20. 帰れない場所、帰らない人 (3)
「それじゃあ、そろそろ次に行く?」
時刻は既に午後二時。昼食の時間はとうに過ぎ、再び建物内を適当に歩き回っている中での、碧依の提案である。先程からは特に目的地を決めずにいたが、目に映った気になる店に立ち寄っているだけで、いつの間にか時間が過ぎ去っていたようだった。
集合時刻の午後四時まではあと二時間。ここから次の目的地までは大して離れていないが、その途中に自分の寄り道もある。少し時間に余裕がある方がいいと判断してのことだろう。
「お、もうこんな時間?」
近くにあった時計で時間を確認して、莉花が驚きの声を上げる。時間の感覚を忘れていたのは、やはり自分だけではなかった。
「やっぱり、こういうところって楽しいよね。一日中いられそう」
「ね。しばらくは退屈しなそうだもんね」
お互いに顔を見合わせながらの、碧依と莉花の言葉。女子二人的には、満足はしていても、まだまだあれこれ見て回ることができるようだった。
「最初は大丈夫かなって思ってたけど、僕も意外と楽しめたかも」
「残念なのは、高校生にはなかなか厳しい距離があることですね」
意外にも、悠にとっても高評価らしい。とはいえ、残念ながら地元からは距離があり過ぎて、そう簡単に来られる場所ではない。こんな形でタイミングが合わなければ、次に訪れるのは相当先のことになりそうである。
「葵君の寄り道ってどの辺?」
「次の場所のすぐ近くですね。バスに乗ればすぐです」
寄り道のことを覚えていてくれたのか、少しだけ前を歩いていた碧依が足を止め、確認するように尋ねてくる。その目は、次の目的地よりも自分の寄り道の方が気になっていると、そう語っているような気がした。
「寄り道って言い方をされると、ちょっと気になるな?」
「どうせすぐ分かりますよ」
それは莉花も同じようで。こちらはわざわざ言葉にして興味を示してくる。しばらくすれば寄り道の目的は分かるので、今ここで言うことは特にない。
ただ、莉花が楽しめるような場所ではないことだけは確かだった。
そして、誰にとっても。
「……」
誰にも見られぬまま、誰にも気付かれぬまま、そっと目を逸らす。心に浮かぶのは、後悔と寂しさ。華やかなこの場所には似合わないその感情は、これまで誰にも伝わったことがない、自分だけのもの。
きっと、これから先も一人で抱え込むことになるのだろうと諦めながら、先に歩き出した三人の背中を見つめるのだった。
「え、ここ……?」
「そうですよ」
「でも、ここって……」
バスを降り、五分程歩いたところで足を止める。高い低いはあっても、周囲にいくつものビルが立ち並ぶ中、ここだけがビルの侵食を許していない空間だった。
そこにあったのは、もう見慣れてしまった小さなお寺。さらに詳しく言えば、そこに静かに佇む小さなお墓こそが、この宿泊学習における、自分の一番の目的地だった。
予想もしていなかったであろうその場所に、碧依から困惑の声が上がる。特に口を開きはしなかったが、悠と莉花も同じようなことを考えているのだろう。
「お墓参りってこと?」
「ですね。こんな場所に付き合わせてしまって申し訳ないです」
「いや、それはいいけど……。じゃあ、しばらく一人にした方がいい?」
「そうしてもらえると助かります」
「そっか。だったら、私達は寺の外にいるから」
「ありがとうございます」
自分と碧依が話している間に状況を理解した莉花が、自分のことを気遣うように提案してくれる。普段は自分が楽しいと思える方向へ一直線な莉花だが、こういった場面での気遣いは誰よりもしっかりしていた。
「ほら、二人も行くよ」
「あ、うん……」
「急がなくていいからね、湊君」
少しだけ固まっていた悠と碧依にも声をかけ、背を向けて歩いていく。去り際、悠が一言かけてくれたが、流石にそこまで時間をかけるつもりはなかった。
「……」
三人が去り、ビル街の中にいるとは思えない程の静けさに包まれる。自分以外に訪れる者がいないその墓は、雨風に曝されて少し汚れてしまっていた。
「前に来たのは去年の十月でしたっけ……?」
ここにいると、どうしても独り言が多くなってしまう。周囲に誰もいないからというのも理由の一つだが、一番は目の前で眠る二人に話しかけたい気持ちが強いからだろう。
「もっとこまめに来られたらいいんですけど」
そうは望んでも、先程考えた通り、隣の県までというのは一介の高校生には難しいところがある。
独り言はそこまでにして、汲んできた水と柄杓で汚れを洗い流し、持っていた袋の一つから、つい先程購入したお供え用の花を取り出す。しばらくすれば枯れてしまうのは分かっているが、それでも一時の彩りにはなる。花が大好きだったあの二人も、きっと喜んでくれることだろう。
見た目を一通り整え、しゃがみ込んで手を合わせる。久しぶりになってしまったことへの謝罪、前回来た後から今日までにあったことを、心の内で伝えていく。当然返事はないが、きっと聞いてくれていると信じているからこその、いつもの流れだった。
二分程の時間が経った頃、閉じていた目を開く。僅かな時間でも暗闇に慣れてしまい、眩しさに思わず目を細めてしまった。
今度は明るさに慣れて視界が元に戻るのをじっと待つ。目尻に浮かぶ雫は、眩しさによるものなのか、それとも何か別の理由があるのか。自分自身も理解できないまま、片手でそれを拭い去る。
「……次はお盆の辺りに来ますね、父さん、母さん」
最後にそう声をかけ、小さな墓石に背を向けて歩き出す。その瞬間、少しだけ冷たい風が吹いて、地面に落ちた木の影が揺れる。
「……」
両親に話しかける時ですらこんな他人行儀な話し方しかできなくなったのは、一体いつからだっただろうか。昔はもっと親しく話せていたはずなのに、いつの間にかこうなってしまっていた。
「……」
きっと、もう元に戻ることはないのだろうと、そう思う。口調も、他人との距離感も、何も後悔することがなかった頃の朧気な記憶も、何もかも。周囲が当たり前のように手にしているそれは、どれもこれも、もう自分には手が届かなくなってしまったものだった。
お寺を出たところで三人と合流し、今度こそ最後の目的地へと向かう。あのお寺からは歩いて五分程の場所で、外縁に立ち並ぶ木々は既に見え始めている。
「ご両親の?」
「そうですね」
あの場所に立ち寄った時から、ずっと気になっていたのだろう。歩きながら碧依が控えめに尋ねてきたので、何でもなく見えるように装って両親の墓だと答えておいた。
「遠いところにあるんだね」
「おかげでお墓参りが大変です。そういう理由もあって、できれば今日行っておきたかったんですよ」
「何回も来てるんだ?」
「って言っても、前回から少し間が空きましたけどね」
「あ、そっか」
そう碧依と話している中で、突然納得の声を上げたのは莉花。何やら自分の方を見ているが、一体何に納得したのだろうか。
「莉花? 何かあった?」
話を中断し、碧依が問いかける。
「いや、湊君さ、今日の行き先を決める時とか、街中を歩き回ってる時とか、何かちょっと慣れてる感じがしてたんだよね。何回も来てたからか」
どうやら、そのことに気が付いたらしい。何だかんだ言いつつも、しっかりと周囲を見ている莉花だった。
「……ばれましたか」
「やっぱり」
莉花の言う通り、この街には慣れていた。少なくとも、今この街にやって来ている学校関係者の中では、間違いなく一番と自負できる程である。それこそ、地図を持っていなくても、大抵の場所には迷わず向かうことができる。
「だったら、このチェックポイントまで案内してもらおうか」
都合がいい相手を見つけたと言わんばかりの様子で、莉花がチェックポイントを記した地図を差し出してくる。
「忘れてませんでしたか?」
「私、ルールは守る女だよ」
「その調子で常識も守ってくれると嬉しいんですけど」
「それはできない相談かな」
「胸を張って言うことじゃないですよ」
差し出された地図を受け取りながら、何故か目が合わない莉花をじっとりとした目で見つめる。少しでも効いていればいいのだが、残念ながら、この様子では効果は期待できなかった。
仕方がないので、チェックポイントが記された地図に目を落とす。もうすぐそこなので、仮に案内がなくても簡単に辿り着けるはずの場所ではあったが、そう頼まれてしまっては断れない。
「こっちですね」
きっと、妙な雰囲気にならないようにという、莉花なりの配慮でもあったのだろう。ならば、ありがたく便乗させてもらうことにする。
「ナビがいると楽だわ」
「……」
配慮だと嬉しい。
チェックポイントとして指定されたとある店が見えてきたのは、心の中で首を傾げてから三分後のことだった。
「思ったより広いね」
「ここほんとに街中?」
「一面紫って……」
順に碧依、悠、莉花の感想である。自分が望んだ庭園は、五月に開花を迎える花で埋め尽くされていた。今年は紫色の花を中心に構成されたのか、視界の大半を紫色が占めている。
「ねぇ、葵君」
「何です?」
「これ、何てお花か分かる? いい匂いがする」
そう言って碧依が指差すのは、入口から程近い場所に咲いている花。小花が房咲きとなったその花の名前は。
「ライラックですね」
恐らくは誰もが聞いたことがあるはずの、その名前を口にする。やはり碧依も聞いたことがあったのか、やや驚いたように目を丸くした。
「ライラックって、ライラック色の?」
「それです」
「へぇ……。こんないい匂いがするんだ」
ところどころに白いライラックの花が見られるが、大半はその名の通りライラック色である。碧依がまるで吸い寄せられるように、その花に近付いていく。
「一つ一つは小さいんだね」
「それでも、これだけ集まれば豪華に見えますよね」
「ね。それに、ライラックって紫色だけかと思ってた」
そう呟く碧依の視線の先には、白いライラックがあった。色の名前のイメージが強過ぎて、それ以外を想像できないのはとてもよく分かる。自分も、初めて知った時は意外に思ったはずだ。
「ここにあるのは紫と白だけみたいですけど、他にもピンク色もあるらしいですよ」
「へー……。詳しいね?」
「花好きですから」
まだどこに行くかを決めていなかった時の、碧依の言葉を思い出す。先程からの反応を見る限り、四人の中では間違いなく一番詳しいと断言できる。
「そこまで言うなら、この中も案内してもらおうか」
「任せてください」
後ろで話を聞いていたらしい莉花から、案内役に任命される。普段であればこんな時の莉花の言葉には乗らないのだが、この場所は自分の得意分野である。むしろ望むところだった。
「ちなみに」
そんな形で正式に案内役となったので、早速ある知識を披露することにした。三人の視線を集めるように、一度そこで言葉を区切る。
「うん?」
「誰か、五月十二日か三十日、六月十二日か二十六日が誕生日の人はいます?」
視線が集まったことを確認してから問いかけてみるが、全員の首が横に振られた。どうやらこの中にはいなかったらしい。
「その日がどうしたって?」
何を言いたいのかが分からないといった様子で、莉花が首を傾げる。悠や碧依も、首こそ傾げていないものの、不思議そうにしていることには変わりない。
「今言った四つの日に生まれた人は、ライラックが誕生花です。紫か白かの違いはありますけど」
「全部覚えてるの!?」
「はい」
「一年分!?」
「はい」
「ちょっと異常だよ、君……」
「失礼な」
蓄えていた知識があまりにも予想外なものだったのか、莉花が驚愕の表情を浮かべ、そして全力で引いていた。そこまで気が回らないからなのか、随分と失礼な言い方になっているが、少しだけ好きが高じてしまっただけの話である。
「もしかして、花言葉とか……」
「知ってる花なら」
「全部?」
「はい」
「異常だよ、君……」
「失礼な」
もしかしてといった様子で尋ねられたので認めただけなのだが、何故か異常のランクが少し上がっていた。
「じゃあ、ライラックの花言葉は?」
全力で引いている莉花程ではないが、それでも少し怖いものを見る目でこちらを眺めていた悠から質問が飛んでくる。スマートフォンを手にしている辺り、既に調べているのだろう。
「ライラック全般で言うなら『思い出』、『友情』、『謙虚』。紫のライラックなら『初恋』と『恋の芽生え』、白のライラックなら『青春の喜び』のはずです」
「うわっ……、色ごとの花言葉まで出てきた……」
「しかも合ってる……」
特に考えることもなく答えを口にしたことで、検索した結果と照らし合わせていた悠が、今度は全力で引いていた。
「どんな記憶力をしてるの……」
「好きですから」
「それだけじゃ済まないって」
「かなり異常だからね?」
異常の度合いがさらにランクアップした。これまで意識することなどなかったが、ここまで言われると、流石に自分の行動に少し不安を覚えてしまう。
これまで不安を覚えなかったのは、こんな特技を披露する機会がなかったからという可能性もあるが。
「そんなにですか?」
「……いや、湊君はそのままでいいんじゃない? 自分が思った通りに生きなよ」
「何か誤魔化しましたね?」
「別に?」
一瞬の間といい、今も合わない目といい、莉花が何かをはぐらかしたのは明らかだった。
「記憶力お化けとか、そんなことは思ってないし」
「思ったんですね」
一度誤魔化したのに、結局自ら白状するのが莉花の謎の癖だった。あの僅かな間に、どうやらそんなことを考えていたらしい。
「お化けの葵君」
「それ、もう人間じゃないですよね?」
大事な言葉を省略されてしまった結果、碧依の中で自分が人間ではなくなっていた。そうして意識してみると、未練は大量にある。
「あっちの方も違うお花みたいだし、行ってみない?」
そんな碧依が指差す方向には、目の前のライラックとはまた少し違った紫色が広がっていた。ここからでは遠くてはっきりとは見えないが、ライラック以外の花が植えられているらしい。
「ここ、まだまだ入口だからね。ほら、行くぞ、お化け」
「誰が」
抗議の声を上げるも、既に背中を向けている莉花には届かない。届いたところで、聞こえなかったことにされてしまうのは目に見えていたが。
「頑張ってね、お化け君」
「羽崎君までそっち側ですか」
「こんな時くらいしか、湊君のことはからかえないからね」
珍しく意地悪そうに笑う悠も、自分を置いて先に歩き出す。揺れるスノーホワイトの髪が、紫色によく映えていた。
「ほらほら、お姫様二人が先に行っちゃったよ?」
「せめて一人にしてあげてください」
そうしてからかわれたとしても、流石にその言葉は否定してあげたかった。振り返ることがなかった辺り、どうやら悠には聞こえていなかったようだが、これを放っておくといつか矛先が自分にも向くような気がした。
「案内、私も楽しみにしてるからね」
「……そんな風に言われたら、もう頑張るしかないじゃないですか」
これまでは悪戯っぽい口調だったのに、そこで急に柔らかな口調に変わる碧依。白いライラックを背にしたその一言は、こんな場面では反則とも言えるような一言で。
「……『無邪気』」
「うん? 何?」
「何でもないです」
白いライラックのもう一つの花言葉を思い浮かべてしまったのは、ほとんど無意識のことだった。ある意味今の状況にぴったりなどと考えつつ、先を行く悠と莉花を追いかけるように、二人揃って歩き出すのだった。
「はい、これは?」
とうとう自分の方に目を向けることすらしなくなった莉花から疑問が湧く。その視線は、目の前の釣鐘型の花に注がれていた。
「カンパニュラです」
「カンパニュラ……。聞いたことがないかも」
「あんまり身近な花じゃないですからね。ラテン語で『釣鐘』って意味です」
「そう言われると、確かに釣鐘っぽい形……?」
釣鐘型とは言っても、どちらかと言うと横向きや上向きの花を咲かせるカンパニュラ。ここに植えられているのは薄紫色をメインとしているが、先程のライラックとは違ってある程度青紫色の花も混ざっていた。
同系統の色ではあるが、完全に一色で染まっているよりも見栄えがいい。白いライラックといい、よく考えられた構成だった。
「葵君。こっちは違うお花じゃない?」
「どれです?」
「ほら、これ」
すぐ近くで別の花を見ていた碧依に呼ばれて、そちらに近付いてみる。そこにも、カンパニュラと同じく鐘のような形をした花が咲いていた。
「クレマチスですね」
「クレマチス?」
クレマチスの花が風に吹かれて頭を傾けるように、碧依も聞き馴染みのない名前に首を傾げていた。その奇妙な一致を横目に、言葉を続ける。
「ヴィオルナ系とか、テキセンシス系って呼ばれる品種です」
「ほんとに詳しいんだね」
「特技の一つですから」
いつの間にか覚えてしまっていたものではあるが、今役に立っているのなら、覚えた甲斐があるというものだ。碧依の眼差しには感心以外の何かが混ざっているような気がしたが、それには気付かなかったことにする。
「あっちのカンパニュラ、だっけ? あれもそうだけど、釣鐘型のお花って可愛いよね」
手が届く位置に咲いたクレマチスの花をそっと手の平に乗せ、碧依が呟く。午前中も特殊ではあったが花屋に行きたがっていた辺り、何となく自分と好みが近いような匂いがした。
「それで? 名前が出てきたってことは、ここの二つも知ってるんでしょ?」
「どっちからにします?」
「カンパニュラで」
今まで眺めていた付近を指しながら、莉花が答える。何を求めているのかが分かりにくい言葉ではあったが、これまでの流れを知っている自分であれば、その意図を想像するのは難しくない。
「三月七日、四月二十三日、五月十五日、七月八日。誰かいます?」
誕生日を羅列してから再度三人を見回すが、やはり当てはまる者は一人もいない。そもそも、そんなピンポイントで誕生花が咲いている方が珍しいだろう。
「いませんか。ちなみに、花言葉は『感謝』、『誠実』、『節操』ですね」
「誠実と節操は湊君に必要だね」
「は?」
何もした覚えがないのに、いきなり莉花にけなされた。思わずいつもよりも幾らか低い声が出る。
「喧嘩なら買いますけど」
「葵君、意外と好戦的だよね」
「節操もなく女の子の好感度を稼ごうとする湊君には、誠実さが足りてないよ」
「表に出ます?」
「ここが表だよ」
律儀に突っ込みを入れてくれているのは碧依だけで、悠は無言で気配を消していた。こんな時に関わってもろくなことにならないと、しっかり理解しているようだった。この四人の中での立ち回り方を徐々に確立している。
「花にやたら詳しいのも、人によってはポイントが高いのかもね?」
「よし、やりますか」
「どうどう。落ち着いて、葵君」
両手を差し出しながら、どうにかして自分を止めようとする碧依。その気の抜ける声に、少しだけ冷静さを取り戻す。
「……いきなり何ですか」
「いや、湊君、何かそういうポイントはしっかり押さえてそうだなって」
「気にしたこともないです」
「ちなみに、詳し過ぎて最初はちょっと引いたけど、好きなものがあるのはいいことだよね。私の好感度はちょっと上がりました!」
「上がったのに喧嘩を売られたんですか?」
「そこはご愛嬌」
ご愛嬌で済ませていい言葉ではなかった気がするが、明朗快活に笑う莉花を見ていると、そんな気分も薄らいでいく。好きなものに囲まれたこの場所で、あまり悪い感情のままでいたくなかったということも大きい。
「……もういいです。で、こっちですよね」
一部の感情を脇へと追いやり、碧依が手に取っていたクレマチスに目を向ける。
カンパニュラと同じく釣鐘型のその花。だが、クレマチスの方がどちらかと言うとややくびれが強い印象だ。
「五月三日、九日。七月一日、二日。九月十二日です。花言葉は『精神の美』、『旅人の喜び』、『策略』です」
「何その花言葉。変わってるね」
雰囲気が元に戻ったことを正確に察した悠が、そこでようやく会話に参加してきた。やはり立ち回りが上手くなっている。
「由来はありますけど、そこまで話すと長いので省略しますね」
「由来まで覚えてやがる……」
新たな情報を捻じ込まれた莉花がぼそりと呟く。もう新情報の開示はないので、こんな莉花の反応もしばらくは見納めである。
何も惜しくはない。
「そして、案の定誕生花の人はいない、と」
「もういっそ、葵君に誕生日を伝えて、誕生花が何なのか教えてもらった方が早いよね」
「逆引きだ」
「辞書扱いですか」
人を便利な道具か何かのように扱う碧依と莉花だが、よくよく考えてみれば自分でもあまり否定はできないので、それ以上は何も言えなかった。
「おだてても誕生花くらいしか出ませんよ」
「おだててはないぞ」
「誕生花は出るんだね」
ついでに言えば、まず間違いなく花言葉も出る。
「それじゃあ、私から! 二月六日です!」
「菜の花ですね」
「早……。やっぱり引くわ」
「菜の花か。綺麗でいいお花だよね」
「そう? ま、確かに聞いたことがない花よりはいいかも?」
碧依に羨ましそうに言われたのが嬉しかったのか、莉花の口元が微かに緩む。言葉にはあまり感情を乗せていないつもりなのだろうが、残念ながら「つもり」であって、そこからも思いきり感情が溢れ出していた。
ちなみに、花言葉は「快活」と「明るさ」である。図ったかのように莉花にぴったりの誕生花だった。
「僕は六月十五日なんだけど、この日は?」
「ヤマボウシ。ちょうど今くらいの時期に咲く花です」
「ヤマボウシ……。初めて聞くかも」
「僕が見たことあるのは、花弁が四枚の白い花ですね。食べられる実が生るそうですよ?」
「へぇ……。機会があったら探してみようかな?」
悠の誕生花はあまりメジャーなものではなかったので、本人も見た覚えがないらしい。街中で見かける印象はないが、一体どこを探すつもりなのだろうか。もちろん、本人がやる気なら止めはしないが。
「十二月十九日は?」
「スノーフレーク。釣鐘型に縁がありますね。スノーフレークも釣鐘型の白い花です」
「名前の響きが綺麗過ぎない? ずるいよ、碧依」
「日頃の行いがいいからね」
「それは違うと思います」
今度は反対に莉花が羨ましがる番。カンパニュラ、クレマチスと、釣鐘型の花を見てきた中で、碧依の誕生花はまたしても釣鐘型のスノーフレークだった。日頃の行いが誕生花にまで影響を与えるのかは知らないが、少なくとも碧依の全ての行いがいいとは言いきれない。大半の行いはよくても、そうでない時の振りきれ方が尋常ではない。たまに被害を受ける身としては、その評価は納得できないものである。
「わ! 可愛い!」
だが、自分の納得など碧依には関係ない。どうやらスノーフレークの写真を検索していたようで、お目当てのものを見つけたらしい。
「どれどれ……?」
その声に釣られて、莉花も碧依のスマートフォンの画面を覗き込む。その途端、可愛いものを目にしたはずの莉花の顔に、小さな不満の色が浮かんだ。
「はー……。やっぱりずるいって、こんなの。私もこういうのがよかった!」
「私の勝ち」
「勝ち……?」
「気にしたら負けですよ」
碧依の言葉に悠が疑問を抱いているが、特に深い意味はないはずなので、考えるだけ無駄だ。立ち回り方は成長していても、受け流し方はまだ習得していないらしい。
「湊君!」
「はい」
不満の色そのままに、莉花の視線が自分を向く。たったそれだけの仕草なのに、もう嫌な予感がした。
「私の誕生花を変えてくれ!」
「どこかの団体にでも頼んだらいいんじゃないですか?」
「手っ取り早く!」
案の定、面倒なことを言い出した。最早自分がどうこうできる範囲を逸脱してしまっている。
それでも莉花は真剣なようで、半ば懇願するような眼差しで自分を見つめてくる。
「できれば碧依と同じような花で!」
「できる前提で話を進めないでくださいって」
何がどうなって誕生花を変えられると考えたのか。できるなら、その思考回路を教えてほしい。
「……変えることはできないですけど、一つの誕生日にいくつか誕生花が設定されてますよ」
それでも、このまま放っておいても懇願が取り下げられることはないと悟り、小さく息を吐いて代わりの案を提示する。
「二月六日は?」
「何と言うか、奇跡的と言うか」
「うん?」
そこで首を傾げる莉花。自分の言葉から何かを感じ取ったのか、ほんの少しだけ瞳に期待が宿ったような気がした。
「黄色のスミレ、黄色のクロッカス。それに、ブルーベルです。その名の通り、そしてお望み通り、青い釣鐘型の花ですよ」
「……ほんとに?」
「本当に」
「……適当に言ったのに、まさかあるとは思わなかった」
適当と自覚しながらの発言だったそうだ。とても迷惑な話ではあるが、とにかく望んだものが手に入って満足したのならそれでいい。隠しきれない喜びが、莉花の呟きの端から漏れ出していた。
「ちなみに、ブルーベルの花言葉は『謙遜』なので、これからは穏やかにお願いしますね」
「それは無理。諦めて」
「いっそ清々しい即答ですね」
端から期待はしていなかったが、ここまで即答されるとそれはそれで思うところはある。これ以上何かを言っても無駄だと分かっているので、口を閉ざすのみなのだが。
そんな話をしながら歩みを進めていると、この庭園におけるこの時期の名物が見えてきた。加えて言えば、自分がこの三日間で最も楽しみにしていた場所でもある。
空が見えなくなる程の藤色の花。今がまさに見頃を迎えた藤棚だった。
「……」
もう何の言葉も出なかった。
見上げれば一面の藤の花。空が藤色になったのではないかと錯覚してしまう程の満開具合である。
手を伸ばせば届きそうな高さで咲き誇るその花々は、それでもどこか触れてはいけないような、そんな神々しさすら感じさせた。古くには高貴な色とされていたその事実も、この景色を見れば誰もが納得するに違いない。
僅かな隙間からは陽の光が差し、地面に影を落としている。その影すらも藤色に染まってしまったような、そんな気がした。
「……」
この空間だけが明らかに周囲から隔絶されている。これまでは微かに聞こえていた喧噪も、この場所には届かない。聞こえるのは、足元に引かれた水路を流れる水の音だけ。その水面すら、散った花びらを湛えて藤色に装いを変えている。
「はぁー……」
「これは見に来た甲斐があったわ……」
「確かに。凄いね、これ……」
自分の少し前にいる三人も抱いた気持ちは同じようで、皆一様に花を見上げている。碧依に至っては、まともな言葉も出せず、口が少しだけ開いたままになってしまっていた。
「……」
無言で何枚か写真を撮る。この光景を目に焼き付けるのは当然として、やはり形に残るものにもしておきたかった。
「写真、撮ってあげようか?」
その音で気付いたのか、一心に藤棚を眺めていた莉花がそう提案してきた。一瞬心が揺れるも、すぐに気を取り直して口を開く。
「……いや、やめておきます。ここは人が映り込んでいい場所じゃない気がするので」
「どんな感想よ、それ。分かるけどさ」
この空間の主役は、あくまで藤の花。そこに人という不純物が映り込んで、その純度を下げたくはなかった。風景を切り取るのなら、なるべく高純度を目指したい。
「ここにも来たことがあるの?」
「この場所は何度かありますけど、この藤棚が満開のタイミングで来たのは、今日が初めてです」
「へぇ……。ま、何にせよ、いいものを見させてもらったよ。ほら、碧依なんて、開いた口が塞がらなくなってる」
莉花が指差す先では、碧依が先程までと全く同じ姿勢で固まっていた。気のせいなのか、指先一つ動いていないような気配すらある。ここまでになると、意識がはっきりしているのか心配になってしまう程だ。
「はぁー……」
「ほら、おんなじことしか言ってない」
「口が半開きのままってところも、ポイントが高いですね」
藤棚にやって来てから、その視線はずっと斜め上に固定されたまま戻って来ることがない。それだけ、この藤の花には人の目を釘付けにする何かがあった。
全員が一か所に固まっていても仕方がないので、そこからは各々が藤棚の下を自由に歩き回る。全体を見渡していた時はどこも同じように見えたが、近付いてみると僅かな違いが見て取れた。
花や葉の密度が違うところや、光の当たり具合の違いなのか、花弁の色が少し濃く見えるところもあった。そのいずれも、なるべく綺麗に写真に収めていく。
そうこうしていると、少しだけ離れたところに碧依がいることに気が付いた。流石に口は閉じていたが、相変わらず視線は上を向きっぱなしである。
心ここにあらずといった表情で花を見上げる碧依と藤棚が、どこか幽玄な風景として自分の目に映る。風景を撮る時にはなるべく人を入れたくないとは言ったが、何となくこの景色は残しておきたくなってしまった。後から話の種にでもできるだろう。
「……」
一枚だけ、異質の写真を残す。スマートフォンの画面には、撮った写真のサムネイルがずらりと並んでいる。藤色の空が映り込んだかのように画面が一色に染まる中、ただ一人、碧依だけが佇んでいた。
「……?」
そんな画面から視線を戻せば、碧依が再びゆっくりと歩き始めたところだった。その先にあるものを見て、少しだけ慌てて碧依に近寄る。
「碧依さん」
「え……?」
その手首を掴んで歩みを止めさせる。そこでようやく碧依の視線が地上に戻ってきた。いきなり手首を掴まれたことで驚いたのか、視線がそのまま自分の方へ向く。
「見惚れるのは分かりますけど、足元には気を付けてくださいね」
「足元?」
そして、地へと向かう。
碧依が足を向けた先。そこには、花弁が揺蕩う水路があった。
「あ……」
「気付きました?」
「うん、ごめんね。ありがと」
「いえ。でも、上ばっかり見てしまうのも分かります」
碧依が視線を地に戻した代わりではないが、今度は自分が見上げる。
吹く風にその身を揺らしている藤の花。滝から水が流れ落ちるようにその花を垂らす景色は、どれだけ眺めていても飽きることがない。
「葵君がこの場所を出してくれなかったら、これは見られなかったんだよね」
足元に気を付けながら、再び藤棚を見上げる碧依。何やらむず痒いことを言ってくれているが、正直な話をすれば、純粋な気持ちでここに来たいと言った訳ではなかった。
「……向こうの二人には内緒ですけど」
「うん?」
素直に喜んでくれているであろう碧依にこれを言ってしまってもいいものかと、一瞬だけ悩む。だが、結局打ち明けることにした。
「ここを提案したのは、お墓参りに行きたかったからなんです」
「お墓参りに?」
その言葉が予想外だったのか、碧依の声音が不思議そうなものに変わる。
「です。ここからなら近いので、何とか理由を付けて立ち寄れないかと思って。結局、昨日の勝負のおかげで堂々と行けましたけどね」
そういった意味では、あの勝負は渡りに船だったのかもしれない。勝てるとは限らない時点で、泥船の可能性も秘めていたが。
「そっか……。けど、理由がどうであれこの景色が見られたのなら、それだけで私は満足かな」
「そう言ってもらえると助かります」
「でも、あれだね。葵君が自分のためにって、なかなかないよね」
「そうですか? 結構私利私欲に走りますよ?」
「そう言われると、よく羽崎君とかを身代わりにしてるかも……?」
「あれは必要な犠牲です」
本人がいないところで、散々な言いようだった。これも本人には内緒にしておかなければならないことである。
「つまり、羽崎君がいないところでなら、葵君を追い詰めることができるってこと?」
「そう易々と追い詰められるとでも?」
「何? やる?」
「望むところです」
幻想的な風景の中、何故か火花を散らし始める自分と碧依。場所は変わっても、その関係性は何一つ変わらなかった。
「二人共ー! そろそろ時間!」
悠からそんな声が聞こえてきたのは、まさに決戦の幕が切って落とされる、その瞬間だった。
その言葉で藤色を反射する腕時計に視線を落とせば、時刻は既に午後三時四十分になっていた。ここから集合場所となっているバスの駐車場までは十分程度なので、余裕を考えるのであれば、そろそろ向かった方がよさそうな時間である。
「今日のところはこれぐらいにしておいてあげるよ」
「それ、負け台詞なのは理解してます?」
自分の腕時計を横から覗き込んで時間を確認していた碧依もその結論に至ったようで、切って落とされてなくなったはずの幕が、何故か無事に下ろされた。
「そんなことはいいから。ほら、行こ?」
自分の言葉を綺麗に受け流し、碧依が先に一人で歩き出す。一人取り残された自分も、小さく息を吐きながら、それでもどこか満足したような気持ちで後に続く。
前を行く碧依は、両手を後ろで組みながら歩いている。最後にもう一度、この藤棚を目に焼き付けようとしているのか、頭が少し後ろに倒れているように見えた。
その様子も写真に収めてしまおうかと迷いはしたが、悠や莉花に見られている今、写真を撮れば何を言われるか分かったものではない。その景色は心の中にだけ留め、少しだけ、歩く速さを上げるのだった。
「湊君」
帰りのバスの中。出発してからしばらく経ったところで、後ろに座っていた莉花から何の前触れもなく名前を呼ばれた。何故かは分からないが、もうこの時点で嫌な予感がする。
「……面倒事ですか?」
「よく分かってるね」
「否定しないんですね」
「否定しても、面倒事には変わりないぞ」
即座に面倒事と見抜かれても、莉花には話すのを止めるという選択肢が最初から存在していないらしい。ならば、自分にできることは腹を括るだけである。
「で、何です」
「さっき、碧依の写真を撮ってたでしょ」
「私の写真?」
そうして莉花から指摘されたのは、先程の藤棚での出来事だった。まさか自身が関わっている話だとは思っていなかったようで、碧依が莉花の隣で反応する。
その声を聞きながら、通路側を振り返る。思ったよりも近いところに莉花の顔があって驚きはしたが、今はそんなことを考えている場合ではない。
まさか、あの場面を見られているとは思っていなかった。そんなに広い空間という訳でもなかったが、誰も何も言ってこなかったので、てっきり誰も見ていないものだと考えていた。何より、あの時の全員の視線は藤棚にほとんど固定されていたようなものなので、油断していたということもある。
「撮りましたね」
とはいえ、見られていたのなら、もう誤魔化すことはできない。そもそも誤魔化す必要がないということもあるが、とにかく隠すこともなく認めてしまう。
「お、素直に認めるんだ」
「別に隠すようなことじゃないですから。見ます?」
「見たい!」
返事が分かりきった質問である。答える声がやたら楽しそうなことを除けば、やり取り全てが予想通りだった。
その答えを受けて、撮った写真を画面に表示したスマートフォンを莉花に渡す。
「ほぉー……」
「どんな感情ですか」
「いやぁ……、これは、うん。撮りたくなるのも分かる」
「どんなの?」
「こんなの」
莉花の感想で自身が写っているという写真が気になったのか、自分のスマートフォンがそのまま碧依の手に渡る。
「う……。知らないうちに撮られた写真を見るのって、何か恥ずかしいね……」
「優しいね。盗撮って言いなよ」
「人聞きが悪いんですよ」
言葉だけを聞けば、そう思われても仕方がないのだが。
「でも、いい写真だから許します!」
「どうも」
声にやや恥ずかしさが残る碧依から許可とスマートフォンを受け取って、再び莉花に意識を移す。
「碧依さんの写真を撮ってるところなんて、よく気付きましたね」
「はい、これ」
「何です?」
今度は反対に自分が莉花からスマートフォンを受け取る。その画面に映し出されていたのは。
「碧依の写真を撮る湊君の写真」
「どんな二重構造ですか」
「思わず」
自分が碧依と藤棚を撮ろうとしている姿が、綺麗に写真に収められていた。撮るのにそこまで長い時間をかけてはいなかったはずなのに、よくこの瞬間を上手く撮影できたものだ。
「湊君、湊君」
「何です?」
「はい、これ」
そして、隣の悠からも何故かスマートフォンを渡される。この時点でもう何かを察したが、それでも一応その画面を確認する。
「……」
「水瀬さんの写真を撮る湊君の写真を撮る渡井さんの写真」
「私かい!」
自分の想定より一人多い、まさかの三重構造だった。てっきり悠も二重構造だと思っていたので、予想を裏切られた形である。一瞬しかシャッターチャンスがなかったはずなのに、よく三人を上手く一枚に収めたものだ。
「そんなわけで、ばればれだったよってお話」
「知らぬは『あおい』二人組ばかりなりってね」
「そういう風に言われると、何か悔しい」
「碧依は上ばっかり見てたからね」
「おかげで写真も撮り忘れました!」
「そこの人がたくさん撮ってたし、貰えばいいんじゃない?」
「僕ですか?」
視線は残念そうにしている碧依に向けながら、けれども指先は自分に向けながらの、莉花からのいきなりの指名。別に写真を渡すことに異を唱えるつもりはないが、一つだけ問題があった。
「碧依さんの連絡先、僕は知りませんよ?」
「は? 一か月も一緒にいて?」
「はい」
「確かに交換してなかったね」
「こいつら……」
莉花が呆れ返ったような表情をしているが、特に必要になる場面もなかったのだから、交換していなくても不自然ではないだろう。異性で連絡先を交換するとなれば、同性同士よりも少しだけハードルが上がるうえに、そもそも自分が積極的に連絡先を交換するような性格をしていないことが大きく影響しているのだった。
「交換する?」
「いいんですか?」
「写真は欲しいしね。それに、葵君なら悪いようにはしないでしょ?」
「それは、まぁ」
「じゃあ、はい」
そう言って、碧依がこちらにスマートフォンの画面を向けてきた。通信アプリのコードが映っていたので、それを読み取って、登録されている友人の数を一人上積みする。
上積みしたところで、同世代の平均よりもずっと少ない数なのだろうが。
「じゃあ、撮った写真は後でまとめて送っておきますね」
「うん。お願い」
そして、会話が途切れる。
バスの中の喧噪は、これまでで一番小さかった。三日間で溜まった疲れが出たクラスメイトが多いのか、寝息を立てている者も多い。自分も、瞼を閉じる程ではないものの、多少の疲労感に包まれてはいた。
「……」
何の気なしに、窓の外の水田を眺める。一面に水が張られた水田は鏡のようにうろこ雲を映し、まるでもう一つ空が現れたかのような風景が広がっていた。
碧依と連絡先を交換してから三十分程して、バスは高校の敷地内に停車した。見慣れた校舎に、帰ってきたという実感が湧く。案内によれば今日はこのまま解散のようで、あとは自由に下校してもよいとのことだった。
バスを降りて、自分の荷物を受け取る。
「皆はどこか寄るところとかある?」
碧依が問いかけるが、流石に誰からも声は上がらなかった。わざわざ言葉にはしないが、やはり疲れているということなのだろう。
「なさそうだね。じゃあ、皆で帰ろうか」
「私は校門を出たところから別方向だけどね」
「莉花もそこまではってことで」
「短過ぎて寂しいので、今度のデートの話でもさせてください」
「いいよ。言ってたお店以外にもどこか行こうか?」
帰ってきたばかりというのに、碧依と莉花はもう次の予定の話をしている。もしかすると、疲れているのは自分だけで、二人はまだまだ元気なのかもしれない。
「行きましょうか」
「そうだね」
一瞬こちらを見てから背を向けた碧依と莉花を追いかけるように、悠と並んで歩き出す。すぐに追いついて、四人揃ってまずは校門を目指す。他のバスから降りてきた生徒も合流して、人の流れができあがる。
気が付けば、もうすぐ日没の時間。今日最後の輝きと言わんばかりに世界をオレンジ色に染め上げる西日を背に受けながら、足元の影を追いかける。
長かったようで短かった二泊三日の宿泊学習は、こうして穏やかに終わりを告げたのだった。




