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22. 名前

「やっと……、終わりました……」


 地獄のような一日が終わり、バックヤードで机に突っ伏す。頬に触れる天板の冷たさが心地よい。初めてここで働いた日でも、ここまで疲れることはなかった。


「お疲れ様。その服はどうだった?」


 一日キッチンにいて、ほとんど自分の姿を見ていなかった太一が感想を求めてくる。まさか、まともな感想が返ってくるとでも思っているのだろうか。


「もう二度と着ません」


 机に突っ伏したまま、顔の向きすら変えずにそう口にする。失礼極まりない態度だが、太一もこの服を着せてきた一人なので、今はこれでいい。


「似合ってるのに? もったいない」

「似合う、似合わないの問題じゃないです」


 それ以前に、性別というもっと大事な前提条件が抜け落ちている。どれだけ残念そうに言われたところで、自分がこれを着る機会は二度と訪れないと思ってもらって構わなかった。


「着替えてきます……」

「ん、行ってらっしゃい」


 早くウェイトレス服を脱ぎたいのに、様々な疲労が蓄積した体はなかなか動かない。のろのろと、いつもより緩慢な動きで椅子から立ち上がり、二階へ向かうために階段に足をかける。


 下りる時にも思ったが、誰も覗く者などいないのに、無意識のうちにスカートを押さえてしまう。布地に手が触れた時点で気付きはしたものの、その手が元に戻ることはない。よくこの格好で普段から過ごしているものだと、ほとんどの男子高校生が抱くことのない感想を抱きながら、これまたのろのろと階段を上っていくのだった。




「あ、もう着替えちゃったんですか」

「とっくに限界でしたから」

「残念です。もう一回目に焼き付けておきたかったのに」

「写真まで撮っておいて何を」


 階段を上るまではのろのろとした動きだったのに、そこから先は手早く、過去最速で私服に着替えてバックヤードまで戻れば、既に着替えを終えたアイリスが椅子に座って待っていた。


「まぁ、それもそうですね。葵さんはいつでも着せ替え人形にできそうですし、今日は写真だけで我慢します」

「次はないです」


 何やらとんでもないことを言っているアイリスだが、今日はウェイター服がないという、どうしようもない事情があったからあれを着ただけの話である。その後のあれこれも、全て着ていたウェイトレス服が悪い。普段通りなら、あんなに簡単にアイリスにやり込められることもなかったはずだ。


「それにしても、また学校の誰も知らない葵さんの姿が見られましたね!」

「絶対に、何があっても他言無用ですからね?」


 何故か嬉しそうに言うアイリスに釘を刺す。こうしておかないと、いつか予想もしないタイミングで今日の出来事が漏れ出してしまいそうだった。


 特に、碧依と莉花の二人がいる場では警戒しておかなければならない。二人に漏れたが最後、確実に面倒なことになるのは分かりきっていた。あの二人に詰め寄られたところで首を縦に振ることなど絶対にないが、その状況そのものを想像したくない。


「当たり前じゃないですか。学校で知ってるのは私だけです」

「意外と独占欲が強い……」


 莉花の妄想を思い出してしまったのは、きっと偶然である。流石にあり得ないだろうと、頭を振って意識の外に追い出す。


「僕の女装なんてどうでもいいんですよ」

「大事なことですよ? 次はどんな服を着てもらおうか、今日はずっと考えてたんですから」

「は……?」


 予想もしていなかったその言葉に、思わず口が半開きになってしまう。今、アイリスは一体何と言ったのだろうか。


「やっぱり、学校の制服は外せないと思うんですよね。定番じゃないですか。見慣れた制服を、慣れてない人が着るよさってあると思いませんか?」

「思いません」


 自分の聞き間違いであってほしかったのに、残念ながら聞き間違いではなかったらしい。やけに真剣な表情で妄想を語るアイリスからは、一切冗談の雰囲気が漂ってこない。


「他には、浴衣とかどうですかね。髪型もちょっと変えてみたりして。いつもと違う雰囲気でどきどきする、みたいな」

「女装がばれないか心配で、それでどきどきしてるんだと思いますよ」

「究極はウェディングドレスですよね。一回、葵さんと碧依先輩が二人共ウェディングドレスで結婚式、みたいなのを考えたことがあるんですけど、二人共とっても似合ってましたから」

「何から何まで間違ってません?」


 アイリスの妄想が思った以上のところまで進んでいた。これでは、非常に面倒だったあの時の莉花といい勝負だ。アイリス本人は絶対に嫌がるのだろうが。


「いつまでもそんなことを言ってると、お土産は没収にしますよ」

「ごめんなさい」

「素直でいいと思います」


 あっという間に頭を下げたアイリスの、この上なく綺麗な菜の花色の髪が揺れる。そんな光景を眺めながら、持っていた袋から箱を取り出して差し出す。昼に柚子に渡したものと同じ箱だった。


「ありがとうございます!」

「四つ入ってるので、ご両親と分けて食べてください。一個余りますけど、それはお好きなように」

「わざわざお父さんとお母さんの分まで……。また二人の好感度が上がっちゃいますね」

「ほとんど話したこともないのに、好感度って何ですか?」

「何も聞かなかったことにしてください」


 不思議なことを言ったアイリスが、明らかに何かを誤魔化すように目を逸らす。普段であれば何があったのかを聞き出すところだが、今日はもう疲れきっている。そんな気力はどこにも残っていなかった。


 とりあえずアイリスの言う通りに何も聞かなかったことにして、もう一つの箱を取り出す。先程のお土産は、アイリスと家族に向けたもの。対して、こちらはアイリス一人に向けたものだった。


「こっちはアイリスさんに」

「私にですか?」


 目をぱちくりとさせて、もう一つの箱を受け取るアイリス。まだお土産があるとは思っていなかったのか、やや意外そうな様子だった。


 だが、中身が見えるように透明になった一面を目にした途端、再びその瞳が貴石と化す。


「うわぁ……! 何ですか、これ!」

「ソープフラワーです。インテリアですね」


 宿泊学習最終日に行った、あのやや特殊な花屋。そこで買ったもののうち、一つは自分の部屋に飾るプリザーブドフラワーで、残るもう一つが、今アイリスに手渡したソープフラワーなのだった。値段が手頃だったうえに、あまりにもアイリスにぴったりだったので、ほとんど迷うことなく買ったお土産である。


「ソープフラワー、ですか?」


 聞き馴染みのない単語だったのか、首を傾げながら問い返してくるアイリス。じっとこちらを見つめてくる瞳は、不思議そうな色が混ざっても、なおも貴石のような輝きを放っていた。


「そうですね。石鹸で作られた花らしいですよ。実際に石鹸としては使えないので、完全に飾り物です」

「へぇ……、そんなのがあるんですか……」


 そう言いながら、様々な角度から箱の中を覗き込んでいる。とはいえ、小さなバスケットに収まったそれは、箱に入ったままでは少々見辛いようで。


「開けてみてもいいですか?」

「もちろん」


 わざわざ確認をしてきたアイリスが、箱の形を崩さないよう、慎重に開封していく。やがて、箱の中から取り出されたバスケットに収まっていたのは。


「モチーフはアヤメの花みたいですよ」

「アヤメの花……。あ」


 文字通りアヤメ色の花だった。そこまで話して、アイリスもようやく気が付いたらしい。


「英語で『アイリス』です」

「そっか……。私の名前って、日本語だとそうなるんでしたよね」

「ですね。綺麗な名前だと思いますよ」

「そ、そうですか……?」


 頬が緩むのを我慢しているようだったが、喜びが隠しきれず、結局表情に滲み出している。さらに言えば、肌の白さと相まって、頬がうっすらと赤くなっているのもよく分かる。感情の変化を、これ以上なく簡単に把握することができた。


「本当に花の名前から取ってたりとか?」


 初めて名前を聞いた時から思っていたことを、ちょうどいい機会だと思って尋ねてみる。


「あんまり覚えてないんですよね。昔、お母さんに聞いたことがあったと思うんですけど」

「もしかして、アイリスさんって六月六日が誕生日だったりします?」

「え! 何で分かったんですか!?」


 その反応から察するに、誕生日の予想は正解らしい。そうなると、アイリス本人すら曖昧にしか覚えていない名前の由来も、何となく理解することができた。


「前に、六月が誕生日って話をしたのは覚えてますか?」

「もちろんです。初めて会った日の帰り道ですよね」

「そこまで覚えてるんですか」

「記念の日ですからね」


 何の記念なのかはよく分からないが、話が進まなくなりそうなので、その疑問は一旦脇に置いておくことにした。


「でも、確かその時って……」

「月しか言ってなかった、ですよね」

「そうですそうです。当てずっぽうですか?」

「まさか」


 未だに答えに辿り着けないアイリスが不思議そうに尋ねてくるが、そんな分の悪い勝負はしない。そうかもしれないという、はっきりとした根拠があったからこそ当てることができたのだ。


「何てことはないです。六月六日の誕生花がアイリスなんですよ」

「誕生花……」


 そんな訳で、想像の根拠を明かす。またしても予想外だったのか、再びその目がぱちくりと瞬きを繰り返し、そして手元のソープフラワーを覗き込む。


「多分、そこから名前を取ったんだろうなって」

「なるほど……」

「あくまで僕の推測ですけどね」


 実際にどんな由来があって名前を付けたのかは、アイリスの両親にしか分からない。合っている可能性もあれば、全く違う別の理由の可能性もまだまだ残っていた。


「詳しいんですね」

「アイリスさんの名前に関しては、ちょっと特別ですね」

「特別、ですか」


 その言葉に何を思ったのか、アイリスの顔が上がる。


「えぇ。もし花の名前から取ってるのなら、ですけど」

「どういうことです?」

「僕の名前も花の名前由来なんですよ」

「葵さんも?」


 思い当たる花がないのか、そう言われてもアイリスはあまり納得していない様子だった。世間の誰もが知っているような有名どころの花ではないので、その反応も当然のものと言える。


「そうです。ウスベニアオイって聞いたことありますか?」

「ウスベニアオイ……」


 やはり知らない名前のようで、頭が右に傾いている。その動きに合わせて菜の花色の髪が揺れる。


「こんな花です」


 言葉で説明しても何も伝わらないのは分かりきっているので、不思議そうな眼差しを浴びながら写真を検索し、スマートフォンごと手渡す。


「へぇ……。綺麗なお花ですね」


 食い入るように画面に映ったウスベニアオイを眺めるアイリス。その口から恐らく無意識に漏れた感想は、その花に見惚れていることを分かりやすく示していた。


「僕が八月十四日生まれで、そのウスベニアオイが八月十四日の誕生花なんです」

「そっか。だからそんなに色々詳しいんですね」

「ですね。名前の由来を聞いて、それから興味を持って色々調べてたら、いつの間にかこうなってました」


 これが、悠や碧依、莉花にも話していない、自分の花好きとしての原点。話の流れというものもあるが、ここまで話したのはアイリスが初めてだった。


「アイリスの花とおんなじ、紫色のお花なんですね」

「そう言われるとそうですね」

「ってことは、やっぱり葵さんと私は相性がいいんですね!」

「からかう側とからかわれる側って話ですか?」

「なんでですか!」


 最早アイリスの口癖ともなった、その返し。昼とは違い、ウェイトレス服を着たことで負った心の傷が、いつものやり取りで回復していくのが分かる。


「素直にお揃いって言ってくださいよ!」

「アイリスさんの名前の由来が本当にそうなのかは分からないですし」

「自分から言い出したのに!」


 自分にとって、アイリスの反応は特効薬だった。むっとした表情すらも何故か可愛いので、それが原因である可能性も大いにあったが。


「もうっ! 帰ったら絶対にお母さんに聞きますっ」

「いやまぁ、好きにしたらいいですけど」

「月曜に報告するので、覚悟しておいてください!」

「何の覚悟を?」


 むしろ、覚悟するのは由来を尋ねるアイリスの方だ。これだけの啖呵を切っておいて、実は全く関係がなかったとなれば、相性云々の話が綺麗に消え去ることになる。


 もちろん、その場合は見透かしたような口振りでアイリスの誕生花のことを語っていた自分も、とても痛々しいことになるのだが。


「お話し中に悪いね。そろそろ閉店だし、もういい時間だから、二人は流石に帰った方がいいよ」


 そうして何の覚悟をしようか考えていると、キッチンの清掃をしていた太一から声がかかった。その言葉で時計を確認してみれば、既に午後九時半を回っている。これ以上ここに残っていると、門限というものがなくてもアイリスの家族が心配してしまうだろう。


「そうですね。それじゃあ、そろそろ……」

「あ、ちょっと待ってください」


 促されて帰り支度を整え始めた自分を見て、アイリスもソープフラワーを丁寧に箱に戻している。ケーキを運ぶ時さながらの、とても丁寧な手付きだった。


 やがて、二つの箱を袋にしまい終えたアイリスが自分の隣にやって来る。


「お待たせしました」

「じゃあ、帰りましょうか」

「はい! お疲れ様でした!」

「お疲れ様です」


 お互いに準備が終わったことを確認してから、太一に向けて二人して軽く頭を下げる。


「うん、お疲れ様。気を付けて帰るんだよ」


 太一の見送りの言葉を聞いてから、裏口の扉を通って外に出る。月が雲の向こうに隠れてしまっているのか、辺り一帯は思っていた以上に暗い。夏が近付いていることをほんの少しだけ感じさせる生温い空気の中、街灯がぽつぽつと、アイリスと自分の帰り道を照らし出していた。




 今日もいつも通り葵に送ってもらって家に帰ってきた、その後のこと。


「ねぇ、お母さん」

「何?」

「私の名前なんだけど……」

「名前? どうかした?」


 葵に言われたことが気になって、帰宅してからすぐに、レティシアに話を切り出す。話を聞いた時はきっとそうだと思っていたのに、その後の葵の言葉で、少しだけ不安に思いながらの問いかけだった。


「もしかして、アイリスの花と関係あったりする?」

「そうね。誕生日が六月六日だから、その誕生花から取ったの」


 さも当たり前のことかのように言われ、微かな不安が一瞬にして払拭されてしまう。誰にも気付かれていないはずだが、頬がぴくりと反応してしまったのは、今のところ自分だけの秘密である。


「へぇ……。やっぱり」


 その反応を隠して、やや俯き気味で返事をする。そうでもしていないと、このやたらと鋭い母親に気付かれてしまいそうだったからだ。


「英語の花言葉も『希望』とか『信頼』で、プラスのイメージだったし」

「そこまで大げさだと、ちょっと恥ずかしいけどね」


 名前が背負う意味の大きさに、少しだけ気後れする。誰かと誕生花の話はできても、花言葉の話まではできそうにない。


「で、いきなりどうしたの?」

「ん? 今日ね、葵さんからこれを貰ったの」


 娘が突然名前の由来を聞いてきたことを不思議に思ったのか、話が途切れたところでレティシアが尋ねてきた。言葉で説明するよりも実物を見せて話をした方が分かりやすいだろうと思い、答えながらソープフラワーの箱を取り出す。丁寧に扱っていたおかげか、その形は微塵も崩れていなかった。


 レティシアに中身が見えるようにして、一つの面が透明になっている箱を手渡す。


「あら。ソープフラワー?」

「知ってるんだ?」

「もちろん。お母さんだからね」

「何それ」


 どうやら、レティシアはソープフラワーというものを知っていたらしい。その言い方からすると、インテリアの科目は母親になるための必修科目か何かなのだろうか。それならば、自分も履修しておいた方がいい気がしてきた。


「しかもこれ、まさにアイリスの花じゃない」

「うん。宿泊学習で葵さんが見つけたらしくて、私に買って来てくれたんだ」

「へぇ。大事にされてるじゃない」

「そ、そう、かな……?」


 貰った時には嬉しさが先行してあまり意識していなかったが、改めてそう言われると、少し照れるような気もした。もちろん、嬉しいことに変わりはないけれども。


 その嬉しさを再度認識したことで、頬が緩んでいくのが自分でもよく分かる。今鏡の前に立ったなら、自分でもなかなか見ることができない顔が映るのだろう。


「あぁ……、それで名前の話」


 そこでこんな話になった理由に思い至ったレティシアが、一人納得したように頷く。


「うん。葵さんもそうなんだって」

「葵さん……。タチアオイかウスベニアオイ?」

「ウスベニアオイだって。誕生日が八月十四日で、その誕生花って言ってた」

「珍しいお揃いもあったものね。名前の由来が同じパターンって」


 生まれた日の誕生花から名前を取ったというお揃いなど、言われてみればそうそうあることではなく、狙って揃えられることでもない。そう考えると、自分の名前が少し特別なものに思えた。


「ソープフラワーもそうだったけど、ウスベニアオイの花もよく知ってたね?」

「お母さんだからね」

「またそれ?」


 お揃いが嬉しくて流してしまいそうになっていたが、レティシアの口からさらりとその花の名前が出てきたことで、必修科目に花も追加されることになった。


「何にせよ、これで葵さんの誕生日にプレゼントするものの候補は見つかったわね」

「え、何?」


 花のことに関しては葵に教えを乞うのが最適かと考えていると、いきなり想像していなかった方向に話が転がり始めて、思わず聞き返してしまった。これまでは名前の由来の話をしていたはずなのに、「誕生日プレゼント」という単語が聞こえてきて、少しだけ混乱してしまう。


「紅茶」

「紅茶?」

「そ。葵さんが飲むのなら、だけど」


 何をどうしたら、今の話の流れで紅茶に繋がるのだろうか。やはり、必修科目をまだ履修していないのが痛い。


「何で?」

「ブルーマロウって紅茶があるんだけど、聞いたことない?」

「ブルーマロウ……?」


 そう言われて頭の中を探ってみるが、思い当たるものはなかった。忘れているということはなく、きっと初めて聞く単語のはずだ。


「もう……。イギリスは紅茶の本場よ?」

「私、生まれてからはほとんど日本暮らしだし」

「私の娘なら、きちんと覚えておくこと」


 やはり必修科目だった。この短時間で、覚えるべきことがどんどん増えていく。


「気が向いたらね。それで、ブルーマロウって紅茶がどうしたの?」

「ウスベニアオイの別名が、そのブルーマロウなの。花を使った紅茶ね」

「へぇ……」

「変わった紅茶でね。淹れた時は綺麗な青色なんだけど、しばらくしたら紫色になって、レモンの果汁を入れると、ピンク色になるの」

「え、何それ。不思議……」


 これまでのレティシアのからかうような雰囲気からは想像できない、何とも不思議で面白そうな紅茶だった。実物を見たことがないので正確な色は分からないが、想像上の紅茶の色合いが、レティシアが言った通りの変化を見せていく。


「喉にいいお茶みたいだし、接客業には向いてるんじゃない?」

「うん。考えておく」


 その過程で必修科目が増えに増えたのはともかく、いいことを聞いた。紅茶を飲むか葵に確認することを心の中に留めておく。


「お帰り、アイリス」

「あ、ただいま、お父さん」


 レティシアとの話が途切れたそのタイミングで、お風呂に入っていたアーロンがリビングに戻ってきた。


「ん? それは?」


 そして、未だにレティシアの手の中にあるアイリスの花に気付く。


「葵さんが宿泊学習のお土産にって」

「ほー……。アイリスのソープフラワー」

「何でお父さんまで知ってるの」

「お父さんだからね」


 アーロンもその言葉を知っていたらしい。しかも、どこかで隠れて聞いていたのではないかと思う程に夫婦といった返しだった。


「いいものを貰ったね。大事にしなさい」

「もちろん! お部屋の一番いいところに飾っておくつもり」

「日が当たるところは避けた方がいいよ」

「はーい」


 緩い返事をしながら、レティシアの手からソープフラワーを受け取る。まだ袋から取り出すものがあるので、その箱は一旦テーブルの上に置いておいた。


「あとこれ。私達にって」

「私とお父さんにも?」


 まさか自分たちにもお土産があるとは思っていなかったようで、レティシアが少し驚いた様子でツートンカラーの箱を受け取る。


「四個入りだって」

「じゃあ、私が二つね」

「ナチュラルに強欲だね」


 そう告げた途端、一瞬の間もなくレティシアが言ってのけた。まだ中身が何かも分かっていないのに、随分と気が早い。


「あら、プリン」

「美味しそうだね」


 まず強欲さを発揮してから中身を確認するレティシアとアーロン。自分も横から覗いてみると、そこには透明なカップに収まったクリームイエローのプリンが四つ、綺麗に並んでいる。


「後輩の家族にまでお土産を買ってきてくれるなんて、いい先輩を持ったね」

「でしょ? 自慢の先輩さんだもん!」

「そこであなたが胸を張るのは間違ってるわね」


 葵が褒められて嬉しかったので、レティシアの言葉は聞こえなかったことにした。


「冗談でも何でもなく、いつか機会があったら挨拶はしないとね」

「余計なことは言わなくていいからね? お母さんはもう言ったけど」

「余計なことは何一つ言ってないわよ?」


 そう言って惚けるレティシアだったが、あの夜のことは忘れていない。自分の家での様子をあれこれ葵に暴露してくれたのは、まだまだ記憶に新しい。あれだけ恥ずかしい思いをしたのだから、これからもそうそう忘れることはないはずだった。


「まあまあ。挨拶をするだけだから」

「ほんとにそれだけだからね?」

「あぁ。任せてもらえると嬉しいね」

「任せるって何……?」


 アーロンもアーロンで怪しげな様子を見せる。一体何を任せたらいいのか分からず呟いた言葉は、そのまま静かに虚空へと消えていく。親の言葉なのに、何故か不安しか感じられなかった。




「おはようございます! 葵さん!」

「おはようございます」


 休みが明けた月曜日の朝。先週水曜以来の朝の駅舎には、これまでと何も変わることなくアイリスがいた。


「何だか、こうするのも久しぶりな気がしますね」

「気のせいですよ」

「認めてくれたっていいじゃないですか!」

「朝一から元気ですね」


 二人で改札を通り抜けながら、いつも通りのやり取りを交わす。多少時間が空いたところで、その関係性は変わるはずもない。


「何かあったんですか?」


 それでも、アイリスが普段よりも若干前のめりになっているような気がした。土曜の夜に別れてから今までに、何かいいことでもあったのだろうか。


「んー……? 知りたいですか?」

「花由来だったんですね」

「早いぃ……!」


 思い当たる節がそれしかないのでそう言ってみた訳だが、案の定それが原因だったらしい。アイリスは何故か悔しがっているが、正直、ほぼ間違いなくそうだと思っていたので、意外でも何でもない。


「でも! これで晴れてお揃いだって分かりましたからね!」


 感情がころころと移り変わっていくアイリスなので、その分立ち直りも早い。合わせてころころと変わる表情も、アイリスの魅力の一つなのだろう。もちろん、本人には絶対に言わないが。


「そんなに喜ぶことですか?」

「喜ぶのは私の勝手ですもん!」

「それなら好きにしたらいいですけど」

「これを言いふらすのも私の勝手ですもん!」

「それは好きにしちゃだめです」


 力強く宣言するアイリスだったが、受け流していい部分と、受け流してはいけない部分が入り混じっている。他人の名前の由来を好き勝手に話していい道理はない。


 そして何より、それを話される側からすれば、どう反応するのが正しいのか分からなくて困惑するのは必至である。


 そんなことを話しつつ、ホームに停車しているいつもの電車に乗り込み、いつもの座席を確保する。


「わがままですね」

「それはそっちですからね?」

「あ、わがままで思い出しました」

「はい?」


 膝の上に鞄を置いたところで、アイリスが何かを思い出したらしい。その言葉で思い出すようなことにいいイメージは一つもないが、果たして何を思い出したのか。


「葵さんって、紅茶を飲んだりします?」

「思い出し方がアクロバティック過ぎません? 何から連想したんですか」


 思い出したきっかけからはとても想像できない、まさかの質問だった。一体何がどう繋がって「紅茶」という話題になったのだろうか。


「わがまま、我がママですね」

「は?」


 イントネーションが僅かに違うことだけは分かったが、それ以外は何も分からなかった。アイリスの頭の中では、どんな変換がされているというのか。


「わがままと私のお母さんってことです」

「あぁ……。はぁ……?」


 さらに詳しく解説されて一瞬納得しかけたが、結局何故それが紅茶に繋がるのかは、未だに謎のままだった。首が傾いたまま戻る気配がない。


「そんなことはいいんですよ。それで、飲みますか?」

「たまになら……」


 自分にとっては「そんなこと」ではないのだが、確かにこのまま気にし続けても話は進まない。とにかく尋ねられているのは紅茶を飲むかどうかなので、頻度は低いものの飲みはするという答えを返しておく。


「そうですか! よかったです!」

「ブルーマロウとか」

「もぉー! もおぉー!」

「何なんですか」


 そんな自分の答えにアイリスが一瞬喜んだかと思いきや、次の瞬間にはいきなり横から肩を揺さぶられた。感情が安定していない声が、まだアイリスと自分以外誰もいない車内に響く。


「よくないです!」

「だから何が」

「何でそれを飲んじゃうんですか!」

「そんな怒られ方ってあります?」


 好き勝手しているのは、名前の由来ではなく今の状況ではないだろうか。特定の品種の紅茶を飲んでいることで怒られる状況など、世界中を探してもここにしかないだろう。


「昨日と同じ理由ですよ。ウスベニアオイの別名がブルーマロウなので」

「知ってますよ! それくらいっ」

「本当にどうしました?」


 電車に揺られている訳でもないのに、アイリスの感情が右に左に行ったり来たりしている。


「もぉー……。葵さんにはがっかりです」

「喧嘩を売ってるんですか?」

「女の子の服を着てる葵さんにしか勝てないので、今は売ってないです」

「売ってますよね?」


 その言い方は間違いなく売っている。言い値で買うが、果たしていくらだろうか。


「そんなのどうでもいいです。もう疲れちゃいました」

「朝一から元気がないですね。何かあったんですか?」

「……知りたいですか?」

「花由来ですね」

「ほんとに! そうですね!」


 やり取りは先程と同じでも、その結果は違う。アイリスの昂っていた気持ちが、ただただ落ち着いただけのやり取りだった。




 何故か気分が沈んでいたアイリスを宥めに宥め、とりあえずいつも通りと言えるところまで回復させた。何故こんなことをしなければならなかったのかは、未だによく分かっていない。


「おはよう、葵君」

「おはようございます、碧依さん」

「アイリスさんも。おはよ」

「おはようございます……?」


 そして、始発の駅を発車して数駅通り過ぎた頃。いつもの駅で碧依が姿を現した。数日ぶりだったアイリスとは違い、自分はいつも通りの挨拶を交わす。隣では、何か不思議そうな表情をしたアイリスが挨拶を返していた。


「あれ?」

「どうかした?」


 空いているいつもの席に腰かけながら、碧依がアイリスに問う。


「名前……?」

「あぁ、そのことですか」


 言われてみれば当然の疑問だった。アイリスからすれば、知らない間にお互いの呼び方がいきなり変わったのだから、困惑してもおかしくはないだろう。


「碧依さんに強制されました」

「人聞きが悪いよ」

「何か違いますか?」

「合ってるね」

「合ってるんですね」


 簡略化し過ぎた経緯を話したことで、隣でアイリスが呆れていた。詳しい部分まで話すつもりはないが、どうやらいつも通りの自分達と判断されたらしい。


「へぇ……。そうですか、そうですか……」

「どうかしました?」

「いーえ、別に? 何でもないですよ?」

「明らかに何かありますよね?」


 その顔は笑っているが、何故かそれ以外の感情も宿っているように見えた。何か不満があるのに言い出せないかのような、そんな表情である。


「アイリスさんはね……」


 そんな自分には見透かせないアイリスの思いを、いとも容易く見透かす者が一人いた。


「それ以上はだめです」

「葵君のことを名前で呼ぶのが自分だけじゃなくなったことが、ちょっと面白くないんだよね」

「だめって言ったのにぃ!」


 咄嗟に碧依のことを抑えようとするアイリスだったが、残念ながら言葉だけで止まる碧依ではなかった。そう言われたアイリスの反応から察するに、碧依の考えで正解らしい。言ってみれば、嫉妬のようなものである。


「可愛い嫉妬だよね。自分だけの『葵さん』でいてほしかったんだ?」

「あぁぁぁ……! あぁぁ……!」


 いつかも見たことがある光景。あれはレティシアにやり込められた時だっただろうか。あの時と同じく、アイリスは真っ赤になった顔を小さな両手で覆っている。耳がはみ出しているのも同じだった。


「意外と独占欲が強いね」

「みたいですね。人は見かけによらないです。ちょっと失礼します」


 碧依に断りを入れて、少しだけ距離を詰めた。つまり、アイリスとは距離を取った。


「何で離れるんですかぁ……!」


 顔を覆っていた手のうち、右手がその役割を放棄して、離れようとする自分を引き止めるように腕を掴む。


「いや、何か危ない気がして……」

「何も危なくないですから! だからステイです!」

「アイリスさんのじゃなくて、私のになりたいんだって」

「違います」


 その言葉で、碧依とも距離を取った。すなわち、元の位置に戻った。


「あれ?」

「私の勝ちです!」

「そういう意味でもないです」


 自分を引き戻すことに成功したアイリスが勝ち誇っているが、結果としては引き分け以外の何物でもない。そもそもの話をするならば、自分はどちらのものでもなかった。


「じゃあ葵さんは、素直な後輩の私と、葵さんのことを女装させようとする碧依先輩と、どっちを選ぶんですかっ」

「選択肢が悪意に満ちてるね」

「やってもいないのに、二股をかけてる気分になってきました」


 しかも、その二択で言うのなら、アイリスは既に女装をさせた実績があるのでより罪は重い。


「どうする? 葵君?」

「え? 選ばないとだめですか?」


 面倒なので適当に流す気でいたところに、碧依からまさかの追撃が入った。ただ巻き込まれただけであって、積極的に関わらなくてもよかったはずなのに、である。


「女の子二人に迫られるなんて、男の子冥利に尽きるね?」

「こんなのは望んでないです」


 からかうような表情でそう口にする碧依。もっと違った形で男の子として扱われたかったと考えるのは、高望みだと言うのだろうか。


「多分、選ばないと終わらないよ?」

「ここで私のだって、はっきりさせます!」

「……」

「ね?」


 人生で一番選びたくない二択だった。どちらを選んでも、この後面倒なことになるのが分かりきっている。


 それでも、あえて選ぶのなら。


「……じゃあ、アイリスさんで」

「……へぇ」

「やったぁ!」


 一瞬だけ考えて、そしてアイリスの名前を口にする。その瞬間、いきなり感情が読めなくなった碧依と、破顔一笑するアイリス。二人の反応は正反対のものだった。


「何を考えたのかな?」

「アイリスさんの方が簡単に扱えるからです」

「なんでですかっ」


 アイリスの感情が急転直下、喜びから怒りへと変貌する。そもそもの選択肢が真面目なものではないのだから、自分としても真面目に答えるつもりなど毛頭なかった。


「葵さんまで私のことをちょろいって言うんですか」

「見ていて不安にはなりますね」

「葵君『まで』ってことは、他の誰かにも言われたんだ?」

「クラスの友達に言われました」

「アイリスさんのことをよく見てますね」

「大事にした方がいいよ、その友達」

「二人揃って……!」


 アイリスがやり場のない怒りを抱えていようが、そんなことはお構いなしに電車は走っていく。終点まではあと少し。残りの時間は、再び荒れ模様のアイリスを宥めるために使うことになりそうだった。




「でも、どんな理由でも碧依先輩より私のことを選んでくれたんですから、そこはよかったです」


 早くも本日二度目となった宥めすかしを経て、アイリスから得られた感想がそれだった。


「……」


 そういったところがちょろいと言われる所以なのではないかと思うのだが、当然本人に言えるはずもなく。そっと目を逸らして綺麗に広がる青空を見つめる。


 駅を出てから三人で歩く、いつもの通学路でのやり取りだった。


「ところで葵さん」

「はい?」

「一つ聞きたいことが」

「何です?」


 どうにか普段通りの調子を取り戻したアイリスから、何やら質問が飛んできた。何故か、その目が少しだけ輝いているようにも見える。


「一昨日貰ったあのお花。何て名前でしたっけ?」

「アヤメですか?」

「そっちじゃなくて」


 その言い方の時点で、名前を覚えていることは確定した。そもそも自身の名前と同じなので忘れる訳がないのだが、アイリスは一体何が聞きたいのだろうか。


「アイリス」

「……! それです!」

「何ですか」


 何やら嬉しそうにしているアイリスだが、いまいち考えていることが読めない。


「お花?」


 そこで、一昨日の出来事を知らない碧依から疑問が湧く。宿泊学習で同じ店に行ったとはいえ、店内では別行動だったので知らないのも当然だった。


「宿泊学習の時、変わった花屋に行ったじゃないですか」

「うん。私が行きたがったところだね」

「そこでアイリスのソープフラワーを見つけたので、お土産に買ってたんですよ」

「っ!」

「へぇ。そんなのがあったんだ」

「それの何が聞きたいのかはよく分からないですけど。……何をしてるんですか」


 一通り説明を終えて視線を碧依から戻せば、喜びの段階が一段階上がり、両手を頬に当てているアイリスがいた。その姿はまるで、緩みそうになる頬を必死で押さえているようにも見える。


「ふーん……、なるほど……」


 自分にとっては相変わらず何がしたいのか分からないアイリスの行動も、アイリスと自分を同時に視界に収めることができた碧依は、そこから何かを読み取ったらしかった。


「どうしました?」

「アイリスさんがあんなことになってる理由、なんとなく分かっちゃったかも」

「本当ですか?」

「うん。多分ね」


 やはり、餅は餅屋。女性のことは女性が一番よく分かっている、ということだろうか。やや自慢げな表情の碧依が、その答えを告げるべく口を開く。


「アイリスさんはね、葵君が『アイリス』って言うのが嬉しかったんだよ」

「は……?」

「呼び捨てってことだね」

「あ、そういう……」


 その話を詳しく聞いてみれば、どうやら自分が「アイリス」と口にしたタイミングで、アイリスが反応していたらしい。その時自分は碧依の方向を向いていたので、気付けるはずがなかった。


「そっかそっか。名前で呼ぶのが自分だけじゃなくなったから、今度は葵君から呼び捨てにしてもらおうってことだね」

「正解です!」

「しませんけどね」

「なんでですか!」


 こちらも早くも本日二度目の口癖。打てば響く受け答えが心地よい。


「ま、葵君はそういう性格じゃないよね」

「そういうことです。そういうのはあんまり慣れてないので」

「じゃあ、私で慣れましょう!」


 控えめに断っても、アイリスはやけに押してくる。自分には分からない感覚だが、そんなに呼び捨てがいいのだろうか。


「私の方が後輩なのに『さん』付けは変だなって、ずっと思ってたんですよね」

「今思い付きましたね?」

「そ、そんなことはない……、ですよ?」


 その指摘で目が泳ぎ出したので、間違いなく今思い付いたと確信する。とにかく嘘が下手なアイリスだった。


「素直に認めれば、少しは考えたんですけどね」

「今考えました!」

「嘘を吐いた罰として、呼び捨てはなしです」

「そんな!」


 悲しそうな表情を浮かべるアイリスに少しだけ罪悪感が湧くものの、だからと言って受け入れる訳でもない。素直に呼んでもらえると、本当にそう思っていたのなら、残念ながらまだまだ自分のことを理解できていないということだ。


「とっておきのタイミングでだけ呼ぶことにします」

「呼ばないってことだね」

「『行けたら行く』の亜種です」

「絶対に呼ばないね」

「そんなぁ……」


 アイリスには悪いが、慣れないことはするものではない。機会があるとすれば、劣勢の状況を覆すためにそう呼ぶくらいだろうか。いつかのアイリスの言葉ではないが、呼び捨ては対アイリス用の秘密兵器として取っておくことにするのだった。

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