1巻 始まりと学園生活
プロローグ
女性は、いつも同じ夢を見る。
滅びゆく世界
地平線を切り裂くようにむ夕日。
赤く染まった空の下、二人の男女が並んで立っている。
その腕の中には、赤ん坊がひとり。
泣き声はない
ただ小さな胸が、確かに上下している。
男女は互いに目を合わせ、短く、しかし深く頷いた。
次の瞬間、複雑な空に描かれ、赤ん坊の身体を包み込む。
光。
転送。
赤ん坊の姿が消えた直後世界は終わった。
夕日の向こうから現れたな火の塊が、すべてを呑み込む
大地は割れ、空は燃え、音すら消え失せる。
――そこで、いつも目が覚める。
そんな夢。
彼女は孤児だった。
生まれも、親も、名前さえも知らず。
ある日、偶然のように、運命のように孤児院に拾われ、育てられた。
孤児には決まりがある。
一定の年齢――十六歳になれば、自立しなければならない。
孤児院の職員として残る者。
学生として学び続ける者。
就職する者。
結婚という道を選ぶ者。
彼女が選んだのは、学生だった。
社会的な学問を学ぶ「普通科」。
専門技術を極める「特殊科」。
彼女は迷わず、特殊科を選んだ。
現代技術と魔法を融合させた
――《現代技術魔法科》。
入学から三年。
基礎の基礎から始まり、理論、実践、応用へ。
技術を磨き、魔法を研ぎ澄まし、限界を越え続けた。
気がつけば、常に競い合う二人の学友がいた。
男女一人ずつ。
互いに高め合い、ぶつかり合い、
学園トップを、三人で争った。
卒業後、二人は結婚し、子を授かった。
そんな言葉を交わした記憶はない。
それでも、三人でいると不思議と落ち着いた。
安心できた。
まるで――家族のように。
そして、世界の終わりが来た。
夕日の向こうから現れた、巨大な火の塊。
幾度となく見てきた光景。
夢の向かう側に向かう…
夢で見たもの。
学び、積み重ねたすべて。
それらは理由もなく、しかし確かに、心に刻まれていた。
これから何が起きるのかは、覚えていない。
けれど、最後の夕日だけは、はっきりと覚えている。
赤ん坊の頃に見た、父と母。
その背後に立っていた、もう一人の女性。
誰?
答えは、まだ出ない。
六歳の少女は、布団の中で小さく身じろぎした。
「……また、ゆめ」
孤児院の天井は、今日も変わらない。
木目の染み、少し歪んだ梁、朝の光。
ここでの呼び名は「ミナ」
それが、彼女の名前だと、ずっと信じていた。
ミナは活発な子どもだった。
気になるものは、まず触る。
次に分解する。
壊れるかどうかは、その次。
ぜんまい式の玩具は、三日で中身を覚え。
鍵付きの箱は、一週間で開け方を見つけた。
「また壊したの?」
「こわれたんじゃないよ。しらべたの」
大人たちは困ったように笑う。
魔法も、まだ教わっていないのに。
ミナの指先は、時折、不思議な熱を帯びることがあった。
理由はわからない。
でも、知っている気がした。
これは、危ない。
これは、組み合わせてはいけない。
夢で学んだことは、記憶ではなく、感覚として残っていた。
父と母の名前は知らない。
孤児院には、何も伝えられていなかった。
ただ一つ、拾われた時に一緒にあったものがある。
小さな金属のプレート。
そこには、丁寧な文字で、名前だけが刻まれていた。
エリシア
だが、それを知るのは、まだ先の話だ。
ミナは今日も走り回る。
世界の仕組みを壊し、確かめ、組み直すために。
文字を覚える速度は、異常だった。
誰かに教えられたわけでもない。
繰り返し練習した記憶もない。
それでもミナは、初めから知っているかのように文字を理解した。
孤児院の本棚に並ぶ本。
童話、歴史書、簡単な技術書。
ページをめくる指は迷わず、
視線は文字を追うというより、吸い込んでいた。
読んだ、という感覚がない。
内容が、そのまま頭に入ってくる。
まるで、何度も読み潰した本を、
確認するように眺めているだけのようだった。
本を閉じると、内容を正確に思い出せる。
物語の結末も、挿絵の位置も、文章の言い回しさえも。
「……ふしぎ」
ミナ自身にも理由はわからなかった。
ただ、夢の中で見た景色と同じ匂いが、
文字や知識の奥に漂っている気がした。
壊すことも、変わらなかった。
いや、正確には――壊し方が変わった。
以前は衝動のままに分解していたが、
今は「順番」がわかる。
どこを外せば、どう動くのか。
どの部品が、どんな役割を持っているのか。
バラバラにしたものは、
必ず元に戻せるようになった。
ネジの締め具合。
歯車の噛み合わせ。
ほんの僅かなズレ。
仕組みを理解すれば、修理もできた。
直せる。
それが、当たり前のように思えた。
十歳になった頃、
ミナは孤児院の機械係になっていた。
古い洗濯機。
動きの悪い給湯装置。
時計塔の止まった歯車。
職員が「もう買い替えかしら」と言ったものを、
ミナは黙って引き取る。
少し考え、少し触り、少しだけ魔法の“気配”を混ぜる。
「……動いてる?」
修理された機械は、
新品と変わらないほどに蘇った。
いや、時には新品以上だった。
動きは静かで、効率は良く、
故障しやすかった部分さえ改善されている。
「ミナ、これ本当に直したの?」
「うん。ここのつくりが、よくなかったから」
悪気のない一言に、職員たちは言葉を失った。
普通の子どもではない。
それは、誰の目にも明らかだった。
だが同時に、
ミナ自身は“特別”だとは思っていなかった。
夢の中で、もっと難しいことをしていた気がする。
もっと大きな装置を扱い、
もっと重い決断をしていた気がする。
「……まだ、たりない」
夕暮れ時。
孤児院の屋根の上で、ミナは空を見上げる。
沈む太陽。
胸の奥が、ざわついた。
この色を、知っている。
この先で、何かを失う。
理由はわからない。
それでも、確信だけがあった。
ミナは、知らず知らずのうちに、
世界の終わりへと続く道を、もう歩き始めていた。
ミナ(10)
ミナは、学校へ行くことを決めた。
それは誰かに勧められたわけではない。
将来のため、という言葉が頭に浮かんだわけでもない。
行かなければならない。
ただ、それだけを強く感じていた。
昼間は、孤児院の小さな子どもたちの相手をする。
泣けば抱き上げ、喧嘩をすれば仲裁し、
壊れた玩具はその場で直す。
夕方になると、ほんの少しだけ自分の時間ができる。
その短い時間で、ミナは本を開いた。
急ぐ必要はなかった。
すでに学校へ入るための学力も、技術も、十分に持っていた。
それでも、ゆっくりと学んだ。
確認するように。
忘れないように。
夢の中で学んだことと、
今の自分を、重ね合わせるように。
ミナ(13)
いつの間にか、孤児院の夕方は変わっていた。
夕食までのひととき。
子どもたちは自然と机に集まり、
本を開くようになった。
「ミナ、これ、どう読むの?」
「ここは、こう考えるといいよ」
ミナが教えるのは、ほんのきっかけだけ。
答えを与えることは、ほとんどなかった。
以前は教えられていた年上の子が、
今度はさらに小さな子に、ゆっくりと説明している。
言葉を選び、
相手の目線に合わせ、
わからない部分を一緒に考える。
勉強は、強制ではなかった。
やりたい子だけがやる。
やらない子は、無理にやらなくていい。
それでも、ほとんどの子どもたちは、
少しでも机に向かった。
「ここ、わかると面白いよ」
その一言が、孤児院の空気を変えていた。
やがて、噂が立つ。
楽しく過ごせて、勉強もできる孤児院。
訪れる支援者の視線が変わり、
職員たちの表情にも、誇りが滲んだ。
ミナは、それを少し遠くから眺めていた。
違う。
自分が作りたかったのは、こういう場所だった気がする。
もっと大きくて、
もっと厳しくて、
それでも、守るべきものがある場所。
夢の中の学園。
競い合い、高め合った、あの二人。
思い出せない顔。
思い出せない名前。
それでも、確かな温もりだけが残っていた。
ミナ(15)
入学試験が、間もなく行われる。
選択肢は二つ。
社会的な学問を中心に学ぶ「普通科」
技術と魔法を専門的に学ぶ「特殊技術科」
迷いはなかった。
紙に書かれた文字を見た瞬間、
心が、静かに決まった。
特殊技術科。
現代技術と魔法。
夢の中で、何度も触れた分野。
機械と術式
理論と感覚
それらを結びつけることが、
自分の“役目”であるかのように思えた。
「……これで、いい」
夕日の差し込む部屋で、
ミナは願書を握りしめる。
知らないはずの未来が、
確かに、その先に待っている気がした。
ミナ(15) 試験日
緊張は、なかった。
不思議なほど、心は静かだった。
何百人もの受験生が、同じ方向へと歩いていく。
学校へ続く道は、吐く息が白くなるほど冷えている。
肌を刺すような寒さ。
それでもミナは、歩調を乱さなかった。
この感じ、知っている。
もっと厳しい場所を、
もっと重い空気の中を歩いたことがある。
理由は、やはり思い出せない。
特殊技術科の試験は、年によって形式が変わる。
筆記のみ。
実技のみ。
あるいは、その両方。
今年は…両方だった。
最初に行われたのは、筆記試験
試験時間は二時間
基礎知識
技術理論
魔法の基本構造
さらには雑学や、意味を取り違えやすい引っかけ問題。
問題用紙は、意図的に混ぜられていた。
集中力を削ぎ
思い込みを誘い
小さなミスを積み重ねさせる構成。
だが、ミナの手は止まらなかった。
考える前に、答えが浮かぶ。
選択肢を読む前に、正解がわかる。
それでもミナは、必ず確認した。
知っている、だけでは足りない。
今の自分で、解けなければ意味がない。
二時間後、答案を提出する頃には、
頭の中は驚くほど静かだった。
次は、実技試験。
試験時間は五時間。
与えられた課題は三つ。
分解と修復
作成
改造
そして最後に、魔法適性検査。
これは実技が終わった者から順に行われる。
机の上に置かれた装置は、古く、癖のある構造だった。
あえて扱いにくい型を選んでいる。
ミナは、一つ息を吐き、手を伸ばした。
分解
構造の把握
問題点の特定
ここが弱い
ここは、無理をしている
ミナは、ほんのわずかに設計を変えた。
修復は、完璧だった
作成も、改造も
性能は向上し、
安定性も増している。
魔法適性検査では、
水晶と金属が組み合わされた装置の前に立つ
指先に意識を集中する
光は、穏やかに反応した
強すぎず、弱すぎず
「……問題なし」
試験官の声が、淡々と響く。
すべての試験が終わった頃、
空はすでに夕暮れに染まり始めていた。
七日後。
それが、合格発表の日。
ミナは校舎を振り返らず、
冷たい空気の中を歩き出した。
胸の奥に、
小さな確信があった。
第五章 名前を受け取る日
ミナ(15) 合格発表日
張り出された番号を、ただ眺めていた。
大きな掲示板。
人の波。
歓声と落胆が入り混じる空気。
ミナは端から端まで、ゆっくりと視線を走らせた。
ない。
自分の番号が、見当たらなかった。
一瞬だけ、胸が静かに沈む。
けれど、焦りはなかった。
その時、ふと気づく。
掲示板の脇。
少し離れた場所に、もう一つ――小さな掲示板があった。
人だかり。
何かを確認して、息を呑む受験生たち。
近づいて、文字を読む。
【首席合格者】
同率首席 三名。
並んだ三つの番号。
そのうちの一つが…ミナの番号だった。
「あった…」
それだけ呟くと、ミナは掲示板から視線を外した。
喜びも、高揚も、なかった。
ただ、納得があった。
人混みを抜け、
誰にも声をかけられないうちに、その場を離れる。
振り返らなかった。
孤児院へ戻ると、
合格したことを簡単に伝えた。
「おめでとう!」
「すごいね、ミナ!」
職員も、子どもたちも、口々に祝福する。
照れくさそうに笑う子。
自分のことのように喜ぶ子。
ミナは、胸が温かくなった。
その日の夜。
ミナは、院長室に呼ばれた。
古い机。
柔らかなランプの光。
院長は、静かに小さな木箱を差し出した。
「……あなたに、渡すべきものです」
箱は、思ったよりも軽かった。
蓋を開ける。
中には、丁寧に畳まれた赤ちゃんのお包み。
小さなベビー服。
そして――金属製のネームプレート。
指先で触れた瞬間、
胸の奥が、強く脈打った。
そこには、名前が刻まれていた。
エリシア
それが、ミナの本名だった。
「あなたが拾われた時、一緒にあったものです」
院長は、ゆっくりと語る。
「孤児院での登録名は“ミナ”。
でも、これからは正式に、どちらの名前も使えるよう、手続きをします」
学校の登録
公的な書類
身分の整理
淡々とした説明の中で、
ミナは、ただプレートを見つめていた。
知っている。
夢の中で、誰かが呼んでいた気がする。
夕焼けの中で、
確かに、その名前を。
「……エリシア」
声に出すと、不思議と馴染んだ。
ずっと前から、自分の中にあったように。
院長は、優しく微笑んだ。
「どちらの名前で生きるかは、あなたが決めなさい」
ミナ…いや、エリシアは、木箱を抱きしめる。
名前を取り戻した夜。
それは、過去と未来が、静かに重なった瞬間だった。
世界は、まだ平和だ。
第六章 居場所を選ぶ
ミナ(16) 孤児院を出る日
孤児院を出る日が来た。
泣き声も、引き止めも、なかった。
それが、この場所らしかった。
事前に、住まいについて悩んだ。
学園の寮。
借家。
どちらも、悪くはない。
けれど、どこか違った。
寮は便利だが、不便も多い。
規則、時間、共有空間。
借家は自由だが、
もし何かをやらかした時、迷惑がかかる。
なら、自分の責任で済む場所を。
修理依頼や細かな仕事で稼いだ金を使い、
ミナは、古い家を買い取った。
誰にも文句を言われない。
誰にも、言い訳をしなくていい。
引っ越しの荷物は、少なかった。
キャリーケース一つ。
バッグ一つ。
孤児院での思い出は、
物ではなく、心に残っていた。
「いってらっしゃい」
「また、遊びに来てね」
そんな声に手を振り、
ミナは、静かに門を出た。
振り返らなかった。
前だけを、見ていた。
ミナ(16) 新居
家は、二階建てだった。
古いが、しっかりしている。
壁は厚く、床鳴りも少ない。
部屋は二つ。
リビングキッチン。
トイレと風呂。
そして、屋根裏部屋…収納。
一人で住むには、十分すぎる広さだった。
ミナは、すぐに役割を決めた。
二階は、作業部屋。
屋根裏への入口があり、
機材や部品を置くのに都合がいい。
一階にある部屋は、寝室。
生活と作業を分ける。
それは、無意識に決めたことだった。
「……いい」
家の中央で、ミナは小さく呟く。
この場所なら、壊しても、直しても、作ってもいい。
夕方、窓から差し込む光が、床を赤く染める。
一瞬、胸がざわついた。
ミナは、そっとカーテンを閉めた。
この家は、
学園へ通うための拠点であり、
研究の場所であり、
そして
自分自身で選んだ、最初の「居場所」だった。
新居の場所は、街の中心と学校の、ちょうど中間だった。
商店も、工房も、資材屋も揃う賑やかな中心街。
そして、知識と技術が集まる学園。
どちらへ向かっても、歩いて十分ほど。
ちょうどいい。
生活にも、学びにも、偏らない
ミナ(16) 入学式当日
入学式の日。
空は高く、風は冷たいが澄んでいる。
この学校には、合格者の定員数制限がない。
基準に達していれば、誰でも入学できる。
結果として、受験者のおよそ三分の二が合格していた。
決して易しくはない。
だが、門は広く開かれている。
学園は、想像以上に大きかった。
石造りの校舎。
いくつも連なる研究棟。
遠くに見える演習場。
入学生が一斉に集まるホールは広大で、
それでも、まだ余裕があるように見えた。
ざわめきの中、式は始まる。
学生代表…生徒会の挨拶。
校長の話。
努力、自由、責任。
どこにでもある言葉。
首席合格者についての言及は、なかった。
不平等を生まないため。
競争は、入学後に始まる。
式が終わり、周囲がざわつく中、
ミナは静かに席を立った。
この学園には、クラス分けがない。
学びたい科目を、自分で選ぶ。
聞きたい講義へ行く。
あるいは、論文や成果物を提出し、
それが認められれば単位となる。
もちろん、一般的なテストもある。
自由だ。
だが同時に、
誤魔化しの効かない場所でもある。
誰も、手を引いてくれない。
誰も、進路を決めてくれない。
選び続ける必要がある。
夢の中の学園も、同じだった。
競い合い、
高め合い、
そして…選び続ける場所。
ホールを出ると、
風が、制服の裾を揺らした。
ここからが、本当の始まりだ。
第八章 備える者
学園で単位を得る方法は、大まかに二つあった。
一つは、勉学。
講義を受け、テストを受け、一定の基準を満たすことで単位を得る。
もう一つは、実績。
研究
開発
改良
発見
それらが実用的であったり、
あるいは世の中を驚かせるものであれば、
講義や試験を受けずとも単位として認められる。
後者は、簡単ではない。
評価は厳しく、成果は記録に残る。
だが、ミナは迷わなかった。
間に合わなくなる。
理由は説明できない。
けれど、確信だけがあった。
この先に「審判の日」が来る。
世界が、何かを選ばされる日。
それまでに、準備を終えなければならない。
ミナは決めた
授業も、実績も
糸目をつけない
独立した研究
独立した開発
そして、基礎から応用までの勉学
すべてを、同時に進める
授業が始まった
席は、自由席。
早い者勝ちでも、固定でもない。
その日の講義内容に合わせて、
学生たちは自然と位置を選ぶ。
講義室には、最新の設備が導入されていた。
壁一面のモニター
各自に配布されるタブレット
学習補助用のAIシステム
講義内容に応じて、
資料が自動で更新され、
質問があれば即座に解析と補足が行われる。
ミナは、手当たり次第に授業を受けた。
理論魔法
魔力制御工学
素材学
構造設計論
現代エネルギー理論
理解は、早かった
だが、満足はしなかった
まだ、足りない
夢の中で扱っていたものは、
もっと複雑で、もっと危険だった。
講義が終われば、
ミナはすぐに次の教室へ向かう。
時には、同じ時間帯の授業を二つ選び、
片方はAIの記録で補完した。
学園側は、それを咎めなかった。
成果が出るなら、それでいい。
それが、この学園の方針だった。
実技にも参加した
戦闘
魔法
運動
身体を使い、魔力を流し、限界を測る授業。
そこで使われるのが、「デバイス」だった。
身体能力や魔法を補助する装置
腕輪
腰部ユニット
背部装着型
魔力の流れを安定させ、
筋力や反応速度を底上げする。
初心者には安全装置として。
上級者には、制御訓練として。
ミナは、標準型のデバイスを装着した。
起動。
魔力が、装置を通して循環する。
遅い。
そう感じたのは、一瞬だった。
ミナは、呼吸を整え、
装置の挙動を“読む”
流れ
抵抗
制限
「……なるほど」
動き出すと、デバイスは、ミナに合わせるように最適化されていった。
教官が、わずかに目を細める。
「初使用だよな?」
「はい」
「……そうか」
それ以上、何も言われなかった。
戦闘訓練の後、
ミナの端末には、静かに通知が届く。
【適応率:規定値超過】
【詳細データは教官閲覧権限へ転送】
ミナは、気に留めなかった。
今は、それよりも重要なことがある。
審判の日まで、時間は限られている。
この学園で得られるものは、
すべて、取り切る。
第九章 許された境界線
学園には、明確な規則がある。
「デバイス」の改造は禁止されていた。
授業や実技で使用されるのは、学園が管理・整備した標準、もしくは最新型のデバイスのみ
安全性
公平性
再現性
そのどれかが欠ければ、教育にならない
一つだけ、例外があった。
「個人デバイス」
それは、学生が一から開発することを前提とした装置
設計、製作、調整、運用
すべてを自己責任で行うなら、開発も改造も認められている。
授業中は使用不可。
授業以降、申請と簡易審査を通せば使用可能。
危険であると判断されれば、即時停止。
厳しいが、自由だった。
ミナは、その規則を正確に理解した上で、決めた。
なら、作ればいい。
基本デバイスは、優秀だ。
だが、限界も明確だった。
複数装着しても、効果は上がらない。
魔力循環は一系統に制限され、身体補助も最適化が打ち止めになる。
それ以上は、干渉とロスが増えるだけ。
それが、常識だった。
ミナは、その「常識」を疑った。
同時に使うから、干渉する。
なら、同時でなければいい。
ミナは、密かに研究を始めた。
授業では、決められた通り、
学園が用意した最新デバイスを使う。
無駄な改造はしない。
異常な数値も出さない。
“優秀な学生”の範囲に収める。
そして、授業が終わると
自宅の作業部屋。
二階の床。
屋根裏へ続く梯子。
壁一面の簡易モニター。
そこで、ミナは別の顔になる。
複数の基本デバイスを並べ、
一つ一つ分解し、構造を書き出す。
魔力経路。
制御信号。
安全制限。
共通点と、違い。
「……ここ」
干渉が起きるのは、
魔力を“同時に流そうとする”からだ。
ならば――
切り替えればいい。
同時ではなく、
極めて高速に、順番に。
人間の感覚では、同時に見える速度で。
ミナは、設計図を書き直す。
それは、腕輪でも、腰部ユニットでもない。
複数のデバイスを束ねる、
中核装置。
個々のデバイスを独立させたまま、
瞬間的に役割を切り替える。
身体能力補助。
魔法増幅。
反応速度。
必要な瞬間だけ、必要な機能を前に出す。
理論上、干渉は起きない。
問題は、制御。
ミナは、指先に魔力を集
める。
夢の中で、
もっと複雑なものを制御していた気がする。
胸の奥が、静かに疼いた。
「……まだ、早い」
呟き、ミナは手を動かし続ける。
「デバイス」は、本来、補助装置だ。
ミナは、ベースデバイスの登録申請を行った。
必要書類は多い。
だが、内容は単純だった。
企画書。
目的、構造、安全性
使用魔力の種類と量
暴走時の停止方法
余計なことは書かない。
あくまで、
「収納補助用の個人デバイス」
戦闘用途ではない
能力強化はしない
魔法補助もしない
ただ、物をしまって、取り出すだけ。
ミナは、意図的に、そう記した。
審査当日。
白い部屋。
机の向こうに、複数名の審査員。
年齢も専門もばらばらだ。
「では、実演を」
ミナは静かに頷いた。
腕輪に魔力を流す。
床に置かれた工具が、音もなく消える。
次の瞬間、
ミナの手元に、正確な位置で現れた。
「収納距離は?」
「半径十メートル以内です」
「空間の安定性は?」
「単一登録空間。多重干渉なし」
質問は淡々と続く
ミナは、すべてに即答した。
嘘はない
誇張もない
ただし
全ては言っていない
審査員の一人が、腕を組む
「……シンプルだな」
「はい」
ミナは、それだけ答えた
シンプルだからこそ、安全
シンプルだからこそ、扱いやすい
それは、審査を通すための最適解だった
結果は、即日。
承認。
ベースデバイスは、正式に
「利用可」となった。
これで、学園内外での使用が認められる。
ミナは、審査室を出て、
誰にも見られない場所で、小さく息を吐いた。
「……通った」
だが、これは始まりに過ぎない。
学園の規定には、こうある。
申請したデバイスに
新たな機能を追加した場合は、再申請が必要
しかし、こうも書かれている。
登録済みデバイスが、他のデバイスを収納・携行することは制限しない
つまり。
ベースデバイスは、収納装置。
そこに何を入れていようと、
それが「別のデバイス」である限り、
申請対象にはならない。
機能を追加していない。
持ち歩いているだけ。
そう、扱いは
工具や部品と同じ。
ミナは、その“穴”に気づいていた。
「審査を通すのは、ベースだけ」
「二番目以降は、内部に収納する」
それらは、
申請したデバイスではない。
だから、報告義務も、審査も、存在しない。
規則違反ではない。
ただ、想定されていないだけだ。
作業部屋に戻ったミナは、
腕輪を机の上に置いた。
空間の向こう側には、
まだ未完成の設計図と素材。
これから作るものは、学園が想定している「個人デバイス」の枠を超える。
だが、それを止める規則はない。
ミナは、静かに笑った。
ほんの一瞬だけ。
「……これでいい」
制度の裏を知り、理屈で抜ける。
それが、孤児として生きてきた彼女の、やり方だった。
次に作るのは
身体能力向上デバイス。
それは、人間の限界に、手をかける装置。
ミナは、ペンを取り、新しい設計を描き始めた。
計算上では、資金は余裕で足りる。
素材、工具、加工設備。
どれも問題ない。
しかし
お金では手に入らない部品があった。
「魔石」
魔物、あるいは魔力を持つ動物や生物の体内に、
ごく稀に生成される結晶。
魔力が凝縮し、
長い時間をかけて自然に形成されたもの。
長く生きた魔物からは比較的見つかりやすい。
だが、長く生きているという事は、
それだけ強いという事でもある。
一センチの魔石。
それだけの大きさを探すために、
何匹もの魔物を狩り、
それでも見つかるとは限らない。
効率は、最悪だった。
魔石には、もう一つの種類がある。
「人工魔石」
魔力を結晶化させ、
後天的に作られた代用品。
流通量は多い。
サイズも大きく、安定している。
性能が、違いすぎた。
人工魔石を「1」とするなら、
魔物から採れる天然の魔石は「1万」。
魔力の純度
出力密度
反応速度
全てが、桁違い
人工魔石は、灯りや簡易装置、量産品向け。
ミナが作ろうとしている
個人デバイスの中枢には、
到底、耐えられない。
「……やっぱり、必要」
ミナは、設計図を見つめた。
第三デバイス
魔力供給
ここが、最大の要だった。
天然魔石がなければ、
計画そのものが成立しない。
学園は、魔石の持ち込みを禁止していない。
ただし、
出所は自己責任。
違法採取。
危険区域への無断侵入。
学園名義の行動。
それらは禁止されている。
だが
個人として、合法区域で、正規に狩る分には、問題はない。
問題は一つ
「……私一人で、狩る?」
今のミナには、学園配布の最新デバイスがある。
だが、それは改造禁止。
出力にも、制限がある。
魔石を持つ魔物は、その程度で倒せる相手ではない。
無理をすれば、死ぬ。
確率論で見れば、明らかに割に合わない。
ミナは、静かに考えた。
方法は、三つ。
自分で狩る。
誰かと組む。
あるいは別の手段を使う。
机の端に置かれた、
ベースデバイスの腕輪が、
淡く光った。
収納空間の向こう側には、まだ誰も知らない可能性が眠っている。
ミナは、ゆっくりと立ち上がった。
「……情報、集めよう」
魔石を持つ魔物
狩場
規則の境界線
学園という場所は、知識だけでなく、情報が集まる場所でもある。
そして、情報を制する者が、準備を制する。
だが、悠長に構えてはいられなかった。
「審判の日」
それは、
自分が成人し、赤ちゃんが生まれた“あと”。
夢で見た光景と、自分の未来が、確実に一本の線で繋がっている。
残された時間は、あと数年。
それまでに…完成させる。
そして、必ず試運転を終えていなければならない。
失敗は許されない。
一度きりの、本番。
問題は、魔石。
魔石は、長く生きた生物ほど、質が良い。
魔物化した動物。
あるいは、自然に魔力を蓄積した長命種。
亀
象
オーム
そういった存在は、
数十年、数百年という時間の中で、体内に魔力を沈殿させる。
見つかる場所は限られている。
個体数は少なく、多くは保護指定。
狩猟許可が下りることは、ほぼない。
現実的ではなかった。
残るのは、魔獣
大型爬虫類
大型昆虫類
大型哺乳類
体長は、軽く二メートルを超える。
見た目だけなら、圧倒的な存在感。
得られる魔石は、五ミリあれば良い方。
大量の労力。
高い危険性。
そして、結果は、微々たるもの。
「……足りない」
ミナは、設計図を閉じた。
欲しい魔石のサイズは、
最低でも一センチ。
出来れば、それ以上。
魔力量を、圧倒的に確保したい。
一つで足りるとは、思っていない。
一つ、出来れば三つ。
本当に足りるかどうかは、分からない。
魔力供給デバイスは、すべての基盤。
ここが崩れれば、身体能力向上も、魔法補助も、制御装置も、意味を失う。
ベースデバイスの空間に、
仮想的に配置された未来の装置。
その中央に、
ぽっかりと空いた場所。
そこに、
魔石が収まるはずだった。
「……ある」
ミナは、ふと気づいた。
魔物でも、
魔獣でもない。
学園の資料で、
ほんの数行だけ触れられていた存在。
危険すぎて、
研究対象にすらならないもの。
狩猟対象外。
記録は断片的。
確実に、巨大な魔力を持つ。
長く生き、異常なまでに魔力を溜め込む存在。
「……“古生体”」
口に出した瞬間、
背筋に冷たいものが走った。
生きている化石。
魔力と共に進化から外れた存在。
遭遇=死亡。
そう書かれていた。
ミナは、静かに息を吐いた。
「……選択肢は、少ない」
安全な道はない。
だが、準備を重ねれば、確率を上げることはできる。
夢で見た夕日。
赤ちゃん。
父と母。
そして、後ろに立つ女性…おそらく自分。
あの未来を、変えるために。
ミナは、机に手を置いた。
魔石を得るための計画は、
次の段階へ進もうとしていた。
演習授業
学園では、ごく稀に
討伐を伴う実地演習が行われる。
数日間、未開地で寝泊まりし、
生き延びるための知識と判断力を学ぶ。
座学では得られないもの。
魔物の気配。
地形の危険。
仲間との距離感。
そして、死の現実。
それを知るための授業だった。
今回の演習地は、
通称
「世界のへそ」
大地に穿たれた、巨大な奈落。
底は見えず、縁に立つだけで、吸い込まれるような錯覚を覚える。
まるで、世界そのものが、そこへ沈み込んでいるかのようだった。
奈落の周囲には、特殊な魔力の流れが存在する。
その影響で、魔物が自然発生しやすく、生態系も歪んでいる。
危険区域。
だが、学園が管理し、一定範囲に限って演習が許可されている。
「……ここか」
ミナは、奈落を見下ろした。
胸の奥が、ざわりと揺れた。
理由は、分からない。
演習の目的は、三つ。
一つ。
魔物の討伐と解体。
二つ。
野営と生存術の実践。
三つ。
チーム行動と判断力の評価。
学生は、
五人一組。
学園側が、能力と志向を見て、自動で組み合わせる。
拒否権はない。
「……」
ミナは、支給された演習用デバイスを腕に装着した。
改造不可。
出力制限あり。
それでも、
十分に高性能。
だが。
ミナの視線は、
その内側。
衣服の下に隠された、
ベースデバイスの腕輪へ向いていた。
登録済み。
使用許可済み。
中身は、まだ少ない。
だが、「収納」という機能だけでも、
演習では致命的な差を生む。
工具。
簡易魔導具。
非常食。
瞬時に出し入れできる。
それだけで、
生存率は跳ね上がる。
演習地へ向かう途中、
教官が言った。
「奈落には近づくな」
「落ちれば、救助は不可能だ」
「そして――」
一瞬、言葉を切る。
「奈落の縁で、異常な魔力反応を感じたら、即撤退」
ざわめきが走る。
異常魔力。
それは、強力な魔物か、あるいは…それ以外。
ミナは、その言葉を、胸に刻んだ。
異常。
それは、魔石の質が、常識を超えている可能性を示す。
「世界のへそ」
ここは、ただの演習地ではない。
ミナは、直感していた。
この奈落は、
魔石を求める者にとって、最も危険で、最も近い場所だと。
そして
運命は、すでに動き始めている。
ミナは、わかっていた。
今回の組み合わせに、あの二人がいることを。
名簿を見なくても。
教官が班を読み上げる前から。
理由は、はっきりしない。
けれど
胸の奥が、最初からそう告げていた。
「……やっぱり」
名前が呼ばれる。
一人目。
二人目。
そして
男女、二人の名。
同時に、
記憶の奥が、微かに軋んだ。
夕日。
滅びゆく世界。
二人の男女。
その腕に抱かれた、赤ちゃん。
夢の中では、
顔ははっきり見えなかった。
けれど、
雰囲気だけは、今と同じだった。
隣に立つと、
不思議と落ち着く。
言葉を交わさなくても、
呼吸の間が合う。
「よろしく」
先に声をかけてきたのは、
男性の方だった。
無理のない笑み。
警戒心を与えない距離感。
「……よろしく」
ミナは、短く答えた。
女性の方は、
少しだけ首を傾げて、
ミナを見つめる。
「初対面なのに……変な感じしない?」
その一言で、
確信に近いものが生まれた。
やっぱり。
彼女も、何かを感じている。
だが、それを言葉にできるほど、明確ではない。
ミナも同じだった。
五人一組。
残りの二人は、
実戦経験を重ねている様子の学生。
動きに無駄がなく、
演習慣れしている。
悪くない組み合わせ。
だが
ミナの意識は、どうしても、あの二人へ向いてしまう。
近すぎず、遠すぎない。
まるで、最初から決まっていた配置。
「……演習、頑張ろうね」
女性の方が、少し照れたように言う。
ミナは、一瞬だけ迷ってから、頷いた。
「うん」
その瞬間、胸の奥が、確かに温かくなった。
理由は、まだ分からない。
でも
この二人と一緒にいると、
“守らなければならない”
という感情が、自然に湧いてくる。
それは、仲間意識とは、少し違う。
もっと深く、もっと根源的なもの。
演習開始の合図が、鳴り響いた。
未開地へ、足を踏み入れる。
奈落は、まだ視界の外。
それでも、確実に近づいている。
ミナは、無意識に、ベースデバイスへ意識を向けた。
この演習は、ただの授業では終わらない。
そう、分かっていた。
十数組のパーティが、
隊列を組み、森の中を進んでいく。
足元は湿り、
土と腐葉土が混ざった匂いが立ち込めていた。
遠くから、
猛獣の低い唸り声。
頭上では、
鳥の鋭い叫び声。
自然の音だけなら、
まだ耐えられた。
だが
「……っ!」
どこかで、人間の叫び声が上がった。
短く、切り裂くような悲鳴。
続いて、何かが潰れる音。
そして、途切れる。
断末魔。
ミナは、足を止めそうになるのを、必死で堪えた。
これは、演習。
だが、現実でもある。
助けは、すぐには来ない。
誰かが死ぬ可能性が、
常に隣にある。
それを、肌で理解させられた。
教官が、前方で手を上げる。
全体が、一斉に静止した。
「これより先、地形が変わる」
指差す先。
木々が、不自然に途切れ、地面がひび割れている。
その向こうに…奈落の縁。
「“へそ”の近くには、魔獣があまり寄りつかない区域がある」
「魔力の流れが不安定で、生態的に嫌われている」
「そこを、今回の拠点にする」
ざわめきが走る。
安全という言葉は、使われなかった。
使えるはずもない。
「ただし」
教官の声が、低くなる。
「地面が、突然崩れることがある」
「小さな穴が空き、
気付いた時には、足場が消えている」
「近づきすぎるな」
「縁から、最低でも二十メートル」
「それ以上近づいた場合、
自己責任とする」
冷たい言葉だった。
だが、それが、この演習のルール。
ミナは、奈落を見た。
深く、暗い。
底は見えない。
吸い込まれる感覚。
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられた。
夢の中の夕日と、どこかで繋がっている気がした。
「……ミナ、大丈夫?」
女性の学友が、小声で声をかける。
「……うん」
そう答えながら、ミナは気付いていた。
この場所。
魔獣が寄らない理由は、魔力が弱いからではない。
むしろ…濃すぎる。
異常すぎて、生き物が本能的に避けている。
それは、巨大な魔石が眠っている場所の特徴と、完全に一致していた。
ミナの心臓が、早鐘を打つ。
ここに、ある。
確証はない。
だが、直感が、叫んでいた。
世界のへそは、ただの穴じゃない。
そして、この演習は、偶然ではない。
運命は、すでに彼女たちを、
この場所へ連れてきていた。
教官の声が、森に響いた。
「今回の目標は二つ」
「一人一匹以上の討伐」
「または、一パーティにつき、魔石一個」
どよめきが起こる。
魔石一個。
それだけで、この演習の難度が、一段階跳ね上がった。
「期間は、全グループが条件達成するまで」
「途中で撤退したパーティがあっても、演習は続行だ」
「他のグループを手伝うのは、自由」
「共同討伐、情報共有、支援、すべて許可する」
助け合いか、自分たちの安全か。
選択を、学生自身に委ねる形だった。
教官は、腰元の筒を示す。
「やばいと思ったら、各自に渡してあるこの筒の紐を引け」
「爆音と、強い光が出る」
「一時的に、相手が眩んでいる間に逃げろ」
一瞬、間を置いて。
「間に合えば、俺たちが助けに行く」
その言葉に、嘘はなかった。
助けられない時もある。
それが、この演習の現実。
「以上」
「各自、寝床やテントの用意を開始」
「食事は、グループごとに行え」
「質問がある者は、来い」
一拍置いて。
「はい!解散!」
号令と同時に、学生たちが散っていく。
静かだった森が、一気に動き出した。
ミナたちのグループも、指定された区域へ向かう。
奈落から、十分に距離を取った場所。
それでも、地面の感触は不安定だった。
「ここ、でいいかな」
誰かが言う。
「いや、もう少し高い場所の方が――」
意見が交わされる。
だが、ミナは、少し離れた地点を見ていた。
そこは、魔獣が寄らないとされる区域の、さらに外縁。
魔力の流れが、わずかに歪んでいる。
「……あそこにしよう」
ミナが、静かに言った。
全員が、彼女を見る。
理由は、言わなかった。
だが、誰も反対しなかった。
不思議と、その判断が、正しい気がしたから。
テントを張り、簡易結界を設置する。
食事の準備をしながらも、誰もが周囲に気を配っていた。
遠くでは、また叫び声が聞こえた。
短く、そして、途切れる。
ミナは、ベースデバイスに指を触れた。
まだ、使う時ではない。
今日か、明日。
必ず、選択の瞬間が来る。
魔石を取るか。
仲間を守るか。
あるいは両方か。
夕暮れが、森を赤く染め始めていた。
あの夢と、同じ色。
時間は、無期限。
条件を達成するまで、演習は終わらない。
持ち寄った食料は、節約すれば、一週間ほど。
それ以上は、現地で確保するしかない。
水、食料、安全な寝床。
討伐よりも先に、やるべきことは山ほどあった。
「……色々、考える事が多いね」
誰かが、苦笑いを浮かべて言う。
ミナは、頷いた。
そして、心の中で、最重要課題を確認する。
「……お風呂と、トイレ」
誰も口には出さないが、これは、生存に直結する問題だった。
衛生状態が崩れれば、体調を崩す。
体調を崩せば、討伐どころではない。
「まず、地図を作ろう」
ミナが、提案した。
即席の地図。
地形、高低差、危険区域、魔物の痕跡
全員が、納得して頷く。
ミナは、収納から、小型の測量器具を取り出した。
演習用としては、ぎりぎり許可範囲。
「水を確保するために、まず水辺を探す」
「飲用と、生活用は、分けた方がいい」
その言葉に、二人が感心したように息を呑む。
「次に、食料」
「食べられる動物と、野草を把握する」
「危険なものは、最初から除外する」
ミナは、一つ一つ、淡々と挙げていく。
「それから、魔物討伐」
一瞬、間を置いて。
「……いきなり魔物を狩りに行ったら、野垂れ死にする」
誰も、反論しなかった。
それが、正解だと分かっていたから。
役割分担が、自然に決まった。
索敵と警戒。
地形把握
水源探索
食料調達
ミナは、全体の整理と、記録係を引き受けた。
地図は、彼女の頭の中で、驚くほど正確に形を成していく。
「……この辺り、地面が柔らかい」
「地下水脈が近い」
「ここは、動物の通り道」
誰かが言う前に、ミナが指摘する。
それは、経験というより、既視感に近かった。
まるで、以前にも、同じことをしていたかのように。
森の奥から、かすかな水音が聞こえた。
小さな沢。
飲用には、煮沸が必要。
だが、確保できるだけで、大きな前進だった。
ミナは、その場所を、地図に書き込んだ。
そして、心の中で、次の段階を見据える。
ここまでは、生きる準備。
この先に、戦う準備がある。
夕暮れは、すでに夜へ向かっている。
森は、昼とは、まったく別の顔を見せ始めていた。
夜。
焚き火の火が、小さく揺れている。
周囲の森は暗く、音だけが、やけに鮮明だった。
「あそこのグループ、魔物を一匹討伐したみたい」
見回りから戻ってきた学生が、小声で言った。
「でも、二人が軽く怪我」
「二、三日は動けないらしい」
空気が、少し重くなる。
討伐できても、無傷では済まない。
それが、この場所の現実。
「……あっちは、スタンボムを使って逃げてきたって」
筒―教官が渡した、最後の保険。
使ったという事は、相当、危なかったという事だ。
ミナは、静かに頷いた。
「情報、ありがとう」
情報は、武器になる。
ミナは、即席の地図を広げた。
そこに、得られた情報を書き込んでいく。
魔物の種類
出現地点
装甲の有無
弱点になりそうな部位
「……ここ、硬いみたい」
「ここは、関節が弱い」
討伐したグループの話を元に、推測を重ねる。
完璧ではない。
それでも、何も知らずに遭遇するより、遥かにマシだ。
「……この水辺から、テントまで」
ミナは、距離を測る。
「直線で、約二十メートル」
全員が、地図を見る。
「魔法で掘れば、近くに水溜まり程度の池は造れる」
「飲用は煮沸前提だけど、生活用水には十分」
誰かが、小さく息を吐いた。
それだけで、どれほど楽になるか、全員が分かっている。
「明日は、それをやろう」
ミナは、きっぱりと言った。
反対は、なかった。
「残り時間は、ある程度、食料を集めて」
「並行して、討伐を進めていこう」
無理はしない。
欲張らない。
確実に、生き残るための計画。
誰もが、その方針に、自然と従っていた。
焚き火の向こうで、あの二人が並んで座っている。
小さく笑い、静かに話している。
ミナは、その光景を見て、胸の奥が、少し痛んだ。
守りたい。
確かに、そう思った。
奈落の方角から、低い風音が聞こえる。
まるで、大地が呼吸しているような。
ミナは、空を見上げた。
星は、はっきりと見えた。
この夜は、
まだ序章に過ぎない。
朝。
森の空気は、夜とは別物だった。
冷たく、澄んでいて、頭がはっきりする。
まずは、食事。
効率を優先し、
インスタント麺に卵とハムを入れたものを作る。
湯気と一緒に、少しだけ人間らしい匂いが立ち上った。
「……温かい」
それだけで、体の芯が戻ってくる。
無駄な会話はない。
黙々と食べる。
生きるための食事。
食事を終えると、
すぐに作業へ移った。
水辺から、まっすぐテントへ。
直線距離、約二十メートル。
そこへ、
溝を掘る。
魔法は、静かに。
必要以上に魔力を使わない。
音も、光も抑える。
役割分担は、明確だった。
掘る役。
地面を削り、流れを作る。
固める役。
側面と底を魔法で補強し、崩れを防ぐ。
周囲を警戒する役。
索敵と即応。
迷いはなかった。
首席三名が揃っている。
それだけで、作業効率と安定感が、桁違いだった。
誰かが指示を出す前に、次の動きが自然に決まる。
無駄がない。
息が合う。
まるで何度も、こうしてきたかのように。
作業中、遠くで
ドンッ
低く、重い音。
スタンボム。
誰かが、使った。
何度か、間隔を置いて聞こえる。
この森の、あちこちで、命の瀬戸際が続いている。
使い切った筒は、教官が補充してくれるらしい。
それでも使わずに済むなら、それに越したことはない。
二時間。
あるいは、三時間。
はっきりとは分からない。
気付いた時には、テントの近くに、小さな池が出来ていた。
魔法で固めた底と縁。
泥は、ほとんど混じっていない。
半径、約二メートル。
深さ、一メートルほど。
生活用水としては、
十分すぎる。
「……成功だね」
誰かが、ほっとした声で言った。
ミナも、小さく息を吐いた。
そこで、終わりではなかった。
「……え?」
水面が、揺れる。
銀色の影。
一匹。
二匹。
「……魚?」
嬉しい誤算だった。
水路を通って、
小さな魚が、
池に流れ込んできていた。
生態系が、
思った以上に、
繋がっている。
食料。
栄養。
選択肢。
一気に、
可能性が広がる。
ミナは、
池を見つめながら、
静かに思った。
生き延びる準備は、整った。
あとは、戦う準備。
この池は、拠点の証。
そして同時に、この場所を、守らなければならない理由でもあった。
池は、午前中のうちに完成した。
想定よりも早い。
それだけ、連携が噛み合っていたということでもある。
「次は……」
ミナは、太陽の位置を確認した。
「昼まで、食料を探しながら魔物も探そう」
全員が頷く。
討伐を目的にしすぎない。
だが、出会えば逃げない。
そのバランスが、今は必要だった。
森の中は、蒸し暑かった。
湿り気を含んだ空気が、肌にまとわりつく。
汗が、じわりと滲む。
緊張感を切らさず、
なれない樹海を進む。
視界は悪く、距離感が狂う。
ミナは、薬学と植物学の辞書を開きながら、
一つ一つ確認していった。
キノコ。
薬草。
木の実。
野草。
「……これ、ダメ」
「こっちも毒」
「これは……微毒。加熱すればいける」
結果は、七割が毒性あり。
改めて、自然の厳しさを思い知らされる。
「食料探し、思ったより骨が折れるね……」
誰かが、苦笑した。
ミナも、内心で同意していた。
結構歩いた気がした。
だが
地図を確認すると、直線距離で、五十メートルも進んでいない。
樹海は、人の感覚を狂わせる。
魔物とは、出会わなかった。
それは、幸運でもあり、不安材料でもあった。
だが、食料は、少し集まった。
量は少ない。
それでも、確実な一歩。
「生物だから……先に消費しよう」
ミナの判断で、持ち帰った食料は、優先的に使うことになった。
持参した食料は、基本、レトルトや即席麺。
保存が効く。
命を繋ぐために、
後回しにする。
まだ、演習開始から三日目の昼。
それでも怪我人がいるテントは、すでに三分の一。
擦り傷。
噛み傷。
打撲。
中には、動けない者もいる。
ミナは、他のグループを回り、
情報を集め始めた。
主に見かけた魔物について。
多かったのは、
蜘蛛と、トカゲ。
どちらも、二メートル級。
糸を吐く個体。
鱗が硬い個体。
「……教官、それを一撃で?」
ミナが聞くと、話していた生徒が、何度も頷いた。
「一瞬だった」
「近づいたと思ったら、
もう終わってた」
「……別格だよ」
かなりの、手だれ。
伊達に、この場所を管理していない。
ミナは、その情報を、地図とメモに書き込んだ。
そして、一つ、確信する。
この演習地には、教官ですら、本気を出さなければならない“何か”がある。
蜘蛛やトカゲは、前座にすぎない。
ミナは、胸の奥が、静かに高鳴るのを感じていた。
怖さではない。
準備が、少しずつ、整ってきている感覚。
その日は、昼から夜まで――一度も魔物に遭遇しなかった。
結果として、討伐は進まなかったが、食料はそれなりに集まった。
「……静かすぎる」
誰かが、ぽつりと漏らす。
だが、無理に探し回る理由もない。
今日は、生き延びることを優先する日。
そう割り切った。
さすがに、三日目の夜。
ミナは、髪に触れた。
指に絡みつく、汗と埃。
体も、ベタついている。
「……洗いたい」
それは、贅沢ではなく、衛生管理だった。
感染症。
皮膚炎。
集中力の低下。
どれも、この環境では、命取りになり得る。
夕方。
池の傍に、
ざっくりと――
一メートル四方、深さ六十センチほどの穴を掘った。
魔法で、
壁面と底を固める。
崩れないよう、
角も丁寧に。
その上から、
テントを被せた。
即席の、
簡易浴場。
池から水を引き、
魔法で集めた火で、
ゆっくりと湯を沸かす。
一度、しっかり煮沸。
殺菌。
その後、入れる温度まで、少し冷ます。
「よし……」
準備完了。
さっぱりと、順番に入る。
髪を洗い、体を流す。
三日分の、緊張と疲労が、湯に溶けていく。
「……生き返る」
小さな声。
誰も、笑わなかった。
それほど、切実だった。
服も、洗濯した。
完全には乾かないが、汚れを落とすだけでも、違う。
清潔さは、士気に直結する。
ミナは、それをよく理解していた。
周囲を、見渡す。
他のグループはそれどころではなかった。
怪我人の手当。
食料不足。
魔物との遭遇。
悲鳴。
怒鳴り声。
泣き声。
夜になるにつれ、森は、別の顔を見せ始めている。
「……この差は」
仲間の一人が、小さく言った。
「油断しないで」
ミナは、即座に返す。
「今、うまくいってるだけ」
「流れが変われば、一瞬で崩れる」
奈落の方角から、冷たい風が吹いた。
焚き火が、揺れる。
遠くで聞き慣れない鳴き声。
今までとは、明らかに違う。
低く、重い。
地面の奥から、響いてくるような音。
静かな夜。
だが――
この演習が、次の段階に入ったことだけは、はっきりとわかっていた。
夜中。
ミナは、森の奥から伝わる、微かな物音で目を覚ました。
風ではない。
獣の足音とも、
少し違う。
テントの内側は暗い。
ミナは、ゆっくりと体を起こし、布の隙間から、音の方へ視線を向けた。
光。
ぼんやりとした、淡い光が、右へ、左へと走っている。
揺れるようで、しかし規則的。
目を凝らし、息を殺す。
月明かりが、雲の切れ間から差し込んだ。
その先に、見えたものは、大型のトカゲ。
それだけではない。
対峙している人影。
教官だった。
大きさは、三メートル……いや、四メートル近い。
太い尾。
岩のような鱗。
顎が開くたび、
鈍い音が漏れる。
それでも――森は、静かだった。
教官の動きは、異様なほど静か。
足音を消し、呼吸すら抑え、最低限の動作だけで距離を詰める。
無駄が、一切ない。
剣が、月光を受けて、一瞬だけ光る。
次の瞬間、鱗の隙間へ正確に、深く、突き込まれた。
トカゲが、
低く唸る。
だが、
吠えない。
叫ばせない。
教官は、
声を上げさせない戦い方を
選んでいた。
生徒を起こさないために。
魔物を呼び寄せないために。
ミナは、
その光景から、
目を離せなかった。
動き。
間合い。
判断の速さ。
「……」
胸の奥が、
ざわつく。
強い。
それも、
単純な力じゃない。
守るための強さ。
トカゲが、
大きく体勢を崩した瞬間。
教官は、
尾の付け根へ回り込み、
一閃。
鈍い音。
巨大な体が、
ゆっくりと倒れた。
それでも
森は、
ほとんど騒がなかった。
教官は、
しばらくその場で動かず、
周囲を確認してから、
魔石の有無だけを素早く確かめる。
そして、
何事もなかったかのように、
闇へ溶けていった。
焚き火のある方へも、
戻らない。
生徒の気配を避けるように。
ミナは、
静かに布を下ろし、
横になった。
だが――
眠れなかった。
頭の中に、
一つの答えが、
はっきりと浮かんでいた。
「……だから、
怪我人が多い」
「……だから、
ここは安全だった」
守られていた。
気づかれないように。
知られないように。
そして――
それでもなお、
この場所は、
本当に安全なのか。
ミナは、
自分の計画――
デバイスと魔石の構想を、
改めて思い返した。
教官ですら、
夜中に戦っている。
ならば、
審判の日までの時間は、
想像以上に短い。
森の奥で、
再び、
重い鳴き声が響いた。
今度は――
一つでは、なかった。
4日目・朝。
夜中の出来事は、
誰にも話さなかった。
話せば、
不安を広げるだけだと
ミナは分かっていた。
朝食。
湯気の立つ簡単な食事。
だが、
周囲のテントは静まり返っている。
食事どころではない
そんな空気が、
森全体に漂っていた。
怪我人。
恐怖。
疲労。
それでも、
ミナたちは食べた。
生きるために。
食事後、
前日と同じ行動に出る。
食料を探しながら、
魔物の痕跡を探す。
足跡。
糞。
折れた枝。
緊張を保ったまま、
慎重に森を進んだ。
そして
見つけた。
二メートル級。
蜘蛛型。
太い脚が、
木の幹に深く食い込み、
逆さまに張り付いている。
まだ
こちらには気づいていない。
視線を巡らせると、
状況が見えた。
食事中。
引き裂かれた、
狼の死骸。
魔物ではない。
普通の、野生動物。
骨を
噛み砕く音。
ぐしゃり、
ばきり。
静かな森の中で、
異様なほど大きく響いた。
ミナの体は、
一気に硬くなる。
心臓が、
早鐘を打つ。
だが
動ける。
頭は、
冷えていた。
視線を横にやると、
仲間の四人は、
完全に固まっていた。
呼吸が、浅い。
目が、逸らせない。
ここで、動けるのは自分だけ。
ミナは、心の中で呟いた。
教官のように。
一撃で。
素早く。
確実に。
魔力を、静かに流す。
腕輪が、ほとんど音もなく反応する。
収納空間から、一振りの武器が現れた。
深く、
深く、
息を吸う。
肺の奥まで、
冷たい空気を満たす。
三。
脚の筋肉に、
力を溜める。
二。
視線は、
蜘蛛の関節。
一。
世界が、
静止する。
零。
踏み込んだ。
一気に距離を詰め、
地を蹴る。
蜘蛛が、気配に反応し、脚を動かしかけた
だが、もう遅い。
刃が、
月光を反射し、
一線を描く。
狙いは、頭部と胴体を繋ぐ一点。
教官の動きが、脳裏に重なる。
迷いは、なかった。
次の瞬間。
鈍い感触。
手応え。
蜘蛛の体が、
ずり落ちる。
脚が、
空を掻き
何も掴めず、地面に叩きつけられた。
音は、
思ったよりも小さかった。
森が、
再び静まる。
ミナは、武器を構えたまま、数秒動かなかった。
完全に、止まったことを確認するまで。
……動かない。
背後で、息を呑む音。
「……い、今の……」
誰かが、
震える声で呟いた。
ミナは、
ゆっくりと振り返り、
短く言った。
「――回収する」
蜘蛛の体内に、
魔石があるかどうか。
それを確かめるために。
蜘蛛が、
完全に動かなくなったことを確認した。
ミナは、
ゆっくりと一歩、
また一歩と近づく。
――その時。
ミシミシ……
鈍く、
嫌な音が森に響いた。
見上げた瞬間、
木が――
傾いた。
切断面から、
遅れて力が抜け、
大木がゆっくりと倒れ始めていた。
ドン、
という重い音。
葉が舞い、
地面が震える。
ミナは、
一瞬だけ目を見開き、
すぐに理解した。
貫通している。
蜘蛛の装甲だけでなく、
背後の大木までも。
蜘蛛の亡骸へ近づく。
胴体は、
綺麗に二つに分かれていた。
断面は、
焼け焦げもなく、
ただ鋭く断たれている。
致命傷。
魔石の位置を、頭の中で整理する。
通常は心臓付近。
だが、
虫型魔物の場合、胃袋付近
体内で魔力を蓄積し、消化と同時に魔石が生成されることがある。
切断面から、内臓が露出していた。
胃を、慎重に確認する。
……ない。
頭部側も、胴体側も。
魔石は、存在しなかった。
ミナは、
静かに息を吐いた。
今回の討伐で、
得られたこと。
一つ。
全力でなくても、
このクラスの蜘蛛は倒せる。
二つ。
全力を出せば
大木を切り倒せる。
想定以上。
制御が、まだ甘い。
ミナは、反省するように武器を見つめ、
そのまま収納空間へ戻した。
次は、処理だ。
魔物の死骸は、拠点へ運び、教官へ引き渡す。
それが、決まり。
運べない場合のみ、
教官を呼びに行く。
この蜘蛛は、二メートル級。
しかも、胴体が二つ。
運べる。
仲間たちは、まだ呆然としていた。
「……本当に、倒したんだ……」
「木……切れてる……」
ミナは、短く指示を出す。
「解体はしない。そのまま運ぶ。血の匂いを広げたくない」
誰も、逆らわなかった。
しばらくして。
蜘蛛の死骸は、拠点へと運び込まれ、教官に引き渡された。
淡々と、だが確かに討伐は記録された。
結果。
ミナのグループ
討伐魔物:1匹
取得魔石:0個
条件まで
残り
魔物:4匹
または
魔石:1個
森は、
まだ静かだ。
だが、確実にこちらを試し始めている。
次に来るのは、運か、実力か。
数日が過ぎた。
森の気配に、身体が自然と反応するようになっていた。
枝が折れる音。
風に揺れる葉擦れ。
遠くの獣の足音。
それらを
「恐怖」ではなく
「情報」として受け取れるようになってきた。
蜘蛛以降、
魔物はさらに二匹討伐。
だが
魔石は、ゼロ。
成果としては、
決して良いとは言えない。
それでも、
状況は確実に改善していた。
食料。
魔獣肉が手に入った。
哺乳類型の魔物は、
街でも食肉として流通している。
問題は、扱い方だ。
下処理。
血抜き。
解体。
それらを、教官が丁寧に指導した。
刃の入れ方。
内臓の外し方。
保存の仕方。
実践的で、
無駄のない教えだった。
ミナのグループは、
誰一人として怪我をしていない。
安定していた。
だからこそ、周囲を見る余裕が生まれていた。
全体を見渡す。
グループ数は、十五。
一グループ五人。
合計、七十五人。
現在の達成状況。
討伐数、魔石数。
どれを取っても圧倒的に足りない。
条件クリアまでに必要なのは、
魔物:五十匹
または
魔石:十二個
現状では、
到底届かない。
ミナは、提案した。
各グループが協力し、
討伐・物資・成果を分配する。
単独行動では、犠牲が増えるだけだ。
他のグループを見回す。
死者こそ、いない。
だが、身なりは酷く、怪我人が目立った。
包帯。
血染めの服。
疲労で伏せる者。
限界は、近かった。
ミナは、すぐに動いた。
薬草。
これまで集めていたものを使い、
傷薬を大量に作る。
止血。
消毒。
治癒促進。
完璧ではないが、
十分だ。
次に、木材。
武器を使い、
必要最小限で木を切り倒す。
音を抑え、
効率よく。
集めた木材を前に、教官に尋ねた。
簡易的な、ログハウスの作り方。
教官は、少し驚いた顔をした後、頷いた。
数時間後。
拠点の中央に、
ログハウスが建った。
簡素だが、
頑丈。
中には風呂。
水を引き、
加熱し、
排水も考慮した造り。
優先は、
怪我人。
一人、また一人と
湯に浸からせる。
一人入るたびに、湯はすべて入れ替えた。
感染症を、絶対に防ぐため。
上がった者には、
傷薬で手当をする。
丁寧に。
確実に。
食事。
まともに食べていない者も、多かった。
ミナたちは、炊き出しを始めた。
魔獣肉。
野草。
保存食。
温かい食事は、それだけで心を救う。
暗く、重かった空気が、少しずつ和らいでいく。
笑顔。
安堵のため息。
短い会話。
森の中で、小さな「拠点」がようやく機能し始めていた。
ミナは、知っている。
これで、条件が満たされるわけではない。
魔石。
それが、必要だ。
この先、危険度は確実に跳ね上がる。
森は、まだ本気を出していない。
約三週間が経過した。
終わりが、
ようやく見えてきた。
だが、ミナの望む終わりではない。
現状の達成状況。
魔石獲得:2グループ
魔物5匹討伐:3グループ
合計、
5グループが条件クリア。
残りは、
10グループ。
必要数は
魔物:あと10匹
または
魔石:10個
数字だけ見れば、
現実的な範囲に入ってきていた。
条件をクリアしたグループは、前線に立たず、支援へ回っている。
理由は単純だ。
全員がクリアしなければ、誰も帰れない。
誰か一人でも欠ければ、この演習は終わらない。
ミナのグループも、自分たちの条件達成を後回しにした。
他のグループを、先に安全圏へ押し上げる。
それが、最も確実で、最も犠牲の少ない方法だった。
拠点には、
魔物の皮や骨が
大量に集まっていた。
乾燥させても、完全には消えない、血と獣の臭い。
そのせいか、定期的に魔物が、拠点の近くまで寄ってくる。
だが、以前ほどの数ではない。
明らかに、周囲の魔物は減っていた。
遭遇率も、目に見えて下がっている。
夜の樹海は、静かだった。
聞こえるのは、
「世界のへそ」へと
流れ込む風の音だけ。
深い穴へ吸い込まれるような、低く、長い音。
教官も、見張りについてはいる。
夜中に魔物が寄ってくることは、ほとんど無くなっていた。
ミナは、焚き火の残り火を見つめながら、静かに計算する。
時間。
距離。
視線。
音。
そして魔石。
この討伐が終わる前に、必ず手に入れなければならない。
一センチ以上の魔石。
できればそれ以上。
しかも、秘密裏に。
誰にも気づかれず。
教官にも。
仲間にも。
使える時間帯は、夜から明け方まで。
教官の巡回の間隔。
見張りの癖。
風向き。
すでに把握している。
計画は、頭の中で完成していた。
寝床を抜け出す。
行動する。
痕跡を消す。
何事もなかったように戻る。
それが、唯一の条件。
ミナは、そっと目を閉じる。
呼ばれていた。
夢の中で、確かに。
白く、巨大なトカゲがいた。
鱗は淡く光り、夜霧のように輪郭が曖昧だ。
赤い目だけが、はっきりと、こちらを見つめている。
逃げ場はない。
視線が、絡め取られる。
トカゲは、ゆっくりと首を動かし、空を見上げた。
ミナも、つられるように空を見る。
そこは、外ではなかった。
周囲は、高い壁。
見上げた空は、円形に切り取られたように狭く、遠い。
その中に星が瞬いている。
キラキラと、無数に。
流れ星が、一筋、二筋。
月が、静かに浮かんでいた。
トカゲの声が、直接、頭に響く。
「――ここじゃない」
低く、だが優しい。
「広い世界へ、連れ出して」
赤い瞳が、わずかに揺れる。
「長い時間、閉じ込められているのも飽きたんだ」
壁を、一瞥する。
「この大穴から、私を連れ出して」
間が、あった。
そして
「そうすれば、君に私の力をあげるよ」
心臓が、強く脈打つ。
拒否する理由が、見つからない。
それが、夢だと分かっているのに。
はっ。
ミナは、息を吸い込み、目を開けた。
朝だ。
薄い朝靄。
鳥の声。
焚き火の、
燃え残りの匂い。
テントの中。
誰も、異変に気づいていない。
夢
だったはず。
だが。
胸の奥に、重みが残っている。
忘れられない、赤い目。
あの空。
あの壁。
そして「大穴」という言葉。
ミナは、静かに手を握る。
偶然では、ない。
あれは、ただの夢ではない。
「世界のへそ」
あの奈落の底に“何か”がいる。
それも、自分を呼んでいる。
教官に見つからず。
仲間に知られず。
夜から明け方まで。
条件は、変わらない。
むしろ確信に変わった。
ミナは、ゆっくりと立ち上がる。
今日は、準備の日。
昼間は、魔物探し。
そして、ツタ探し。
丈夫で、繊維が長く、水に強いもの。
目標は、繋げて三十メートル。
午前中。
昼から夕方まで。
少しずつ、確実に集めていった。
今日の成果。
三メートル級、
トカゲ型魔物一匹。
激戦にはならなかった。
連携も、判断も、迷いがない。
これで、残りは九グループ。
魔物を、他のグループへ譲渡できれば楽なのだが、それは出来ない。
条件は、自分たちで倒すこと。
どのグループも、あと一匹ずつで条件クリア。
今さら魔石が出ても、魔石と魔物の譲渡は不可。
演習の規定は、容赦がなかった。
日が、ゆっくりと沈む。
空が、橙から藍へ変わる。
ミナたちは、拠点へ戻った。
一歩ずつだが、確実に終わりへ近づいている。
夜。
ミナは、自分のテントにこもる。
集めたツタを、
一本ずつほぐし、繊維を揃え、ねじり、より合わせる。
指先が、覚えていた。
均一な力。
均一な角度。
失敗すれば、命に関わる。
今日集めた分だけでも、かなりの長さになった。
まだ足りない。
だが、確実に近づいている。
世界のへそ。
底は、見えている。
だが、誰も降りたことがない。
未開の穴。
昼間は、鳥型の魔物が巣と卵を守るために襲いかかってくる。
夜は、暗すぎる。
探索どころではない。
光を投げ込めば、途中で火を消される。
まるで、「入るな」と言われているかのように。
ミナは、ロープをよりながら思う。
あの白いトカゲは、
穴の底で待っている。
確信に近い感覚。
そして「力」それが欲しい。
誰よりも。
非力だからこそ、必要だ。
守るため。
抗うため。
審判の日のため。
何もしないで、後悔するより。
やって、後悔した方が満足できる。
それが、ミナの答えだった。
夜は、さらに深まっていく。
外では、風がへそへと吸い込まれていく音がする。
低く、
長く。
呼ばれているように。
今はまだ。ツタでロープを作る。
それだけ。
翌日。
前日と、ほとんど同じ行動を取った。
午前中。
魔物との遭遇は、無かった。
足跡も、新しい糞も、見当たらない。
森は、不気味なほど静かだ。
昼から夕方。
それでも魔物は現れなかった。
拍子抜けするほど、何も起きない。
だが、それは悪いことではない。
現状維持。
その代わり、食料はかなり手に入った。
魔物ではない、普通の獣。
鹿に似た四足獣を仕留め、
肉入りのスープを作った。
脂が浮き、香りが立つ。
久しぶりに、「ちゃんとした食事」だった。
周囲の表情も、少し柔らいだ。
翌日は、休養日にした。
疲労は、確実に蓄積する。
それは、戦闘の判断力を鈍らせ、一瞬の遅れを生む。
命取りだ。
無理はしない。
それも、生き残るための判断。
ミナは、散歩がてら拠点の近場を回ることにした。
目的は、ツタ集め。
あくまで、目立たない範囲で。
へそへ向かう準備は、誰にも悟られずに進める。
既に集めたツタを、全て繋げてみた。
だが、足りない。
長さも、強度も。
あと、もう少し。
確実に、安全圏に届く分だけ。
ミナは、木々の間を歩きながら、ふと立ち止まる。
風が、微かに変わった。
へそへ向かって、流れていく。
昨日より、はっきりと。
呼ばれている。
そんな気がした。
だが、今はまだ動かない。
焦らない。
準備が、全てだ。
ミナは、静かにツタを集め続ける。
翌日。
予定通り、休養日にした。
そして、ツタ集め。
いつもは、十数組の生徒たちと一緒に歩く森。
話し声、足音、装備の擦れる音。
だが今日はそれが無い。
静かだ。
風の音と、葉擦れの音だけ。
不思議と、心地よかった。
ツタ集めは、捗った。
太く、しなやかで、傷の少ないものを選ぶ。
途中で切れないか、軽く引いて確かめる。
一本一本が、命綱になる。
ミナの動きは、慎重で、無駄がない。
その時。
背後から、低い声がかかった。
「そんなにツタを集めて、何に使うんだ?」
教官だった。
いつの間に、近くにいたのか。
気配に、まるで気づかなかった。
ミナは、何も答えない。
視線をツタに落としたまま、手を止めない。
沈黙。
森の音だけが、間を埋める。
教官は、少しだけ肩をすくめた。
「まぁ、集めて何に使うかは勝手だ」
一拍置いて、
続ける。
「だが…無理はするなよ」
「休める時に休め」
「それも、生き残る術だ」
それだけ言うと、教官は踵を返した。
足音は、すぐに森に溶けて消えた。
ミナは、しばらくその場に立ち尽くす。
胸の奥が、わずかにざわつく。
気づかれているのか。それとも、ただの忠告か。
どちらでもいい。
ミナは、再びツタを手に取る。
集める。
繋ぐ。
備える。
やることは、変わらない。
へそは、逃げない。
だが、機会は逃す。
ミナは、黙々とツタを集め続けた。
夕食時。
皆、しっかり休めていたようで、
顔色がいい。
笑い声も、どこか軽い。
緊張が、少しだけ解けているのがわかった。
ミナはというと、自分のテントの中でひたすらツタをほぐし、ねじり、
編み続けていたせいか、指先と肩に鈍い疲れを感じていた。
長さは、十分。
繋げたロープは、地面にとぐろを巻くほどになっている。
あとは、教官の視線が届かない位置から、静かにロープを下ろし、根の太い木に、確実に結ぶだけ。
それだけだ。
だが、今日は実行しない。
焦らない。
決行日は、次の全体休養日。
慎重に確実に。
三日後。
皆が深く眠り、夜が最も明るくなる
満月の夜。
そう考えながら、ミナは食事を済ませ、寝床に入った。
翌日。
前日の休養のおかげで、全体の動きは良かった。
指揮も、反応も、無駄が少ない。
午前中。
魔物と三匹、
遭遇。
二匹は討伐。
一匹は…深手を負いながらも逃走。
これで、
残りグループは七。
昼から夕方。
遭遇、なし。
森は、静まり返っていた。
さらに次の日。
前日、逃した手負いの魔物と遭遇。
動きは鈍く、傷も深い。
抵抗らしい抵抗もなく、
簡単に討伐された。
残り、
六グループ。
さらに次の日。
一日中、遭遇なし。
足跡も、気配も、薄い。
そして次の日は、休み。
そう。
計画の、実行日だ。
ミナは、焚き火の向こうで揺れる炎を見つめながら、心の中で何度も手順をなぞる。
結ぶ場所。
降りる速度。
音を立てない動き。
戻るまでの時間。
失敗は、許されない。
満月は、もうすぐだ。
世界のへそは黙って、待っている。
休みの朝。
朝食は、いつもより少しだけ豪華だった。
珍しく、卵。
どうやら野生の鶏の群生地を見つけたらしく、
大量に確保できたらしい。
卵スープ。
ふわりと焼かれたオムレツ。
久々の、やさしい味。
……ただし。
中には、調理中に羽化してしまった卵もあったようで。
テントの外では、小さなひよこがぴよぴよと走り回っていた。
「ちっちゃ……」
「かわいい……」
生徒たちは輪になり、ひよこを眺め、触れ、笑っていた。
ひよこからすれば、
何十人もの視線に囲まれて
さぞ怖かっただろうが…それでも、誰も傷つけようとはしなかった。
平和。
あまりにも、平和な朝。
その声が響くまでは。
「大変だーーー!!」
空気が、一瞬で張り詰めた。
叫び声が走り、人が動き、武器が握られる。
どうやら魔物が来ている。
気づけば、教官の姿が無い。
次の瞬間には、別方向から声が飛んだ。
「構えろ!!」
生徒たちは一斉に武器を抜き、陣形を組む。
その時
ミシ……ミシミシ……
木が、悲鳴を上げるような音。
一本、また一本と、樹木が倒されていく。
巨大な“何か”が、近づいてくる。
教官の声が、緊張を帯びて響いた。
「推定高さ五メートル!全長八メートル級のトカゲ型魔物だ!」
ざわめき。
「気をつけろ!魔法をぶっぱなしてくる可能性もある!」
樹海の奥から、のっしりと、それは現れた。
深緑。
岩肌のように硬そうな鱗。
全身に、苔が生え、長い年月そこに在ったかのような存在感。
巨大な尾が地面を擦り、一歩進むごとに、地面が揺れる。
生徒の誰かが、思わず呟く。
「……なんだよ、あのデカさ……」
別の声。
「もう、ドラゴンだろ……」
教官は、唾を飲み込みながらも言い切った。
「ドラゴンよりは小さい。だが――」
一拍置き、
「油断するな。あれは“この森の主”クラスだ」
ミナは、その巨大なトカゲを見つめていた。
深緑の苔。
赤みを帯びた目。
――違う。
夢で見た、白いトカゲとは。
けれど。
胸の奥が、嫌なほど静かに騒いでいる。
教官が間合いに踏み込み、連続で切り付けた。
だが――弾かれる。
火花すら、ほとんど散らない。
教官の武器はツインダガー。
速さと手数に特化した軽量武器。
この相手には、あまりにも軽すぎた。
「……効いてない」
誰かが呟く。
ハンマーや、大槍。
質量を叩き込む一撃が必要な相手だ。
巨大なトカゲは、教官の攻撃を蚊に刺された程度にしか感じていないようだった。
視線すら向けない。
そのまま、のっしり、のっしりと歩き続ける。
向かう先は、毛皮や骨を保管している場所。
生徒たちも攻撃をした。
剣。
矢。
魔法。
だが、どれも通らない。
鱗に当たって弾かれ、傷一つ付かない。
その時。
首席の二人が、前へ出た。
「行くよ!」
炎の魔法。
巨大な背中が、一気に赤く焼ける。
次の瞬間、
水辺の水を魔法で引き寄せ、焼けた部分へ叩きつけた。
ジュウゥゥ――ッ!!
急激な温度差。
トカゲが、初めて足を止めた。
「効いた……?」
誰かが息を呑む。
だが次の瞬間。
トカゲは、追い払うかのように巨大な尻尾を振り回した。
空気が裂け、地面が抉れる。
そして、尻尾が、地面へ叩きつけられた。
ドンッ!!
地面が、盛り上がる。
岩が生えてきた。
地面そのものが、持ち上がり、割れ、隆起する。
「地魔法……!」
「アースクエイクだ!!」
魔法が使える。
それはつまり魔石を持っている。
確定。
ミナは、一瞬、迷った。
今、倒してしまうか。
ただ、食べ物を求めて来ただけの存在。
こちらに明確な敵意はない。
それでも放っておけば、拠点が壊れる。
人が…死ぬ。
首席の二人が、ミナを見た。
目が合う。
短い、けれど重い沈黙。
ミナは、小さく息を吸い。
そして、心の中でだけ呟いた。
「……ごめんね」
一瞬だった。
音も、衝撃も、ほとんど無い。
巨大なトカゲは、ぴたりと足を止め
そのまま、崩れ落ちた。
次の瞬間。
首が、落ちた。
ドサリ、と。
重たい音が、遅れて響く。
誰も、声を出せなかった。
巨大な身体。
切断面は、あまりにも滑らかで。
ミナは、
静かに武器を収納した。
世界が、一拍遅れて動き出す。
魔石持ち。
討伐完了。
条件は満たされた。
だが。
ミナの胸の奥では、静かに「虚しさ」だけが満ちた
ミナのグループは、条件クリア。
残りは…5グループ。
巨大なトカゲから取り出された魔石は、
わずか5ミリ。
あの体躯にしては、
あまりにも小さかった。
だが。
肉は、十分すぎるほどあった。
焼き、煮込み、干し。
味は鶏肉に近い。
淡白で、癖がなく、皆の胃袋を確実に満たした。
拠点には、久しぶりに「満腹」という感覚が広がった。
ミナだけが、笑えなかった。
胸の奥に残るのは、「虚しさ」と、消えない言葉。
「……ごめんね」
今まで倒してきた魔物は、襲ってくる存在ばかりだった。
敵意。
殺意。
明確な危険。
でも、あのトカゲは、ただ食べに来ただけだった。
襲うつもりは、なかった。
“襲ってこない魔物も、いる”
それを知ってしまった瞬間だった。
休みの日だったはずが、誰もが疲れ切っていた。
話し合いの末、翌日も休みにすることが決まった。
夜が、更けていく。
月が顔を出し、静かに昇っていく。
巨大トカゲとの戦いで、皆、消耗していた。
眠りに落ちるのは、いつもよりずっと早かった。
外は、驚くほど静かだった。
風が、樹海を撫でる音だけがする。
ミナは、そっと目を開けた。
音を立てないように、ロープを手に取る。
テントを抜け出し、闇に溶け込む。
大穴の縁。
そこに生えている太い木。
いつも教官が立つ位置からは、
完全な死角。
ミナは、無言でロープを木に縛った。
結び目を、二重に確認する。
力をかけても、微動だにしない。
そして、ロープを穴へ投げ込んだ。
しばらく、耳を澄ます。
風の音。
自分の鼓動。
……。
……。
――ゴンッ。
遠く、底で何かが叩かれる音。
「……足りた」
小さく、息を吐く。
次に、
ロープが岩肌で擦れないよう、
準備していた毛皮を取り出す。
ロープと岩肌の隙間へ、丁寧に挟み込む。
夜の世界は、静まり返っていた。
まるで――
この行動を、見守っているかのように。
ミナは、穴の奥を覗き込む。
闇の底。
見えないはずなのに。
“そこに、いる”。
そんな確信だけが、胸にあった。
⸻
ミナは、ロープを握りしめる。
力を込め、一歩、縁へ近づいた。
選んだのは、後悔するかもしれない道。
それでも。
何もしないで終わるより、ずっと自分らしい。
⸻
月明かりの下。
ミナの影が、
ゆっくりと
大穴へ落ちていった。
そして、
ミナは降り始めた。
滑らないように。
音を立てないように。
眠る魔物を起こさぬように。
⸻
満月が、ゆっくりと昇り、白い光で道を照らしてくれる。
一歩。また一歩。
指先に伝わる、岩の冷たさ。
ロープの擦れる感触。
⸻
どれほど時間が経ったのか、わからない。
だが足裏に、確かな地面の感触があった。
⸻
辿り着いたのは、誰も降りたことのない未開の地。
「世界のへそ」の底。
ミナは、ゆっくりと周囲を見渡す。
そして、空を見上げた。
⸻
そこに広がっていたのは、夢で見たあの夜空。
壁に囲まれ、丸く切り取られた星々。
流れ星。
月。
穴の底は、思っていたよりも平らだった。
その中央に
骨が、あった。
巨大なトカゲのような骨。
人が数人、すっぽりと入ってしまいそうな大きさ。
ミナは、そっと声を落とす。
「……あなたが……私を、呼んだの?」
骨は、何も答えない。
月が、最も高く昇った瞬間。
月明かりに反射して、
何かがキラリと光った。
トカゲの心臓があったであろう位置。
そこに5センチはある魔石が、静かに横たわっていた。
さらに、胃袋があったであろう場所には、無数の小さな魔石。
まるで、零れ落ちた星屑のように。
その時。
ひとふきの、小さなつむじ風が吹いた。
魔石を、そっと撫でるように。
拾え。
そう、言われた気がした。
ミナは、広い巾着を取り出し、
魔石を一つ一つ、
丁寧に収めていく。
「世界のへそ」の底は、
まるで古代の記録庫のようだった。
収納の中から、カメラを取り出す。
辺りを、何枚も撮影する。
白骨化した“彼女のなれの果て”。
それも、確かに記録した。
誰かが、もう二度と、ここへ降りなくてもいいように。
写真を。
写真を。
そして、動画も。
ふと、壁際に目をやる。
底から、およそ10メートルほど上。
そこに、鳥型魔物の巣が見えた。
巣の下。
一つだけ、卵が落ちている。
落ちたのか。
捨てられたのか。
ひどく、寂しそうだった。
ミナは、そっと卵を拾い上げる。
割れぬよう、予備の巾着へ入れ、
大切にしまい込んだ。
あとは、戻るだけ。
行きは、降りるだけだった。
だが帰りは、登り。
ミナは、魔法で身体を強化する。
無理やり。一時的に。
地面を蹴り、
一気に駆け上がる。
岩を踏み、跳び、ロープに掴まる。
かなり、時間を短縮できた。
残り、10メートルもない。
縁へ、足をかけようとした、その瞬間。
視界に、“人の足”が入った。
「……っ!」
驚き、バランスを崩しかける。
だが、伸びてきた手が、ミナを掴んだ。
強く、確かに。
引き上げられる。
そこにいたのは教官だった。
「なかなか……面白いこと、やってるじゃないか」
ミナは、何も言えなかった。
教官は、穴の奥をちらりと見下ろす。
「……底には、行けたか?」
少し間を置いて、続ける。
「昔な……底を見たくて、飛び込んだ奴がいてな」
「夜中に、鳥魔獣にさらわれた」
「そしたらよ……白いドラゴンが、そいつをくわえて、よじ登ってきたんだ」
「地上に投げ飛ばしたと思ったら……ドラゴンは、そのまま落ちてった」
教官は、穴の縁を指差す。
「あの辺だ……ほら、爪痕、あるだろ?」
ミナは、黙ったまま、その場所を見つめた。
教官が、ぽつりと聞く。
「……白いドラゴン、いたか?」
ミナは、ゆっくりと首を振る。
「……居なかった」
そして、収納からカメラを取り出す。
見せたのは、
白骨化したトカゲの写真。
教官は、それを見て、しばらく黙った。
やがて、小さく息を吐く。
「……そうか」
「……ありがとよ」
それだけ言うと、背を向けて歩き出した。
満月の光が、二人の影を、静かに引き伸ばしていた。
そして――
「世界のへそ」は、再び、何事もなかったかのように、闇へと沈んでいった。
全体で、
約一ヶ月。
長く、そして短い、生き延びるためだけの時間だった。
討伐条件は、ついに全グループが達成。
結果は、静かに、しかし確かに刻まれた。
⸻
死者数 0名
重傷者 0名
軽傷者 47名
生存者 75名
⸻
魔石 3個
魔物 68匹
巨大魔物 1匹
⸻
学園へ、生還。
⸻
森を抜け、
樹海を越え、
「世界のへそ」を背にして。
⸻
学園の門が見えた瞬間、
誰かが、泣いた。
誰かが、笑った。
誰かは、その場に座り込んだ。
⸻
教官は、最後尾から全体を見渡し、
小さく頷いた。
「……よく、生きて帰ったな」
⸻
治療棟へ直行する者。
風呂へ直行する者。
食堂へ直行する者。
それぞれが、“日常”へと戻っていく。
ミナは、一度だけ振り返った。
もう見えない、あの大穴。
あの底で見た、白骨。
拾った魔石。
拾った卵。
⸻
胸の奥に、
まだ残る。
「虚しさ」と、「ごめんね」。
⸻
だが同時に。
確かな“手応え”が、
あった。
⸻
1センチどころではない魔石。
数えきれない記録。
誰にも知られない、
力の契約。
⸻
それらは、まだ学園も、世界も、知らない。
ミナは、収納の奥に触れた。
そこにあるのは、未来へ繋がる“準備”。
「……審判の日までに」
小さく、そう呟く。
学園の鐘が鳴る。
演習終了。
だが
ミナの計画は、まだ始まったばかりだった。
ミナは、
自分の家へ帰ってきた。
鍵を回す音が、やけに大きく響く。
一ヶ月。
誰もいなかった家は、静かで、少し埃っぽかった。
窓を開ける。外の空気が一気に流れ込み、止まっていた時間が動き出す。
布で棚を拭き、床の埃を払う。
「……ただいま」
誰に向けた言葉でもない。
それでも、自然と口をついて出た。
⸻
荷物整理を終え、
最後に手が止まる。
――卵。
生きているのか、
死んでいるのか、
わからない。
それでも、
捨てるという選択肢はなかった。
小さなバスケットに藁を詰め、
そっと卵を置く。
衝撃を与えないよう、
温度が安定する場所へ。
ミナは、少しだけ魔力を流した。
反応は……ない。
「……大丈夫」
根拠は、ない。
⸻
次は、魔石。
机の上に、一つずつ並べる。
ノギスで、正確に測る。
⸻
大きい魔石 7.7cm 1個
小さい魔石 2cm 3個
粒の魔石 3~10mm 7個
⸻
息を、
飲む。
これだけで、
並の貴族家一軒分に匹敵する価値。
下手に動かせば、
目を付けられる。
ミナは、大きな魔石を手に取った。
白く、
内部に淡い光を宿している。
――これは。
「……白いドラゴン」
確信に近い感覚が、
あった。
⸻
他の魔石は、
その周囲にあったもの。
白いドラゴンが、長い年月で喰らい、蓄積してきた魔物たちの名残。
⸻
つまり。
この7.7cmの魔石は、
「彼女の心臓」。
⸻
ミナは、静かに頭を下げた。
「……ありがとう」
命を救い、力を残し、何も求めず消えた存在へ。
ミナは、魔石を収納へ戻す。
次に卵の入ったバスケット。
じっと、
見つめる。
⸻
「……君は、どんな世界を見たい?」
答えは、返らない。
それでも、ミナは決めていた。
白いドラゴンが見たかった、“広い世界”。
それを、この手で見せると。
静かな家の中で、新しい物語が、また一つ、息をし始めていた。
帰ってきた夜。
ミナはベッドに横たわり、
頭元に、卵の入ったバスケットを置いた。
小さな藁の擦れる音。
かすかな温もり。
それだけで、胸の奥が静かになる。
灯りを落とし、
目を閉じる。
深く、
深く。
意識は、
ゆっくりと夢へ沈んでいった。
⸻
キラキラと瞬く星々の空。
果てのない夜。
そこに、白いドラゴンがいた。
骨ではない。
血も肉も持った、
完全な姿。
月光のような鱗。
星を映す赤い瞳。
ただ、
静かにミナを見つめている。
「……ありがとう」
その声は、言葉であり、想いそのものだった。
ミナは、何も言わずに見つめ返す。
すると、白いドラゴンが口を開く。
「私の魔石を、食べて」
「私の力を、あなたにあげる」
「未来がある世界へ、進むために」
「私は――星屑の子」
「星々の力は、循環するもの」
「消えるのではない」
「託すだけ」
星が、一つ、また一つ。
ドラゴンの身体から剥がれ、
空へ溶けていく。
その中心に、胸の奥が淡く輝く。
ミナの胸と、ドラゴンの胸が、同じ光で結ばれた。
「あなたは、選んだ」
「逃げなかった」
「滅びを知りながら、それでも進むことを」
「だから――」
白いドラゴンは、ゆっくりと翼を広げる。
風が、星屑を巻き上げる。
「私の“終わり”はあなたの“始まり”」
「その卵は、私ではない」
「だが私の“意思”だ」
ミナは、気づく。
卵が、淡く光っていることに。
夢の中で、確かに、“脈打って”いる。
⸻
「目覚めた時、もう戻れない」
「それでも進む?」
⸻
ミナは、迷わなかった。
小さく、しかしはっきりと頷く。
「……進む」
白いドラゴンは、満足そうに目を細めた。
「なら、受け取りなさい」
「星屑の力を」
光が、弾ける。
星が、降る。
世界が、白に包まれ――
ミナは、息を吸い込んだ。
夜明け前。
ベッドの上で、ミナは目を覚ます。
胸の奥が、熱い。
夢から覚めた後。
ミナは、
静かに机へ向かった。
収納から、
あの魔石を取り出す。
白く、
淡く光る7.7cmの魔石。
唇に、
そっと当ててみる。
ほんのりと、温かい。
石というより、生き物の体温に近い。
「……」
迷いは、
なかった。
ミナは、
口の中へ入れた。
じわり、と。
魔石が、溶けていく感覚。
噛めば硬いはずなのに、
抵抗はほとんどない。
思い切って、噛み砕く。
――カリッ。
飴のように脆く、簡単に砕けた。
欠片は、すぐに溶け、口いっぱいに、ほんのり甘い味が広がる。
蜂蜜に似た、やさしい甘さ。
喉を通った瞬間。
身体の奥で、何かが弾けた。
魔力が、増えていく。
器が広がり、満たされ、なお溢れそうになる。
だが、暴走はしない。
きちんと、身体に馴染んでいく。
重かった疲労が、霧のように消える。
関節の違和感、筋肉の張り、頭の鈍さ。
すべてが、一枚皮を脱いだように消えていく。
呼吸が、軽い。
視界が、澄んでいる。
「……すごい」
呟いた声が、自分でもはっきり聞こえた。
その瞬間だった。
思考が、加速する。
デバイス。
構造。
回路。
魔力の流れ。
今まで詰まっていた部分が、一気にほどけていく。
「ベースデバイス……制御を外付けじゃなくて、魔力回路を多層化して――」
「魔力供給……単純なバッテリーじゃない、循環式……?」
「……違う」
「もっと、根本から……」
紙とペンを取り、
走り書きする。
止まらない。
線が、言葉が、次々と溢れる。
⸻
・複数デバイス同時稼働は“干渉”が原因
・干渉を防ぐには魔力波形の個体識別
・制御装置は「司令塔」ではなく「翻訳機」
・身体を強化するのではなく“最適化”する
⸻
ミナは、
息をつく。
胸の奥が、
静かに熱い。
⸻
「……これが」
「星屑の力……」
⸻
視線が、
ふと、バスケットへ向く。
卵は、静かにそこにある。
変化は、まだ、ない。
けれど――
魔石を飲み込んだ今、
ミナにはわかる。
⸻
この卵は、“今は”眠っている。
目覚めるには、
まだ条件が足りない。
⸻
「……安心して」
「急がせない」
ミナは、
そう呟いた。
⸻
そして、再び机へ向かう。
審判の日まで、残された時間は、もう多くない。
だが――
今のミナなら、
間に合う。
静かな夜の中で、
新しい設計図が、
一枚、
また一枚と積み重なっていった。
ミナは、
本格的にデバイスの改良へ取りかかった。
方針は、明確だった。
ベースデバイスは、極力いじらない。
理由は単純。
審査を通した“核”を崩す必要はない。
⸻
変更点は、
表に出にくい部分。
まず、収納サイズの拡張。
空間魔法そのものは変えず、内部構造を最適化する。
容量を増やした理由は一つ。
後続デバイスを“飲み込ませる”ため。
次に、
操作系統。
呼び出し、収納、接続切り替え。
すべてを
脳波感知で行うようにした。
意識した瞬間に、
反応する。
詠唱も、
ジェスチャーも、
不要。
関連するデバイスとのリンクも、脳波で一括管理。
操作遅延は、限りなくゼロ。
ベースデバイスの形状は、ブレスレット型のまま。
だが、中央に3ミリの魔石を一粒、
装着した。
学園へ提出する必要があるのは、
「デバイスの性能」。
魔石内部に組み込んだプログラムは、
審査対象外。
学園の認識では、
魔石はあくまで
「エネルギー物質」。
つまり、電池。
ミナは、その常識を利用した。
魔石に、直接プログラムを書き込む。
従来なら、装備品だけで数百グラム。
制御装置、補助機構、安定化ユニット。
それらすべてを魔石一粒、10グラム未満に集約。
書き込みは、極めて難易度が高い。
魔力回路は、極小。
一度ミスをすれば、
暴発か破損。
だが――
無駄は、
なかった。
星屑の力が、魔力制御を寸分の狂いなく支えてくれる。
さらに、音声入力。
魔石に、キーワードを登録。
キーワード
「エレメントロード」
全属性魔法の同時起動。
属性制御は自動最適化。
⸻
キーワード
「チャージ」
全魔力を一点へ集束。
損失なし。
臨界値手前で自動制御。
⸻
キーワード
「砲撃」
集束した魔力を、
魔力弾として発射。
方向指定、威力調整は、
その後の魔法操作技術で補う。
⸻
つまり。
“発動”はキーワード。
“運用”は技術。
⸻
魔石へのプログラム刻印。
それは、
現代技術より一歩先。
まだ、
誰も踏み込んでいない領域。
⸻
だが、
学園に提出する書類は、
簡潔だった。
⸻
提出書類内容
・魔石による補助効果により、収納内蔵容量が増加
・外見変更あり
└ 魔石(3ミリサイズ)装着
・その他システム変化なし
⸻
書類は、
嘘ではない。
だが、
真実のすべてでもない。
⸻
ミナは、
ブレスレットを装着する。
意識するだけで、
魔力の流れが“理解できる”。
⸻
「……これで、土台は完成」
次に必要なのは、
試運転。
そして――
誰にも気づかれない形で、
力を
“積み重ねていく”だけだった。
数日後。
ミナは、
学園の端末の前に立っていた。
目的は一つ。
更新申請。
⸻
デバイスの改良後、
一定期間の運用ログが必要だった。
異常値なし。
魔力暴走なし。
使用者負荷なし。
条件は、
すべてクリア。
⸻
申請画面に、
淡々と数値を入力していく。
⸻
更新内容
収納内蔵容量:
・従来
魔石未使用・標準仕様
最大 50kg
・更新後
補助魔石使用
最大 500kg
収納量:10倍
⸻
理由欄には、
簡潔にこう記した。
「魔石による補助効果を利用した
内部空間の効率化」
⸻
審査担当は、
数値を見て一瞬だけ手を止めた。
10倍。
通常なら、
複数の補助装置が必要な数値。
だが――
「魔石使用」という一文が、
すべてを飲み込む。
⸻
魔石は、便利で、そして説明不要な存在だった。
審査ログに、警告は出ない。
規定内。
理論上可能。
前例は少ないが、違反ではない。
⸻
数分後。
端末に、淡く光る文字が表示される。
⸻
更新申請:承認
⸻
ミナは、小さく息を吐いた。
これで、表向きの性能は完全に合法。
⸻
ブレスレットが、
わずかに脈動する。
500kg。
その数字は、
“限界”ではない。
あくまで、
申請した値。
⸻
ミナは理解していた。
この先、
必要になれば――
さらに上も、
見せられる。
だが、
今はまだ。
⸻
「十分」
小さく、
そう呟いて。
ミナは、
学園の廊下へと歩き出した。
静かに、
誰にも気づかれないまま。
力は、
もう
日常の中に溶け込んでいた。
学園の中庭。
講義と講義の合間、
人の流れが一瞬だけ緩む時間。
ミナは、
資料を抱えたまま足を止めた。
正面から歩いてきたのは――
首席の2人。
偶然、
本当に偶然だった。
⸻
一瞬、
お互いに間が空く。
以前のような、
張りつめた空気はない。
どこか、
気まずさよりも
同じ現実を見た者同士の沈黙だった。
⸻
首席の一人が、
先に口を開いた。
「……討伐、きつかったな」
もう一人も、
苦笑しながら頷く。
「正直、自分が“できる側”だと思ってた」
「でもさ……あの巨大魔物の前じゃ、知識も判断も足りなかった」
ミナは、否定もしなかった。
同意も、過剰にはしない。
ただ、事実として受け取った。
「それで?」
ミナが聞く。
「授業、取り直した」
「戦闘だけじゃなくて、魔物学、薬学、応急処置」
「座学、今まで軽く見てた」
その言葉に、ミナは少しだけ目を細めた。
「私は」
ミナは、自分の履修表を見せる。
「機械工学、プログラム理論、魔法学、魔獣学」
「あと、魔法機械プログラム」
首席2人が、
揃って眉を上げた。
「それ、一番わけわからないやつじゃないか」
ミナは、小さく笑った。
「だから、やる」
3人は、その場のベンチに腰を下ろした。
誰かが教える、誰かが教わる、そんな関係ではない。
戦闘魔法の基礎構造。
魔物の生態と弱点。
薬草の抽出温度。
魔力の流れと回路設計。
それぞれが、自分の強みを出し合う。
「なるほど、その魔法陣、重ねる意味あったのか」
「魔物の鱗、薬に加工できるんだな」
「魔力の波形、こうすると安定する」
気づけば、時間はとっくに過ぎていた。
周囲の生徒は、ほとんどいない。
ミナは思う。
今回の討伐は、ただの試験じゃなかった。
誰かを落とすためのものでもない。
弱さを知るための授業。
知識の価値を知るための実地。
首席の一人が、立ち上がりながら言った。
「次は、もっとマシな戦い方する」
⸻
もう一人も、真剣な目で頷く。
「次は、ちゃんと“考えて”動く」
ミナは、静かに答えた。
「その方が、生き残れる」
3人は、それぞれ別の方向へ歩き出す。
だが――もう、ただの他人ではなかった。
⸻
学園の中で、静かに始まる。
知識を武器にする者たちの、本当の学びが。
入学から、
半年ほどが過ぎていた。
学園は夏に包まれ、
石畳は昼間になると熱を持つ。
風はあるが生ぬるく、
日陰を選んで歩く生徒が増えた。
卵は…変わらない。
ひびも、音も、気配もない。
ただ、そこに在るだけ。
ミナは、それ以上気にしなかった。
触れない。
見守る。
それだけ。
一方で、デバイスたちは違った。
形には、なっていた。
特に苦労したのは、魔力を貯めるデバイス。
膨大な魔力をただ溜めるだけでは意味がない。
隠ぺい。
制御。
安定。
どれか一つ欠けても、
暴走する。
⸻
魔力は流れたがる。
溜め込めば溜め込むほど、出口を探す。
それを「何も起きていない」ように
抑え込む必要があった。
結果。
ちょっとやそっとでは、
魔力切れを起こさない構造。
そして、収納状態でも
ベースのブレスレット型デバイスと
完全に連動して機能する。
実物のサイズは、かなり大きい。
重さだけで、100kgを超える。
普通なら、持ち運びなど不可能。
だが――
異空間収納がある。
収納しても、機能は止まらない。
魔力は、まだ満タンではない。
だが、1日の生活で余る魔力は
自動的に魔力バッテリーへ流れ込む。
意識しなくても、少しずつ、確実に。
補助的な手段もある。
魔力回復薬を使えば、回復分がそのまま溜まる。
ただし、腹にも溜まる。
大量に使うと、普通に苦しい。
他人からの供給も可能だ。
だが…こちらは危険。
制限をかけないと、
無尽蔵に吸う。
相手は、あっという間に魔力切れ。
だから、実験はしていない。
空気中の魔力も吸収している。
効率は悪い。
だが、常時。
ダンジョンのような
魔力濃度の高い場所なら――
相当な量を吸い込むだろう。
けれど。
ダンジョンへ行って
試すことは、まだできていない。
⸻
ミナは、手帳を開く。
夏休みの予定欄。
そこに、小さく書いた。
「調査・レポート」
「魔力濃度環境」
学園の課題として。
建前は、それで十分。
暑い夏の空の下。
静かに力を蓄える
見えない装置と変わらぬ卵。
ミナの周囲だけ、
時間の流れが
少し違っていた。
夏の昼下がり。
学園の掲示板が、少しだけ騒がしくなった。
紙が何枚も重なって貼られている。
その一番上。
見慣れた字。
討伐の授業で指揮を執っていた
あの教官の名前「アマトウマモル」だった。
「夏休み期間のお知らせ」
ミナは、足を止めて読む。
「希望者募集中」
「夏休み期間中のダンジョン演習のお知らせ」
「ダンジョン内への調査同行」
「ダンジョン内で討伐した魔物、魔石、宝物などは
討伐者・発見者の所有物とする」
「直訳:ダンジョン調査のバイト」
⸻
周囲の生徒たちが、
ざわつく。
「マジかよ……」
「危険じゃない?」
「でも、魔石は全部自分の物だぞ」
欲と恐怖が、ちょうど半分ずつ。
⸻
ミナは、静かに読み返した。
討伐。
調査。
同行。
演習。
教官がつく。
学園名義。
つまり、合法。
⸻
脳裏に浮かぶ。
まだ満タンではない
魔力バッテリー。
机の引き出しの奥にある
設計図。
「魔力濃度の高い環境での挙動」
という、レポート用の題名。
⸻
条件は、揃っていた。
⸻
掲示板の端に、小さく書かれている。
「人数制限あり」
「装備・実力・判断力を考慮」
ミナは、少しだけ口角を上げた。
⸻
「……条件は、悪くない」
声には、出さない。
⸻
その日の夕方。
ミナは、申請用紙を手にしていた。
名前。
学科。
希望理由。
――理由の欄。
「魔力環境下における
魔法機械デバイスの動作検証」
それだけ書いた。
余計なことは、
書かない。
⸻
紙を提出する。
教官が受け取り、
一瞬だけ目を細めた。
「……お前か」
ミナは、何も言わない。
教官は、鼻で笑った。
「面白い夏休みになりそうだな」
⸻
学園の外。
じりじりと照りつける太陽。
夏休みは、もうすぐ始まる。
そして――
ダンジョンは、地下で静かに待っていた。
応募者は、予想以上に多かった。
掲示板には赤字で追記された数字。
応募者数:130名
本来の募集は100名。
だが、教官たちの協議により110名まで拡張されたようだ。
それでも、全員が選ばれるわけではない。
⸻
選考基準は明確だった。
単純な戦闘力ではなく、
・冷静な判断
・指示への理解力
・独断行動をしない姿勢
・撤退判断ができるかどうか
ダンジョンは「倒す場所」ではなく、
未知に対処する場所だからだ。
⸻
数日後、掲示板に番号が張り出された。
ミナの番号は――
そこにあった。
胸をなで下ろすこともなく、
ただ小さく息を吐く。
「……順当かな」
⸻
ダンジョンは何が起こるか分からない。
だから準備は、やりすぎるくらいで丁度いい。
ミナはベースとなる
ブレスレット型デバイスの再調整に入った。
⸻
変更点は二つ。
・内蔵容量の拡張
・魔石スロットの増設
魔石スロットは
1 → 2。
同サイズ・同品質の魔石を並列接続し、
処理負荷を分散させる構成。
⸻
学園への申請内容は簡潔だ。
・内蔵容量:1トン
・外見変更
・同サイズ魔石2個装着
理由は
「収納安定性向上のため」。
後日、問題なく承認された。
見た目が少し変わっただけ、容量が増えただけ、学園側の認識はその程度だ。
次は、武器。
ベースはすでに完成している。
今回は機能拡張と統合。
武器は単一だが、
魔力制御によって形状を切り替える。
武器構成
可変式魔導武装(単一フレーム)
・大剣モード
高出力・対大型魔物用。
魔力を刃全体に循環させ、破壊力を最大化。
・短剣モード
取り回し重視。
近接戦・狭所・奇襲向け。
・短銃モード(片手銃)
魔力弾を射出。
精度と連射性を重視した中距離対応。
・砲撃モード(固定大砲)
設置型。
魔力を一点集中させた高威力射撃。
使用中は移動不可。
※短銃・砲撃モードはいずれも
魔力弾使用のため魔力切れしない限り弾切れは存在しない。
⸻
さらに別系統として、防具モード。
体表へ魔力装甲を展開。
武器とは独立しており、
同時展開が可能。
⸻
全ての調整を終え、ミナは装備を収納した。
「……これでよし」
ダンジョンは、準備不足の者から容赦なく削る。
夏休み。
演習という名の、実地試験。
そして地下深く――
人を試す場所が、静かに待っている。
収納の中身は、即応性と長期滞在を前提に整えた。
まずは保存が利くもの。
乾燥食、燻製肉、硬パン、栄養補助用の圧縮食品。
飲料は水を中心に、魔力回復を補助する薄めた薬液も含めた。
薬品類は分けて収納する。
キズぐすり、解毒薬、解熱剤、止血用の布。
数は多めだが、無駄にはならない。
⸻
寝床関係も抜かりはない。
簡易ベッドは組み立て済みを含めて5基。
布団と寝袋はそれぞれ10セット。
湿度の高い場所や冷気の強い階層でも使えるよう、
素材の違うものを混在させた。
⸻
その他。
ロープ、杭、簡易照明、
進行方向や帰路を示すための目印用具。
着替えは予備を含め、
汚損・破損を前提に数を用意した。
⸻
それでも、収納は満杯にはしない。
常に200~300kg分の空き容量を確保。
理由は単純だ。
・予期せぬ回収物
・魔石
・装備や人を収納する可能性
ダンジョンでは、「空き」が生死を分けることもある。
⸻
手荷物は最低限。
目立たず、音を立てず、周囲に溶け込む色合い。
布、革、木材――
カモフラージュになる素材を選び、金属部分は極力露出させない。
⸻
準備は整った。
あとは、ダンジョンの入口に立つだけ。
終業式を終え、学園は一気に夏休みの空気に包まれた。
ダンジョン演習の参加者は、
夏休み開始から2日後に現地到着の予定。
初日は準備日。
2日目の朝、駅集合。
7時発車。
時間厳守。
⸻
当日。
駅に着いたのは6時30分。
まだ朝の冷気が残り、薄く霧がかかっていた。
通勤客や早朝の商人が行き交い、駅は静かだが動いている。
教官はすでに到着していた。
参加者名簿を片手に、一人ひとりを確認している。
生徒は、ちらほらと集まり始めていた。
⸻
ミナに気づいた教官が声をかける。
「おー、来たか」
「今回よろしく頼むな!」
軽い調子だが、目は鋭い。
「後で全体説明するがな、今回のダンジョンは発見されて間もない」
「内部構造はほとんど分かってない」
「だから目的は調査とマッピングだ」
「期間は2週間を予定してるが、状況次第じゃ延びる」
「延長になった場合は学園側も免除扱いだ」
「その辺は安心しろ」
そう言い残し、教官は次の生徒の確認へ戻っていった。
相変わらず忙しそうだ。
⸻
時間が経つにつれ、生徒の数は増えていく。
装備は様々だが、どこか共通した緊張感があった。
――選ばれた者たち。
開始10分前。
全員が揃った。
教官は、先ほどミナに話した内容を改めて全体へ簡潔に伝える。
余計な言葉はない。
⸻
始発電車。
すでに線路に停車していた。
貸切車両。
扉が開き、生徒たちは順に乗り込んでいく。
静かな高揚と、言葉にしない覚悟を胸に。
列車は、未知のダンジョンへ向けて動き出す。
ミナは、車内を見渡しながら座席に迷っていた。
どこも空いている。
だが、どこに座っても落ち着かない気がした。
そのとき。
「ここ座りな」
低い男の声。
振り向くと、教官だった。
教官は、車両の中でもひときわ広いスペースの座席に、
一人でどっしりと座っている。
どうやら周囲の生徒たちは、
無意識にそこを避けているらしい。
――強面だし、無理もない。
ミナは小さく頷き、向かいの席に腰を下ろした。
向かい合わせの座席。
その間には小さなテーブルが付いている。
……そして。
テーブルの上には、
ケーキがいくつも並んでいた。
チョコ、ショート、チーズ系。
包装もそのまま。
ミナは一瞬、思考が止まった。
(……甘党?)
教官は気にした様子もなく、
フォークを手に一つ切り分けている。
見た目とのギャップが、あまりにも大きい。
――可愛い。
ミナは、思わず視線を逸らした。
教官は、どこか誇らしげに言った。
「お前もひとついるか?」
「女の子は甘い物好きだろ?」
「お茶もあるぞ。苦いのと紅茶」
そう言いながら、何の前触れもなく――
収納からホールケーキを取り出した。
ひとつ、またひとつ。
さらに、
「甘み足すなら蜂蜜と砂糖もあるぞ」
気づけばテーブルの上には、
ホールケーキが五つ並んでいた。
いちご。
チョコ。
ミルククレープ。
スノードーム。
タルト。
……圧がすごい。
見ているだけで、胃が重くなる量だった。
ミナは一拍置いて、冷静に尋ねた。
「……ホールで一個扱い、ですか?」
教官はきょとんとした顔で返す。
「ん? 一切れじゃ足りないだろ」
間髪入れず、ミナ。
「いえ、十分足ります」
即答だった。
教官はしばらくミナを見つめ、次の瞬間、ふっと口元を緩めた。
「……そうか。なら、切るか」
そう言って、やたら手慣れた動きでナイフを取り出す。
どう見ても初犯じゃない。
列車が静かに動き出す中、甘い香りだけが、車内にじわりと広がっていった。
――このダンジョン調査、思っていたより波乱含みかもしれない。
ミナはそう思いながら、差し出された紅茶にそっと手を伸ばした。
紅茶はとても香りが良く、渋みもなく、まるで秒単位で計算されたかのような抽出だった。
ミナはレモンを一切れ、蜂蜜を少しだけ落とし、
静かに口をつける。
……美味しい。
タルトを一切れもらい、
紅茶と合わせてゆっくり味わう。
列車の揺れは穏やかで、窓の外の景色が流れていく。
――優雅に時間が過ぎる。
……はずだった。
いつの間にか、
ケーキに釣られた女生徒たちが、
少しずつ、しかし確実に集まってきていた。
「あ……ケーキ……」
「え、ホール?」
「え、全部?」
ざわり、と空気が変わる。
教官はその様子を一瞥すると、
まるで慣れ切った手つきでナイフを持ち直した。
「はいはい、順番な」
手早く、無駄なく、
均等に切り分け、紙皿に乗せて渡していく。
その動きは――
完全に常習犯だった。
「わ、ありがとうございます!」
「すご……!」
「これ、あの店のじゃない?」
女生徒たちは目を輝かせ、
大事そうにケーキを受け取って去っていく。
どうやら、学園でも有名な高級店のケーキらしい。
ミナはタルトをもう一口食べ、
教官をちらりと見る。
(……この人、何者なんだろう)
戦闘は鬼、討伐は達人、夜は見張り、朝はケーキ配給。
ダンジョン調査に向かう列車の中で、思いがけず平和な光景が広がっていた。
――ただし、この穏やかさが
どこまで続くかは、誰にも分からない。
教官は窓の外へ視線を向けたまま、
少しだけ声を落とした。
教官
「……正直な」
「保護が決まらなかったら、掘り返されてた可能性もあった」
「学者だの、貴族だの、金の匂い嗅ぎつける連中がな」
一拍置いて、静かに続ける。
「だが、記録が“完全”だった」
「写真も、動画も、地形も、魔力残滓の解析も」
「“調査済みで価値は学術的にのみ存在する”って判断された」
ミナの手元で、紅茶の表面がわずかに揺れた。
教官
「だから封鎖だ」
「世界のへそは、もう“誰の穴”でもない」
「自然保護区扱いだ」
ミナ
「……そう」
胸の奥が、ほんの少し軽くなる。
――白いドラゴンの意思は、自分の中で生きている。
ミナの心の奥で、静かな声が響いた。
『気まぐれで拾った命で感謝されるとは』
その声には、誇りも、後悔も、驕りもなかった。
ただ、長い時間を生きた存在の、淡い驚きだけがあった。
ミナは心の中で、そっと返す。
(……あなたは、気まぐれじゃなかったと思う)
教官はようやくミナの方を見て、少しだけ笑った。
教官
「ま、そういうわけだ」
「お前は余計なことはしてない」
「むしろ、よくやった」
その一言は、褒め言葉としては不器用で、慰めとしても不格好だった。
でも――
ミナには十分だった。
列車は速度を上げ、景色は街から森へ、森から山へと変わっていく。
教官
「さて」
「着いたら、遊びは終わりだ」
「今回のダンジョンは新しい」
「“優しくない”ぞ」
ミナはタルトの最後の一口を食べ、
紅茶を飲み干した。
ミナ
「……はい」
胸の奥で魔力が、静かに脈打つ。
その“力”と“意思”は、確かにそこにあった。
列車は、未知へと向かって走り続ける。
夕方。
長時間揺られ続けた列車が、
きぃ……という金属音を立てて減速した。
車内に、少しざわつきが走る。
アナウンス
「終点、〇〇駅。お出口は――」
ドアが開いた瞬間、
むわっとした 湿った土と森の匂い が流れ込んできた。
ミナは一歩、ホームに降りる。
小さな駅だった。
ホームは一本。
駅舎も古く、木造で、屋根の色はところどころ剥げている。
だが――
そこに、似つかわしくない人数 がいた。
ぞろぞろと、
100人を超える生徒たちが次々と降り立つ。
一瞬で、静かな地方駅が埋め尽くされた。
地元の人間らしき数名が、遠巻きにこちらを見ている。
「……なにあれ」
「軍隊?」
「学生……?」
そんな小声が聞こえた。
教官がホームの端に立ち、
大きく手を叩く。
教官
「はいはい、固まるなー」
「ここから歩くぞー」
一斉に視線が集まる。
教官
「歩いて1時間くらいの場所に拠点を用意してある」
「とは言ってもな、キャンプ地はダンジョンの入口の目の前だ」
ざわっ、と空気が変わる。
教官
「荷物、忘れ物ないな?」
「途中で音を立てすぎるなよ」
「ちゃんとついてこい」
そう言って、駅舎の外へと歩き出した。
舗装されていない道。
踏み固められた土。
両脇には、背の高い木々。
次第に、街の音が消えていく。
虫の声。
風に揺れる葉擦れ。
遠くで鳴く、正体不明の生き物。
ミナは列の中ほどを歩きながら、無意識に魔力の流れを感じ取っていた。
(……濃い)
(まだ、入口ですらないのに)
足元の地面に、
微かに魔力が染み込んでいる。
30分ほど歩いた頃、
視界が開けた。
――広場。
そして、その先。
岩肌に穿たれた、
巨大な裂け目。
教官が立ち止まる。
教官
「――到着だ」
ダンジョン前に到着。
黒く、深く、光を拒むような入口。
風が、低く唸るように吹き出していた。
教官
「各自、食事や宿題など自己責任で取り組んでくれ」
「ダンジョンへ入る許可は明日の朝からだ」
「依頼内容は、出発時話した通り」
「調査とマッピング」
一拍置いて。
教官
「遭遇した魔物の討伐、魔石、宝物――」
「見つけた者のものだ」
「見逃すも、突っ込むも、自己責任」
ニヤリ、と笑う。
教官
「特例で建築許可も出てる」
「やりたい奴はやれ」
そして、手を振った。
教官
「はい、解散!」
こうして――
ダンジョン演習、前夜が始まった。
静かに、だが確実に、未知へと踏み出す夜が。
ミナは周囲を見渡した。
生徒たちはそれぞれ動き始めている。
簡易テントを張る者、荷物を整理する者、仲間と話し込む者。
見知った顔もちらほらいた。
そして、あの首席の男女二人も少し離れた場所にいる。
二人とも、以前より装備が増えているように見えた。
ミナは教官の方へ歩み寄る。
ミナ
「この辺で水場はどこですか?」
教官
「水か? ああ、あれだな」
指差した先には、簡易的に設置された蛇口があった。
地面にパイプを通しただけの、最低限の設備だ。
ミナ
「使い放題ですか?」
教官
「一応な。ただし衛生面の保証はせんぞ」
ミナ
「……あれ、改造しても大丈夫ですか?」
教官
「ん? 壊さなきゃ多分いいだろ」
ミナ
「では、失礼します」
ミナは収納から工具を取り出し、蛇口の根元にしゃがみ込んだ。
教官
「おい、何やってる?」
ミナ
「水道管を少し増設してます」
教官
「何のために?」
ミナ
「私のためです」
短く答えると、ミナは手を止めず作業を続けた。
パイプが一本、静かに分岐される。
水の流れが安定するよう、簡易フィルタも噛ませた。
教官はそれを黙って見ていたが、やがて小さく笑った。
教官
「……相変わらずだな」
夕暮れの風が、ダンジョンの入口から冷たく吹いていた。
ミナは異空間収納から、さらに大きなパネルを取り出した。
金属と樹脂を組み合わせた軽量パネル。
一枚一枚は薄いが、強度は十分にある。
周囲の生徒がちらりと視線を向けるが、誰も声はかけない。
ミナは黙々と組み立てを始めた。
床用パネルを敷き、壁を立て、最後に天井。
工具の音だけが規則正しく響く。
収納容量を200~300kg空けておく予定だったが、
「空けておくだけ」なのが、急に勿体なく感じた。
そのために用意していたのが、この簡易箱小屋だった。
サイズは四畳半ほど。
一人で使うには十分すぎる広さだ。
内部には簡易ベッドを一つ設置し、
端に小さな作業台、壁際には収納棚。
換気用の小窓もついている。
組み立て終わる頃には、周囲は薄暗くなっていた。
教官が近づいてくる。
教官
「……テントじゃなくて家か」
ミナ
「簡易です」
教官
「十分すぎるだろ」
教官は小屋を一周眺め、鼻で笑った。
教官
「建築許可出して正解だったな」
ミナは何も言わず、最後に扉を取り付ける。
カチリ、と静かな音。
外では、生徒たちが焚き火を囲み始めていた。
ダンジョンの入口は、夜の闇の中で静かに口を開けている。
明日から、あの中へ入る。
ミナは小屋の中に入り、扉を閉めた。
水道管は、小屋の外壁を通して引き込んだ。
簡易蛇口から分岐させ、フィルターを噛ませて室内へ。
水量は十分。
勢いも問題ない。
内装は最低限だが、実用一点張り。
仕切りパネルで区切った簡易シャワー室。
折り畳み式のベッド。
小さな棚の上にカセットコンロ。
隅には薬品処理式の簡易トイレ。
——普通に、生活できる。
ミナは一通り確認し、蛇口をひねる。
水が流れる音が、小屋の中に心地よく響いた。
外では、生徒たちがテントを張ったり、焚き火を起こしたりしている。
笑い声や金属音が、壁越しにかすかに聞こえる。
教官が外から声をかけてきた。
教官
「……お前、ここで住む気か?」
ミナ
「二週間なので」
教官
「十分すぎるな」
教官はそれだけ言うと、離れていった。
ミナはベッドに腰掛け、深く息をつく。
移動、設営、改造。
ようやく落ち着いた。
ダンジョンは目の前。
魔力の濃度が、肌で分かるほど高い。
夜が深まるにつれ、周囲は静かになっていった。
ミナはランプを消し、外を一度だけ見た。
暗闇の向こうで、ダンジョンの入口が微かに脈打つように揺れている。
——明日からだ。
ミナは扉を閉め、眠りについた。
翌朝。
まだ陽は完全には昇りきっていない。
薄明かりが小屋の窓を淡く染めていた。
——コン、コン。
控えめなノック音。
ミナは身支度を整え、扉を開ける。
そこに立っていたのは、首席の男女二人だった。
ミナ
「おはよう」
女の子
「おはよう。突然ごめんね」
男の子
「……中、いいか?」
ミナは小さく頷き、二人を中へ招き入れた。
女の子は室内を一瞥し、驚きを隠しきれない様子だったが、すぐに表情を整え、ベッドへ腰を下ろす。
男の子は壁際に置かれた折りたたみ椅子を広げ、静かに座った。
一瞬、沈黙。
外では他の生徒たちの準備音が遠くに聞こえる。
女の子
「……やっぱり、すごいね」
ミナ
「何が?」
女の子
「この小屋。水も、ベッドも、全部」
男の子
「テントで二週間の覚悟だったんだがな」
ミナ
「必要だから用意しただけ」
男の子は視線をブレスレットへ向けた。
男の子
「昨日、建ててるのを見た。
あれ、全部一人で?」
ミナ
「うん」
女の子は少し迷ってから、口を開いた。
女の子
「……今日のダンジョン、私たち、ミナと同じ班に入れてもらえないかって思って」
男の子
「首席だからじゃない。
正直に言うと、判断力と装備を信用してる」
空気が、ほんの少し張りつめる。
ミナは二人の顔を見比べた。
ミナ
「……条件は?」
男の子
「指示が出たら従う。
危険だと判断したら、撤退も文句は言わない」
女の子
「戦利品は規定通り。
独占しないし、横取りもしない」
ミナは少し考え、ブレスレットに視線を落とした。
ミナ
「いいよ」
二人の表情が、わずかに緩んだ。
女の子
「ありがとう」
男の子
「助かる」
ミナ
「ただし——」
二人が身を正す。
ミナ
「ダンジョンでは、私が前に出る。
二人は後方と側面。
無理はしない。それだけ」
男の子
「了解」
女の子
「約束する」
外で、集合を告げる鐘が鳴り始めた。
ミナは立ち上がり、武器を収納から呼び出す。
ミナ
「行こう」
三人は静かに小屋を出た。
ダンジョンの入口が、朝の光の中で口を開けて待っていた。
ダンジョン入口前。
改めて明るい時間に見ると、その口は想像以上に大きく、そして深かった。
岩肌は黒く湿り、奥へ続く闇は光を飲み込むように揺らいでいる。
内部から、かすかな冷気と魔力の流れが漂ってきた。
教官が前に立ち、声を張る。
「ダンジョンには大きく分けて2種類ある」
「洞窟型と遺跡型だ」
生徒たちが静まり返る。
「洞窟型は自然発生に近い。地形が変動することもある。魔物の生態も流動的だ」
「遺跡型は人工構造が基盤になってる。罠や仕掛け、魔法陣が多い」
一拍置く。
「特殊な場合、混合してるのもあるが稀だ」
「今回は見た感じは洞窟型だ」
ざわ、と小さな緊張が走る。
教官は続けた。
「洞窟型は“成長”する」
「魔力の流れで内部構造が変わる可能性がある。昨日あった道が今日は無い、なんてこともある」
マッピングの重要性が、空気に重く落ちた。
ミナは入口を見つめる。
奥から、微かに脈動のような感覚。
——魔力濃度、高い。
ブレスレットがわずかに振動した。
内部の魔石が呼応している。
教官
「基本は三〜五人単位で行動。無茶はするな」
「深追いするな」
「異常を感じたら即撤退」
「以上だ」
首席の男が小さく息を吐く。
女の子がミナを見る。
ミナは静かに頷いた。
「行こう」
三人は入口へ近づく。
闇の境界線を越えた瞬間、外の音がすっと遠ざかった。
空気が重い。
湿り気と、濃い魔力。
足元は岩だが、ところどころに青白く光る鉱石が埋まっている。
男の子
「……魔力濃度、かなり高いな」
女の子
「息苦しくはないけど、重い」
ミナはブレスレットに意識を向ける。
内部の魔力バッテリーが、静かに吸収を始めている。
——効率、良好。
奥から、低い唸り声。
三人は足を止める。
闇の中で、赤い光が二つ灯った。
女の子が小さく呟く。
「……早速、歓迎ってわけね」
ミナの声は静かだった。
「位置、右奥。体高低め。四足」
岩陰から姿を現したのは、黒灰色の狼型魔物。
牙からは淡い紫の魔力が滲んでいる。
一体。
だが、気配は——
男の子
「……三、いや四体いる」
闇の中で、赤い光が次々と灯った。
ミナはゆっくり息を吸う。
「前は私。左右警戒」
ブレスレットがわずかに光る。
洞窟型ダンジョン、最初の戦闘が始まろうとしていた。
ミナは武器を短剣モードへと変形させた。
細身の刃が両手に収まる。
洞窟の幅は広くない。大剣では壁に当たり、隙が生まれる。
別で闇の中で羽音が響いた。
——バサバサバサッ
天井付近の岩陰から、次々と影が飛び出す。
魔物は体長30cmほどのコウモリ。
だが牙は長く、目は赤く濁っている。
哺乳類型——血を吸うタイプ。
女の子
「数、多い!」
十……いや、二十近い。
男の子が炎を手に灯す。
「天井を焼く!」
炎弾が放たれ、空中で弾ける。
数体が燃え落ちるが、群れは散開して回避する。
ミナは足を踏み込んだ。
「上、三体」
壁を蹴り、体を横に倒すように跳ぶ。
一閃。
短剣が一体の翼を切り裂く。
落下。
そのまま回転し、もう一体の喉元へ刃を滑り込ませる。
血ではなく、紫色の霧が弾けた。
——魔力個体。
通常種より厄介。
天井から急降下。
キィィィィッ!!
超音波。
鼓膜を揺らす衝撃。
女の子が水の膜を展開する。
「防音!」
膜が振動を吸収するが、完全ではない。
一体がミナの背後へ回る。
気配。
振り向かない。
ブレスレットが微振動
——補助演算。
右手の短剣を逆手に持ち替え、背後へ突き出す。
感触。
貫通。
魔物は断末魔もなく霧散した。
男の子
「下にもいる!」
地面の裂け目からさらに数体が這い出る。
洞窟型は生態が読みにくい。
ミナは一瞬考える。
——狭所、飛行、数。
「女の子、天井に水霧を!」
「了解!」
細かい水粒が空間を満たす。
ミナ
「チャージ、1%」
ブレスレット内部で魔力が圧縮される。
空気中の魔力もわずかに吸収。
コウモリ達の動きが鈍る。
濡れた翼は重い。
男の子が炎を放つ。
水霧に触れ、蒸気爆発。
洞窟内に衝撃波が走る。
バタバタと魔物が落ちる。
だが三体、一直線にミナへ突っ込む。
牙が迫る。
ミナは低く構え——
「エレメントロード」
小さく呟く。
短剣に薄く雷が纏う。
一歩踏み込み、横薙ぎ。
雷が三体を同時に貫いた。
一瞬の閃光。
静寂。
地面に落ちた魔物は動かない。
紫の小さな魔石が、数個転がる。
男の子が息を吐く。
「……初層でこれ?」
女の子が周囲を警戒しながら言う。
「群れタイプは厄介ね」
ミナは短剣を払い、収納。
ブレスレットの内部表示。
魔力バッテリー、微増。
「奥に進もう」
洞窟の闇は、まだ深い。
さらに奥へ進むと、空気が変わった。
ひんやりしているのに、重い。
肺に入る感覚が違う。
男の子が眉をひそめる。
「……魔力濃度、高いな」
女の子も頷く。
「入口付近とは比べものにならない」
足元の岩肌が、うっすらと淡く光っている。
水たまりのように見える場所があった。
だが水ではない。
淡く揺らめく、光の膜。
ミナは小さく呟く。
「魔力溜り……」
魔力が流れ込まず、滞留し、沈殿している場所。
空気中の魔力濃度が一定以上になると、自然発生的に形成されると魔獣学で習った。
男の子
「ここに長くいる魔物は……」
ミナ
「体内で魔石を生成する可能性が高い」
だから。
入口付近の狼には魔石が無く、
少し奥のコウモリからは魔石が大量に出た。
環境差。
魔力の飽和。
足元に転がる小さな魔石を拾う。
3mm、5mm、8mm。
質は悪くない。
だが——
女の子が低く言う。
「……死骸」
そこにあったはずのコウモリの肉体が、薄く光りながら崩れていく。
塵のように。
霧のように。
血痕も、肉片も。
何も残らない。
最後に、カラン、と魔石だけが落ちる。
静まり返る洞窟。
男の子
「……これ、普通か?」
ミナは首を振る。
「通常の魔物は死骸が残る。解体もできる」
今回の演習の巨大トカゲも、肉は残った。
だがここでは違う。
魔石だけ残し、肉体が消える。
まるで——
「このダンジョンが、魔物を“生成”してるみたい」
女の子が息を呑む。
男の子
「……自然繁殖じゃないってことか?」
ミナは魔力溜りを見つめる。
揺らめく光の中、何かが脈打つように明滅している。
「魔力が濃すぎると、形を持つ」
魔法学の仮説。
魔力は情報を持つ。
記憶や環境因子を模倣し、疑似生命を構築する可能性。
だから死ねば——
素材は魔力へ還る。
肉も血も、すべて。
残るのは、凝縮された核。
魔石だけ。
ブレスレットが微振動する。
自動吸収がわずかに働いている。
魔力バッテリーの蓄積速度が上がる。
ミナは内部制御を一段階強める。
暴走防止。
この濃度は危険だ。
女の子
「……長居はよくなさそう」
その時。
魔力溜りの表面が、波紋のように揺れた。
男の子が構える。
「来るぞ」
光の中から、ゆっくりと“形”が浮かび上がる。
骨格。
肉。
翼。
先程より一回り大きいコウモリ。
だが目が違う。
虹色に濁り、中心が黒く抜けている。
ミナが小さく呟く。
「濃縮個体……」
ダンジョンは、ただの洞窟ではない。
ここは——
魔力の子宮だ。
新たな魔物が、羽を広げた。
魔力濃度が濃く漂う洞窟の中、複合型個体は低く唸りながら翼を広げた。
狼の体にコウモリの翼。頭部は鋭い牙を持ち、目は赤く光る。
体の周囲には魔力の粒子が漂い、まるで体全体が小さな魔石のように輝いていた。
ミナは短剣モードに切り替える。
「距離を詰めすぎず…狙うは翼と関節…」
女の子は魔法で照準を固定し、炎の小弾を作り出す。
男の子は防御魔法を展開、周囲の魔力濃度を弱めてサポートする。
複合型個体は空中に跳び、鋭い爪で三人を襲う。
翼をばたつかせ、魔力の嵐を巻き起こす。
ミナは短剣で素早く斬りかかり、複合型の翼に傷をつける。
魔力弾の攻撃が翼を焼き、翼を失った個体は方向を失い地面に墜ちる。
だが、牙と爪はまだ脅威。
ミナは反射的に防御姿勢を取り、デバイスを起動して魔力を集中させる。
「チャージ…砲撃!」
短銃モードから魔力弾を放つ。弾は複合型個体を直撃し、全身を焼き焦がす。
体が光りながら崩れ、狼の体とコウモリの翼は跡形もなく消滅。
地面には魔石だけが残る。
5mmから1cmほどの大小の魔石が散らばり、濃縮された魔力が静かに漂う。
戦闘が終わり、洞窟内の魔力濃度は元に戻り、空気は穏やかになった。
三人は互いに息を整え、目を合わせる。
女の子
「……一旦戻りましょうか」
男の子
「うん、魔力濃度も落ちたし、この辺で話し合いを」
ミナは魔石を慎重に拾い、収納へしまう。
「ここで何をするか、次を決めるには安全な場所が必要…」
三人は足早に入口付近まで戻り、洞窟の外で簡易的に作った休憩場所へ向かった。
外の空気は涼しく、魔力の渦はもう感じられない。
暫くの間、彼らは戦闘の余韻を落ち着かせながら、これからの進行計画を話し合った。
昼下がりの陽射しが洞窟前の広場を温める中、三人はノートやデバイスを広げ、マッピングの情報を整理していた。
ミナは洞窟内の地形を簡易的な3Dモデルに起こし、どこに魔力濃度の高い場所があるかをマーキングする。
首席の女の子は魔物の種類や体長、魔力の強弱、特殊能力などをまとめる。
首席の男の子は魔石の数や生成位置、取得方法などを記録し、今後の討伐効率を計算していた。
三人が情報を突き合わせるたびに、戦闘中に見落としていた魔力の渦や隠れた通路、複合型魔物の特徴も整理されていく。
気がつけばお昼を過ぎ、太陽が洞窟入口の上に傾きかけていた。
「初日にしては、上々だな」
ミナが微笑む。
女の子
「これで少なくとも、次に入る人たちも安全に進めそうね」
男の子
「魔石の分布も把握できたし、無駄な戦闘も減らせそうだ」
ミナはふと、洞窟の奥にまだ未知の領域が広がっていることを思い出す。
「でも、あの先…もっと大きな魔物や、特別な魔石があるかもしれない」
三人は一瞬視線を交わす。
未知への期待と慎重さが入り混じった、ちょっとした緊張感。
しかし、初日としては順調すぎる成果に、皆の表情には確かな充実感が漂っていた。
午後からは、洞窟周辺の環境確認や安全策の整備をしながら、次の探索に備えることになった。
シャワー室の扉を閉めると、水音が心地よく響く。
ミナは湯気の中で一日の疲れを洗い流し、汗や埃をさっぱりと落とした。
首席の女の子も少し恥ずかしそうにしていたが、すぐに順番を済ませる。
「ありがとう…助かるわ」と小さくつぶやく声に、ミナは微笑み返した。
シャワーを終えた二人は、脱衣所で簡単に着替えを済ませる。
服もキャンプ地に用意してある乾燥用ラックに掛け、湿気がこもらないようにしていた。
ミナは心の中で思う。
「こういう小さなことがあると、仲間との距離が少し縮まるな」
二人はその後、簡易的な休憩スペースで水分を取りながら、次の日の探索計画について軽く話す。
夕方の柔らかい光がキャンプ地に差し込み、静かに穏やかな時間が流れていった。
教官は懐中電灯で照らしながら、壁や天井の様子を丹念に観察していた。
「やっぱり変だな…」と小さくつぶやく。
ミナはノートを広げ、各分岐や部屋の情報を整理しながら記録する。
「入口から数えて5つ目の分かれ道から奥は、魔力濃度の変化が微妙に変わるな…」
首席の男女もそれぞれ魔法で感知した魔力の情報を記録している。
「やっぱり普通の洞窟型とは違う…」男の子がつぶやいた。
ミナは自分のベースデバイスで魔力濃度を測定し、データを魔石に記録。
「ここまで正確に情報を取れると、マッピングもかなり正確になる」
教官は地図を広げ、各班から送られてきた情報を照合していく。
「でも…どうも全体像が見えない。まるで通路の奥が生きているように変化している…」
生徒たちは不安そうに顔を見合わせる。
ミナは心の中で呟く。
「これ、何か仕掛けがあるのかもしれない…」
その日の探索は無事終了。
キャンプ地に戻る道すがら、教官は静かに言った。
「このダンジョン…普通じゃない。みんな、油断するなよ」
ミナは荷物を整理しながら、次の探索に向けて心を引き締めた。
「次はもっと深くまで行ける…何かが待っている気がする」
ミナはハンマーを手に取り、地面や壁を慎重に叩く。
反響の違いが、ほんの一部にだけ現れる。
教官に声をかける。
「ここ、音が少し違います。確認してもいいですか?」
教官は顎に手をやり、少し考えたあとで頷いた。
「よし、慎重にな。何があるかわからんが、見てこい」
ミナは周囲の生徒たちに安全な距離を取らせ、地面を少しずつ崩していく。
砂岩が音を立てて割れ、中の空洞が姿を現す。
暗く、ひんやりとした空気が流れ込むだけ。
光も、生命の気配もない。
それでも、空洞内部は周囲より魔力濃度が高く、微かな振動が伝わってくる。
ミナは息を整え、ノートにメモを取りながら慎重に観察する。
「この通路、魔力が集中している…構造の問題かもしれません。調査は続ける価値があります」
教官は腕を組み、真剣な目で見守る。
「よし、これはマッピング上でも重要ポイントだ。きちんと記録しておけ」
周囲は静まり返り、異常な魔力の空間だけがひっそりと存在していた。
その先に何があるのか、まだ誰も知らない。
人が通れるサイズまで通路を広げ、奥へ進むと、視界がぱっと開けた。
そこに現れたのは、自然の洞窟とは明らかに異なる、人工的な広間だった。
地面や壁には、整然と切り出された石レンガのような岩が組まれており、床は平坦で歩きやすい。
教官も眉をひそめる。
「なるほど……これが、自然の洞窟の中に隠されていたのか」
洞窟自体はこの広間を避けるように形成されていた。
まるで、大きな掌で何かを包み込むかのように、自然の洞窟が人工空間の周囲を覆っていたのだ。
ミナは手を伸ばして壁を触る。
石は冷たく、精密に切り揃えられている。
「これは……誰かの手で作られたのね」
首席の男の子が前に出て、壁の継ぎ目を見つめる。
「ただの古代遺跡じゃない。ここ、意図的に隠されてる」
女の子も頷きながら、光を頼りに奥を覗き込む。
広間の先には、さらに小部屋がいくつも続いている様子だ。
ミナは心の中で息を呑む。
「手つかずの空間……何があるんだろう……」
教官が指示を出す。
「まずは安全確認しつつ、マッピングだ。触れずに調べられるものからだぞ」
静かな広間に、生徒たちの足音だけが響いた。
ミナは慎重に足を進めた。
広間は想像以上に巨大で、100人以上が余裕で立てる広さがある。
しかし、まだ奥は見えない。
足音が床や壁に反響し、四方八方に音が跳ね返る。
そのせいで、自分の声や仲間の呼吸さえも大きく聞こえるほどだ。
天井は高く、周囲の光る石の光量では全てを照らせなかった。
光の届かない暗闇に、無数の影が揺れているようにも見える。
教官が静かに声をかける。
「こういう人工空間は、墓や秘密の保管庫であることが多い。
宝があるかもしれんが……罠も必ずあると思え」
首席の男の子が壁際を注意深く歩きながら言った。
「音が反響するから、遠くの物音もすぐ気付かれるな」
女の子も小さく頷き、懐中灯で天井の暗がりを照らす。
「天井も高いし、落下物や仕掛けには注意した方がいいわ」
ミナはハンマーを手に、床や壁の反応を探りながら慎重に進む。
この広間は、ただの洞窟ではなく、何か計算された設計の痕跡を感じさせる――
まるで、この先に何か「待っている」とでも言うように。
ミナは声の方を見やり、首を振る。
「こういう時は慌てちゃダメ……」
ハンマーを握りしめ、慎重に一歩ずつ近づく。
光る石が床を照らし、宝箱らしき物は影の中でわずかに形を示していた。
しかし、他の生徒たちは我慢できず、ぞろぞろと走り出す。
「おい、見つけたぞ!」「こっちだ!」
教官の怒声が響く。
「落ち着け!お前ら!無茶するな!」
だが、広間の空間の大きさと反響音のせいで、声は届きにくい。
遅かれ早かれ、ちりじりに散り始めた。
ミナは深呼吸をして、仲間の動きと音を把握しつつ、静かに宝箱へ近づく。
広間の床には、無造作に置かれた古い石板や、微かな段差があって足を取られそうになる。
「罠……あるかもしれない」
慎重に足元を確認しながら、ミナは光の反射を頼りに宝箱に近づいた。
周囲のざわめきとは無縁の静けさの中、宝箱はまるで待っていたかのようにそこに鎮座している。
空間自体には罠は無さそうだった。
教官も警戒を緩めた。
生徒たちはざわざわと周囲で騒ぎ出すが、ミナは中央に立ったままだ。
ぐるりと見渡すと、宝箱は全部で12個。
生徒たちが照らす懐中電灯の光で、石造りの宝箱の位置や装飾がよくわかる。
蓋には宝石がはめ込まれており、装飾だけでも価値がありそうだ。
蓋はずらすことができる作りになっている。
一人の男子生徒が蓋をそっとずらして中をのぞいた。
「……あれ?」
中は空だった。宝箱の中身は何も入っていない。
生徒たちはざわつき、少しがっかりした様子で宝箱を覗き込む。
教官が低く呟く。
「ほう……ただの空箱か。やはりこの空間、何か仕掛けがあるようだな」
ミナは中央に立ったまま、周囲を見渡す。
宝箱の装飾の美しさに目を奪われつつも、冷静に状況を分析している。
空の宝箱が並ぶこの空間は、ただの装飾か、あるいは何かの意味を持つのか——。
生徒たちはミナを中心に散らばりながらも、宝箱を確認し続ける。
ミナは動かず、中央で光と空間の広がりを感じ取りながら、次の行動を考えていた。
宝箱の中身は空のまま、次々と生徒たちが12個目の箱を開ける。
その時、頭上から鈍い金属音が響いた。
金色に輝く巨大な棺が、ゆっくりと空間の中央へ降りてくる。
棺は、ミナが中央に立ったままの位置に静かに着地する。
その圧倒的な存在感に、生徒たちは思わず一歩下がる。
しかし、ミナは動かず、中央で両手を軽く組み、棺を見上げる。
教官
「触れるなよ、罠かもしれん……」
周囲の生徒はざわつくが、ミナは中央で立ち続ける。
棺は微かに光を放ち、空間の静寂を際立たせていた。
頭上から、重厚な音を立てて金属製の棺がゆっくりと降りてきた。
天井から吊るされていた鎖や支えが軋む音が響き、生徒たちは息を呑む。
棺は空間の中央に着地するやいなや、微かに震えながら地面に重く沈む。
その衝撃で石の床にひびが入ったかのような音が反響する。
教官
「……墓だったか……」
棺の蓋は精巧な仕掛けで作られており、着地と同時に鍵が解かれる音がする。
金属の鎖が滑るように動き、蓋はわずかに浮き上がった。
静寂の中、蓋の隙間からわずかに光が漏れる。
ミナは恐る恐るハンマーを収納し、中央に立ったまま、蓋を開ける。
生徒たちは一歩も動けず、その場に固まっている。
中にはミイラが一体と、胸元に置かれた書物。
棺の蓋の内側には「古代文字」が刻まれており、光に反射して微かに輝いていた。
古代文字
「この棺を開けた者にこの本を贈与する。
開けた者以外が触れる事は許さない。
開けた者以外が触れると災いになる」
生徒たちは興奮し、わらわらと集まろうとするが、教官の声が響く。
教官
「待て!触るなと言っただろう!!」
その瞬間、棺から蒼白い光が立ち上り、空間全体に魔法陣が展開される。
生徒たちの足は地面に固定され、動こうにも動けなくなった。
棺桶はゆっくりと空間の中央に降りてきた。
金属の擦れる音、重さが床に触れる微かな振動。
ミナは中央で立ったままハンマーを収納し、恐る恐る棺桶の蓋を開ける。
中には一体のミイラと胸元に置かれた書物。
蓋の内側には古代文字が刻まれていた。
「この棺を開けた者にこの本を贈与する」
「開けた者以外が触れる事は許さない」
「開けた者以外が触れると災いになる」
生徒達はざわつき、興奮気味に近づいてくる。
一人の男子生徒が手を伸ばした瞬間、空間全体に蒼白い魔法陣が展開された。
衝撃と共に、生徒達の足は地面に貼りつき、逃げることはできない。
声を上げても、音は反響して消えた。
ミナは書物を手に取るが、魔法陣は止まらない。
教官が何か伝えようと口を開くが、言葉はかき消され、姿も霧のように消えた。
次々と生徒達は光に包まれ、どこかへ転送されていく。
叫び声、悲鳴、驚きの声が響く。
そして、最後に残ったのはミナだけだった。
深い暗闇の中、重力の感覚も失われ、夢のような静けさ。
誰かが、低く優しい声で語りかけてくる。
「ようこそ……」
暗闇に包まれた感覚。
ミナは意識の奥で、ゆっくりと自分の体が浮くのを感じた。
周囲の声が混ざる。悲鳴、叫び、誰かの怒号。
棺を触った生徒たちの声だ。
視界が開けると、目の前に広がるのは不思議な光に包まれた空間。
空間は歪み、壁も床も天井もない。
ただ、浮かぶ生徒たちが座標ごとに止められているのが見える。
男子生徒が必死に手を伸ばすが、足は地面に縛り付けられたように動かない。
女子生徒は泣きながら、声をあげるしかできない。
魔法陣の光がゆらりと揺れ、青白い光線が四方へ走る。
ミナは咄嗟に書物を抱き締めた。
体が浮く。
体が固定される。
そして――
誰かの声が、夢のように耳元で響いた。
「この書物を手にした者よ、選ばれし者よ……」
光と闇の狭間で、ミナは息を呑む。
???
「この世界の時間は現実での刹那」
「ほんの一瞬です」
「お仲間のみなさんは入口前に転送されてます」
「この後あなたもそこへ」
ミナは言葉に戸惑う。
目の前の光景はまだ揺らぎ、浮遊する生徒たちの姿は消えていった。
???
「恐れることはありません」
「ただ、書物の力を理解し、正しく扱う覚悟が必要です」
声はどこからともなく響き、形もなければ性別も感じられない。
ミナは書物を抱きしめ、固く目を閉じる。
瞬間、頭の中に光が差し込む。
魔力の流れ、書物の内容、空間の仕組み――
情報が一気に脳内に流れ込み、まるで書物そのものが語りかけてくるようだ。
「恐れるな、進め」
ミナはゆっくりと息を整え、決意を胸に目を開けた。
異空間はまだ揺れているが、出口の光が見える。
そして――
現実世界の入口前、仲間たちの前に戻る光景が目に映った。
転送された生徒たちは無事で、驚きと安堵の表情を浮かべている。
ミナは書物を抱えたまま、静かに立ち上がった。
入口前に戻ったミナの視線の先で、ダンジョンの入り口が音を立てて崩れ落ちる。
地面が振動し、砂や小石が舞い上がる。
生徒たちは慌てて後ずさりし、互いに声を掛け合う。
「わっ、ダンジョンが…!」
「や、やばい、崩れてる!」
教官も駆け寄り、腕を振って生徒たちを落ち着かせる。
「落ち着け、皆、無事か?」
ミナは書物を抱え、深く息をつく。
周囲を見渡すと、魔力の濃度はまるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
空気は軽く澄み、辺りに漂っていた微かな光も消え、静けさだけが残る。
首席の男女も無言で立ち尽くす。
その瞳は驚きと、何か理解したような深い思索を映している。
教官が低く呟いた。
「これで…終わりか…」
生徒たちは徐々に現実に意識を戻し、互いの無事を確認しながら互いに安堵の息を漏らす。
ミナは書物を抱きしめ、心の中でそっとつぶやく。
「ありがとう、導いてくれて…」
静かな余韻の中、彼女は書物の力と、仲間たちの安全を実感しながら、ゆっくりと歩き出した。
夏休み中間。
ダンジョン踏破の余韻は、まだ身体の奥に残っていた。
レポートはすでに提出済み。
教官達も満足そうに頷いていた。
残り半分の夏休み。
それは、自由で――そして、ミナにだけ与えられた課題の時間だった。
他の誰にも読めない本。
白紙にしか見えない本。
だが、ミナには確かに見えている。
淡く浮かび上がる、古代文字。
しかし、その意味は分からない。
読めるのではなく、“見える”だけだった。
解読が必要だった。
古代文字について詳しく調べる――
そのために、街の図書館へ足を運んだ。
図書館は石造りで、外の夏の熱気を完全に遮断していた。
館内は静かで、ひんやりと涼しい。
扉が閉まる音さえ、遠くに吸い込まれるようだった。
ミナはロビーのカウンターへ向かう。
受付の女性が顔を上げる。
「利用ですか?」
「はい」
女性は柔らかく微笑み、簡単な説明をする。
「館内利用は無料です。
紙へのコピーは有料、データ書き込みも有料です。
検索端末の利用は無料。
個人で書き写すのは自由ですよ」
「ありがとうございます」
ミナは軽く頭を下げた。
書き写すのは自由。
その言葉に、小さく安堵する。
この本の存在を知られるわけにはいかない。
ミナは本を胸に抱えたまま、館内へ入った。
高い天井。
規則正しく並ぶ本棚。
古い紙の匂い。
知識の海。
ミナは案内板を見る。
「古代史」
「古代文明」
「言語学」
目的は明確だった。
古代文字。
その時だった。
「……ミナ?」
聞き覚えのある声。
振り返ると
そこにいたのは、首席の1人、レオンだった。
彼は壁際の本棚から一冊の本を手に持っている。
視線は鋭いが、驚きは隠していない。
「お前も、調べものか」
偶然
レオンの視線は、ミナが抱えている本へ一瞬だけ向けられた。
そしてすぐに戻る。
気付いている。
だが、何も言わない。
その少し後ろ。
「やっぱり、ここにいた」
もう一人の首席、セリアもいた。
静かに歩み寄る。
彼女の瞳は、ミナを真っ直ぐ見ていた。
観察するように。
見抜こうとするように。
「ダンジョンの後から、様子が少し違う」
セリアは静かに言う。
責めているわけではない。
ただ、事実を述べているだけだった。
図書館の静寂が、三人を包む。
ミナの腕の中の本は、微かに温もりを持っていた。
まるで、待っているかのように。
レオンとセリアは並んで立っていた。
自然な距離。
近すぎず、遠すぎず。
けれど、その間にある空気は、他人のそれではない。
幼い頃からずっと隣にいた者同士だけが持つ、迷いのない距離だった。
二人は婚約している。
親同士が決めたもの。
だが、それは形だけではなかった。
幼なじみとして同じ時間を過ごし、同じ景色を見てきた。
互いを理解し、互いを受け入れている。
言葉にしなくても分かる関係。
セリアがレオンの袖を軽く引いた。
「……驚かせないで」
「驚いてない」
即答するレオン。
だが、その声は少しだけ柔らかかった。
ミナはその様子を静かに見ていた。
そして
腕の中の本へ視線を落とす。
少し迷い、決めた。
「……見えるの」
レオンとセリアが同時にミナを見る。
「この本」
ミナは本をテーブルの上に置いた。
「二人には白紙に見えると思う」
セリアがそっと開く。
ページをめくる。
何もない。
真っ白な紙。
「……白紙ね」
レオンも覗き込む。
「何も書かれていない」
ミナは、そのページを指差した。
「ここに文字がある」
二人の視線が、その指先に集まる。
「古代文字。読めるわけじゃない。でも……見える」
沈黙。
疑う様子はなかった。
レオンが椅子を引き、座る。
「見える文字の形、覚えてるか」
「うん」
セリアも座った。
「言って。私が古代文字辞典を探す」
三人の役割は、自然に決まった。
ミナが“見る者”
セリアが“探す者”
レオンが“照らし合わせる者”
本棚から古代言語の本を何冊も持ってくる。
重い本がテーブルに積み重なる。
ミナはページを開き、見えている文字を、紙に書き写す。
曲線。
直線。
星のような点。
それをセリアが辞典で探し、
レオンが意味の候補を絞る。
時間が過ぎていく。
静かな図書館の中で、三人だけの作業が続く。
やがて、セリアが、小さく息を止めた。
「……これ」
指差した文字。
ミナが見えている文字と一致する。
レオンが意味を読む。
「“今日”」
次の文字。
「“私は”」
さらに。
「“また”」
繋がっていく。
文章になる。
ミナの胸が高鳴る。
これは、記録。
レオンが静かに言った。
「……日記だ」
ミナは、本を見つめる。
白紙の本。
だが、そこには確かに“誰かの時間”が記されている。
ページをめくる。
次の文字。
ミナが書き写す。
セリアが探す。
レオンが読む。
「“ここは静かだ”」
「“誰も来ない”」
「“だが、それでいい”」
三人は顔を見合わせる。
古代の誰か。
その人物の、孤独な記録。
ページをめくるたびに、その“存在”が、少しずつ輪郭を持ち始めていた。
そして、次のページで、ミナの手が止まった。
そこにあった文字は、今までよりも、はっきりと、強く刻まれていた。
ミナは、その文字を一つずつ書き写した。
手が止まる。
今までの記録とは違う。
日常の記録ではない。
これは、警告のようだった。
ミナは静かに読み上げる。
「今日」
「夢を見た」
レオンとセリアが顔を上げる。
「赤い空」
図書館の静けさが、急に重くなる。
「壊れ砕かれる世界」
セリアの指が、無意識に本の端を握った。
ミナは続ける。
「一筋の希望」
「自身の選択に迫られる」
レオンの目が鋭くなる。
「……選択」
ミナは最後の行を見る。
そこだけ、他の文字よりも深く刻まれていた。
「残す」
「選択の希望の魔法」
「踊り巫女ルーン様」
読み終えた瞬間、誰も言葉を発しなかった。
静寂。
遠くでページをめくる音だけが聞こえる。
セリアが小さく言う。
「……未来の記録?」
レオンは首を横に振る。
「断言はできない。だが…」
本を見る。
「これはただの日記じゃない」
ミナは本を抱き寄せた。
あの棺。
あの空間。
そして、自分にだけ見える文字。
偶然ではない。
選ばれた。
理由はまだ分からない。
だが、“残された”のは確かだった。
本のページは、まだ多く残っている。
白紙。
けれど、ミナには分かっていた。
これは空白ではない。
まだ、“読まれていないだけ”だと。
ミナは小さく呟いた。
「……選択」
その言葉は、これから訪れる何かの始まりを示していた。
本を閉じる。
静かに、丁寧に。
ミナは指先で表紙をなぞった。
確かに、ここが最後のページだった。
だが、終わりではない。
“未完成”
それがはっきりと分かった。
最後のページに記された魔法。
それは魔法陣でもなければ、詠唱でもない。
設計図。
概念。
構造。
魔法そのものの「骨組み」だけが記されている。
ミナは目を閉じ、意識を集中させる。
体内の魔力が、本に触れた時だけ微かに反応する。
だが、動かない。
発動しない。
魔力が流れる先が存在しない。
まるで、重要な部品が抜け落ちた装置のようだった。
「……足りない」
ミナが呟く。
レオンが聞き返す。
「何が?」
「パーツ」
ミナは本を見つめたまま答えた。
「この魔法、これだけじゃ完成してない」
セリアが身を乗り出す。
「他にも本があるってこと?」
ミナはゆっくり首を横に振る。
「分からない……でも」
ページを指で軽く叩く。
「これは“完成形”じゃない」
「発動するための何かが、別にある」
レオンは腕を組み、考える。
「鍵か」
ミナは小さく頷いた。
鍵。
媒体。
座標。
あるいは、発動者そのもの。
可能性はいくつも浮かぶ。
だが、確証はない。
セリアがふっと空気を変えるように微笑んだ。
「……とりあえず」
お腹を軽く押さえる。
「お昼にしない?」
その一言で、張り詰めていた空気がほどけた。
レオンも小さく息を吐く。
「そうだな。考え続けても答えは出ない」
ミナも本を収納へしまった。
「うん」
一区切り。
今はそれでいい。
三人は席を立ち、図書館を出る。
外は夏の光に満ちていた。
強い日差し。
石畳の照り返し。
人の声。
現実の世界。
だが、ミナの中では、何かが静かに動き始めていた。
未完成の魔法。
選択。
そして、自分にだけ読める本。
それは確実に、未来へと繋がっていた。
ファミレスのドアが開くと、冷房の効いた空気が肌を撫でた。
外の熱気で火照っていた体が、一気に落ち着く。
店員に案内され、四人席へ座る。
窓際。
光が柔らかく差し込む席だった。
セリアはメニューを開きながら、小さく息を吐いた。
「涼しい……生き返る」
レオンは水の入ったグラスを手に取り、一口飲む。
ミナも同じように水を口に含んだ。
氷が小さく音を立てる。
その時だった。
レオンの視線が、ふと止まる。
セリアを見る。
そして、ミナを見る。
もう一度、セリアを見る。
違和感。
いや、既視感。
レオンは無意識に口にしていた。
「……似てるな」
セリアが顔を上げる。
「何が?」
レオンは少しだけ迷ったが、そのまま言葉にする。
「お前とミナ」
セリアは瞬きをする。
「え?」
ミナも視線を向ける。
レオンは顎に手を当て、観察するように二人を見る。
「髪の色も、目の色も違う」
「顔立ちも完全に同じってわけじゃない」
「でも――」
少し間を置く。
「骨格と、雰囲気が似てる」
セリアは少しだけ驚いた顔をして、ミナを見る。
ミナも同じようにセリアを見ていた。
静かな視線の交差。
レオンは続ける。
「姉妹って言われたら、普通に信じるレベルだ」
セリアは小さく笑った。
「そんなこと言われたの初めて」
ミナは何も言わない。
ただ、観察するようにセリアを見ていた。
レオンは肩をすくめる。
「世の中に、自分と似た人間は三人いるって話があるだろ」
「まさか、こんな近くにいるとはな」
セリアは冗談めかして言う。
「実は生き別れの姉妹だったりして?」
軽い口調。
だが、ミナの胸の奥で、何かが小さく揺れた。
理由は分からない。
ただ、“違和感”だけが残った。
セリアはストローで水を混ぜながら言う。
「でも、なんか嬉しいかも」
ミナを見る。
「似てるって言われるの…兄妹居ないし…」
ミナは少し考えてから、答えた。
「……私も」
短い言葉。
だが、それは本音だった。
レオンはその様子を見て、小さく笑った。
「まあ、顔が似てるかどうかはともかく」
メニューを閉じる。
「中身は全然違うけどな」
セリアが即座に反応する。
「どういう意味?」
「そのままの意味だ」
「説明しなさい」
「嫌だ」
二人のやり取り。
自然で、当たり前の距離。
ミナはそれを静かに見ていた。
家族のような空気。
自分には無かったもの。
けれど、不思議と、遠く感じなかった。
セリアはフォークでパスタを巻きながら、ふと思い出したように言った。
「そうだ」
顔を上げる。
「ミナ、今度うちに遊びに来ない?」
自然な誘いだった。
レオンが少しだけ驚いた顔をする。
「珍しいな、お前が誘うなんて」
セリアは軽く睨む。
「いいでしょ、別に」
そしてミナを見る。
「そんなに堅苦しい家じゃないから」
「庭もあるし、ゆっくりできるよ」
「本のこと調べるのも、続きできるし」
理由はいくつかあった。
けれど、一番の理由は、それだけじゃないとミナは感じていた。
ミナは少し考える。
これまでの夏休みは、ダンジョン調査。
レポート。
デバイスの改良。
本の解読。
常に何かをしていた。
休んでいたようで、休んでいない。
“普通の夏休み”ではなかった。
ミナは答える。
「……行く」
セリアの顔が少し明るくなる。
「本当?」
ミナは小さく頷く。
「うん」
「行ってみたい」
それは、本音だった。
知らない世界を見てみたい。
戦闘でも、研究でもない時間。
同年代の、普通の時間。
ミナは思った。
(たまには……いいよね)
息抜き。
年相応の時間。
せっかくの長期休暇の夏休みなのだから。
レオンが口を挟む。
「じゃあ俺もいるけど、気にするなよ」
セリアが即座に言う。
「当たり前でしょ、あんたの家でもあるんだから」
「いや一応な」
ミナは二人を見る。
婚約者。
幼なじみ。
自然に隣にいる関係。
少しだけ、羨ましいと感じた。
セリアは笑う。
「決まりね」
「日程は後で連絡する」
ミナは頷いた。
「うん」
ファミレスの外では、夏の陽射しが強く輝いていた。
長い夏休みは、まだ半分も残っている。
セリアの家は、本当に“普通”の一軒家だった。
白い外壁に、二階建ての造り。
小さな庭と、整えられた植木。
特別豪華でもなく、古びてもいない。
どこにでもある、落ち着いた家だった。
ミナは呼び鈴を押す。
ピンポーン。
すぐに中から足音が聞こえる。
カチャ、と扉が開いた。
「いらっしゃい、ミナ」
セリアだった。
今日は学園の制服ではなく、淡い色の私服だった。
柔らかい印象で、いつもより年相応に見える。
「来てくれて嬉しい」
ミナは小さく頭を下げる。
「お邪魔します」
セリアは少し笑って、
「そんなに固くならなくていいよ」
と、言った。
そして、玄関に入る前に外を指差した。
「ちょっと説明しておくね」
右隣の家。
左隣の家。
「右が私の実家で左がレオンの実家」
ミナは瞬きをする。
「……隣?」
セリアは頷く。
「そう」
「小さい頃からずっと隣同士」
「だから幼なじみ」
「婚約も……その延長みたいなもの」
特別な話のはずなのに、セリアは自然に話していた。
日常の一部のように。
ミナは静かに言った。
「……素敵」
セリアは少しだけ照れたように視線を逸らす。
「そうかな」
ミナは改めて、右側の家セリアの実家の呼び鈴を押した。
ピンポーン。
少しして、扉が開いた。
中から現れたのは、セリアによく似た女性だった。
同じ輪郭。
同じ雰囲気。
年齢を重ねているが、一目で分かる。
「いらっしゃい」
優しい声だった。
「セリアから聞いています」
「ミナさん、ですね」
ミナは背筋を正し、丁寧に頭を下げた。
「はじめまして」
「本日はお招きいただき、ありがとうございます」
女性は柔らかく微笑んだ。
「そんなに固くならなくて大丈夫ですよ」
「セリアのお友達なら、歓迎します」
その時、奥から別の声がした。
「来たのか?」
低く、落ち着いた男性の声。
姿を現したのは、セリアの父親だった。
セリアと同じ瞳をしていた。
彼はミナを見る。
数秒。
観察するように。
だがすぐに、頷いた。
「ようこそ」
短い言葉だったが、拒絶はなかった。
セリアが言う。
「ほら、入って」
ミナは一歩、家の中へ足を踏み入れた。
それは、ダンジョンでも、学園でもない、“誰かの家”という、新しい世界だった。
セリアの家で過ごした時間は、静かで穏やかだった。
出された紅茶は香りが良く、焼き菓子も素朴で優しい味がした。
学園の話。
ダンジョンの話。
レポートの話。
特別な話ではないのに、それが妙に新鮮だった。
ミナにとって、こうして“誰かの家で過ごす”こと自体が、あまり経験のないことだったからだ。
しばらくして。
セリアが立ち上がる。
「次、レオンの家行こう」
ミナは頷く。
「うん」
玄関を出て、数歩。
本当に数歩だった。
左隣。
セリアが呼び鈴を押す。
ピンポーン。
すぐに扉が開いた。
そこにいたのは、レオンだった。
「来たか」
普段の制服ではなく、ラフな私服姿。
だが雰囲気は変わらない。
落ち着いている。
レオンはミナを見る。
「いらっしゃい」
短く、だがはっきりと。
ミナは頭を下げた。
「お邪魔します」
家の中は整っていた。
無駄がない。
必要なものだけがある。
壁には古い剣が一本、飾られていた。
装飾用ではない。
実用のものだとすぐに分かる。
「父のだ」
レオンが言う。
「昔使っていたらしい」
それ以上は語らなかった。
奥から声がした。
「レオン、客か?」
現れたのは、レオンの父親だった。
背が高く、無駄のない体。
ただ立っているだけで、只者ではないと分かる。
視線がミナに向く。
数秒。
静かに見つめる。
「……なるほど」
それだけ言った。
そして
「ゆっくりしていくといい」
と続けた。
短いが、認めた言葉だった。
レオンの母親も現れ、穏やかに微笑んだ。
「セリアちゃんと、ミナちゃんね」
「いつもレオンがお世話になってます」
レオンが少しだけ眉を動かした。
「……逆だ」
母親は笑った。
「どっちでもいいの」
そのやり取りが、自然だった。
ここにも、日常があった。
しばらくして。
三人は外に出た。
セリアが言う。
「最後、行こうか」
ミナは尋ねる。
「最後?」
レオンが答える。
「俺とセリアの家だ」
ミナは少し不思議に思った。
隣同士の実家は見た。
だが、“二人の家”はまだ見ていない。
二人は歩き出す。
実家と実家の中央に数歩
その家はあった。
実家より少し小さい、一軒家。
新しい。
セリアが鍵を取り出す。
カチャ。
扉を開ける。
「ここが、私たちの家」
ミナは止まる。
「……二人の?」
レオンが頷く。
「ああ」
「婚約が決まった時に用意された」
「まだ正式には住んでいないが」
中は、誰も住んでいない静けさと、これから誰かが住む気配が、同時にあった。
空っぽではない。
最低限の家具が置かれている。
テーブル。
椅子。
ソファ。
セリアが言う。
「いずれここで暮らす」
その声は、静かで、迷いがなかった。
ミナはその空間を見る。
未来の形。
まだ始まっていない生活。
だが、確かに存在している未来。
ミナは小さく言った。
「……いい家」
セリアは微笑む。
レオンは何も言わなかった。
だが、その沈黙は、否定ではなかった。
ゆったりした時間が過ぎる。
窓から差し込む光は柔らかく、部屋の中の空気を静かに温めていた。
三人はテーブルを囲んで座っていた。
特別な事は何もしていない。
ただ、話しているだけだった。
魔法の話。
レオンが言う。
「お前の魔力制御は、やっぱりおかしい」
真顔で言う。
ミナは首をかしげる。
「おかしい?」
セリアが補足する。
「普通はね、溜めれば溜めるほど制御が難しくなるの」
「でもミナは逆」
「溜まっているほど安定してる」
ミナは少し考える。
体の奥にある、静かな力。
「……そうなのかも」
それ以上は言わなかった。
日常の話。
セリアが言う。
「夏休み終わったら、また忙しくなるね」
レオンが頷く。
「ダンジョンの件で授業も増えるだろう」
ミナは窓の外を見る。
青い空。
静かな街。
ダンジョンの中とは、まるで別の世界だった。
「……平和だね」
ぽつりと呟く。
セリアが微笑む。
「うん」
レオンも、小さく頷いた。
何気ない話。
好きな食べ物。
嫌いな授業。
子供の頃の話。
セリアが言う。
「レオン、小さい頃は泣き虫だったんだよ」
レオンがすぐに否定する。
「違う」
「泣いてない」
セリアが笑う。
「泣いてた」
レオンは黙る。
否定しない。
ミナは少し笑った。
こういう時間は、嫌いじゃない。
戦いも、魔法も、使命も、何も関係ない時間。
ただ、同じ時間を過ごしているだけ。
その時、ミナはふと思った。
この時間は、きっと、大切なものになる。
理由は分からない。
でも、そう感じた。
窓の外では、風が静かに木々を揺らしていた。
時間が過ぎる。
気が付けば、窓の外は夕暮れに染まっていた。
オレンジ色の光が、家々の影を長く伸ばしている。
ミナは立ち上がる。
「……そろそろ帰るね」
セリアが少し寂しそうに笑う。
「うん。また来て」
レオンも頷く。
「いつでも来い」
短い言葉。
でも、そこに拒絶はなかった。
玄関を出る。
扉が静かに閉まる音。
振り返ると、二人が並んで立っていた。
自然な距離。
当たり前のように隣にいる二人。
ミナは小さく手を振った。
二人も手を振り返す。
それだけで、十分だった。
歩き出す。
夕暮れの道。
空は赤く、世界が静かに終わりへ向かっているような色をしていた。
足音が、一定のリズムで響く。
一人。
静かな時間。
今日の事を思い出す。
図書館。
ファミレス。
二人の家。
笑い声。
穏やかな空気。
胸の奥が、少しだけ温かい。
そして、同時に、確信していた。
セリア。
レオン。
あの二人。
祖父母。
記憶の中の、優しい二人の姿。
重なる。
仕草。
空気。
魔力の質。
偶然ではない。
血は、繋がっている人達だ。
確信だった。
証拠はない。
けれど、間違いないと分かる。
ミナは空を見上げる。
赤い空。
あの日、本に記されていた言葉。
「赤い空」
壊れ砕かれる世界。
未来の記憶。
過去の現在。
矛盾した時間の中に、自分はいる。
ミナは静かに息を吐く。
自分は、この時代の人間ではない。
けれど、今、ここで歩いている。
風を感じ、人と話し、笑い、生きている。
ならば、それはもう、この時代の人間だ。
誰に決められるものでもない。
自分が、ここで生きると決めた。
それだけで十分だった。
夕暮れの道を、ミナは歩き続ける。
未来へ向かって。
まだ誰も知らない、時間の中へ。
夏休みは、静かに終わりを迎えた。
特別な出来事もあった。
だが、それ以上に、友達として過ごした時間があった。
セリアとレオン。
三人で街を歩き、食事をし、他愛のない話をした。
それだけで、十分だった。
そして、日常が戻ってくる。
夏休みも終わり
秋の祭典が行事がやってくる




