100. 重なる想い
「おはようございます」
「ひゃあ!?」
「……」
いつも通り後ろから声をかけたら驚かれた。
「お、おはよう、ございます……」
「何かありましたよね?」
「聞くまでが早いんですよ……!」
朝から元気なのかそうでもないのか分からない、いきなり忙しいアイリス。二月十四日、水曜日。朝の駅舎での出来事だった。
「そんなに分かりやすいですか?」
「あんなに驚いてたら、誰だって何か考え事をしてたなって思いますよ」
「合ってますけどぉ……」
恥ずかしそうに目を逸らすアイリス。やはり、考え事をしていて心ここに在らずになっていたという予想は正解だったらしい。
「何を考えてたかは内緒ですからね?」
「そこまで言うんだったら聞きませんけど」
「あれ? 意外とあっさり手を引いてくれるんですね」
「まぁ、色々ありますから」
徹底抗戦の構えを見せていたアイリスの警戒が薄れていく。どうやら、もっと根掘り葉掘り尋ねられると思っていたようである。
だが、それも自分にいつも通りの余裕があればの話だ。鞄の中に忍ばせたあるものの存在を思うと、途端に心の中から余裕は消え去っていく。
「あ、何か誤魔化しましたね」
「何を考えてたかは内緒です」
「おんなじことを言われちゃったら、私も詳しく聞けなくなっちゃうじゃないですか」
「狙い通りです」
「もぉー……」
相変わらずころころと変わる表情を可愛らしく思いつつ、人差し指を口の前に立てる。普段はなかなかしない仕草だったが、今はついつい出てしまった。思いの外、心持ちがいつもと違うのかもしれない。
「あ、さっきの指を立てる仕草、可愛かったですね」
「……」
もしかすると、アイリスの方はいつも通りなのかもしれなかった。
「さっきから思ってたんですけど、その袋はどうしたんですか?」
電車に乗り込んで、そしていつもと同じ席に腰を下ろして。アイリスが不思議そうに尋ねてきたのは、その少し後のことだった。
「これですか? あんまり量は多くないですけど、昨日クッキーを焼いてたんですよ」
「……」
「今日はそういう日ですからね」
「……っ」
袋に目を落としながら答える。そこまで大きくない紙袋の中には、これまたそこまで大きくない六つの包み。その中から三つを取り出して、アイリスへと差し出す。
「そんなわけなので、どうぞ」
「あっ……。え、三つ?」
「アイリスさんの分と、残りの二つは星野さんと長峰さんの分ですね」
「紗季と純奈にもですか?」
「本当はちゃんと渡せたらいいんでしょうけど、今日会うか分かりませんから。アイリスさんから渡しておいてもらえると助かります」
「……そういうことなら渡しておきますけど」
「アイリスさん?」
差し出した三つの包みを受け取ってくれたのはいいものの、その顔には微かに不満が浮かんでいるように見受けられた。今のやり取りで、アイリスがそうなってしまうようなことが何かあっただろうか。
「あ、いや、何でもないです。ちゃんと渡しますから」
そうかと思えば、すぐにそんな色は消えていつも通りのアイリスが戻ってくる。それこそ、一瞬垣間見えた表情が自分の錯覚だったのではないかと思う程だった。
「三つ全部独り占めするのはだめですからね?」
「しませんよ。私のことを何だと思ってるんですか」
そんな軽口に、今度は軽い苦笑いが返ってくる。
「……」
「葵さん?」
やはり、いつもとは違う。これまでのアイリスなら、今の軽口に苦笑いを浮かべて返事をすることはなかったはずだ。あるとすれば、先程見せた不満げな表情か、さらに一歩踏み込んで微かな怒りの表情だろう。
もちろん、アイリスの全てを理解しているなどという、烏滸がましいことを考えたりはしない。自分の予想はあくまで予想であって、必ずそうなるとは限らない。
それでも、違和感を覚えたという事実が消える訳ではなかった。
「やっぱり、何か違う気がするんですよね……」
「何がです?」
「アイリスさんの反応です。さっきから何か違和感があるというか……」
「……」
目を逸らされた。あまりにも露骨なサインである。
「さっきの考え事のせいなんですかね?」
「……内緒です」
「はぁ……?」
それはもうほとんど答えのようなものだが、その中身までは窺い知ることはできない。できるのは、ただただ曖昧な言葉を口にすることだけだった。
「おはよう、二人共」
「おはようございます」
「おはようございます。降り口はそこですよ」
「あれ? 何で今日は何もしてないのに帰らされそうになってるの?」
停車と発車を繰り返すこと数回。碧依の最寄り駅に辿り着いた後の、ほぼいつも通りと言えるやり取りだった。
「『今日は』ってところに闇を感じますね」
「褒められても何も出ないよ?」
「どこに褒めてる要素がありました?」
必要のない部分でメンタルが強過ぎる碧依だった。全く以て見習いたくない部分である。
「まぁ、そんなことはいいとして」
「そんなこと?」
「いいとして」
「あ、はい」
有無を言わさず押しきられた。こんなところでもメンタルの差が影響している。
「アイリスさん、何かあったの?」
「前から言ってますけど、日頃の行いが悪過ぎるんじゃないですか?」
「葵さんの言う通りです」
「愛情を込めてるつもりなんだけどなぁ……?」
「感じたことはないですし、そもそもいらないです」
ばっさり。そんな音が聞こえてきそうな程に鋭いアイリスの言葉が、綺麗に碧依を切り裂いた。相変わらず、碧依と莉花に対する攻撃力の高さは健在だった。
「あー……」
「な、何です?」
そんなアイリスを、碧依が何やら思うところがあるような様子で見つめていた。あれだけ辛辣な言葉を重ねたのに、それでも引かない碧依に、流石のアイリスも少しだけたじろいでいる。
「今日はこっちに座っちゃおうかな?」
「……何でこっちに来るんですか」
「んー?」
自分を挟んで何をしているのかと思えば、何故か一度座ったはずの碧依が立ち上がり、アイリスの隣へと移動した。電車が動いているのに、危なっかしいことこの上ない。
そうして出来上がったのが、自分と碧依でアイリスを挟みこむ形。二月にもなって初めてとなる座り方だった。
「今日だけはこっちの方がいいかなって思って」
「何か企んでますね?」
「企むって言うか、葵君には聞かせられないこともあるなって」
「僕ですか?」
碧依が何を企んでいるのかは知らないが、どうも自分も関係していることらしい。とは言っても、心当たりは全くない。
「例えば……」
何とか思い当たる節を探している自分を尻目に、碧依がアイリスの耳元に顔を近付ける。言っていた通り、自分には聞かせられないこととやらを呟くつもりなのだろう。
「……が……しいのって、……らで……?」
「なぁ!?」
「ほら」
「いきなり何を言ってるんですか!?」
電車の音に紛れて碧依が何を言っているのかはほとんど聞き取れなかったが、はっきりと聞こえていたはずのアイリスの反応は、実に分かりやすいものだった。
有体に言ってしまえば、マフラーの赤に負けず劣らずの頬の色である。
「でも、合ってるでしょ?」
「そうですけど……! 今ここで言わなくたっていいじゃないですかぁ……!」
「とまぁ、アイリスさんがこんな感じになっちゃうことを言うつもりだったので、こっちに来ました」
「何を言ったのかは知りませんけど、そういうことをしてるからアイリスさんが懐かないんだと思いますよ」
「でも、反応がいいからやめられない……!」
電車の中では初めてと言っても過言ではない、二人が同時に視界に収まった光景。記念すべき、と言ってしまっていいのかは微妙なところだったが、とにかく視界に収まる二人は共に頬を赤く染めていた。
その理由がそれぞれで全く異なるものであったことは、最早言うまでもない。
「そういえば、葵君が持ってるそれってもしかして……?」
「あんな話があったので、せっかくですし作ってきました」
「おぉ……!」
依然として寒さは厳しいものの、積もった雪はなくなって歩きやすくなった通学路。電車の中での変わった並びのまま歩く中で、碧依が先程から気になっていたといった様子で尋ねてきた。
「トリックオアトリート!」
「不正解で没収です」
「あぁ!?」
三か月半も時期を間違えた一言を、何故か自信満々に叫ぶ碧依。思わず、持ち上げた紙袋を碧依から遠ざけるように下ろしてしまった。
「じょ、冗談だって! ほら! 私も持ってきたから!」
「そこまでになるんだったら、何でわざわざあんなことを言ったんですか」
「ごめんって。つい……」
若干の反省の色を浮かべた碧依が、小さく首を傾げる。一般的に考えるなら、あの程度のおふざけでこの仕草なら、十分にお釣りが来るくらいだったのだろう。自分にとってはちょうどの支払いだったが。
「あとで三人揃った時に渡しますよ」
「はーい。楽しみにしてまーす」
まるで小さな子供のように片手を上げて返事をする碧依。これで横断歩道でも渡っていたら完璧だったのだろうと、そんなくだらない想像が頭の中に浮かんだ。
「……私の方が先に貰いましたもん」
「お?」
「おんなじものかもしれないですけど、それでも一番に貰ったのは私です」
何故かデフォルメされた碧依が横断歩道を渡るシーンを脳内で再生していると、何やらあからさまに不機嫌そうな声が隣から聞こえてきた。発信源は言うまでもなくアイリス。
「何? 嫉妬……、はちょっと違うか」
「どうしました?」
「……」
そんな様子が気になって尋ねてみるも、返ってきたのは視線だけ。その目も、いつもより少しだけ細められていた。
「……何でもないです」
「いや、何でもないようには……」
「何でもないですもん」
「はぁ……?」
どう見ても何かあったようにしか見えないが、どうやら答えてくれる気はないらしい。気持ち低めの声音が珍しかった。
「可愛いなぁ……!」
そして、その声とは正反対の声を上げたのは碧依。こちらはどう見ても楽しんでいる表情にしか思えない。
「やっぱり家に欲しいかも……!」
「だめだって言ってるじゃないですか」
いつかと似たようなことを言い出す碧依に、いつかと同じような言葉を返す。そこには色々と意味を込めてはいるが、とにかく個人的に許容できない言葉であることには変わりない。
新たに別の意味が加わっているのは、もちろん誰にも言っていないが。
「とに……一……りた……?」
「そっ、そうですけどっ? それがどうかしました!?」
「何でも? 可愛いなって」
先程も見た光景。それが再び目の前で繰り広げられていた。唯一違うのは、アイリスがただ照れるのではなく認めているところ。ただし、碧依の反応には大して影響していなかった。
「まぁ、そこまで気にしなくてもいいんじゃないかな。どうせ、ね?」
「……」
そんな碧依の言葉は、これまで話していたアイリスに向けてではなく、何故か自分に向けて。何かを見透かすような、そんな目をしながらの言葉なのだった。
教室に着いて、少しして。莉花が登校してきて四人全員揃ってから、紙袋に残った三つの包みを取り出す。
「例のものです」
「言い方が怪しいんだって」
「いらないんですね。だったら自分で食べます」
「貰います! ありがとうございます!」
差し出した手を引っ込めようとしたところで、莉花の頭が勢いよく下がった。おかしなところで素直ではない莉花だった。
「はい、じゃあこっちも」
「ありがとうございます。そこまで気にしてくれなくてもよかったんですけど」
「ちゃんと用意するって言ったしね。それに、葵君には作らせるようなこと言っておいて、それはちょっとないかな」
「そういうところを気にしなくてもいいって意味ですよ。好きでやってるんですから」
「それは私の気が済まないね」
「堂々巡りになってるぞ、二人共」
終わりの見えない会話をどうしようか考えていると、救いの手は外から差し伸べられた。
「お互いに親切心でやってるんだから、それ以上は言いっこなしでいいでしょ。ってことで、はいこれ。私から」
「どんな繋がり方ですか。ありがたく受け取りますけど」
「よかった。莉花も手作りじゃないんだね」
「嫌な安心のされ方をしてるな?」
「気のせい、気のせい」
そのままの流れで、莉花からも小さな包みを受け取る。こうなれば、自分も含めた三人の視線の向かう先は同じ。
「僕は来月まとめてお返しするってことで」
「ま、その方が自然な流れではあるね」
「女子三人にお返しは大変だぞ?」
「誰が女子ですか」
三人分の視線を受け取った悠が、ある意味予想通りの言葉を口にする。だが、個人的にはそんな分かりきったことよりも、その後の莉花の発言の方が気になった。
「そんな今更な話は置いておいてね?」
「今更な話?」
「そろそろ諦めようか、湊君」
「嫌ですよ」
続く碧依の言葉も大概だったが、加えて悠にまでそんなことを言われるとは思ってもいなかった。この流れになった時の唯一の味方を失った気分である。
気分も何も、実際に失っているが。
「何かあった?」
「さっきね、アイリスさんがすっごく可愛かったの!」
「それも今更な話だけど」
「そうじゃなくって!」
「お、おぉ……? 興奮してる?」
軽く恨みの気持ちを込めて悠を見つめ、そして軽く受け流されている間に、碧依が頬をうっすら赤く染めて莉花に詰め寄っていた。その勢いたるや、あの莉花が押されて若干引き気味になっている程である。
「可愛かったのは分かったから、一回落ち着いてから話して」
「落ち着いてなんていられないよ!」
「落ち着け」
「はい……」
莉花の手刀が碧依の頭に落ちた。そこまでしないと止まらない碧依など、随分久しぶりに見たような気がする。
「で、何があったの?」
ようやくいつもの碧依に戻ったことを確認して、再度莉花が問いかける。一応まだ警戒はしているのか、右手は手刀の形を保ったままだった。
「さっきね、私達三人には教室でこれを渡すって葵君が話してくれたんだけど」
「うん」
「それを聞いてたアイリスさんね、何て言ったと思う?」
「はぁ……? 碧依には渡さなくていいとか、そんなこと?」
「……それ可愛い?」
「考えようによっては」
「絶対可愛くないよ……」
莉花の考えに異を唱える碧依だったが、アイリスなら言いかねないと思ってしまった時点で、少なくとも自分は莉花の味方である。本当に珍しいことだが。
「で、何て言ったの?」
「完全に話の腰を折られちゃったんだけど……」
「いいからいいから」
「……おんなじものを貰ったとしても、一番に貰ったのは自分だって」
「え、可愛い」
「でしょ!?」
ここに来てようやく莉花の同意が得られた碧依が、その勢いを取り戻す。瞳には厄介そうな輝きが宿っていた。
「朝から色々あったんだね」
「毎日大体こんな感じですよ。知りませんでした?」
「知ってた」
「ですよね」
手が付けられなくなっている碧依は放置して、黙って会話を聞いていた悠に意識を向ける。面倒事が降りかかってくる前に、離れていった悠を味方に引き戻しておきたかった。
「賑やかなんだなって思ってた」
「賑やかだけで済めばいいんですけどね」
「そう言ってても、ほんとは湊君も楽しんでるんでしょ?」
「……否定はしません」
しないと言うより、できないと言った方が正しかったのかもしれないが。そこを認めるのは何となく恥ずかしくて言葉を濁したものの、悠相手には意味がなかったのかもしれない。何かに納得するかのように、何度か小さく頷いているのが見えてしまった。
「あれ? ってことはさ……」
「莉花?」
そのタイミングで、何かに気付いたらしい莉花の目がこちらに向いた。結局味方は増えていない。
「湊君、私達と同じものをアイリスさんにあげたの?」
「……そう、ですけど」
「おい、本気か?」
「……」
信じられないものを見るような目。今の莉花の目付きを表現するなら、その言葉がぴったりだった。
「それはないって、流石に」
「色々あるんですよ、色々……」
「何があるって?」
「それは……」
言える訳がない。絶対にあり得ないが、仮に言ってしまったとしたら、そこからずるずると感情を辿られそうで怖かった。
そう思っていたのに、視線は一瞬だけ鞄に向く。ほとんど無意識の行動だった。
「……」
「今、何で鞄を見た?」
「……」
「さては何か入ってるな?」
「……」
そして、今の莉花はその動きを見逃してくれる程甘くはない。案の定ばっちりと見られていたようで。
「あ、アイリスさんには何か別のものも用意してるとか」
「それだ! と言うか、それであれ!」
莉花の言葉で何かに気付いてしまった碧依が、よりにもよってそのまま答えを口にしてしまう。こうなってしまえば、もうどこにも逃げ場はない。
「そうだな? そうだって言って?」
「何で莉花の口調がおかしくなってるの?」
「今いいところなんだから、碧依はしばらく黙ってて」
「ひどい!」
的確に莉花をアシストしたはずの碧依が、何故かその莉花本人によって会話から追い出されていた。不憫である。
「何にも言わないってことは、碧依が言ったことが合ってるって思っていいね?」
「……」
「沈黙は肯定だぞ」
「……。……まぁ」
「よっし! よく言った!」
圧に耐えきれずに小さく零した一言。それに過剰と言える程に反応する莉花が、自分の両肩を掴んで軽く揺さぶってくる。自分が引き起こした出来事なのに、どうして莉花がこうなっているのかがさっぱり理解できなかった。
「莉花? 何で壊れてるの?」
「これが壊れずにいられるかってのっ」
「あ、壊れてるのは認めるんだ」
小さく揺さぶられる中で、碧依が一体どんな表情を浮かべているのかは分からない。けれども、声の調子からして「それでいいのか」と思っていることは間違いなさそうだった。
「いい? よく聞くんだ」
「まだ口調は戻らないんだね」
ようやく揺さぶるのをやめたかと思えば、今度は小さな声で話し出す。それはつまり、他人に聞かれるとよくない話をしようとしているということで。恐れていた事態がいよいよ目前に迫っている気配が、ひしひしと伝わってくる。
「私達に渡したものと同じものはもう渡した。なのに、まだ他に渡すものがある。ってことは、そっちがどんな意味なのかなんて、もう考えるまでもないでしょ」
「……あ」
「そういう……」
「……っ」
三人分の視線が突き刺さる。その質は三者三様だったが、共通しているのは「理解してしまった」という表情。
「わぁ……」
「そっかぁ……」
何とも言えない悠と碧依の表情。
「……! ……!」
しきりに強く頷く莉花。
どこを見ても、救いの手は差し伸べてもらえそうになかった。
「いよいよ……」
「……いよいよって何ですか」
「長かったなって」
「……碧依さん達が勝手に言ってただけですし」
間違いなく赤くなっている頬を隠すこともできず、ただただ目を逸らして小声で応戦する。だが、言葉に勢いがないのは誰の目にも明らかだった。
もちろん、自分の目にも。
「私、そういうの大好きです!」
「あ、だからそんなに興奮してるんだ」
「どうなったか、是非明日教えてほしいですっ」
「絶対に嫌です……」
どう転んでも、その先の未来が愉快なものになるとは思えない。そもそも、そうやって色々と尋ねることができるのは成功した場合であって、失敗していれば目も当てられない事態になる。今日をどんな形で終えるか分からない以上、そんな約束はしたくなかった。
「あぁ……、わくわくするぅ……!」
「……」
だが、興奮したままの莉花にそんな考えは伝わらない。はっきりと頬を上気させ、見たこともないくらい楽しそうにする莉花が、そこにいるだけだった。
そんなことがあったとて、学校側としてはただの平日なので平常運転。普段と何も変わることなく一日が過ぎ、気が付けば放課後になっていた。
「……」
何も変わることなく、というのは言い過ぎだったかもしれない。朝の段階であんな状態になってしまった莉花が一日大人しくしているはずもなく、あれやこれやと尋ねられて大変だったことには違いない。
その度に誤魔化したり、あるいは大したことでなければ正直に答えたりと、そんなことをしていたからこそ、気付いた時には放課後だったのかもしれない。
「今日は昼休みに来なくて助かったって顔をしてる」
「どこまで正確に読み取ってるんですか」
「そういうのが苦手な僕にも分かるくらいってことだよ」
「……そんなにですか」
「そんなに」
これまでの時間で碧依と莉花は大分満足したのか、放課後になってからは絡んでくることはなかった。それがまた無言の圧のように感じてしまうのは、今日一日の流れがあったからだろう。
「これからバイトなんでしょ? しかも一緒に」
「……」
「いつも通りにしてないと、怪しまれちゃうよ? それか心配されるか」
「今朝教室に来るまでは、どうにかいつも通りを装ってたんですよ」
「……ってことは」
「散々意識させられたせいで、今更になってかなり緊張してきました」
「あぁ……」
果たして、そのため息にも似た一言はどんな意味を含んでいたのか。答えは悠以外知る由もない。
「が、頑張ってね?」
「……羽崎君も色々聞いてきておいて何を」
「それは……。僕だって興味あったし……」
「……」
「あはは……」
困ったように頬を掻く悠。碧依や莉花ほどではないにしろ、悠自身も色々と尋ねてしまったという自覚はあったのだろう。それ自体は仕方のないことだと、頭では分かっている。
「はぁ……。まぁ、もう終わったことなので、これ以上は言いませんけど」
「そうしてもらえると助かります」
目の前で軽く頭が下げられる。そこまでしなくてもいいとは思うが、これが悠の性分のようなので何も言わないでおいた。自分にとっても特段何かがある訳でもない。
「引き留めちゃってる僕が言うのもあれだけど、時間は大丈夫?」
「ん……。そろそろ出た方がいいかもしれないですね」
悠の言葉に、自然と目が時計に向く。いつも乗っている電車の時間まではあと三十五分。多少の余裕を考えると、ちょうどいい頃合いだった。
「そっか。じゃあ、まだ来ないことだし、迎えに行ってあげないとね?」
「本当に言うようになりましたね」
「皆のおかげです」
「そういうのは『せい』って言うんですよ」
「言えてるかも」
そう言って小さく笑う悠を横目に見ながら、そっと鞄を手に取る。朝と何も変わっていないはずなのに、その鞄は何故か少しだけ重たくなったように感じられた。
「それじゃあ、また明日」
「うん。また明日ね」
いつも通りの挨拶を交わして扉へと向かう。何も変わらない、これまでと同じ放課後。
いつも通りではなくなったのは、まさにその途中。
「湊君」
「はい?」
真剣そうな声に振り返ってみれば、少し離れたところにいたはずの悠が、またすぐ近くまで歩み寄ってきていた。
「どうかしました?」
「……多分ね」
「……?」
「ストレートに言った方が、綺麗に響くと思うよ」
「……」
「何のことかは、湊君なら言わなくても分かるよね」
これまでで一番真剣と言っても過言ではない、そんな悠の表情。だからこそ、すんなりと受け入れることができた。
「……元々そのつもりですよ」
「そっか。余計な心配だったかな」
「いえ。少しだけ自信が付きました」
「じゃあよかった。頑張ってきてね」
「ありがとうございます。それじゃあ、今度こそ」
「うん」
今度こそ、悠に背を向けて教室を出る。廊下の窓から見える空は、綺麗に晴れ渡っていた。
忙しかった。今日の様子を表すなら、その一言に尽きる。
バレンタインと洋菓子店。この二つが揃えば、そんなことは当たり前の話である。
「今日のアイリスさん、少し落ち着きがなかったみたいですね」
「葵さんだって、ちょっとそわそわしてませんでした?」
「色々あって……」
「じゃあ、私だってそうです」
「……」
「……」
それでも何とか乗り越え、葵と並んで帰路を歩く。夕方から天気が崩れることもなく、夜空には綺麗な月が浮かんでいた。
「……どうして黙っちゃうんですか」
「アイリスさんこそ」
「……」
「……」
そんな中で、いつもなら起こり得ない困ったことが一つ。
とにかく会話が続かなかった。
先程からずっと、お互いに二言三言話しては黙り込むという流れの繰り返し。会話とも言えないような短い言葉の連なりがあるだけだった。
「葵さん、さっきからちょっと変です」
「今のアイリスさんには言われたくないですね」
「……」
「……」
また同じことを繰り返す。店を出てからずっとこんな様子では、伝わるものも伝わらない。
(いつも通りの葵さんだったら、まだ切り出しやすいのに……)
お互いに沈黙しているのをいいことに、葵に気取られないよう考える。
最初から、伝えるなら絶対に他の人がいないこの帰り道と決めていた。だからこそ、作ってきたチョコレートも朝一番に渡すのを我慢した。葵が、自分よりも先に碧依や莉花から何かしらを受け取ってしまったことを悟りつつも、それも何とか我慢した。
(ほんとは私が一番に渡したかったのに……!)
こっそりと葵の様子を盗み見る。
やや俯きがちに歩くその姿は、普段はあまり見ないもの。もっと言えば、その顔は何か思い悩んでいるようにも見える。
そんな表情でも、日に焼けることを知らないような肌は、月の光を受けて綺麗に輝いていた。ここだけ切り取れば、それだけで立派な絵画になるような気さえする。
(やっぱり綺麗だなぁ……)
改めてそう思う。異性の先輩に対して抱くような感想ではないことくらい分かっているが、それでもそう思わずにはいられない。本人に言ったところで、微妙な顔をされるだけなのだろうが。
それに、そういったことを口にするなら、まずは自分の気持ちを伝えてから。
(うぅ……)
今日一日、何度も辿り着いたその終着点。葵がいないところでは、絶対に伝えてみせる、成功させてみせると考えていたのに、いざ本人を目の前にすると、その意気込みも霧散してしまう。どうしても最後の一歩を踏み出せない自分が嫌いになってしまいそうだった。
(……)
今一度、鞄の中に入れたままのチョコレートを意識する。
休みの間に太一と柚子に手伝ってもらいながら作った、個人的には上手くできたと思うチョコレート。それとなく確認した葵の好みに合わせたホワイトチョコレートは、今か今かとその出番を待っていることだろう。
(あ)
そこまで考えて、とある予想に辿り着く。
もしかすると、葵の様子がいつもと違ったのはそれが原因なのではないか。どれだけ女の子のような見た目をしていようが、どれだけ大人びていようが、葵だって男の子で高校生。親しくしている相手から何か貰えるのではないかと、そう思ってそわそわしているという可能性は十分ある。
そう考えれば、朝は比較的いつも通りの姿だったのに、一日の終わりが近付いてきた今はいつも通りではなくなっていることも説明できる。
(か、可愛い……!)
この考えが本当に合っているのかは分からない。全ては自分の想像でしかない以上、正解に全くかすりもしていないことだって考えられる。
それでも、葵が自分に対してそんな感情を抱いてくれたかもしれないという可能性だけで、嬉しさがこみ上げてくる。
同時に親近感も。自分だって、葵から特別な何かを貰いたかったのに、渡されたものが碧依達と同じものだったことで少しだけ落ち込んだ。どうにかして特別感を出したくて、大して意味もないのに、貰った順番を碧依にアピールしたりもした。
自分のそれは嫉妬に近いもので、葵の期待とは違うのかもしれない。けれども、バレンタインに特有の悩みを抱えていたというところは同じ。そう考えると、急に葵がこれまで以上に近い存在に思えた。
(い、今しかない、かも……!)
突然訪れた自分の気持ちの変化。千載一遇のこの機を逃せば、きっと自分は二度と想いを口にすることはできないのだろう。そんな微かな恐怖にも突き動かされながら、いよいよ覚悟を決める。
(よし……!)
今度は盗み見るのではなく、はっきりと。その横顔を見つめて口を開く。
「あ、葵さ……」
「アイリスさん」
ほとんど同時に。だが、ほんの少しだけ早く。葵が自分の名前を口にして立ち止まった。
「あっ……、え?」
ほぼ同じタイミングでお互いの名前を口にしたせいで、アイリスが戸惑いの声を上げた。ただそれだけにしては随分と落ち着きを失っているようにも見えるが、今の自分にそれを気にかけてあげられる程の余裕はない。
「悪いとは思ってますけど」
「は、はい……」
「先に、いいですか?」
目を逸らすことなく、しっかりとその双眸を見つめて問いかける。
いくら月が出ていると言っても、辺りが薄暗いことには変わりない。それでも、二つのラピスラズリを見失うことだけは絶対にない。
「でも、その……」
「大事なことなんです」
「……それなら」
アイリスの方も何やら引き下がりにくい事情があったようだが、何とか理解してもらえたらしい。少しの葛藤の後、小さな一言が呟かれた。
「ありがとうございます」
「い、いえ。大事なこと、なんですもんね?」
「えぇ」
微かに瞳を揺らしながらの問い。そう口にしながら頬を色付かせているように見えたのは、果たして自分の錯覚だったのだろうか。
考えても詮無いことに意識が向いてしまうのは、これから伝えようとしている感情を直視するのが、未だに恥ずかしかったから。
「……」
「……」
だが、今この瞬間はそんなことも言っていられない。一度深く息を吐き出して、呼吸を整える。
「……っ」
それなのに、鼓動はどんどん速くなっていく。指先が微かに震えるような感覚を覚えたと思った次の瞬間には、整えたはずの呼吸すらも震える始末。
去年のクリスマスにあのことを話した時にすら感じなかった程の緊張が、今更のように襲い掛かってきた。
「あ、の……」
震える口を開いても、出てくるのは当然震えた声だけ。これでは伝わるものも伝わらなくなってしまう。
頭ではそう理解していても、どうしても心は追いつかない。
「えと……」
何とか言葉を続けようとしても、口にできるのは曖昧な言葉だけ。いくら普段はすらすらと言葉が出てこようが、肝心な時にこれでは意味がない。
いよいよ自分の情けなさに嫌気が差しそうになった、その時だった。
「葵さん……?」
聞こえてきたのは、またしても小さな声。
一片の曇りもなく、ただひたすらに純粋な、自分を心配してくれた声だった。
「あ……」
その声を聞いた途端。
声音と同じく心配そうに自分を見つめる瞳に気付いた途端。
止まらなかった震えが、少しずつ凪いでいくのが感じ取れた。
「だ、大丈夫、ですか? 具合が悪かったり……?」
どこかおろおろとした様子でそう口にするアイリス。その姿を見ていると、不思議なくらいに気持ちが落ち着いていく。きっと、こんな不思議な場面にあっても、普段と変わらない仕草を見せてくれたからだろうと思う。
そんな仕草をさせてしまったこと自体は申し訳ないが、これ以上ない程に助けられたのも、また事実。
「……アイリスさんは本当に変わらないですね」
「えっ?」
「助かりました」
「は、はい?」
急に感謝されたことでアイリスが分かりやすく困惑していたが、それも仕方のないことだろう。反対の立場なら、自分だって間違いなく困惑している。
「何かしました……?」
「してくれました。アイリスさんは気付いてないかもしれないですけど」
「えぇ……?」
ますます混乱を深めるアイリスを一度視界から外し、ようやく覚悟を決めて鞄からある包みを取り出す。
朝からずっとその存在を意識し続けた、自分の気持ちそのものと言ってもいい贈り物。
「アイリスさん」
仕切り直すように、再びその名前を呼ぶ。
もう、声は震えていなかった。
「っ!」
二歩先にある肩が跳ねる。
それは、声に込めた感情に気付いたからなのか。それとも、もっと単純に贈り物に気付いたからなのか。
どちらが理由であるにせよ、この後自分が取るべき行動は一つしかない。
「受け取って、もらえますか?」
二歩分の距離。それを半分埋めるようにして、アイリスへと差し出す。
大して綺麗な装飾を施せた訳でもない、言ってしまえばシンプルな包み。あるのは、四苦八苦しながら結んだリボンだけ。それでも、これ以上ない程に気持ちを込めて準備した、大切な贈り物。
「こ、これ……」
今度はアイリスの声が震えていた。
自分と同じく一歩分を埋めるようにして伸ばされた手が、そっと包みを受け取ってくれる。一度包みに目を落としてから、再度その瞳がこちらを向いた。そこには、月明かりを受けて煌く涙が湛えられている。
「で、でも……、朝に……」
「あれは他の人にも渡したものですから。これはアイリスさんのために用意しました」
「う、ぁ……!」
頬は真っ赤に染まり、白い息と共に小さな呻き声が漏れる。
「それって……!」
今にも零れてしまいそうな涙を堪える目が逸らされることはない。何かを期待するような瑠璃色の瞳は、真っ直ぐに自分を見据えていた。
「……僕は、こういう時に言葉を飾るのが苦手ですから」
アイリスの期待が自分の考えているものであってほしいと願いつつ、視線を正面から受け止める。落ち着いたはずの鼓動が、忘れていたかのように早鐘を打ち始める。
「もし聞きたいことがあったら、後からいくらでも聞いてください。何でも答えます」
「……」
受け取った包みを大事そうに胸元に添えながら、一言も聞き逃すまいとするかのように沈黙するアイリス。
その姿を見て、改めて自分の気持ちを理解する。
「アイリスさん」
「はい……」
これまで生きてきた十七年間で一番速い鼓動が体を揺らそうとする中で紡ぐのは、これまで生きてきた十七年間で一番大事な言葉。
「好きです」
反応はすぐだった。
「……っ!」
「っと……」
菜の花色の髪が揺れたかと思った次の瞬間には、胸元に小さな衝撃が。それに遅れるようにして、ふわりと甘い香りが漂ってきた。
「アイリス、さん……?」
そのまま背中に腕を回されて、力強く抱き締められる。予想外の出来事に、ただただ困惑するだけだった。
「なんで……!」
「え?」
首元に顔を埋めたまま、くぐもった声でアイリスが呟く。
「なんで先に言っちゃうんですかぁ……!」
それは、喜びとも後悔とも取れる一言。冬の寒さにも負けないくらいに熱を帯びた言葉が、すっと心の中に入り込んでくる。
「私だって好きですよ! 好きに決まってるじゃないですか!」
「あ……」
ほとんど叫ぶようにして届けられた返事に、一気に緊張が解れていく。力が抜けて座り込んでしまいそうな自分を支えてくれているのは、やはりアイリスで。
「私から言おうと思って、今日一日ずっとそわそわしてたんですよ!」
「……」
「帰り道で告白しようと思ってたのに、でもなかなか切り出せなくて!」
「……」
「やっと覚悟を決めたら、今度は葵さんが話し出しちゃうし!」
「……」
「そしたら葵さんから告白されちゃうし!」
「……」
何の言葉を挟むこともなく、ひたすらにアイリスの叫びを聞く。他の何が分からなくとも、その感情を全て受け止めるのが正解であることだけは気付くことができた。
「ずっとずっと……、大好きだったんですからぁ……!」
「……気付けなくてすみません」
「ほんとですよ! いろんな人から分かりやすいって言われたのに!」
責めるような言葉なのに、そこに責めるような雰囲気は一切ない。あったのは、少しだけ頭を押し付ける、小さくて可愛らしい仕草だけ。
「葵さんだけですからね……、気付いてなかったの……」
そこだけ消え入る程に小さな声。アイリス本人も、今どんな感情で話しているのか分からなくなっているのかもしれない。
「そうやって言われると、確かに分かりやすかった……、かも……」
「だって好きなんですもん!」
「わ、分かりましたから……」
自分はたった一度口にするのも大変だった言葉が、アイリスからは何度も何度もぶつけられる。その度に心臓が跳ねて、その度に気持ちがふわふわする。
「何て言ったらきちんと気持ちが伝わるか、ほんとはたくさん考えてたんですからね……? 葵さんのせいで、全部吹き飛んじゃいましたけど……」
「……」
「全部全部、葵さんのせいです……」
「……」
アイリスの腕に一層力が入る。その強さは、最早お互いの鼓動が伝わってしまうのではないかと錯覚する程だった。
「……だから、私は葵さんがまだ言ってないことを言うことにします」
そんな言葉と共に、ようやくアイリスの顔が上がった。
頬を一粒の雫が流れていく。その軌跡がはっきりと見えるくらい、顔が近かった。
涙で潤む瞳も。
擦れたせいで少しだけ赤くなった鼻も。
上気した頬も。
言葉を紡ごうとする口も。
全てが目の前にある。
「葵さん」
「はい」
しっかりと目を合わせたまま、その言葉を待つ。
「好きです。私と、付き合ってください」
花が咲いたような笑みに、思わず顔が綻ぶ。ずっと行き場のなかった両手が、自然とアイリスの背中に回る。
答えなど、最初から決まっていた。
「喜んで」
「……私の、渡すタイミングがよく分からなくなっちゃいましたね」
再び首元に顔を押し付けて固まっていたアイリスが、小さな声でそっと呟いた。
「多分、僕が遮ったあの時ですよね」
「です。ある意味タイミングはばっちりでしたね」
これまた再び顔を押し付けるようにしてそう口にするアイリス。今度は正しく抗議の意味が含まれていそうだった。
「告白された後に渡すのもちょっと変ですけど、受け取ってくれますか?」
「当たり前です」
一応の確認のつもりだったのだろうが、ここで受け取らない選択肢などあるはずがない。むしろ、受け取らせてほしいくらいである。
「そ、そんなにですか……?」
「好きな人からのチョコですよ? 考えるまでもないと思いません?」
「ふあぁ……!」
「え?」
「……ふあぁ……!」
いきなり顔が上がって一瞬こちらを見つめたかと思えば、何故かまた首筋に戻っていった。
「何がしたいんですか」
「葵さんが素直です……!」
「……」
まるで普段は素直ではないかのような言い方である。当然、否定の言葉は口から出てこない。
「……これからは多少素直になりましょうか」
「私が大変なことになりますっ」
「そういうところも可愛いと思いますよ」
「そういうところですってぇっ!」
顔こそ見えないものの、少なくとも耳は真っ赤だった。それでも、その声が心なしか嬉しそうに聞こえるのは、自分がそう思いたかったからなのか。
「もぉー……!」
「本音ですからね?」
「分かりましたって! だからこれ以上は……!」
「アイリスさん、こういうところは弱いですよね」
「全部葵さんのせいですもん」
拗ねたような一言。何でもないような言葉のはずなのに、その一つ一つが可愛く思えて仕方がない。これまで感じたことがない、生まれて初めての感覚だった。
「……でも好きなんですけど」
「うっ……」
「少しは私の気持ちが分かりました?」
意趣返しのつもりだったらしい不意打ちの一言に、思わず小さな呻き声が漏れる。これは確かに心臓に悪い。
「程々にしておきます……」
「あ、でも、本気で言ってくれてるのは嬉しいので、時々言ってくれると喜びます!」
可愛らしいわがままだった。それで喜んでくれるのなら、自分としては拒む理由はどこにもない。
「その時は全力で照れさせてあげます」
「……もう今照れてます。えへ……!」
「……」
可愛さの上限が見当たらなかった。もしかすると、自分はとんでもない相手と付き合うことになったのかもしれない。
「あの……、それでですね……?」
「はい?」
「チョコ、なんですけど」
一人で勝手に鼓動を速くしていると、何故かうっすらと申し訳なさそうな雰囲気を漂わせる声音でアイリスが切り出した。この期に及んで、まだ何か不安なことでもあるのだろうか。
「渡すの、もう少し後でもいいですか?」
「僕は構いませんけど、何かありました?」
「もうちょっとだけこのままがいい……、です……!」
そんな言葉と共に、微かに抱き付く力が強くなる。二歩分離れていた距離はとうの昔になくなったはずなのに、それでもまだ距離を詰めようとするかのようなその動き。
比喩でも何でもなく、本当に自分の鼓動がアイリスに伝わっていそうだった。
「えっと……」
「……」
「できれば、僕ももう少しこのままで……」
「っ!」
「っと」
多少は素直になると宣言した通り、今の気持ちをそのまま口にする。返事はさらに増す腕の力。
「……」
それに応えるように、自分もこれまでよりも少しだけ強く抱き締める。華奢な体が壊れてしまわないよう、そっと。それでもしっかりと。
そうしてお互いに黙り込む。聞こえてくるのは、うるさい程に高鳴る自分の鼓動の音とアイリスの息遣いだけ。
月明かりが闇を明るく照らす中、地面に落ちた二人の影は、綺麗に一つに重なり合っていた。
離れがたく思いながらも、何とかお互い腕を解いて少しして。鞄の中から一つの包みを取り出したアイリスが、満面の笑みでそれを差し出してきた。
「どうぞっ!」
「ありがとうございます」
壊れ物を扱うようにして、ラッピングされた包みを受け取る。簡素な装飾なのは自分のものと変わらないが、青いリボンの結び方が圧倒的に綺麗だった。
手の平に収まる程度の、そこまで大きくないサイズ。重さで言えば軽い部類に入るはずなのに、妙に重さを感じる。それは、自分がそれだけ大事なものだと考えているからなのか。
「太一さんと柚子さんに教えてもらいながら作りました」
「本気も本気じゃないですか」
何でもないことのように言うアイリスだが、その中身は何でもないことではない。専門こそ違うが、ある意味本職と言っても過言ではない二人に教えてもらったとなれば、この中身は相当なものということになる。
「だって、本気ですもん。作ってる間、ずっと葵さんのことを考えてましたからね?」
「……」
「あ、照れてくれましたね」
そう言ってはにかむアイリスの頬も若干赤い。ほとんど引き分けと言ってもよさそうだった。
「そんな風に言われて照れない人はいませんって」
「えへへ……。とっておきの一言ですっ」
「……大事に食べますね」
「はいっ!」
隠そうとする気配など一切なく、全身から喜びの雰囲気を放つアイリス。見ている自分の方も、思わず釣られてしまいそうになる程の笑みだった。
「葵さんが好きだって言ってたホワイトチョコですよ?」
「そんなことまで覚えてたんですか?」
「覚えてたも何も、このために聞いたんですもん」
「だったら、余計大事に食べないといけないですね」
それだけの準備をして作ってくれたチョコレートは、今まで食べたどんなものよりも甘いチョコレートであることは間違いない。
そして、甘いのはそこに込められた想いも。
「あ、隠し味は愛情ですよ?」
「さっきも言ってたじゃないですか。隠せてませんよ」
「あれ?」
思い出したような口調でからかってくるアイリスだったが、残念ながらその一言はもう二度目である。不意打ちならばまだしも、この短時間では効き目は薄い。
思ったような反応が返ってこなかったことに、アイリスが小さく首を傾げる。関係は変わっても、そのやり取りまで変わることはないのだった。
「……」
「……」
ようやく歩みを再開して十分程。色々とあった河川敷を離れてしまえば、アイリスの家はすぐそこ。
その門扉の前で、二人して沈黙する。お互い、相手の考えていることには気付いていそうだった。
「まぁ、どうせ明日も会えるんですけどね」
「そうですけど……」
名残惜しい気持ちをそのまま表すかのように、アイリスの手が袖を掴んで離さない。これまでにも同じことをされた覚えはあるが、それにしても可愛いが過ぎる。自分の気持ち一つで見え方がここまで変わるのかと、改めて想いの大きさを自覚する。
「じゃあ、葵さんはあっさり帰っても何とも思わないんですか?」
「あっさりだと思います?」
「え」
「本音を言えば、僕だってもう少し一緒にいたいんですよ」
「ほあぁぁ……!」
その一言を口にした途端、アイリスの目が月明かりに負けないくらいの輝きを浮かべる。
「葵さんがそんなことを言ってくれるなんて……!」
「本当にもう隠し事はないですから。今なら何だって言えるような気がします」
「な、何でも……!?」
「……それはちょっと言い過ぎたかもしれないです」
いくら気分が昂っているからといえども、今の発言は迂闊だったのかもしれない。アイリスから何やら怪しげな雰囲気が漂い始める。
「あ、あの……! 『アイリスさんは僕のです』って言ってくれませんか!?」
「……」
そうして放たれた言葉は、思っていたよりも随分直接的なものだった。いつかアイリス自ら言っているのは聞いたことがあるが、それを自分が言うとなると、どうにも落ち着かない。
それとも、いつかはこんな感覚にも慣れてしまう日が来るのだろうか。個人的には、いつまで経ってもこの感覚は忘れたくはなかった。
「……明日」
「明日?」
「多分、他の人に言いますよね。僕達のこと」
「言うと思いますけど……。え? 嫌だったりしますか?」
「いや、そうじゃなくて。だったら、その言葉はその時まで取っておきます」
「……っ!」
何を言いたいのか理解したのか、アイリスの顔が一気に赤に染まっていく。先程もそうだったが、月が出ていても薄暗いことには変わりない夜の闇の中でも、その色ははっきりと目に映る。それだけ照れてくれていると思うと、普段あまり言わないようなことを言った甲斐があるというものだ。
「ほ、ほんとに言ってくれるんですか?」
「えぇ。楽しみにしておいてください」
「……今日は眠れないかもです」
「寝坊したら起こしてあげますよ」
「うわぁぁ……! 葵さんが積極的……!」
恥ずかしそうなのに、それでも大半は嬉しそうに。そんな複雑な表情を浮かべたアイリスが、袖を掴んだまま腕を振る。釣られて自分の腕も右へ左へと大騒ぎ。
「まぁ、僕が起こしに来た時点で遅刻確定ですけど」
「……一気に現実に引き戻さないでください」
「付き合い始めたのも現実ですよ」
「どんな風に考えたらそんな言葉がすぐに出てくるんですかぁ!」
何か琴線に触れるものがあったのか、アイリスが再び感情を爆発させる。忙しく変わっていく表情は、どれだけ眺めていても飽きることはなかった。
「さ、そろそろ本当に家に入った方がいいですよ。色々あって、いつもより少し遅いんですから」
つまりはいつまでも眺めていられるということだが、いい加減どこかで区切りをつけなければならない。あまり遅くなるとアーロンとレティシアが心配するうえに、本当に明日に響くことも考えられる。
名残惜しさは相変わらずだが、この辺りがちょうどいいタイミングだった。
「葵さんの勝ち逃げみたいな気がして、ちょっとだけ悔しいんですけど」
「これからいくらでもそんな機会はあるんですから。今日くらいは僕の勝ちってことで」
「……そう言われちゃったら、私はもう何にも言えないです」
そう呟いて、アイリスがそっと顔を伏せる。ずっと掴んだままだった袖から、ようやくその手が離れていった。
「せめて家に入るまでは見送ってますから」
「はーい……」
自分と同じく、相変わらず名残惜しそうに呟く。頭では納得していても、心では納得できていないようだった。
「ほんとは、泊まっていったらどうですかって言おうかと思ってましたけど」
「明日も平日なので、それは流石に厳しいですかね」
「分かってましたもん。だから、残念ですけど今日はおやすみなさい、です」
「えぇ。おやすみなさい。また明日です」
いつもと変わらない挨拶を交わして、アイリスが少しだけゆっくりと背を向ける。そんな仕草からも、今何を思っているのかが伝わってくる。
「……」
やがて、自分が見つめる先で玄関の扉を開いたアイリスが振り返る。
「えへ」
扉の向こうに消えていく寸前。はにかみながら小さく手を振ってきたその姿は、いつまで経っても記憶から消えることはないのだろうと、そう確信させるような姿だった。




