような夜空。
そこに、一体の存在がいた。
白いドラゴン。
鱗は雪のように白く、星の光を反射して、淡く輝いている。
その動きは静かで、重さを感じさせない。
ドラゴンは、空を流れる光を見つめていた。
流れ星。
一筋の光が、空を横切る。
白いドラゴンは、ゆっくりと口を開き、
それを――
捕まえた。
そして、食べた。
砕けた光は、粒となって、体の中へ消えていく。
満たされるように、ドラゴンの光が、少しだけ強くなる。
⸻
ドラゴンは、ミナを見た。
まっすぐに。
優しく。
そして、もう一つの流れ星を捕まえる。
ミナの前へ、顔を近づける。
大きな瞳。
恐怖はなかった。
ただ、懐かしさがあった。
ドラゴンは、その光を――
ミナの口へ入れた。
自然と、それを受け入れる。
流れ星は、暖かく、柔らかく、
そして――
力を持っていた。
体の奥へ、溶けていく。
⸻
白いドラゴンは、ミナを抱きしめた。
大きな翼。
暖かい体温。
守るように。
包むように。
そして、言った。
「本のヒントは――あなた自身」
静かな声。
直接、心へ届く声。
「もっと星を食べなさい」
「大きいのも」
「小さなものも」
ドラゴンは、ミナの手を取る。
そこに、一つの光を置く。
流れ星。
だが――
それは、形を変えた。
硬質な感触。
透明な結晶。
魔石。
淡く、脈打つように光っている。
それは、確かに、そこにあった。
⸻
ドラゴンは、何も言わず、ただ、見つめていた。
そして、ゆっくりと離れる。
白い光の中へ、溶けるように。
消えていく。
最後に残ったのは、手の中の光だけだった。
⸻
目が覚める。
静かな部屋。
朝ではない。
まだ夜。
窓の外には、星がある。
ミナは、自分の手を見る。
何もない。
夢。
そのはずだった。
だが――
胸の奥に、確かな感覚が残っていた。
暖かい光を、飲み込んだ感覚が。
ミナは、手の中の魔石を見つめた。
透明な結晶。
小さい。
だが、確かな質量がある。
石。
ただの魔力の塊ではなく、物質として存在している。
つまり――
限界がある。
いくら取り込めるとしても、無限ではない。
お腹に溜まる。
物理的に。
そして、魔石そのものも、無限にある訳ではない。
ダンジョンで得られる量にも限界がある。
市場に流通する量も限られている。
買えばいい話ではない。
数が増えれば、いずれ気づかれる。
不自然な消費量。
記録に残る。
目立つ。
それは避けたい。
ミナは、静かに魔石を元の位置へ戻した。
卵の隣。
卵は、変わらず暖かい。
まるで、呼吸しているように。
⸻
ミナは、ベットに腰掛けたまま、考える。
魔石。
量。
効率。
供給。
そして――
機会。
学園の年間行事。
授業。
実技。
訓練。
その中で、一つの行事が浮かぶ。
討伐訓練。
2年目の春に行われる、大規模な実地訓練。
生徒達は、管理されたフィールドで魔物を討伐する。
実戦形式。
評価対象。
そして、報酬が出る。
討伐した魔物の魔石。
通常授業よりも、遥かに多い数。
集団行動のため、個人の取得量は平均化される。
だが、方法はある。
効率。
選別。
密度の高い個体。
魔力溜り。
あの時の洞窟。
濃度の差。
個体差。
質の違い。
数だけではない。
質。
濃度の高い魔石。
それなら、少ない数でも意味がある。
⸻
ミナは、窓の外を見る。
夜空。
星がある。
流れ星は、今は見えない。
だが、確実にそこにある。
白いドラゴンの言葉。
「もっと星を食べなさい」
その意味が、少しずつ、現実に結びついていく。
無計画に取り込むのではない。
選ぶ。
集める。
準備する。
討伐訓練まで、あと数ヶ月。
時間はある。
ミナは、静かに横になった。
卵の暖かさを、手の甲で感じながら。
春は、力を増やす季節になる。
冬の空気は澄んでいた。
吐く息が白く、胸の奥まで冷たさが入り込む。
だが、ミナの足取りは軽かった。
手には、小さな箱。
丁寧に包装され、淡い色のリボンが結ばれている。
自分で作ったもの。
自分の手で渡すもの。
その事実が、ミナの心を静かに温めていた。
⸻
見慣れた道。
セリアの家。
そして、その隣に並ぶ、セリアの実家。
以前訪れた時と同じ、変わらない景色。
ミナは、玄関の前に立つ。
一度、箱を見下ろす。
問題ない。
リボンも、崩れていない。
ミナは、呼び鈴を押した。
小さな音が、家の中へ響いていく。
少しの間。
足音。
近づいてくる。
そして、扉が開いた。
「……あら」
セリアの母だった。
柔らかな表情。
ミナの姿を見ると、目を少し丸くする。
「ミナちゃん」
優しい声。
その声を聞くだけで、ここへ来てよかったと感じる。
ミナは、両手で箱を持ち、差し出した。
「昨日の……お礼です」
短い言葉。
だが、十分だった。
セリアの母は、驚いたように箱を見る。
「まあ……」
両手で、大切そうに受け取る。
リボンに触れ、包装を見つめる。
「開けてもいいかしら?」
ミナは、小さく頷いた。
セリアの母は、丁寧にリボンを解き、包装を開ける。
中から現れたのは、ブレスレット。
魔石が、静かに埋め込まれている。
「……綺麗」
思わず、そう零れる。
セリアの母は、恐る恐る手に取る。
魔力を、少しだけ流す。
その瞬間、淡い光が広がる。
空間に、星が映し出される。
小さな光の粒。
ゆっくりと動き、瞬き、まるで夜空そのものが、手の中にあるようだった。
プラネタリウム。
静かな、優しい星空。
セリアの母は、息を呑む。
「……星」
震えるような声。
光が、その瞳に映っていた。
ミナは、何も言わず、ただ見ていた。
セリアの母は、ブレスレットを胸に抱いた。
「ありがとう」
その言葉は、とても静かで、とても深かった。
「大切にするわ」
ミナは、小さく頷いた。
それだけで、十分だった。
冬の空は、昼でも澄んでいる。
だが、今この場所には、確かに星があった。
年末の朝。
空気は冷たい。
だが、どこか落ち着いていた。
世の中は忙しいはずなのに、この場所だけは静かだった。
ミナの家も同じ。
余計な音はない。
時計の針の音。
外を歩く人の足音。
それだけだった。
テレビは無い。
設置していない。
必要だと思ったことがなかった。
知るべきことは、自分で調べればいい。
見るべきものは、自分の目で見ればいい。
それで十分だった。
⸻
呼び鈴が鳴る。
静かな家に、小さく、はっきりと響く。
ミナは立ち上がり、玄関へ向かう。
扉を開ける。
そこにいたのは、
セリアだった。
白い息。
頬が少し赤い。
「おはよう、ミナ」
いつもの声。
だが、どこか楽しそうだった。
「実家でね、みんな集まるの」
少しだけ、言葉を選ぶように続ける。
「年末だから」
そして、少し笑う。
「ミナも来ない?」
間を置いて、付け加える。
「お泊まりになるけど」
当然のように。
自然な流れのように。
そこに、遠慮はなかった。
ミナは、セリアを見つめる。
その瞳は、真っ直ぐだった。
誘いではなく、迎え入れている目だった。
ミナは、小さく頷いた。
「うん」
短い返事。
だが、それで十分だった。
セリアは、嬉しそうに笑った。
「よかった」
その一言に、全てが込められていた。
⸻
ミナは、振り返る。
静かな家。
卵がある。
頭元に、変わらず置かれている。
ミナは近づき、そっと撫でた。
「行ってくるね」
小さく、そう言った。
卵は、変わらず暖かかった。
セリアの実家。
玄関の前に立つと、中から人の気配が伝わってきた。
普段よりも、少しだけ賑やかだった。
セリアが扉を開ける。
「ただいま」
家の中の暖かい空気が、外へ流れ出る。
ミナも一歩、中へ入る。
靴を脱ぎ、顔を上げると――
そこには、レオンがいた。
壁の近くに立ち、こちらを見ている。
その隣には、レオンの両親。
そして、セリアの両親も居た。
既に、全員揃っていた。
レオンが、少し驚いた顔をする。
「ミナも来たんだな」
だが、すぐに表情が柔らぐ。
「いらっしゃい」
短く、自然な言葉だった。
レオンの母も、優しく微笑む。
「ミナちゃん、久しぶりね」
セリアの母は、すぐにミナの側へ来た。
まるで、最初から居るのが当たり前のように。
「寒かったでしょう」
そう言って、ミナの手を包む。
暖かい手だった。
家の中は、
暖房だけではない、人の温もりがあった。
セリアは、ミナの袖を軽く引く。
「こっち」
リビングへ案内する。
大きなテーブル。
既に、料理の準備が進んでいる。
年末。
家族が集まる日。
その輪の中に、ミナも居た。
誰も、不自然に思っていない。
最初から、そこに居るべき存在のように。
リビングには、映像と音が流れていた。
壁に設置された薄い板――テレビ。
ミナは、それを見ていた。
いや、
正確には、見ている状態だった。
何の番組なのか、解らない。
人物が話し、映像が切り替わり、音が続いている。
だが、内容が頭に入ってこなかった。
理由は、別にあった。
ミナは、セリアの母の膝の上に座らされていた。
背中に、柔らかな感触。
頭の上に、温かい手。
ゆっくりと、撫でられている。
指先が、髪を梳く。
優しく、一定のリズムで。
ミナは、何も言わなかった。
拒まなかった。
拒む理由が、見つからなかった。
それどころか
そのままでいる自分に、自分自身が驚いていた。
逃げようと思えば、逃げられる。
立ち上がることも、離れることもできる。
そうしなかった。
しようと、思わなかった。
セリアの母の体温。
鼓動。
呼吸。
それらが、直接伝わってくる。
知らない感覚だった。
だが、嫌ではなかった。
⸻
テレビの音の向こうで、会話が続いていた。
レオンの父が言う。
「最近の観測でね、恒星の動きに僅かなズレが確認されているんだ」
セリアの父が、腕を組みながら頷く。
「重力の影響では説明がつかない規模だ」
レオンの母が、静かに続ける。
「まるで――何かが“通過した”みたいに」
セリアの母の手は、撫でるのを止めない。
ミナの頭に触れたまま、話を聞いている。
「宇宙には、まだ解明されていない領域が多すぎるのよ」
レオンが、少し身を乗り出す。
「宇宙にも……魔物はいるのかな」
誰に向けたわけでもない、純粋な疑問。
セリアの父が、小さく笑う。
「可能性はある」
否定しない。
断定もしない。
「むしろ、居ないと断言する方が難しい」
セリアの母が、静かに言う。
「別世界の存在もね」
その言葉に、一瞬だけ、空気が静まる。
別世界。
異なる時間。
異なる存在。
ミナは、目を伏せた。
自分の中にある、誰にも話していない事実。
この時代の人間ではないこと。
それでも、この時代を生きていること。
セリアの母の手が、少しだけ強く、優しく、ミナの頭を撫でた。
まるで、全てを知っているかのように。
ミナは、何も言わなかった。
ただ、その温もりの中にいた。
不意に、視線が集まった。
セリアの父だった。
穏やかな表情のまま、ミナを見る。
「ミナちゃんはどう思う?」
静かな声。
問いかけ。
「別世界が存在して――そこに魔物が居る可能性はあると思うかい?」
突然の話題。
だが、試すような声ではなかった。
純粋な、研究者としての興味。
ミナは、少しだけ目を瞬かせた。
セリアの母の膝の上。
頭を撫でられたまま。
その状態で、答えた。
「別世界は存在する」
迷いはなかった。
その場の全員が、わずかに息を止める。
ミナは続ける。
「問題は」
「時空の壁へどう干渉するか」
理解できる言葉で、理解の外側を語る。
「例えば――収納魔法」
レオンが反応する。
「収納魔法……」
ミナは頷く。
「物を“消している”訳ではない」
「別の場所へ移動させている」
「正確には」
一度、言葉を区切る。
「別世界を生成している状態」
静寂。
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
ミナは、淡々と続ける。
「生成された空間は独立している」
「時間の干渉も、物理的干渉も受けない」
「だから中の物は劣化しない」
「取り出す時は、座標を再接続して戻している」
レオンの父が、小さく呟く。
「……座標の再接続」
セリアの父の目が、鋭くなる。
「つまり」
「既存の別世界を利用しているのではなく――」
ミナが答える。
「生成している」
断定。
「個人単位で」
「極めて小規模な別世界を」
誰も、すぐには言葉を発しなかった。
テレビの音だけが、遠くで流れている。
セリアの母の手は、止まっていた。
そのまま、ミナの頭に触れている。
レオンが、ゆっくりと口を開く。
「それって……」
「理論じゃなくて」
「実際に存在してるってことだよな」
ミナは、小さく頷いた。
「うん」
その一言は、この世界の常識を、静かに越えていた。
ミナは、静かに続けた。
「皆が気が付かないだけ」
強く言ったわけではない。
だが、確信があった。
「答えは既に存在していたって事です」
誰かが発明したわけではない。
誰かが作ったわけでもない。
最初から、そこにあったもの。
認識されていなかっただけ。
セリアの父が、ゆっくりと息を吐く。
「……観測できなければ」
「存在しないのと同じ、か」
研究者として、何度も直面してきた壁。
ミナは首を横に振る。
「違う」
否定。
「存在している」
「観測できていないだけ」
わずかな違い。
だが、本質はまったく異なる。
レオンの母が、静かに尋ねる。
「どうすれば観測できるの?」
ミナは、少しだけ考え、答えた。
「干渉すること」
「魔力は」
「時空へ干渉できる数少ない力」
レオンの父が、興味を隠さずに前のめりになる。
「つまり――」
「魔法は、別世界へ触れている証明でもある?」
ミナは、小さく頷く。
「はい」
セリアの母の手が、再び動き始める。
優しく、ミナの髪を撫でる。
まるで、誇らしいものを見るように。
セリアが、少し笑う。
「やっぱりミナはすごいね」
純粋な言葉。
比較でも、
評価でもない。
ただの感想。
ミナは、何も答えなかった。
答える代わりに、その温もりの中で、静かに目を閉じた。
ここは、
安全な場所だった。
研究者達の家。
星を見続けてきた人達。
そして、未来を見ている人達。
ミナは、その中心に居た。
ミナは、静かに言った。
「では試しますね」
その言葉に、全員の視線が集まる。
「これはまだ発表してない事ですが、皆さんにお見せします」
セリアの母の膝から、そっと降りる。
床に立つ。
小さな一歩だったが、空気が変わった。
研究者達の目になる。
観察する目。
理解しようとする目。
ミナは、右手を前に出した。
「まず――収納空間を出します」
指先に、淡い光が集まる。
空間が、歪む。
空中に、黒く縁取られた楕円が現れる。
直径30cmほどの、収納空間の入口。
向こう側は見えない。
完全な、切り離された空間。
レオンが、小さく息を呑む。
ミナは続ける。
「出入口は1つです」
常識の説明。
誰もが知っている理屈。
「ですが」
左手を、少し離れた位置へ向ける。
再び、光。
空間が、もう一度歪む。
二つ目の収納空間。
同じ大きさの、もう一つの入口。
並んで存在する、二つの異空間。
セリアの父が、思わず呟く。
「同時展開……」
通常では、極めて困難な制御。
ミナは、静かに言った。
「ここに――もう1つ収納空間を出現させます」
そして、右側の収納空間へ、ゆっくりと、自分の腕を入れた。
肘まで、飲み込まれる。
消える。
その瞬間。
レオンが、声を上げた。
「――っ!」
左側の収納空間。
その出口から、ミナの腕が、出てきていた。
まるで、空間そのものが、繋がっているかのように。
いや、繋がっていた。
指が動く。
手のひらが開く。
完全に、同一の腕。
セリアの母が、口元に手を当てる。
「……嘘」
ミナは、冷静に説明する。
「二つの収納空間は独立していません」
「座標を共有させています」
腕を、ゆっくりと引き抜く。
右側から抜けば、
左側からも消える。
完全に、同一の接続。
「これは」
「空間が一つで」
「入口が複数存在している状態」
静寂。
誰も、言葉を発せない。
理解が、追いつかない。
レオンの父が、震える声で言う。
「これは……」
「空間の――」
言葉を、探す。
ミナが答える。
「干渉です」
単純な言葉。
だが、意味は深い。
「既存の空間を使っているのではなく」
「生成した空間同士を接続している」
セリアが、小さく呟く。
「別世界同士を……繋げた……」
ミナは、否定しなかった。
それが、答えだった。
ミナは、二つの収納空間を維持したまま言った。
「小説などに出る――ワープですね」
軽く、指先を動かす。
右の入口へ、手のひらサイズの小さなペンを入れる。
すぐに、左の入口から、同じペンが滑り出る。
重力も、向きも、連続している。
まるで、途中の距離が存在しないかのように。
「空間の距離は関係ありません」
「接続されていれば」
「どれだけ離れていても」
「繋がります」
レオンの父が、かすれた声で言う。
「理論上は理解していたが……」
「実際に見ると……」
言葉が続かない。
セリアの母は、ただ静かに見つめている。
恐れではない。
畏れ。
ミナは、二つの入口を見ながら、続けた。
「そして」
「この穴が」
「自然に発生し」
一瞬、言葉を区切る。
「人が入り――」
「居なくなると」
静かに、言った。
「神隠しです」
部屋の空気が、止まる。
誰も、否定しなかった。
否定できなかった。
それは、伝承でも、迷信でもなく。
現象として、今、目の前にある。
レオンが、ゆっくりと言う。
「つまり……」
「帰れない場合もあるのか」
ミナは、わずかに頷く。
「座標が失われれば」
「戻れません」
単純な答え。
残酷な答え。
「別世界は」
「繋がっていなければ」
「完全に孤立します」
二つの入口が、静かに揺らぐ。
光が、弱くなる。
「だから」
「出口がある事は」
「保証ではありません」
そして、二つの収納空間は、静かに閉じた。
何も無かったかのように。
だが、そこに居た全員の常識は、確実に、変わっていた。
ミナは、閉じたばかりの空間を見て、
静かに続けた。
「そして――」
全員の視線が、再びミナに集まる。
「片足だけ残し」
「それ以外が見つからないというのは……」
一瞬、間を置く。
その意味を、全員が理解し始めていた。
「ご想像通り」
「渡っている途中で」
「消えると――そういう話になります」
セリアの母の手が、わずかに強く握られる。
レオンの父の表情が、研究者のものから、現実を突きつけられた人のものへ変わる。
ミナは、感情を交えず、事実として話す。
「空間の接続は」
「完全な固定ではありません」
「維持されている間だけ」
「連続しています」
右手を、ゆっくりと持ち上げる。
「つまり」
「接続が切れた瞬間」
「そこにあったものも」
言葉を、続ける。
「分離されます」
静寂。
ミナは、視線を落とし、小さく付け加えた。
「これは野菜で試しました」
誰も、止めなかった。
止められなかった。
「収納空間を閉じる瞬間に」
「接続部にあった部分は」
「そのまま切断されます」
レオンが、息を呑む。
ミナは、はっきりと言った。
「包丁などよりも」
「鋭利に切れます……」
そこに、抵抗は無い。
圧力も、摩擦も、存在しない。
ただ、空間の連続性が、消えるだけ。
「境界そのものが」
「切断面になります」
誰も、言葉を発さない。
それが、どれほど危険な現象か、理解してしまったから。
ミナは、少しだけ柔らかく言った。
「ですが」
「これは同時に」
「安全に固定できれば」
「完全な移動手段になります」
危険と、可能性。
同じ現象の、両側面。
「だから」
「座標の固定技術が必要なんです」
それが、ミナの研究。
未来へ繋がる、技術だった。
ミナは、テーブルの上に置かれていた果物皿から、
赤いりんごを一つ手に取った。
手のひらの上で、ゆっくりと回す。
「では」
「もう一つ実験です」
全員が、無言で見守る。
ミナは、近くにあったペンを取り、りんごの表面に円を描いた。
円の外周に、等間隔の印。
そして、二本の針。
時計。
「このリンゴに時計を描きます」
静かに、掲げる。
「これで」
「このりんごは」
「世界に一つだけのものになります」
同じ形、同じ色のりんごはあっても、この印があるりんごは、唯一。
識別された個体。
ミナは、右手に、収納空間の入口を開いた。
直径、三十センチほどの、
淡く揺らぐ円。
空間の裂け目。
「この収納空間に入れますが……」
次の瞬間。
躊躇なく、勢いよく、投げ入れた。
りんごは、円に触れた瞬間、音もなく消えた。
落ちる音も、転がる音もない。
完全な消失。
ミナは、今度は、少し離れた位置に、もう一つの収納空間の出口を開いた。
先ほどとは別の位置。
「そして」
全員の視線が、その出口へ集中する。
ミナは、落ち着いた声で言った。
「こちらから」
「三分後に出てきます」
レオンが、思わず聞く。
「……三分?」
「はい」
ミナは、頷く。
「収納空間の内部は」
「時間の流れを制御できます」
セリアの父が、息を止めたまま、呟く。
「時間を……」
ミナは、淡々と続ける。
「正確には」
「時間の進行速度の差を作っています」
部屋の時計が、静かに秒を刻む。
カチ、
カチ、
カチ――
誰も、動かない。
全員が、空間の出口を見つめている。
二分。
二分三十秒。
そして――
三分。
空間の縁が、わずかに揺らいだ。
次の瞬間。
すとん、と。
描かれた時計の印そのままの、
りんごが、出口から落ちてきた。
テーブルの上で、小さく転がる。
確かに、同じりんご。
同じ印。
同じ個体。
消えたものが、戻ってきた。
空間と、時間を越えて。
ミナは、テーブルの上に戻ってきたりんごを、
そっと脇へ置いた。
「うーん……」
少しだけ首を傾げる。
「これじゃ」
「分かりにくいですね」
空間の異常も、時間の差も、目に見える証拠としては弱い。
ミナは、皆の腕元を見た。
「腕時計」
「借りていいですか?」
レオンの父が、すぐに自分の腕時計を外した。
研究者らしい、無駄のない動きだった。
「どうぞ」
ミナは、両手で受け取る。
重さを、確かめるように。
「まず」
空間を開く。
淡い円。
静かに揺れる境界。
「普通の収納空間へ入れます」
腕時計を、そのまま中へ入れた。
消える。
完全な消失。
ミナは、空間を閉じた。
数秒。
十秒。
二十秒。
何も起きない。
そして、再び、収納空間を開く。
腕を入れ、取り出す。
「しばらく待って」
「出しました」
腕時計をレオンの父へ返す。
「時間はどうですか?」
受け取った父は、自分の手元のもう一つの時計――
壁の時計と見比べる。
秒針。
一致。
ズレは無い。
「……ズレていない」
確信を持って言う。
ミナは、静かに頷く。
「ですよね」
「今度は」
その腕時計を、再び受け取る。
そして、先ほどりんごで行ったものと同じ、もう一つの収納空間を開いた。
入口。
そして、離れた位置に、出口。
「りんごと同じ事をします」
腕時計を、入口へ入れる。
空間が閉じる。
部屋の空気が、変わる。
全員が、理解している。
今、時間そのものに、干渉していると。
ミナは、出口の空間を維持したまま、言った。
「こちら側の時間で」
「三分」
「待ちます」
静寂
秒針の音だけが、
世界を刻む。
だが――
その腕時計にとっての時間は、
同じではない。
静寂の中、三分が過ぎた。
誰も声を出さない。
誰も動かない。
ただ、ミナだけが、出口として開いている収納空間へ手を入れた。
ゆっくりと、何かを掴む。
そして、引き抜く。
レオンの父の腕時計だった。
ミナは、それをそのまま手渡す。
「確認してください」
父は受け取り、自分の腕に着けていた時計と並べた。
秒針。
分針。
時針。
――違う。
明らかに、違っていた。
「……これは……」
息を呑む。
部屋の壁時計を見る。
今の時刻。
そして、今取り出した腕時計。
三分前の時刻を、示していた。
秒針は、まるで今、入れた瞬間から、再び動き始めたかのように、その地点から刻み始めている。
「入れた瞬間の時間のまま……」
レオンが、小さく呟く。
ミナは、静かに説明する。
「収納空間の中では」
「時間は進んでいません」
「正確には――」
「この世界の時間と、切り離されています」
セリアの母が、無意識にミナの手を握った。
震えている。
恐怖ではない。
理解してしまった者の、震えだった。
ミナは続ける。
「つまり」
「時間もまた」
「世界に属しているという事です」
「空間を切り離すと」
「時間も切り離される」
誰も、すぐには言葉を返せなかった。
それは、魔法の実演ではない。
世界の構造そのものを、目の前で証明された瞬間だった。
ミナは、二つの腕時計を並べたまま、静かに言った。
「これが――タイムワープです」
誰も、すぐには理解が追いつかなかった。
セリアが、ゆっくりと口を開く。
「タイム……ワープ……?」
ミナは頷く。
「正確には、“時間の移動”ではありません」
「時間の流れから外し」
「任意の時間差で、再び戻す」
レオンの父が、腕時計を見つめたまま言う。
「つまり……」
「この時計は、三分前から今に来た……?」
「はい」
ミナは迷いなく答える。
「この時計にとっては」
「今が、入れた直後です」
秒針が、規則正しく動いている。
だが、この部屋の時間とは、三分の差がある。
レオンが、息を呑む。
「時間を……保存した……?」
ミナは、少しだけ考えてから答えた。
「保存」
「それが一番近い表現です」
セリアの母が、ミナを見る。
その目は、研究者の目だった。
「それは……理論上……」
「生物にも可能なの……?」
部屋の空気が、変わる。
ミナは、静かに答えた。
「可能です」
「ただし」
「完全に安全とは言えません」
「世界に戻す座標と時間が、完全に一致していなければ」
「存在が破綻します」
沈黙。
誰も、軽々しく次の言葉を言えなかった。
ミナは、収納空間を閉じた。
空間が、何事もなかったかのように消える。
「でも」
「これは、既に自然界で起きている現象です」
「誰も、気付いていないだけで」
レオンが、ゆっくりと聞く。
「それって……」
ミナは、わずかに微笑んだ。
「さっき言った、“神隠し”です」
部屋の時計が、静かに時を刻み続けていた。
ミナは、全員の視線を受けながら、静かに続けた。
「時空間の移動」
「そして、時間の停止」
「これらの現象から導き出される結論は一つです」
誰も、口を挟まない。
ミナは、はっきりと言った。
「別世界は存在します」
「そして」
「そこに生命が存在しても、何も不自然ではありません」
レオンの母が、わずかに身を乗り出す。
「それが……魔物?」
ミナは頷く。
「はい」
「世界が一つとは限らない」
「空間が複数あるのなら」
「そこに生態系が存在するのは、自然な事です」
セリアの父が、低く呟く。
「我々が観測している宇宙も……」
「その一つに過ぎない可能性がある……」
ミナは答える。
「収納空間は」
「人工的に作られた別世界です」
「つまり」
「別世界を作れるのなら」
「自然に存在していても不思議ではありません」
静まり返る室内。
セリアが、ミナの手をそっと握る。
「ミナは……」
「怖くないの?」
ミナは、少しだけ考えた。
そして、静かに答えた。
「怖くありません」
「私は――」
一瞬、
言葉を選ぶ。
「既に」
「境界の内側にいるからです」
誰も、その言葉の本当の意味を、まだ知らなかった。
ミナは、少しだけ視線を落とし続けた。
「魔物についても」
「同じ事が言えます」
全員が、静かに耳を傾ける。
「これまで確認されている魔物は」
「例外なく、“成体”です」
レオンが、眉をひそめる。
「言われてみれば……」
「子供の魔物って、聞いた事がないな……」
ミナは頷く。
「はい」
「幼体も」
「成長過程も」
「繁殖の瞬間も」
「この世界では確認されていません」
セリアの父が、低く呟く。
「つまり……」
ミナは、はっきりと言った。
「この世界で生まれ、この世界で成長している存在ではない」
静かな確信。
「別世界から来ていると考える方が自然です」
セリアの母が、わずかに震える声で聞く。
「……移動してきているの?」
ミナは答える。
「はい」
「意図的か」
「偶発的かは分かりません」
「ですが」
「時空間の穴は、自然発生します」
「そして」
「それは双方向です」
レオンが、小さく呟く。
「じゃあ……」
「向こうにも……」
ミナは、静かに言った。
「こちらの世界を、観測している存在がいても」
「不思議ではありません」
部屋の空気が、わずかに冷たくなったように感じられた。
ミナは、ぱん、と小さく手を合わせた。
「はい!私の理論はおしまいです!」
空気が止まる。
そして――
数秒の静寂の後。
レオンが、ぽかんと口を開けたまま言った。
「……おしまい、って」
「今の、学会レベルの話じゃないのか?」
セリアも、呆然としていた。
「ミナ……」
「それ、“理論”って軽く言っていいものじゃないよ……」
セリアの母は、まだミナを見つめたまま、
そっと聞いた。
「これは……」
「もう実証されているの?」
ミナは、首を傾げる。
「はい」
「さっき、皆さんの前で」
「実験しました」
当たり前のように言う。
レオンの父が、思わず笑った。
「はは……」
「とんでもない子だ……」
セリアの母は、優しくミナの頭を撫でる。
「この子は……」
「本当に、どこまで行くのかしら……」
ミナは、少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。
だが、その胸の内では――
白いドラゴンの言葉が、静かに響いていた。
『本のヒントはあなた自身』
そして無意識に、自分の中にある“何か”を確かめるように感じていた。
時計の針は、ゆっくりと、確実に、年の境目へと近づいていた。
窓の外は暗く、街の灯りが星のように瞬いている。
部屋の中は暖かく、柔らかな灯りと、人の気配で満たされていた。
今までは、施設の消灯時間で、とっくに明かりは消えている時間帯。
静かに布団へ入り、ただ夜が過ぎるのを待つだけだった。
けれど今は違う。
笑い声がある。
食器の触れ合う音がある。
誰かの体温が、すぐそばにある。
何もかもが初めてだった。
年を越すまで、起きていること。
意味もなく、わいわいと話し続けること。
眠くなっても、まだ起きていたいと思うこと。
そして――
血の繋がりのある人達と、同じ時間を過ごしていること。
ミナは、ソファに座りながら、その光景を静かに見ていた。
セリアが隣に座り、レオンが向かいで何かを話している。
セリアの母は、穏やかに笑い、レオンの父は、楽しそうに相槌を打つ。
何気ない光景。
ミナにとっては、かけがえのないものだった。
胸の奥が、じんわりと暖かくなる。
この時間を、この感覚を、失いたくないと思った。
ミナは、そっと目を閉じる。
この瞬間を、一つ残らず、心の宝箱へしまい込んだ。
永遠に、失われないように。
――新年が明けた。
外から、遠くの鐘の音が聞こえる。
「おめでとう」
「おめでとうございます」
笑い声と一緒に交わされる言葉。
ミナは、その輪の中にいた。
初めての、“家族と迎える新年”。
その温もりを抱えたまま、気付けば三日間。
何だかんだで、セリアの実家に泊まっていた。
朝はゆっくり起き、昼は皆で食卓を囲み、夜は研究の話や他愛もない話で笑う。
ミナにとっては、夢のような時間だった。
そして――
三日目。
ミナは、小さな袋をいくつも抱えて、
施設へ向かった。
久しぶりの建物。
懐かしい匂い。
変わらない廊下。
消灯時間の記憶が、まだ染みついている場所。
だが今日は違う。
子供達が、ぱっと駆け寄ってくる。
「ミナ!」
「帰ってきたの!?」
「ねえねえ!」
ミナは、少しだけ照れながら言う。
「帰ってきたわけじゃないです」
「今日は――」
袋を持ち上げる。
「お年玉です」
一瞬、静まり返る。
そして、爆発するような歓声。
「ええええ!?」
「ほんと!?」
「やったあああ!」
ミナは、一人一人に、丁寧に手渡していく。
小さな封筒。
名前を書いた、それぞれの分。
大きな額ではない。
でも、自分で用意したもの。
自分の意思で渡すもの。
子供達の、満面の笑顔。
施設の職員が、少し驚いた顔で見ている。
「ミナちゃん……立派になったね」
ミナは、少しだけ首を振る。
「違います」
「もらってばかりだったので」
「返しただけです」
胸の奥は、静かに満たされていた。
ここも、自分の居場所。
あそこも、自分の居場所。
ミナは、二つの世界を持っていた。
そして、そのどちらも、もう失わないと、心の中で決めていた。
正月の賑わいは、静かに、日常へと溶けていった。
街から門松が消え、飾りが外され、空気だけが冷たいまま残る。
そして――
学園も、再び動き始めた。
だが、この時期は特別だった。
進級待ちの期間。
約二ヶ月間。
授業らしい授業は無い。
講義室は開いているが、教師の姿は少なく、代わりに学生達が思い思いに過ごしていた。
研究に没頭する者。
実技場で技術を磨く者。
街へ出る者。
そして――
金を稼ぐ者。
中央棟の一階。
大きな掲示板の前には、いつも人だかりが出来ている。
木製の枠に収められた、無数の紙。
その上部には、はっきりと刻まれていた。
「クエストボード」
依頼。
アルバイト募集。
企業広告。
研究協力募集。
魔物討伐。
素材採集。
護衛依頼。
雑務。
内容は様々だった。
紙の色で、種類が分けられている。
白は雑務。
青はアルバイト。
黄色は採集。
赤は危険を伴う依頼。
黒は――
特別依頼。
学生達が、紙を食い入るように見つめる。
「これ三万円か……」
「こっちは十万」
「討伐系は高いな」
「でも危険だぞ」
金額は幅広い。
数千円程度の軽作業。
数万円の採集依頼。
数十万円の討伐任務。
そして――
条件次第では、数百万円に達するものもあった。
当然、危険も比例して増える。
ミナも、その前に立っていた。
静かに、一枚一枚を見ていく。
金のためではない。
魔石。
経験。
そして――
力。
討伐訓練の前に、自分の力を増やす必要がある。
魔石を得る機会は、多いほどいい。
ミナの視線が、一枚の紙で止まる。
討伐依頼。
報酬――
八十万円。
危険度――中。
対象――
単体。
その紙を、静かに手に取った。
紙には、簡潔だが妙に具体的な文字が並んでいた。
⸻
【中級討伐依頼】
対象:霧喰い(きりぐい)
発生場所:旧街道・北霧林周辺
危険度:中
報酬:八十万円
備考:単体確認。ただし接触者の証言に時差あり。
依頼主:北区自治会
⸻
「接触者の証言に時差あり……?」
ミナはその一文で足を止めた。
レオンが横から覗き込む。
「霧喰いって聞いたことあるか?」
セリアが首を振る。
「霧の中に出るって噂の魔物でしょ?姿がはっきり見えないって」
ミナは静かに読み進める。
【概要】
北霧林周辺で濃霧が発生する夜、通行人が“数分の空白”を体験。
本人の体感時間と実時間に最大五分のズレを確認。
失踪者なし。
ただし、持ち物の一部が消失した事例あり。
ミナの目が、わずかに細くなる。
時間のズレ。
物の消失。
単体。
「面白いですね」
レオンが苦笑する。
「お前の“面白い”は大体危ないやつだぞ」
ミナは紙を掲示板から外した。
「単体で、時間干渉の可能性あり」
「危険度中は妥当です」
セリアが心配そうに言う。
「一人で行くつもり?」
ミナは少し考え、首を横に振った。
「観測には複数人の方が正確です」
「行きますか?」
レオンは即答した。
「行く」
セリアも小さく頷く。
「私も」
その夜。
北霧林。
月明かりはある。
だが林へ入った瞬間、世界が白く滲んだ。
霧。
異様なほど濃い。
音が吸われる。
足音さえ、曖昧になる。
「……静かすぎる」
レオンが呟く。
ミナは立ち止まり、周囲を観測する。
魔力の流れ。
空間の歪み。
そして――
微細な揺らぎ。
「います」
その瞬間。
霧が、揺れた。
輪郭のない“何か”が、白の中を滑る。
目視できない。
だが、そこにいる。
次の瞬間。
レオンの姿が、一瞬、消えた。
「――え?」
セリアの声。
一秒後、レオンは同じ場所に立っていた。
「今……何秒だ?」
ミナは即答する。
「三秒」
レオンの顔が青ざめる。
「俺の体感、ゼロだぞ」
ミナの目が光る。
「局所的時間断絶」
「捕食型ではなく、干渉型」
霧が、再び揺れる。
今度は、ミナの視界の端で、木の枝が“途中から消えた”。
切断ではない。
“存在が抜けた”。
「成る程」
ミナは静かに収納空間を開いた。
「あなたも」
「穴を使っているのですね」
霧が一瞬、強く渦巻く。
まるで反応したかのように。
ミナは、小さく笑った。
「なら」
「座標を固定します」
空間干渉。
固定。
霧の中に、透明な枠が形成される。
揺らぎが、止まる。
次の瞬間、霧の中心に、輪郭が現れた。
白い半透明の獣。
目は無い。
口も無い。
ただ、空間を“喰っている”。
霧喰い。
ミナは静かに言う。
「あなたは」
「迷い込んだのですね」
別世界から。
帰れずに。
揺らぎが、弱まる。
レオンが構える。
「倒すか?」
ミナは少し考え、首を横に振った。
「いえ」
収納空間を拡張する。
だが今回は、固定座標付き。
「帰します」
霧喰いの輪郭が、ゆっくりと収納空間へ吸い込まれていく。
抵抗は無い。
まるで、帰る場所を思い出したかのように。
最後に、霧が晴れた。
林は、ただの林へ戻る。
時間のズレも、消えている。
静寂。
レオンが息を吐く。
「討伐……じゃないな」
ミナは紙を見下ろす。
「解決です」
後日。
依頼主は驚きながらも、八十万円を支払った。
被害は止まった。
時間の空白も無くなった。
そして掲示板には、小さな追記が貼られた。
【北霧林 異常消失確認】
ミナはそれを見て、静かに次の紙へ視線を移した。
報酬の八十万円は、三人で均等に分けた。
二十六万六千……少しの端数は、
次の依頼の備品代に回すと決めた。
「平等です」
ミナがそう言い、レオンは苦笑し、セリアはほっとした顔で頷いた。
それが始まりだった。
北霧林の一件の後、三人は立て続けに依頼をこなした。
・廃坑の魔力暴走調査
・夜間巡回型魔物の討伐
・古代遺構の空間歪曲確認
・高報酬の単体危険種排除
気付けば、あっという間に依頼完了報告書が積み上がっていた。
そして――
月末。
学園中央ホール。
クエストボードの横に、新たな掲示が貼り出された。
【月間総額ランキング】
ざわめきが広がる。
「え、誰だよ一位」
「また上級生か?」
視線が上へ移動する。
一位。
名前の欄には――
ミナ・セリア・レオン。
三人連名。
総額:一千九百四十万円。
一瞬、空気が止まる。
「……は?」
「一年だよな?」
「桁、おかしくないか?」
レオンが額を押さえる。
「目立ちすぎだろ……」
セリアも苦笑する。
「ちょっとやりすぎたかも……」
ミナは静かに言う。
「高額依頼を選んだだけです」
当たり前のように。
確かにそうだった。
ほとんどが高額の調査依頼や討伐依頼。
理由は明確。
調査は、自分の理論の裏付けになる。
未知の現象。
空間歪曲。
時間干渉。
全てがデータになる。
討伐は、魔石が手に入る可能性がある。
魔石は、研究にも、実戦にも使える。
つまり――
金は結果に過ぎない。
だが周囲はそう見ない。
「怪物トリオだな……」
「空間使いの一年……」
噂が広がる。
ミナは掲示板を見つめながら、静かに言った。
「次は黒札ですね」
レオンが固まる。
「待て」
セリアも即座に止める。
「それはさすがに……」
黒札。
特別依頼。
報酬数百万以上。
成功率は低い。
危険度は高い。
ミナの目は、すでにそこを見ていた。
研究のため。
強くなるため。
そして、別世界の証明のため。
三人の名は、静かに学園中へ広がっていく。
クエストボードの最上段。
黒い縁取りの紙。
他の依頼とは明らかに違う。
近づくだけで、
周囲の学生達が一歩距離を取っていた。
ミナは迷わず手を伸ばす。
黒札依頼。
紙は重く、
魔力認証の封が施されていた。
指先で触れると、
淡く光り、
内容が開示される。
⸻
【黒札依頼】
分類:特別危険調査
危険度:不明
報酬:五百万円〜(成果に応じ変動)
発生地域:中央都市外周〜居住区周辺
【被害内容】
原因不明の昏睡事件が複数発生。
被害者は無傷で発見される。
生命活動は正常。
外傷なし。
精神干渉の痕跡なし。
ただし――
魔力が完全に消失している。
回復も極めて遅い。
枯渇ではなく、
奪取された形跡あり。
【推定原因】
未確認魔物の可能性。
もしくは未知の魔法現象。
【達成条件】
以下いずれかを達成せよ。
・対象に関する情報の持ち帰り
・対象の討伐
・対象の捕獲
【備考】
対象の姿は未確認。
接触者なし。
発生時刻に規則性なし。
⸻
静寂。
レオンが低く言う。
「魔力を……奪う?」
セリアも不安そうに呟く。
「そんな魔物、聞いたことない……」
ミナは紙を見つめたまま、
「いや…存在はする…」
二人が同時にミナを見る。
「魔力はエネルギーです」
「エネルギーは保存されます」
「消えることはありません」
「つまり――」
「移動しているだけです」
レオンが眉をひそめる。
「どこへ?」
ミナは答える。
「別の存在へ」
風が、
クエストボードを揺らした。
黒札の紙が、わずかに音を立てる。
ミナは続けた。
ミナの目が、わずかに鋭くなる。
白いドラゴン。
星を食べる夢。
魔石。
そして、自分が飲み込んだ感覚。
全てが、一本に繋がる。
「確認します」
ミナは黒札を外した。
認証光が走る。
依頼受諾。
その瞬間、周囲の空気が変わった。
後戻りはできない。
レオンは息を吐き、笑った。
「ま、どうせ止めても行くだろ」
セリアも、覚悟を決めたように頷く。
「三人で行こう」
ミナは、小さく頷いた。
これは、討伐か。
それとも、観測か。
まだ誰も、その正体を知らない。
中央都市から外れた岩場。
木々の間に、ぽっかりと口を開けた小さな洞窟があった。
高さは大人が屈まずに入れる程度。
幅も狭い。
自然にできた、ありふれた洞窟。
だが――
入口の前だけ、空気が重かった。
「ここが現場か……」
レオンが低く呟く。
セリアは腕のブレスレット型デバイスに手を添え、周囲を観測する。
「魔力反応……薄い」
「ほとんど残ってない」
ミナは何も言わず、洞窟の奥を見つめていた。
まるで、洞窟の向こう側を見ているように。
「行きます」
三人は中へ入った。
足音が、石の壁に反響する。
一歩。
また一歩。
外の光が遠ざかる。
洞窟の全長は、約百メートル。
奥へ進むほど、温度が下がる。
そして、違和感。
「……魔力が」
セリアが呟く。
「無い」
正確には、薄いのではない。
存在しない。
自然界には必ずある、微量の魔力。
それすら、ここには無い。
空白。
まるで、ここだけ世界から切り取られている。
やがて、最深部へ到達する。
そこだけ、少し空間が広がっていた。
直径五メートルほどの円形。
依頼書の記載通りの場所。
レオンが周囲を警戒する。
「ここで倒れてたんだな」
セリアが地面を見る。
「争った跡も無い……」
足跡も、魔法痕も、何も無い。
ただ、“何かがあった”という感覚だけが残っている。
ミナは、ゆっくりと中央へ歩いた。
そして、立ち止まる。
目を閉じる。
静寂。
数秒。
その時――
微かな感覚。
空間の、歪み。
ミナの目が開く。
「ここです」
次の瞬間。
セリアの体が、ふらついた。
「……え?」
レオンが支える。
「どうした!?」
セリアの目が、ぼんやりとする。
「急に……眠気が……」
依頼書の証言と同じ。
突然の眠気。
ミナは即座に動いた。
収納空間を展開。
セリアを、半収納状態で隔離する。
「外部干渉を遮断します」
その瞬間、眠気が止まった。
セリアの意識が戻る。
「……消えた?」
レオンの顔が強張る。
「いる」
ミナが静かに言う。
「すぐ近くに」
見えない。
気配も無い。
音も無い。
確実に“何か”がいる。
ミナは手を前に出した。
空間へ触れる。
そして――
僅かに魔力が“引かれた”。
髪の毛一本ほどの量。
だが確実に。
ミナの目が細くなる。
「接触確認」
それは、攻撃ではない。
捕食でもない。
観測。
まるで、相手もこちらを調べている。
次の瞬間。
洞窟の奥、何も無い空間が、わずかに歪んだ。
「……布を」
ミナは収納空間から布を取り出し、口と鼻を覆った。
その瞬間、頭の奥にまとわりついていた重さが、すっと軽くなる。
「やはり」
原因は、気体。
目に見えない何かが、この空間に漂っている。
「二人とも、口と鼻を覆ってください」
ミナの声は冷静だった。
レオンとセリアもすぐに布を取り出し、同じように覆う。
数秒後、セリアが息を吐いた。
「……楽になった」
レオンも頷く。
「眠気が消えた」
催眠作用を持つ気体。
そして、魔力を奪う現象。
ミナは、ゆっくりと周囲を観察した。
目を凝らす。
空間の歪みではない。
物理的存在。
必ず、発生源がある。
静寂。
ぽた……ぽた……
洞窟の奥から、水滴の音。
そして、いた。
岩の上。
拳ほどの大きさ。
真っ黒なカエル。
光を反射しない、完全な黒。
輪郭だけが、そこにある。
「……」
ミナはゆっくり近づく。
カエルは逃げない。
喉をぷくぷくと膨らませている。
膨らむ…縮む…膨らむ…縮む。
その度に、空気が、微かに揺れる。
放出している。
間違いない。
レオンが小さく言う。
「こいつが……?」
セリアも息を呑む。
「こんな小さいのが……」
ミナは収納空間を開いた。
取り出したのは、密閉式捕獲器。
透明な結晶素材でできた、完全密閉容器。
ゆっくりと、手を伸ばす。
カエルは逃げない。
抵抗も威嚇もしない。
喉をぷくぷくと動かしている。
ミナの指が、その体に触れる。
その瞬間
ほんの僅か魔力が吸われた。
だが確実に吸収された。
ミナの目が、わずかに細くなる。
「確認」
逃げない理由。
敵意がないのではない。
必要がないのだ。
自分が安全だと、理解している。
ミナはそのまま、カエルを持ち上げ、捕獲器の中へ入れた。
カチッ。
密閉。
完全隔離。
中のカエルは、キョトンとしていた。
状況を理解していないように。
相変わらず、喉をぷくぷくと動かしている。
もう外へは届かない。
レオンが、息を吐いた。
「……捕まえたのか」
セリアも、信じられないという顔で見つめる。
「これが……黒札の正体……」
ミナは捕獲器を見つめた。
静かに、確信する。
「捕獲成功」
黒札依頼――
達成条件の一つ。
対象の捕獲。
だが、ミナの興味は、報酬ではなかった。
この存在。
魔力を吸収する生物。
そして、一言
「この子…引き取る事ってできますか?」
研究室の空気が、一瞬止まった。
研究員達が、顔を見合わせる。
主任研究員が、ゆっくりとミナを見る。
「……引き取る?」
確認するように、繰り返した。
ミナは頷く。
視線は、捕獲器の中のナイトメアフロッグへ向けられたまま。
「この子は、危険性はあります」
主任は慎重に言う。
「魔力吸収能力」
「催眠性ガス」
「繁殖能力」
「すべてが未知数です」
だが、言葉の続きを、別の研究員が引き継いだ。
「しかし……」
「ミナさんの捕獲時の報告」
「現在の観察結果」
「いずれも、極めて温厚」
「意図的な攻撃性は確認されていません」
レオンが腕を組む。
「飼育可能って話だったよな」
研究員は頷く。
「はい」
「特殊な管理環境と、魔力供給があれば」
「個体の安定維持は可能です」
セリアがミナを見る。
「……どうして?」
ミナは、少しだけ考え、そして答えた。
「この子は」
「理由もなく、存在しているわけではない」
静かな声。
「意味があります」
「私が見つけた事にも」
「この子がここに居る事にも」
捕獲器の中のカエルが、ぷく、と喉を膨らませる。
まるで、話を聞いているかのように。
主任研究員は、しばらく黙っていた。
そして、決断する。
「……正式な手続きを行えば」
「可能です」
レオンが小さく笑う。
「ペット決定か」
セリアも、少し安心したように微笑む。
「名前、もう付いてるしね」
主任が続ける。
「ただし、条件があります」
「定期的な経過報告」
「繁殖制御」
「緊急時の返還義務」
「そして――」
主任はミナを見る。
「管理責任は、すべてあなたにあります」
ミナは迷わず答えた。
「はい」
その声に、一切の迷いはなかった。
主任は頷く。
「では、個体番号NF-01」
「ナイトメアフロッグ初確認個体」
「管理権を、ミナに移譲します」
正式に、ミナの所有となった。
研究員が、密閉捕獲器をミナへ手渡す。
両手で受け取る。
小さな、黒い命。
ナイトメアフロッグは、相変わらず、キョトンとしていた。
ミナは、そっと言った。
「これからよろしくね」
その瞬間、ナイトメアフロッグの喉が、小さく、ぷく、と膨らんだ。
ミナの工房。
机の上に、透明な結晶素材で作られた箱が置かれていた。
ナイトメアフロッグのための、新しい飼育ケース。
ただの容器ではない。
魔力遮断と、魔力循環機構を組み込んだ、
専用設計。
ミナは、最後の調整を終えた。
カチ、と小さな音。
側面に、小粒の魔石を取り付ける。
魔石から、淡く光が漏れる。
ケース内部へ、ゆっくりと魔力が流れ込む。
簡単な仕組み。
密閉された空間。
外へは漏れず、中へだけ供給される魔力。
餌。
それだけで、十分だった。
ミナは、収納空間からナイトメアフロッグの入った捕獲器を取り出した。
ゆっくりと、新しいケースの蓋を開ける。
内部には、小さな石。
浅く張った水。
洞窟環境を再現した、簡易生態系。
ナイトメアフロッグを移す。
ぴと、と石の上に着地する。
逃げない。
慌てない。
ただ、周囲を見ている。
喉が、ぷく、と膨らむ。
次の瞬間、ケース側面の魔石の光が、わずかに弱まった。
吸っている。
確実に、魔力を食べている。
レオンが、後ろから覗き込む。
「……本当に食べてるんだな」
セリアも、興味深そうに見る。
「可愛い……」
黒く、小さな体。
危険な能力を持つとは思えないほど、静かな存在。
ミナは、ケース越しに指を近づけた。
ナイトメアフロッグは、その指の方を見た。
目が合う。
数秒。
そして、喉が、もう一度、ぷく、と膨らむ。
まるで、応えるように。
ミナは、小さく呟いた。
「生きるために」
「魔力を食べる」
食べる事、それは当然の事。
魔物も自分も。
ミナは、ケースを大切に持ち上げ、工房の棚へ置いた。
新しい、小さな同居人。
静かに、生活が始まった。
ある日の放課後。
学園の図書館。
窓から差し込む光が、机の上の新聞を照らしていた。
ミナは、何気なく一枚を手に取る。
学術欄。
そこに、見覚えのある名前があった。
【新種魔物「ナイトメアフロッグ」確認】
【単体で繁殖する魔物 初の正式記録】
⸻
掲載されている写真。
白いオタマジャクシ。
成長途中の灰色の個体。
そして、完全に黒くなった個体(成体)。
ミナは、その写真を静かに見つめた。
家に居るあの子。
NF-01。
その子が産んだ、子供達。
記事にはこう書かれていた。
【本個体は極めて珍しい性質を持つ】
【単独で卵を産み、繁殖する事が確認された】
【魔物の生態研究において極めて重要な発見となる】
周囲の生徒達も、ざわついている。
「魔物って繁殖するのかよ……」
「今まで無かったよな」
「どうやって増えてたんだ?」
「自然に生まれるんじゃなかったのか?」
誰も、答えは知らない。
研究者達も、まだ結論を出していない。
ただ、新しい事実だけが、そこにあった。
レオンが隣で言う。
「有名になったな」
セリアも、新聞を覗き込みながら微笑む。
「きっと、これから研究が進むね」
ミナは、何も言わなかった。
新聞の写真を見る。
黒い、小さなカエル。
家に帰れば、同じ子達がいる。
石の上で、静かに、ぷく、と喉を膨らませている。
ミナだけが知っている。
この存在の、本当の特別さを。
今はまだ、その時ではない。
ミナは新聞を閉じ、静かに本棚へ戻した。
そして、いつも通りの表情で、図書館を後にした。
――誰にも知られずに。
冬の冷たい空気は、いつの間にか消えていた。
学園の並木道。
枝だけだった木々に、小さな緑が芽吹いている。
風はまだ少し冷たい。
その中に、確かな暖かさが混じっていた。
春だった。
ミナは、ゆっくりと歩く。
制服の袖から伝わる空気は、もう凍えるような冷たさではない。
呼吸をしても、胸が痛くならない。
遠くで、新入生らしき子達の声が聞こえる。
不安そうな声。
期待に満ちた声。
去年の自分達と、同じ。
レオンが、隣で伸びをした。
「春だなぁ……」
セリアも、空を見上げる。
「一年って早いね」
ミナは、何も言わず、
空を見る。
青い空。
雲は、ゆっくりと流れている。
変わったもの。
変わらないもの。
工房には、ナイトメアフロッグと、その子供達。
机の上には、白紙の本。
体の中には、増えた魔力。
そして、
隣には、レオンとセリアがいる。
同じ景色。
同じ時間。
確実に、一年前とは違う。
春の風が、ミナの髪を揺らす。
新しい季節。
新しい一年が、始まろうとしていた。
春の陽気と共に、思わぬものが流行り始めていた。
――ナイトメアフロッグ。
最初は学術界だけの話題だった。
「小さくて大人しい」
「黒くて可愛い」
「魔力を食べる不思議な生き物」
そんな噂が広まり、いつの間にか一部の学生の間で“飼ってみたい魔物”として名前が挙がるようになっていた。
研究機関の管理下で繁殖は順調に進み、
個体数は安定。
そして、新たな発見。
「催眠ガスを出さない個体の出現」
学園内の掲示板にも、小さくその報告が貼り出された。
催眠ガスは、獲物を眠らせ、安全に魔力を吸収するための能力。
飼育環境では餌は魔石。
逃げる獲物も、危険もない。
眠らせる必要がない。
数世代のうちに、催眠能力が弱い個体が増え完全に発現しない個体が確認された。
「能力の退化……」
研究員達はそう分析した。
必要のない能力は、使われなくなる。
使われない能力は、薄れていく。
適応。
環境に合わせた変化。
その結果
「安全な飼育個体」としての流通計画が立ち上がった。
時期は――
夏頃。
正式な許可制のもと、ペットとしての限定販売が始まるらしい。
図書館でも、食堂でも、そんな話題が聞こえてくる。
「もうすぐ飼えるんだって」
「黒いの可愛いよな」
「魔石餌とか、ちょっと高級だけどさ」
レオンが苦笑する。
「元祖の飼い主はどう思う?」
セリアもミナを見る。
ミナは少しだけ考え、静かに答えた。
「良い事です」
「この子達が」
「危険ではなく、存在として受け入れられるなら」
工房に帰ると、石の上に並ぶ黒い小さな体。
ぷく、ぷく、と喉を動かしている。
中には、喉の動きがほとんどない個体もいる。
それが、催眠能力を持たない世代。
ミナはケース越しに指を近づける。
一匹が、ぴょん、と近寄る。
魔石の光が、わずかに弱まる。
食べている。
生きている。
世界に馴染み始めている。
ナイトメアフロッグは、もはや黒札の危険種ではない。
春の流行りの、小さな魔物。
季節と共に、存在もまた、形を変えていくのだった。
春の朝。
空気は澄み、少しだけ暖かい風が流れていた。
今日から――
2年生。
学園の門をくぐると、新入生達の姿が目に入る。
真新しい制服。
緊張した表情。
周囲を見渡しながら歩く姿。
去年の自分達と同じ光景だった。
だが、今のミナは違う。
歩く足取りは静かで、迷いがない。
レオンが隣で笑う。
「もう先輩か」
セリアも小さく頷く。
「早いね」
校舎へ入ると、掲示板の前に人だかりができていた。
新しいクラス分け。
そして、もう一枚。
大きな紙。
⸻
【第二学年 討伐訓練について】
【実施期間:春季】
【対象:第二学年 全生徒】
【目的:実戦能力の測定及び生存能力の確認】
⸻
ざわめきが広がる。
「来たか……」
「2年の本番だな」
「危険区域もあるって聞いたぞ」
討伐訓練。
それは、座学ではない。
実戦。
管理された区域とはいえ、本物の魔物と対峙する。
生きた経験。
そして、評価。
ミナは、その紙を静かに見つめた。
胸の奥で、小さく鼓動が強くなる。
理由は一つ。
魔石。
魔力。
強くなるために必要なもの。
そして――自分の仮説を、進めるため。
レオンが言う。
「一緒の班だといいな」
セリアも微笑む。
「きっと大丈夫」
ミナは、小さく頷いた。
「はい」
風が、校舎の窓から吹き抜ける。
新しい学年。
新しい訓練。
そして、新しい一歩。
ミナにとっての、本当の意味での
「2年目」が、静かに始まった。
討伐訓練は、すぐではなかった。
実施は――2週間後。
掲示板の下には、追加の注意事項が貼られていた。
【各自、十分な準備を行うこと】
【装備・デバイス・消耗品は自己管理】
【訓練中の判断は個人の責任に委ねられる】
つまり、守られている訓練ではない。
自分で考え、自分で生き残るための訓練。
学園から支給される最低限の安全装置はある。
だが、それに頼るようでは評価は低い。
実力。
判断力。
準備。
その全てが試される。
放課後。
工房。
ミナは机の前に座っていた。
並べられた魔石。
大きさの違うもの。
透明なもの。
淡く光るもの。
ブレスレット型ベースデバイスを手に取る。
すでに三つの魔石が組み込まれている。
温度調整。
制御補助。
魔力安定。
だが、討伐訓練では足りない。
ミナは新しい魔石を手に取る。
小さな、純度の高い魔石。
指先から魔力を流し込む。
プログラムを書き込む。
魔力感知の補助。
周囲の魔力の流れを、より鮮明に把握するための機能。
魔石が、一瞬だけ強く光り、そして静かに落ち着いた。
組み込む。
カチリ、と小さな音。
これで、四つ目。
ミナは、腕に装着する。
静かに、魔力が循環する感覚。
問題ない。
討伐訓練。
そこには、まだ知らない魔物がいる。
まだ知らない魔石がある。
まだ知らない可能性がある。
ミナは、静かに立ち上がった。
準備の時間は、2週間。
十分だった。
ミナにとっては。
ミナのベースデバイス。
収納容量は、すでに10トンに達していた。
重量だけではない。
体積も、そして構造物も、そのまま保存できる。
取り出した瞬間、元の状態を完全に再現する。
まるで、空間そのものを持ち運ぶように。
工房の中央で、ミナは静かに考えていた。
討伐訓練は、数日間に及ぶ可能性がある。
野営。
休息。
整備。
魔力の回復。
全てが、生存率に直結する。
そして、一つの答えに辿り着いた。
「家を持ち歩けばいい」
シンプルだった。
誰も実行していない。
理由は簡単。
普通の収納容量では、
不可能だから。
ミナは、すぐに行動した。
街の外れ。
資材販売所。
完成済みの小型小屋。
簡易宿泊用のステンレス、アルミニウム合金製
広さは六畳ほど。
それを購入した。
そして、工房へ収納。
改造が始まった。
まず、屋根。
薄型の太陽光発電パネルを設置。
日中は常時発電。
さらに、補助電源。
小型の加熱発電機。
温度差を利用する発電機。
折り畳み式の風力発電機。
そして、水流発電機。
川があれば、無限に近い電力を確保できる。
次に、蓄電器。
高密度蓄電ユニット。
満充電状態で、通常使用なら二日以上。
節約すれば、それ以上。
内部配線も、全て組み直した。
安全制御は、もちろん魔石制御。
ミナ自身の技術。
水。
小型貯水槽。
内部には、再利用循環システム。
使用した水を浄化し、再び使用可能にする。
ろ過。
蒸留。
魔力による微細浄化。
宇宙研究施設で使用されている、完全循環型水処理システムを参考に、
ミナ用に小型化した。
蛇口をひねる。
水が出る。
止める。
その水は、失われない。
内部で再生される。
小屋の中には、簡易ベッド。
作業机。
魔石充電台。
デバイス調整設備。
全て揃っていた。
小屋の外に立つミナ。
収納を展開する。
空間が、静かに歪む。
そして、小屋が現れる。
完全な状態で。
ドアを開ける。
中に入る。
外と同じ、
空気。
安全な空間。
ドアを閉める。
ミナは、小さく息を吐いた。
これで、どこでも休める。
どこでも整備できる。
どこでも生きられる。
ドアを開け、外へ出る。
収納。
小屋は、再び消えた。
何もない空間。
だが、そこに確かに存在している。
持ち運ぶ家。
移動する拠点。
討伐訓練の準備は、誰よりも進んでいた。
ミナだけが、次の段階に進んでいた。
ミナの通帳。
そこに並ぶ数字は、学生のものではなかった。
討伐依頼。
調査依頼。
黒札依頼。
技術提供の報酬。
デバイス技術公開後に支払われた、正当な技術使用料。
預貯金は、すでに億単位。
数千万円の出費など、問題にならなかった。
生存率を上げる投資としては安すぎるくらいだった。
工房の中央。
収納から、改造済みの小屋を一度取り出す。
重量は、約5トン。
設備の密度を考えれば、驚異的な軽さだった。
軽量複合素材。
内部構造の最適化。
不要な装飾は一切なし。
生存と機能だけを追求した構造。
ミナは、外壁に触れる。
「……軽い」
物理的には重い。
収納内では重量の概念は意味を持たない。
取り出す瞬間と、収納する瞬間だけ。
それ以外は、無視される。
つまり、持ち運びの負担はゼロ。
完全な移動拠点。
次は、物資。
街へ向かう。
保存食。
高栄養圧縮食。
乾燥食。
缶詰。
長期保存可能なパン。
そして、飲料水。
通常の水もある。
だが、ミナの小屋には再利用システムがある。
消費は最小限で済む。
それでも、予備は必要。
医療用品。
止血剤。
再生促進薬。
解毒薬。
抗魔力汚染薬。
魔力回復薬。
包帯。
滅菌布。
固定具。
携帯型診断デバイス。
全て、収納へ。
日用品
着替え。
防寒具。
工具。
予備魔石。
魔石充電ユニット。
全て収納へ。
容量は、まだ余裕がある。
10トンの内小屋で5トン。
物資で、数百キロ程度。
残りは、十分。
討伐で得た魔石も、いくらでも持ち帰れる。
工房へ戻る。
静かな空間。
全てが、整っている。
ミナは、自分の腕のブレスレットを見る。
収納。
電源。
制御。
感知。
生存。
全てが、この中にある。
野宿する必要はない。
飢えることもない。
凍えることもない。
ミナは、すでに理解していた。
討伐訓練の準備ではない。
どこでも生きるための準備。
世界のどこでも。
そして――どの世界でも。
討伐訓練当日。
空は薄暗い。
太陽は、地平線の下にいる。
空気は冷たく、吐いた息が白くなる。
ミナは、駅の入口に立っていた。
学園指定の集合場所。
大きな時計は、午前5時12分を指している。
すでに、何人もの学生が集まっていた。
大きな荷物を背負う者。
緊張した表情の者。
眠そうに目をこする者。
それぞれが、討伐訓練という現実を前にしていた。
ミナの装備は軽い。
小さな肩掛けバッグのみ。
だが、その中身は空に近い。
本当の装備は、すべて収納の中にある。
足音。
振り向くと、セリアがいた。
マフラーを巻き、白い息を吐いている。
「おはよう、ミナ」
「おはようございます」
少し遅れて、レオンも来た。
「早いな、二人とも」
三人が揃う。
自然なことのように。
周囲では、教官達が確認を始めていた。
点呼。
名前を呼ばれ、返事が返る。
緊張の混じった声。
やがて、先頭に立つ教官が言う。
「これより第二学年討伐訓練区域へ移動する」
指差す先。
学園専用列車。
装甲仕様。
魔物対策済み。
窓には保護結界が組み込まれている。
一般車両とは違う、実戦用の移動手段。
扉が開く。
学生達が、順に乗り込んでいく。
ミナも、乗り込む。
車内は静かだった。
誰も、無駄な会話をしない。
窓の外。
ゆっくりと、景色が動き始める。
列車が、出発した。
朝日が、ようやく顔を出す。
光が、車内に差し込む。
ミナは、その光を見つめる。
もう、戻れないわけではない。
確実に、一歩先へ進んでいる。
討伐訓練。
未知と、可能性の場所へ。
列車の内部は、想像していたよりも広かった。
座席は、
横に「3席・2席・3席」。
中央に通路を挟み、左右対称に配置されている。
それが、縦に10列。
合計80席。
学生全員と、引率の教官が座れる数だった。
座席は固定式ではなく、衝撃吸収機構を備えている。
魔物との接触や、急停止にも耐えられる構造。
背もたれには、個別の補助端末が内蔵されている。
魔力反応の警告や、緊急指示が表示される仕組み。
ミナは、窓側の席に座った。
セリアが隣。
通路側にレオン。
自然な並びだった。
列車が加速する。
振動は、ほとんどない。
魔力制御による浮上補助が働いているのだろう。
やがて、前方のスクリーンが点灯した。
同時に、車両中央に設置されたモニターも起動する。
中間モニターは、どの席からも見える角度に調整されている。
後方の席でも、前方のスクリーンと同じ映像が確認できるようになっていた。
映し出されたのは、地図。
広大な森林地帯。
赤い円で囲まれた区域。
そして、教官の声が響く。
「これより訓練区域の説明を行う」
車内の空気が、わずかに変わる。
ざわつきはない。
全員が集中している。
「今回の討伐訓練区域は半径20キロの封鎖区域だ」
地図が拡大される。
山。
川。
洞窟。
複数の地形。
「この区域には複数の魔物が確認されている」
次々と、魔物の映像が表示される。
四足獣型。
飛行型。
擬態型。
「訓練期間は7日間」
短く、そして重い言葉。
7日間。
外部支援なし。
完全な実地訓練。
「脱落は可能だ。だが評価は最低になる」
沈黙。
誰も動かない。
「生き残ることを最優先にしろ」
スクリーンが、静かに暗転する。
討伐訓練区域へ向けて列車は走り続ける
確実に近づいていた。
あとは――始まるだけ。
スクリーンが再び点灯する。
教官の声は、
先ほどよりも低く、はっきりしていた。
「今回の訓練は――サバイバル形式だ」
車内に緊張が走る。
「目標は単純」
「とにかく生き残れ」
地図が再表示される。
広い封鎖区域。
補給なし。
拠点なし。
班行動の強制もない。
「探索してもいい」
「その場で隠れてもいい」
「魔物を狩ってもいい」
「戦闘を避け続けてもいい」
「行動は自由だ」
だが、次の言葉が重い。
「評価は、行動と結果の総合判断」
つまり――
ただ隠れるだけでは高評価にはならない。
だが、無謀な突撃も愚か。
判断力。
持久力。
適応力。
それが試される。
教官の補佐が、各列を回り始めた。
学生一人ひとりに、小型装置を配る。
「GPS端末だ」
手のひらサイズ。
腕や腰に装着可能。
現在位置は教官側で把握される。
緊急時の救出用。
もう一つ。
細長い筒。
銀色の発射筒。
「緊急離脱用信号筒」
「これを撃てば即時回収する」
「ただし、その時点で脱落だ」
車内は静まり返る。
誰も軽く扱わない。
これは、敗北の合図でもある。
ミナは、GPSを受け取る。
冷たい金属の感触。
信号筒も、収納せず、すぐ取り出せる位置に固定する。
レオンが小さく言う。
「本気だな」
セリアは、少し不安そうに筒を見つめる。
ミナは静かに言った。
「使わなければいいだけです」
列車が、ゆっくり減速を始める。
窓の外。
森が広がっている。
深い緑。
霧がわずかに漂う。
人の気配はない。
スピーカーが鳴る。
「これより到着」
「下車後、各自自由行動」
「7日後、指定地点へ集合」
扉が開く。
冷たい森の空気が、車内へ流れ込む。
サバイバル開始。
ミナは立ち上がる。
森へ一歩踏み出す。
足元は湿った土。
木々は高く、視界は悪い。
ミナはすぐにGPS端末を起動した。
淡い光と共に、立体マップが表示される。
現在地。
標高。
周囲の地形。
縮尺の変更も可能。
指で拡大。
等高線がはっきりする。
森の中を、無闇に動くのは危険。
視界が遮られる。
奇襲を受けやすい。
魔物の縄張りも読めない。
ミナは地形を分析する。
川沿いは危険。
水を求めて魔物が集まりやすい。
低地は霧が溜まりやすい。
湿度も高い。
なら――
高所。
マップの北西。
標高差が急激に上がっている。
崖。
天然の高低差。
視界が開ける可能性。
背後を取られにくい。
防衛に有利。
「ここ」
ミナが画面を示す。
レオンが覗き込む。
「崖上か?」
セリアも頷く。
「確かに安全そう」
ミナは簡潔に言う。
「まずは拠点確保」
戦う前に、生き残る環境を作る。
三人は、崖を目指して移動を始めた。
森の中を直線では進まない。
高低差を避け、音を抑え、
魔力感知を広げる。
ミナの新機能が働く。
周囲の魔力の流れが、以前より鮮明に見える。
右前方、微弱反応。
小型魔物。
接触不要。
迂回。
移動は静かに。
30分ほど進むと、地面が傾斜を始める。
やがて、木々が途切れる。
視界が開けた。
崖。
高さは20メートルほど。
上部は平坦。
天然の見張り台。
下は森。
風が抜ける。
視界は広い。
ミナはマップを再確認。
位置も悪くない。
集合地点からも遠すぎない。
水源までも距離がある。
「ここを拠点にします」
レオンが周囲を警戒する。
セリアは魔力感知を広げる。
大きな反応はない。
ミナは、ブレスレットに触れた。
空間が歪む。
次の瞬間――小屋が現れる。
崖の上に、静かに。
風に揺れる木々の中。
人工物が、
ぽつんと立つ。
レオンが笑う。
「やっぱ反則だろそれ」
セリアは安心したように息を吐く。
「本当に家だ……」
ミナはドアを開ける。
中は静か。
安全。
拠点確保。
サバイバル1日目。
ミナ達は、すでに“生活圏”を手に入れていた。
小屋の中。
簡易机の上に、GPSマップが投影されている。
崖上拠点。
周囲の地形。
魔力反応の分布。
ミナは静かに言った。
「今回の目的は――魔石です」
レオンが腕を組む。
「評価より優先か?」
ミナは迷わず頷く。
「はい」
「魔石を狙います」
セリアが少し考える。
「……数を稼ぐってこと?」
ミナは画面を拡大する。
森の中に点在する小型反応。
「片っ端から狩ります」
その声に迷いはない。
次の言葉が静かに重い。
「効率的に」
ミナは続ける。
「魔物は血と魔力の匂いに反応します」
「死骸は餌になります」
レオンが理解する。
「……誘き寄せるってことか」
ミナは頷いた。
「一体倒す」
「魔石を回収」
「死骸はその場に放置」
「集まった個体を順次狩る」
単純だが、理にかなっている。
サバイバル形式。
自由行動。
禁止事項ではない。
そして、
自然界では当たり前の連鎖。
セリアが少しだけ眉を寄せる。
「危険じゃない?」
ミナは即答する。
「崖上拠点がある」
「退路もある」
「無理はしない」
感情ではなく、
計算。
レオンが笑う。
「つまり――」
「釣りだな」
ミナは小さく頷く。
「はい」
外へ出る。
風が強い。
森は静か。
まずは単体狩り。
小型獣型魔物を一体。
接近。
制御魔法で足止め。
急所を正確に。
短時間。
魔石を回収。
透明な小石が手の中に転がる。
魔力を感じる。
死骸は、
あえてその場へ。
三は少し離れた高所へ移動。
気配を消す。
待つ。
数分。
森の奥で、枝が折れる音。
二体。
匂いに引き寄せられた。
ミナの魔力感知が、
はっきり捉える。
レオンが構える。
セリアが補助を展開。
接近。
一体目、討伐。
二体目、逃走を封じる。
討伐。
魔石回収。
死骸はそのまま。
また待つ。
循環。
狩りの連鎖。
日が傾く頃には、小さな袋にいくつもの魔石が収まっていた。
ミナはそれを収納する。
瞳が静かに光る。
効率は悪くない。
だが、これはまだ序盤。
魔物の密度が上がれば、より強い個体も来る。
それを狙う。
夜が近づく。
三人は拠点へ戻る。
小屋の中は安全。
外では、森が静かにざわめいている。
ミナは今日回収した魔石を机に並べた。
光が反射する。
数は増えている。
そして、まだ足りない。
サバイバルは、始まったばかりだった。
巨大なトカゲは、死骸の山の前で止まった。
全長は優に10メートルを超える。
黒褐色の鱗は鈍く光り、腐敗臭の漂う空気の中でも一切気にした様子はない。
ゆっくりと首を伸ばし、魔物の死骸に噛みつく。
骨ごと、砕いた。
「……やっぱり来た」
ミナは物陰から静かに観察していた。
武器は既に構えている。
だが、引き金は引かない。
(掃除屋は殺さない方がいい)
掃除屋は、死骸を処理する存在だ。
これがいることで腐敗による毒霧の発生が抑えられる。
そして何より――
「……こいつを餌に、もっと大きいのが来る」
ミナの視線は、トカゲではなく、その奥の森に向いていた。
静かすぎる。
風の音すら弱い。
掃除屋が来ているのに、他の魔物の気配が消えている。
それはつまり――
“上位個体の縄張り”に近づいている証拠だった。
巨大トカゲは食事を続けながら、ふと動きを止めた。
顔を上げる。
鼻を鳴らす。
そして、森の奥を見た。
次の瞬間。
ドンッ――――
地面が揺れた。
一歩。
また一歩。
重い、圧倒的な質量の足音。
掃除屋の巨大トカゲが、初めて怯えた。
低く唸り、後退する
ミナは、静かに笑った。
「来た」
ミナの狙いは、最初からこれだった。
魔物の墓場。
死骸の山。
それは単なる狩りの結果ではない。
“呼び寄せるための餌場”だった。
森の奥から現れたそれは、明らかに異質だった。
「……グレートウルフ」
ミナが小さく呟く。
全長は7メートルほど。
巨大トカゲよりは僅かに小さいが、その体は無駄がなく、純粋な“戦うための構造”をしていた。
灰銀色の毛並みは逆立ち、
呼吸のたびに白い蒸気が漏れる。
目は――金色。
獲物を確実に仕留めてきた捕食者の目だった。
対する掃除屋の巨大トカゲは、低く唸り声を上げる。
逃げない。
だが、先ほどまでの余裕は消えている。
グレートウルフが一歩踏み出す。
――消えた。
次の瞬間、
ドォンッ!!
空気が破裂した。
巨大トカゲの体が横に弾き飛ばされ、死骸の山を崩しながら転がる。
「速っ……」
誰かが息を呑む。
見えなかった。
グレートウルフは既に別の位置に立っている。
巨大トカゲの首元には、深く抉れた傷。
血が噴き出している。
巨大トカゲは咆哮し、尾を振るう。
空気を裂く一撃。
グレートウルフは跳んだ。
巨大トカゲの背に着地する。
爪を突き立てる。
鱗が砕け、肉に食い込む。
トカゲが暴れ、地面に叩きつけようとするが離れない。
そして――
噛みついた。
首の付け根に。
骨が砕ける音が、ここまで響いた。
ゴキッ
巨大トカゲの動きが止まる。
一瞬の硬直。
そして、ズゥン……
巨体が崩れ落ちた。
森が静まり返る。
王が決まった瞬間だった。
グレートウルフはゆっくりと死骸から離れ、周囲を見渡す。
その金色の目が――
こちらを向いた。
グレートウルフは、しばらくこちらを見ていた。
金色の瞳は瞬きすらせず、まるで「存在」を測っているかのようだった。
逃げるべきか。
動くべきか。
誰も判断できない。
動けば――死ぬ。
本能がそう告げていた。
やがて、グレートウルフはゆっくりと視線を外した。
敵ではない、と判断したのか。
それとも、今は優先順位が違うだけか。
巨大トカゲの死骸へと歩み寄る。
一歩一歩が重い。
死骸の横に立つと、鼻先を近づけ匂いを確かめる。
そして――
ガブリ
首元の肉を噛み千切った。
骨ごと。
バキッ
メキメキ……
咀嚼音が森に響く。
血が滴り、地面を黒く染めていく。
食べている。
ただ、食べているだけ。
だがそれは、圧倒的強者だけが許される“無防備”だった。
周囲に敵がいないと確信している証拠。
ミナが小さく呟く。
「……今は、狩る気はない」
その声は冷静だったが、僅かに緊張が混じっていた。
グレートウルフは時折こちらへ視線を向ける。
だが、襲っては来ない。
再び肉を噛み千切る。
まるで、「お前たちは獲物ではない」
そう示しているかのように。
しかし同時に、「だが、獲物にならない保証もない」とも言っているようだった。
森の王は、ただ静かに食事を続けていた。
その巨体から放たれる圧は、距離があるはずなのに、喉を締め付ける。
逃げるなら、今。
だが――誰も動かなかった。
ミナの目が、僅かに細められた。
グレートウルフはまだ食べている。
無防備。
――今なら。
ミナはゆっくりと息を吐いた。
「……一撃で、仕留める」
小さく呟く。
その声は決意に満ちていた。
正面からでは勝てない。
耐久も、速度も、反応も。
すべてが格上。
だが――一撃なら。
ミナは背負っていた砲撃装置に手をかけた。
訓練用とはいえ、本来は対大型魔物用。
最大出力で撃てば、並の魔物なら跡形も残らない。
問題は――
溜め。
最高火力には時間が必要。
その間に気付かれれば終わる。
「……カウント、お願い」
ミナが小さく言う。
砲身が展開される。
内部の魔力回路が起動。
低い駆動音が響き始めた。
――ヴゥゥン……
空気が震える。
魔力が、集束していく。
グレートウルフの耳が、僅かに動いた。
気付いた。
だが、まだこちらを見ない。
チャージは続く。
光が砲口へと収束していく。
濃く。
重く。
圧縮されていく。
あと少し。
あと――数秒。
ミナの指は引き金にかかっている。
グレートウルフが、ゆっくりと顔を上げた。
低い唸り声が森を震わせた。
「グルルルル……」
グレートウルフの黄金の瞳が、真っ直ぐにミナを捉える。
次の瞬間――地面が爆ぜた。
巨体からは想像できない速度で一直線に駆け出す。
ドンッ!!
ドンッ!!
ドンッ!!
一歩ごとに地面が沈み、土と落ち葉が舞い上がる。
速い。
想定以上に。
だが――ミナは動かない。
逃げない。
照準を、外さない。
砲撃は既に臨界直前。
ここで動けば、すべてが無駄になる。
(まだ……)
距離、200m。
グレートウルフの牙が露わになる。
(まだ……)
距離、150m。
殺気が肌を刺す。
本能が逃げろと叫ぶ。
(まだ……)
距離、100m。
砲身の光が白から蒼へと変わる。
魔力は極限まで圧縮されていた。
空気が歪む。
(もっと……引き寄せる)
距離、70m。
グレートウルフが跳躍の姿勢に入る。
来る。
次の瞬間には、届く距離。
(ここ)
ミナの瞳が鋭く光る。
引き金を――引いた。
閃光が森を焼いた。
一瞬、世界から色が消える。
そして――轟音。
遅れて空気が爆ぜ、衝撃波が周囲の木々を揺らす。
ドォォォォンッ!!!
着弾地点の地面は抉れ、直径10メートルを超える巨大なクレーターが生まれていた。
土煙が空へと立ち昇り、視界を覆う。
ミナは砲身を下げず、そのまま構え続ける。
(仕留めたか――?)
静寂。
風の音だけが流れる。
やがて、土煙がゆっくりと晴れていく。
そこに――狼の姿は、なかった。
「……外した?」
その瞬間。
「グルル……ッ……!!」
低く、しかし明確な唸り声。
生きている。
ミナは即座に視線を走らせる。
そして見つけた。
クレーターの外側。
爆心地から十数メートル離れた場所。
グレートウルフは倒れていた。
左前足と左後ろ足が――消えていた。
肉が焼け、骨ごと吹き飛ばされている。
巨体は傾き、三本の足では支えきれず、地面に体を預けている。
血が広がり、地面を濡らす。
「グル……ルル……」
唸っている。
だが――動けない。
いや、動かないのではない。
動けないのだ。
回避は成功していた。
直撃は避けた。
それでも、爆発の余波は致命的だった。
あの瞬間、完全に避けていなければ、確実に消し飛んでいた。
グレートウルフの黄金の瞳が、再びミナを捉える。
敵意は消えていない。
むしろ、濃くなっている。
だが――
距離を詰めてこない。
詰められない。
それでも。
諦めていない。
捕食者としての誇りが、まだ生きている。
ミナは理解した。
(勝負は、終わった)
あとは――止めを刺すだけだった。
ミナは砲身を静かに下ろした。
そして、デバイスに触れる。
「――モード切替」
低い電子音が鳴る。
――《砲撃形態 解除》
砲身の各部が分解され、装甲が折り重なり、内部構造が露出する。
金属同士が噛み合い、再構築されていく。
ガシャン
ギギギ……
カチン
長大な砲は、その姿を変えた。
全長2メートルを超える――大剣。
厚みのある刃。
単なる斬撃武器ではない。
質量そのものが武器。
重さだけで敵を破壊できる代物。
ミナは柄を握る。
重い。
だが問題はない。
強化された身体と補助機構が、その重量を無意味にする。
一歩。
ザッ……
土を踏む音。
グレートウルフの耳が動く。
黄金の瞳が、ミナを睨み続ける。
「グルル……」
威嚇。
だが、体は動かない。
血は流れ続けている。
致命傷。
時間が経てば、何もしなくても死ぬだろう。
それでも――ミナは歩みを止めない。
五メートル。
四メートル。
三メートル。
近い。
グレートウルフが牙を剥く。
最後の威嚇。
最後の誇り。
ミナは、その目を見た。
恐怖はない。
ただ、生きようとする意思。
だからこそ。
「――終わらせる」
大剣を持ち上げる。
重力が刃に乗る。
空気が張り詰める。
グレートウルフは最後の力で体を起こそうとする。
だが――足りない。
その瞬間。
ミナは踏み込んだ。
ドンッ!!
地面が沈む。
そして――
振り下ろす。
刃が沈む。
骨を断ち、肉を裂き、そして――静止した。
グレートウルフの体から力が抜ける。
黄金の瞳から光が消えた。
森は静寂に包まれる。
風の音だけが、ゆっくりと流れていた。
ミナはしばらく動かなかった。
完全に絶命したことを確認する。
デバイスが自動で反応する。
《生命反応――消失》
《対象――討伐確認》
「……」
ミナは大剣を引き抜いた。
血が刃を伝い、地面に落ちる。
そして、再び形状を変える。
――《解体補助モード》
刃の一部が分離し、より精密な切断が可能な形状へと変形する。
ミナは胸部を切り開く。
魔物の核がある場所は分かっている。
何百体も狩ってきた経験がある。
硬質な感触。
刃先に伝わる。
――あった。
ミナは慎重に取り出す。
血に濡れたそれは――
球体。
完全な球体だった。
直径約10センチ。
表面は滑らかで、傷一つない。
内部には、濃密な光が渦巻いている。
深い色。
単なる魔石ではない。
これまで回収してきた魔石とは、密度が違う。
重さも違う。
存在感が違う。
まるで――完成された存在。
ミナはそれを光にかざす。
内部の光が脈動するように揺れる。
「……宝珠」
自然と、その言葉が口から出た。
魔石の終着点。
そう呼ばれても違和感はない。
これ一つで、どれほどの価値になるのか。
装備の動力源として使えば、出力は桁違いになるだろう。
都市一つのエネルギー源にすらなり得るかもしれない。
ミナは静かにデバイスを起動する。
《収納モード》
空間が歪む。
手の中の宝珠が、光に包まれる。
そして――消えた。
内部容量10トンの収納空間へと格納された。
「……目的達成」
小さく呟く。
だが同時に、理解していた。
これは終わりではない。
むしろ――始まりだと。
これほどの宝珠を持つ個体が存在するのなら。
さらに強い個体も、必ず存在する。
森の奥。
まだ見ぬ領域。
ミナはグレートウルフの亡骸から視線を外し、ゆっくりと立ち上がった。
次の獲物を探すために。
翌日――
ミナは再び、その場所を訪れた。
昨日の激戦の痕跡。
焼け焦げた大地。
倒木。
そして――巨大なクレーター。
直径十メートルを超える穴。
その底に、光が揺れていた。
「……水?」
覗き込む。
澄んだ水面。
昨日は確かに乾いた土と砕けた岩しかなかったはずだ。
だが今は、半分ほどが水で満たされている。
静かに波紋が広がる。
地中から、細く泡が上がっている。
「地下水脈か……」
高出力砲撃。
あの一撃が、地層を貫いた。
偶然か。
それとも、この森の地質が脆かったのか。
デバイスが地中スキャンを開始する。
《地下構造解析中》
《水脈確認》
《圧力安定――湧出継続予測》
つまり――
このまま水は溜まり続ける。
やがて小さな池になるだろう。
ミナはしばらく眺めた。
破壊の痕が、新たな地形を生む。
昨日まで戦場だった場所が、静かな水辺へと変わっていく。
皮肉だ。
ふと、森の奥から小動物が現れる。
様子を窺いながら、水を飲む。
警戒しているが、逃げない。
もう、あの支配者はいない。
縄張りの主を失った森は、均衡を失う。
だが同時に――再構築される。
この池は、新たな生命を呼ぶだろう。
魔力を帯びた水。
ただの水場では済まない。
魔獣が集まる可能性もある。
「……拠点候補か」
ミナは静かに呟く。
水源がある。
地形は開けている。
視界も確保できる。
そして何より――
ここは、自分が作った場所だ。
偶然とはいえ。
ミナはクレーターの縁に立ち、改めて森を見渡す。
風が吹く。
水面が揺れる。
戦いの痕跡は、もう暴力の象徴ではない。
新たな始まりの兆しへと、変わりつつあった。
グレートウルフ討伐以降――
森は、妙なほど静かだった。
魔物は現れない。
気配もない。
威圧も、殺気も、遠吠えすら。
まるで森そのものが、ひとつの時代の終わりを受け入れたかのように。
新しくできた湖。
昨日までクレーターだった場所は、すでに立派な水辺へと変わっている。
水位はさらに上がり、透明度も高い。
水面は鏡のように空を映していた。
ミナは湖畔を歩く。
隣にはセリア。
少し後ろをレオンがついてくる。
誰も武器を構えていない。
緊張もない。
ただ、歩いているだけだ。
「……平和ですね」
セリアが小さく言う。
風に髪が揺れる。
昨日まで戦場だったとは思えない光景。
レオンが肩をすくめる。
「主が消えたからな。縄張りの再編が終わるまでは、大型は出ないだろう」
理屈ではそうだ。
だがそれでも、これほど何も起きないのは珍しい。
小屋が見えてくる。
簡易的に建てたはずの拠点は、今や生活感を帯び始めていた。
干された布。
薪の山。
湖から引いた簡易水路。
ミナは湖面を見る。
自分が穿った地形。
自分が生んだ水場。
そして――自分が消した支配者。
「……暇」
ぽつりと漏らす。
セリアがくすっと笑う。
「贅沢な悩みです」
確かにそうだ。
戦い続けてきた日々。
常に次の脅威を想定していた。
だが今は、何も起きない。
ただ、歩く。
風を感じる。
水音を聞く。
レオンが湖畔の石を蹴る。
石は水面を跳ね、三回跳ねて沈んだ。
「嵐の前の静けさか。それとも本当に平穏か」
ミナは答えない。
ただ空を見る。
雲はゆっくりと流れている。
戦いがない時間。
それは、退屈でもあり――
少しだけ、心を軽くするものでもあった。
湖のほとりを、三人は並んで歩く。
目的もなく。
敵もなく。
ただ、今日という日を過ごしていた。
湖の周囲は、わずかに色づいていた。
つい数日前まで、ただのクレーターだった場所。
爆発でえぐれ、熱で焼かれ、命の気配などなかった場所。
それでも――新芽は生えていた。
薄い緑。
柔らかく、細い雑草。
水辺に沿うように、点々と。
ミナはそれを見下ろす。
「……早い」
セリアがしゃがみ込み、指で触れる。
「自然は強いですね」
折れそうで折れない。
頼りなく見えて、確かにそこにある。
レオンは湖を見渡す。
「ここは、もうただの戦場じゃないな」
風が吹く。
草が揺れる。
水面がさざめく。
ここで300以上の魔物が死んだ。
巨大な狼が倒れた。
地形すら変わった。
それでも、世界は元に戻ろうとしている。
ミナは小屋へ戻る。
「……荷造りする」
短く言う。
小屋の中は整理されていた。
蓄電器はまだ余裕がある。
発電装置も問題ない。
水循環システムも正常。
だが――持って帰る必要はない。
ミナは収納デバイスを起動する。
空間が歪むような感覚と共に、小屋の一部が光に包まれる。
壁。
設備。
蓄電器。
発電機。
順番に消えていく。
家は、静かに収納された。
音もなく。
重さも感じず。
まるで最初から存在しなかったかのように。
残るのは最低限の装備だけ。
武器。
魔石。
日用品。
セリアが外から声をかける。
「もう時間ですね」
ミナは最後に湖を見る。
新しく生まれた水辺。
静かな場所。
ここで過ごした時間は短い。
確かにそこには、拠点はあった。
「……行こう」
三人は歩き出す。
森の中。
来た時と同じ道。
だが――もう警戒はしていない。
集合地点へ向かうため。
この訓練の終わりへ向かうため
そして――次の戦場へ向かうために。
後日――
王立魔導学園の中央棟。
大理石の廊下。
その一角にある大掲示板の前に、生徒達が集まっていた。
ざわめき。
ひそひそ声。
白い紙が、一枚。
正式な校章入りの通達。
通達
二年生合同演習において、想定外の異常事象が確認された。
安全性の観点から審議を行った結果、
参加者全員に単位を付与する。
詳細は非公開とする。
学園長印
「は?」
「全員単位?」
「何それ、ラッキーじゃん」
「いや……逆に怖くないか?」
ざわめきが広がる。
「異常事象って何だよ」
「やっぱあの爆発じゃね?」
「でも公式に認めるってことはさ……」
言葉は濁る。
誰も真実を知らない。
森の中央に新しい湖ができたことも。
300以上の魔物が消えたことも。
巨大な狼が存在していたことも。
公にはならない。
ミナは少し離れた場所から掲示を見る。
セリアが小さく息を吐く。
「……全員単位、ですか」
レオンは腕を組む。
「揉み消したな」
「騒ぎになると困るんでしょうね」
ミナは無言。
収納デバイスの中にある魔石。
あれは“異常”の証拠。
だが学園はそれを公表しない。
理由は分かる。
未確認種の存在。
管理外の魔物群。
防衛体制の不備。
公になれば、責任問題になる。
だから――“全員単位”。
丸く収める。
遠くで生徒が笑う。
「俺たち何もしてないのに単位ゲット!」
別の生徒が言う。
「次もこうなら楽だな」
ミナは小さく呟く。
「……次は、もっと酷い」
セリアが視線を向ける。
レオンも気づく。
あれは終わりではない。
演習の異常は、ただの始まりだ。
中庭の桜は、すっかり葉桜になっていた。
花びらの季節は終わり、若い緑が風に揺れている。
学園生活は元通り。
退屈な座学。
延々と続く魔力理論。
実技演習も、どこか物足りない。
だが――暇さえあればクエスト。
放課後。
休日。
早朝。
気づけば、口座残高は十数億。
学生の域を、完全に逸脱している。
そしてある日。
再び掲示板前に人だかりができた。
新しい張り紙。
――――――――――
王都クエスト賞金総額ランキング(学生部門)
1位 ミナ 【総額:14,870,000,000G】
2位 ……(大きく差)
――――――――――
「は???」
「桁おかしくない?」
「学生だよな?」
騒ぎはそれだけでは終わらない。
さらにその隣。
――――――――――
月間クエスト達成数ランキング
1位 ミナ 127件
2位 41件
3位 38件
――――――――――
「え、睡眠とってる?」
「いや寝てないだろ」
「化け物か?」
レオンが苦笑する。
「ついに公式ランキングか」
セリアが小さく笑う。
「学園、完全に利用してますね」
事実だった。
掲示板の下には小さな文言。
“本学園は実戦能力育成を推奨します”
宣伝材料。
ミナの名前は、もはやブランド。
下級生が憧れの目で見る。
「握手してもらったら強くなれるかな」
「パーティ募集してないかな……」
一方、上級生の一部は面白くない顔。
「目立ちすぎだ」
「たかが二年で」
だが数字は残酷だ。
討伐数。
賞金額。
達成率。
失敗ゼロ。
トップは揺るがない。
そして誰も知らない。
その資金の一部が、すでに装備開発や特殊素材の確保に回っていることを。
ミナは掲示板を一瞥するだけ。
興味はない。
目的は別にある。
金も名声も、ただの副産物。
葉桜が揺れる。
静かな日常の裏で、確実に“何か”が動いている。
夜。
家の中は静かだった。
机の上には、小さな魔石がいくつも並んでいる。
透明なもの。
青いもの。
淡く光るもの。
ミナはその一つを手に取る。
――ポリ。乾いた音。
――ポリポリ。
噛み砕く。
ガラスのようでいて、ガラスではない。
硬いが、砕ける。
砕けた瞬間、わずかに温かい感覚が舌から広がる。
魔力。
それが体の中に流れ込んでくる。
ミナは無表情のまま、次の魔石を口に入れる。
――ポリ。
――ポリポリ。
それは食事というより、補給だった。
机の上の魔石は、やがて全て消えた。
残ったのは、一つだけ。
布の上に置かれた球体。
宝珠。
直径十センチ。
濃く、深い色。
内側でゆっくりと光が揺れている。
ミナはそれを手に取る。
濃い魔力、高い密度。
じっと見つめる。
そして――
ぺろ。
舐めてみる。
……。
ほんのりと味がする。
表現しにくい味。
甘いような。
冷たいような。
空気を舐めているようでいて、確かな存在感がある。
ミナは少しだけ目を細めた。
魔石と本質は同じ。
なら――
(食べられる)
そう結論する。
だが。
今日はもう、食べた。
小さな魔石をいくつも。
体は満ちている。
宝珠を見つめる。
今食べれば――何かが起きるかも
そんな気持ちもあったが、ミナは無理をしない。
宝珠を布に戻す。
「……また今度」
誰に言うでもなく、呟く。
宝珠は静かに光っていた。
まるで、待っているかのように。
数時間後。
体の奥で、変化が落ち着いた。
食べた魔石の魔力が、完全に馴染んだのが分かる。
熱でもない。
痛みでもない。
ただ――満ちている。
ミナは椅子から立ち上がり、部屋の隅へ向かう。
そこには、金属と魔導回路で構成された小さな装置があった。
独自に開発した装置。
「魔力量測定器」
円盤状の台座。
中央には、血液を垂らすための透明な受容部。
側面には、数値を表示する細長い表示板。
既製品ではない。
存在しない。
ミナが、自分のためだけに作ったもの。
魔力は目に見えない。
だが、血液には魔力の情報が含まれる。
血中の魔力密度を解析し、数値化する。
完全な精度ではない。
だが、「段階」を知るには十分だった。
基準値。
一般人 1〜10
中級者 11〜20
上級者 21〜30
そして――31以上。人外。
参考値として計測した魔物は、平均で40〜70。
その数値を『レベル』と呼ぶことにした。
グレートウルフは測定できていないが、
恐らくそれ以上。
ミナは机から針を取る。
躊躇はない。
指先を刺す。
赤い血が、わずかに滲む。
その一滴を、測定器へ垂らした。
……。
装置が起動する。
――ウィン。
淡い光が内部を走る。
魔導回路が血液を解析する。
表示板の数字が、ゆっくりと変化する。
レベル5
止まらない。
レベル12
通過。
レベル18
まだ上がる。
レベル24
上級者の領域。
だが、止まらない。
レベル29
そして――レベル31
人外の領域に入る。
ミナは、無表情で見ている。
レベル33
レベル34
レベル35……。
ギリギリレベル36
そこで、止まった。
――レベル36
静止。
ミナは瞬きを一度だけした。
人間の上級者を、明確に超えている。
人外。
魔物の平均値(レベル40〜70)には届いていない。
「……まだ、足りない」
そう呟く。
不満ではない。
確認。
机の上を見る。
布の上。
宝珠。
静かに、深く、光っている。
ミナはそれを見つめる。
(これを食べれば――)
確実に、境界越える。
ある日。
学園の中庭。
昼休み。
木陰のベンチに座るミナの前に、セリアが立っていた。
セリアは腕を組み、じっとミナの顔を見る。
「ちゃんとご飯食べてる?」
唐突な言葉。
ミナは一瞬だけ視線を上げる。
「食べてるよ…」
短い返答。
だがセリアは納得しない。
一歩近づく。
「最近痩せたように見えるけど?」
ミナの頬。
首元。
手首。
以前よりも、明らかに細い。
だが――弱っているようには見えない。
むしろ逆。
鍛えられ研ぎ澄まされている。
存在感が濃くなっている。
近くにいるだけで、何か分からない圧のようなものを感じる。
セリアは眉をひそめる。
「ちゃんと普通のご飯、食べてる?」
ミナは少しだけ間を置き、
答える。
「総合栄養ゼリー……食べてる」
嘘ではない。
だが、それだけではない。
魔石も食べている。
体は、あれを求めるようになっていた。
空腹とは違う。
渇き。
セリアはベンチの隣に座る。
「無理してない?」
静かな声。
心配している声。
ミナは少しだけ視線を逸らす。
「無理はしてない」
本当だった。
必要なことをしているだけ。
強くなるために。
セリアは小さく息を吐く。
「ならいいけど……」
だが、完全には安心していない。
セリアはミナの横顔を見る。
以前よりも、遠く感じる。
同じ場所にいるのに、違う場所へ向かっているような。
ミナは空を見る。
青い空。
その奥を見ているような目。
――もっと。
心の奥で、何かが囁いていた。
セリアは両手を腰に当てて、ため息をついた。
「はぁ、心配」
ミナは視線だけを向ける。
セリアは一気にまくし立てる。
「食堂では見かけないし」
「見つけても本読んでるし、食べてる姿最近見てない!」
びし、と指を突きつける。
「放課後は一緒にケーキ食べに行こ!」
強制。
有無を言わせない笑顔。
ミナは一瞬、黙る。
ケーキ。
甘い香り。
人間の食べ物。
頭の中で、別の感覚が反応する。
――それじゃ足りない。
喉の奥が、かすかに熱を帯びる。
だが。
セリアの目は真剣だった。
ただの遊びではない。
心配している目。
ミナは小さく息を吐く。
「……わかった」
セリアの顔がぱっと明るくなる。
「ほんと!? 約束だからね!」
ぐいっとミナの腕を掴む。
その瞬間。
微かな違和感。
セリアが一瞬だけ、目を細める。
「……熱くない?」
ミナの体温。
ほんのり高い。
だが熱があるような不安定さではない。
内側で、何かが燃えているような熱。ミナはさりげなく腕を引く。
「気のせい」
セリアはじっと見つめる。
不安と、好奇心と、そして決意。
「放課後、逃げないでよ?」
ミナは小さく頷く。
だが心の奥で、別の声が囁く。
――甘味か。
甘味と言えば、アマトウマモル教官が頭を過ぎる。
すぐその考えを消すように頭を振る
放課後。
空腹を抑えられるだろうか。
約束通り、二人は街のケーキ屋へ向かった。
ショーケースの中で宝石のように並ぶケーキたち。
甘い香りが店内いっぱいに広がっている。
この店はカフェも併設されており、その場でゆっくり味わえる造りになっていた。
セリアはメニューを開いた瞬間、迷いなく指をさす。
「これ! アフタヌーンティーパーティーの食べ放題!」
にっこり笑って即決。
ミナが何か言う前に、店員へ注文が通る。
案内された席は窓際。
陽が傾きはじめ、柔らかな橙色がテーブルを照らしている。
やがて運ばれてきた三段スタンド。
上段には小ぶりのケーキやマカロン。
中段にはスコーンとクロテッドクリーム。
下段にはサンドイッチと焼き菓子。
色とりどりの甘味が、まるで宝物のように並んでいた。
ミナはそれをじっと見つめる。
宝珠。
いや、違う。
だが――似ている。
輝き。
形状。
内包された“何か”。
セリアはわくわくと両手を合わせる。
「さあ、食べよ!」
フォークを持ち、ぱくりとケーキを頬張る。
「ん〜! おいしい!」
ミナはゆっくりとショートケーキを口に運ぶ。
ふわりとした生地。
生クリームの甘さ。
苺の酸味。
……。
舌が、微かに震える。
甘味。
確かにエネルギーはある。
だが。
魔石の持つ濃密な“核”のような力はない。
薄い。
柔らかい。
人間向けの味。
それでも――
二口、三口と食べ進める。
セリアがじっと見ている。
「どう?」
ミナは少し考え、
「……甘い」
と答える。
セリアは笑う。
「当たり前でしょ!」
そして次々と皿を取りに立つ。
「今日はいっぱい食べて太るんだからね!」
その言葉に、ミナの指が止まる。
太る。
人間基準の体重。
だが彼女に必要なのは――質量ではなく、魔力。
ミナはスコーンを口に入れながら、そっと喉の奥を確かめる。
さきほどの内側の熱は、わずかに落ち着いていた。
その時。
店内の照明が、一瞬だけ、ちらりと揺らいだ。
ほんの一瞬。
セリアは気づかない。
だがミナは気づく。
ケーキスタンドの銀の縁が、ほんの僅かに魔力を帯びていることに。
この店――
ただのケーキ屋ではない。
セリアはにこにこと笑いながら言った。
「ここのケーキ屋は、最新型の魔力動力を使ってケーキを焼いてるんだって」
ミナは一瞬フォークを止め、ケーキの表面を見つめる。
ほんのりと光を帯びているようにも見える。
「……なるほど」
魔力動力。
つまり、熱源や加熱工程の一部が魔力で行われているということだ。
食べた時に感じた、あのほんのりした反応の理由も納得がいく。
セリアは嬉しそうに続ける。
「だから、普通のケーキより香りも味も強いんだって! 魔力で生地をふっくらさせてるから、口に入れた瞬間の感じが全然違うの!」
ミナは小さく頷き、心の中で考える。
――なるほど、これなら魔力吸収もほんのりだけど可能だ。
でも、魔石のような“核心の力”は無い。
甘味と魔力のハーモニー。
それでも、今の自分には十分な回復手段になり得る。
セリアは楽しそうにスコーンを口に入れる。
「ほら、早く食べなきゃ! 食べ放題なんだから!」
ミナは微かに笑みを浮かべ、フォークを手にした。
――甘いものでも、魔力回復になる。
少しだけ、自分の体も心も満たされる気がした。
3時間後。
二人のテーブルには、食べ終えた皿がずらりと並ぶ。
クリームの跡、食べかけのスコーン、空になった小皿――。
セリアはまだ少し元気そうに笑いながら、フォークを持っている。
「ねぇ、まだ食べれるかな?」
ミナは自分の食べた量を数える。
――ホールケーキ、少なくとも2個分は食べたかもしれない。
お腹はもういっぱいのはずだが、魔力を吸収しているせいか、胸の内側は不思議と満たされている。
甘さが体に馴染み、心地よい熱がじわりと広がる。
セリアがふとミナの顔を見る。
「……ミナ、大丈夫? 顔赤いよ?」
ミナは小さく肩をすくめる。
「うん、平気」
でも心の中では、微かに熱を帯びる体と、魔石に似た満足感を感じていた。
甘いもので魔力回復――
人間の食事でも、十分な“補助”になり得るのだと、改めて実感する。
セリアは満足そうに息を吐き、フォークを置く。
「ふぅ……やっぱり食べ放題は最高だね!」
ミナも小さく頷き、二人で笑い合った。
静かな午後、甘くて少し不思議な時間が流れる。
夕方18時。
セリアと別れ、駅で手を振る。
「また明日ね!」
「うん、またね」と答え、背を向ける。
ミナは歩きながら、ふとお腹をさする。
――夕食は、今日はもう入らなそうだ。
さすがにケーキ2個分の重みは消化しきれていない。
街の空はオレンジ色に染まり、日差しはまだ残っている。
風は暖かく、少し汗ばむほどだ。
初夏の訪れを肌で感じる。
帰り道、小屋に向かう足取りは自然と軽い。
胸の中で、甘くて不思議な午後の余韻がまだ温かく残っていた。
家に着くと、ベッドの卵や宝珠を見つめる。
あの午後の甘さ――魔力の補助――
日常の小さな贅沢として、静かに心を満たしてくれるものだった。
初夏の夜風が窓から入り込み、部屋をそっと揺らす。
時は流れ、季節は移り変わる。
ミナは小さく息をつき、夜の静けさに身を委ねた。
春服から夏服へと衣替えが進む。
街の学生たちの装いも、軽やかで明るい色合いが目立つようになった。
制服の袖をまくり、日差しを浴びて歩く人々の表情は、少し浮き足立っている。
ミナも自室で衣替えを済ませ、夏用の軽やかなシャツとショートパンツに着替えた。
鏡の前で微かに肩を回し、動きやすさを確認する。
――初夏の長期休暇、冒険やクエスト、討伐訓練も控えている。
街の掲示板やクエストボードにも、夏休みに向けた依頼や募集が増えていた。
小金を稼ぎたい者、調査をしたい者、討伐の腕を試したい者……
皆、心を躍らせている。
ミナは微笑む。
「さて……今年の夏も、面白くなりそうだ」
ベッドの卵を撫でながら、まだ見ぬ冒険と魔石、そして新しい発見を思い描く。
周りは浮き足立つ中、彼女の目は静かに輝きを増していた。
ミナはぼんやりと意識を戻す。
左腕に点滴の管が通っていることに気づき、体の火照りがまだ残っていることを感じる。
目の前にはセリアの母が穏やかに座っている。
「あら、目を覚ました?」
声は落ち着いていて、安心感がある。
「セリアが、ミナちゃんが学校に来てないって言うものだから…見に行ったら高熱で寝てたのよ」
ミナは夢で見た広い草原の感覚を思い出す――
グレートウルフが駆け巡り、語りかけた言葉が胸に響く。
「どこまでも、命は走り続ける」
セリアの母は優しく続ける。
「それで病院に連れてきたの。少し休めば大丈夫よ」
ミナは喉の渇きを覚え、意識が少しずつクリアになる。
宝珠を食べすぎた影響で熱が上がったことに気づき、少し苦笑する。
体はまだ火照っているが、心の中は静かに落ち着いている。
――夢の中の言葉と現実の温もりが、不思議な安心感を与えてくれた。
セリアの母がそっと手を差し伸べる。
「水を少し飲みましょうね」
ミナはゆっくり頷き、病室の静かな光の中で、草原と狼の夢を思い浮かべた。
ミナはベッドに体を預け、目を細める。
セリアの母は穏やかに笑いながら、果物を切り分ける。
「学校へは代わりに連絡入れおきましたから安心してください」
「ゆっくり休んで」
「今日はおばさんが1日看病してあげますよ」
まなざしに優しさが宿っていて、ミナは自然と安心感に包まれる。
「スイカは体のこもった熱を撮ってくれるのよ」
果物は一口サイズに丁寧に切られ、種までしっかり取り除かれている。
ミナは小さく頷き、手を伸ばしてひとつ口に運ぶ。
ひんやりとした果汁が喉を通り、体の奥まで涼しさが染み渡る。
――夢の中の草原とグレートウルフの言葉、そして今の現実の優しさが、ゆっくりと心と体を落ち着かせていく。
ミナは少し目を閉じ、静かに息を吐く。
「……ありがとう」と心の中で呟き、体を休める。
医師が静かに診察を終える。
「健康状態には特に異常はありません」
ただし、言葉には少し困惑したような含みがあった。
「ですが、異常といえるほど魔力量があるようです」
医師はカルテに目を落とし、続ける。
「これは『魔力溜り症候群』です。消費しきれなかった魔力が体内で限界を超え、熱として現れたのでしょう」
ミナはベッドの上でゆっくりと息を整え、少し眉をひそめる。
――やはり、宝珠を一度に食べすぎたのが原因か。
医師は静かに告げる。
「今夜は入院してください。明日、異常がなければ退院できます」
そう言い残し、医師は病室を出ていった。
部屋に残された静けさの中、ミナはベッドに沈み込みながら思う。
――魔力量、管理しないと……でも、これも力の証明だ。
窓の外、初夏の夜風がそっとカーテンを揺らす。
心地よい涼しさと、魔力の熱の名残が入り混じり、静かな夜がゆっくりと流れていった。
セリアの母が病室のドアをそっと閉める。
「またね」と優しく声をかけ、夜の静けさに溶けていった。
ミナはベッドで体を少し起こし、腰に巻いたデバイスを起動する。
画面に目を落とし、魔力貯蔵量を確認する。
――やはり、原因はこれだった。
手持ちの道具では大きな増設は難しいが、仮設で臨時の増設を組んである。
慎重に操作し、一気に魔力を抜き取る。
スッと、体を覆っていた火照りが消え、熱も引いていく。
呼吸が楽になり、頭もすっきりしてくる。
ミナは軽くベッドに寄りかかり、目を閉じる。
――魔力の管理も、これで安心だ。
夜の病室には静かな機械音だけが微かに響き、初夏の夜風がそっとカーテンを揺らしていた。
体は軽く、心は少しだけ未来の冒険に思いを馳せる。
面会時間が始まると、静かな病室のドアがそっと開いた。
セリアの母が入ってきて、微笑みながら声をかける。
「おはよう、ミナちゃん。昨夜はぐっすり眠れた?」
ベッドに座るミナを見下ろしながら、少し安心した様子で続ける。
「熱も下がったようで、良かったわ。今日はもう退院できそうね」
手には軽くまとめられた荷物があり、ちょっとしたお見舞いもあるらしい。
「せっかくだから、少しおしゃべりでもしましょうか」
ミナは小さく頷き、ゆっくりとベッドの背もたれに体を預けた。
――昨日の火照りもすっかり引き、魔力の抜き取りで体も軽い。
外の初夏の光が窓から差し込み、病室を穏やかに照らしている。
静かで温かい、ほっとする朝だった。
お昼になり、最後の検査が行われた。
医師は手早く確認し、微笑みながら告げる。
「異常は見当たりません。これで退院できますよ」
ミナはベッドからゆっくり体を起こし、点滴の管が外される。
体は軽く、火照りもすっかり消えている。
セリアの母は嬉しそうに微笑みながら荷物を手渡す。
「じゃあ、今日は無事にお家に帰れるわね」
ミナは頷き、静かに呼吸を整える。
――これで、また日常に戻れる。
病室の窓から差し込む初夏の光が、退院の喜びをそっと照らしていた。
病院の出口まで、セリアの母はそっとミナの手を握る。
「さあ、ゆっくり帰りましょう」
頬に手を添えられ、優しく顔を包まれる。
「無理は禁物よ」と念押しされた。
ミナは小さく頷き、言葉の温もりを感じながら歩き出す。
手を繋ぐ感触が安心感となり、疲れた体と心を穏やかに包み込む。
初夏の風が頬を撫で、街路樹の葉がかすかに揺れる。
――この優しさも、また力の一つだと、ミナは静かに感じた。
セリアの母が静かに去った後、ミナは自室に戻る。
ベッドの傍らで、魔力貯蔵端末を手に取る。
相変わらず大きな端末だが、先日の改良で3倍の量を貯蔵できるようになっている。
ミナは眉をひそめ、端末をじっと見つめる。
「このサイズ……どうにかならないか」
机に道具や設計図を広げ、頭の中で考えを巡らせる。
「外気の魔力、体外から取り込む魔力、体内で生成された魔力、そして魔石からの魔力……
これらをひとつにまとめて、小さくできたら……」
指先で端末の表面をなぞりながら、構想を描く。
小型化すれば持ち運びも楽になり、さらに自由な冒険が可能になる。
――魔力を“効率よく集め、まとめる装置”
可能性はある。けれど実験も試作も必要だ。
ミナの瞳に決意が宿る。
「やってみる価値はある……次の休暇までに、形にしてみよう」




