99. 最後の距離 (2)
「そんなわけで、次はよろしくお願いしますね」
「特別何かするようなことってありましたっけ?」
目の前ではにかむアイリス。いつも通りと言ってしまうのもどうかとは思うが、あまりに自然に同じ組になった。
と言うより、他の五人が有無を言わさず組にした。
「何かの思惑を感じる組み分けでしたけど」
「細かいことは気にしなくていいと思いますよ? 向こうも向こうで楽しそうですし」
そう言って、アイリスが残りの二組へと目を向ける。
二戦目は、アイリスと自分の組。碧依、莉花、紗季の組。そして、悠と純奈の組となった。最後の組が恐ろしく静かな組になりそうなのは、果たして気のせいで済ませてもいいのだろうか。
「羽崎先輩と純奈のところ、終わるまでほとんど会話がなさそうに思えるんですけど、大丈夫なんですかね?」
そんなことを考えていると、アイリスからも同じ感想が聞こえてきた。やはり、あの組み合わせを見て思うことは同じらしい。
三人組を挟んで反対側にいる二人に目を向けると、案の定会話に困っていそうな悠と目が合った。
「羽崎君が助けてほしそうにこっちを見てます」
「偶然ですね。純奈も助けてほしそうに私を見てます」
「……」
「……」
お互いに一度顔を見合わせる。そこにある考えは同じに思えた。
「頑張ってもらいましょうか」
「そうですね。純奈もそろそろ一人で先輩とお話しできた方がいいと思うんです」
「そういう意味で言ったら、羽崎君みたいな相手はちょうどいいのかもしれないですね」
「はい。そんなわけで、助けは見なかったことにします」
あっさりと向こう側に背を向けるアイリス。それを見た純奈がどんな表情を浮かべているか、手に取るように想像することができた。
「強く生きてくださいね、羽崎君」
「それはちょっと違いませんか?」
「気にしたら負けです」
そして、アイリスに倣うように自分も悠に背を向ける。やはり、こちらもどんな表情をしているのか想像するのは簡単だった。
「さ、それじゃあ、今回は私が楽しんでるところを一番近くで見てもらいましょうか」
気持ちを切り替えるようにアイリスが言う。まだ二戦目は始まってもいないのに、その言葉通りに楽しそうな笑みを浮かべていた。
「同じレーンに上手い人がいると、やっぱりどうしても緊張しますね」
「そういうことは考えなくていいと思いますよ? どうせ遊びなんですから、好きにしましょう」
「アイリスさんのそういうところは羨ましいです」
必要以上に小難しく考えてしまって身動きが取りづらくなってしまう自分からすれば、その自由さは見習いたいところでもある。
そうは言っても、こうなってしまった気質はなかなか変えられないのだが。
「褒められてます?」
「褒めてますよ」
「じゃあ、喜んでおきます」
わざわざ口に出すのかとも思ったが、笑みを深める姿が可愛かったので黙っておいた。
少しだけ、ほんの少しだけ頬が熱かった。
「いえーっ!」
「相変わらず上手いですね」
ストライクを決めて戻ってきたアイリスと手を打ち鳴らす。ピンが倒れるのとはまた違った種類の小気味いい音が鳴り響いた。
「今日は調子がいいみたいです」
機嫌がよさそうに言うアイリスの言葉を証明するかのごとく、まだ折り返しを過ぎた辺りなのに、一人だけスコアが突出していた。
アイリスのスコアだけに限って言えば、マークが表示されていないフレームの方が明らかに少なかった。その下に表示されている自分のスコアとは大違いである。
「確かに、前に見た時よりスコアが高いような……」
「これがご褒美の効果なのかもしれませんね」
「あげるとまでは断言してないんですけどね」
「くれないんですか?」
「……あげないといけないスコアに限りなく近いですけど」
まだ何も思い付いていない段階で断言するのが怖くて曖昧な言葉を使ったが、正直、このスコアを見せられると何も反論できない。
アイリスとしても手応えを感じているのか、どこか期待するようにそわそわとしていた。純粋な目が眩しい。
「もっとやる気が出てきましたっ」
「これ以上にスコアを上げてどうするんですか」
「何だか普段は情けないところばっかり見られてる気がするので、こういうところで挽回しておかないと」
「今更何を」
「今更って何ですか、今更って」
純粋だったはずの目に、違う色が混ざり始める。これは間違いなく不満の色である。
「そのままの意味ですよ。印象なんて、今更変わるようなことはないです」
「何でそんな優しそうに言うんですか?」
「どうしてでしょうね?」
「むぅ……。悪戯っぽい目をしてます」
頬を微かに膨らませるような仕草を見せるアイリス。そんな仕草こそ、少し子供っぽいという印象をより強くさせる一因であると自覚する日は来るのだろうか。
「そういうところですよ」
「何がですかぁ……」
悪戯っぽいと評された眼差しのまま、回ってきた自分の番を消化するべく立ち上がる。
「……」
レーンへと向かう途中、一度だけスコアに目を向ける。何度見ても変わることなどないその数字は、どう考えてもアイリスには追いつけない程に小さな数字。スコアを競っている訳ではないが、逆立ちしても勝てる相手ではなかった。
それだけ引き離されてなお、案外楽しく過ごせているのは、やはりこの集団の中にいるのが気楽だからだろうか。
「……」
それとも、今一緒にいる相手の存在が大きいのか。
いちいち考えてもどうしようもないことは分かっているが、それでもその顔だけは頭の中から消えることはなかった。
「夏休みの時も思ったんですけど」
「はい? どうかしました?」
「投げ方が綺麗ですよね、アイリスさん」
二戦目も残り僅かとなったタイミングで、今日改めて感じたことをやっと口にする。
「そうですか?」
対するアイリスは、頭の上に疑問符を浮かべていた。どうやらあまり考えたことはなかったらしい。
「そうですよ。僕みたいに真っ直ぐ転がすだけでも苦労してる人から見れば、もう雲泥の差です」
「葵さんの投げ方、ちょっと可愛くて私は好きですよ?」
「投げ方が可愛いって何ですか」
「少しだけふらふらしてるのが可愛いです」
「詳しく教えてほしいって意味じゃないです」
「あれ?」
またもや疑問符が浮かぶ。ただし、今度の疑問符は先程のものと違った意味を含んでいそうだった。
そもそも、ボウリングの評価で「投げる姿が可愛い」はあまり褒め言葉になっていない。せめてスコアに着目してほしいところである。それも褒められたスコアではないが。
「何て言うか、運動が得意じゃないって言ってたアイリスさんのイメージとは違いますよね」
「もう何回も遊んでますから。やっぱり慣れですよ、慣れ」
「そう言われたら、何も言えないです」
負けを認めるように両手を少しだけ持ち上げる。文字通りお手上げの仕草。
「せっかくですし、教えられることは教えてあげましょうか?」
「気持ちはありがたいですけど、どうせもう終わりますよ?」
「次に備えてってことです。少しでもいいスコアを取りたいと思いません?」
「それは……、まぁ……」
アイリスの言葉をそのまま使う訳ではないが、せっかく来ているのだから、もっと楽しめた方がいいに決まっている。そういう意味では、ここでアイリスからコツを教わっておくのも一つの手ではあった。
完全に気持ちが固まった訳ではない、そんな曖昧な頷き。だったのだが、それを見たアイリスが嬉しそうに立ち上がった時点で、未来は確定した。今更断ってあの楽しみそうな笑みを壊すことなど、自分にできるはずがなかった。
「ほらっ。こっちに来てくださいっ」
「分かりましたから。そんなに引っ張らなくても」
「善は急げってやつですよ」
そんな表情のまま、手を握られて連行される。そのまま二人してレーンに立ってしまったところで、他の五人から見つめられているのが肌で感じられた。自分達以外からすれば、いきなり怪しげなことを始めたようにしか見えないのだから当然である。
気になって振り返ってみれば、案の定五人の視線はこちらを向いていた。
「しっかり見られてますけど」
「みたいですね。ま、あんまり気にしないことにしましょう」
「どうしてこんなところのメンタルは強いんですか」
「どうせ何もしなくてもからかわれるんですから。それなら、何かをしてからかわれる方がましですもん」
「……」
メンタルが強いのではなく、ただの諦めでしかなかった。
「最初はとにかく真っ直ぐ投げられるようになりましょう」
「そう思って投げてますけど、どうしても斜めになっていくんですよね」
「腕の振りが斜めになってるからですね。ゆっくりでもいいので、真っ直ぐ上げて、真っ直ぐ下ろすってやってみましょう」
隣のレーンで突然何かが始まった。
「何あれ」
「アイリスさんが葵君に教えてるんだろうね」
「それは見れば分かるけど……。何で今?」
「さぁ? 案外何でもない理由かもよ?」
あの二人なら、大した理由もなく一緒に行動していそうだった。この何か月もの間で、それが当然というようになっている節すらある。
「あ、とうとうアイリスが直接教え始めましたよ」
「妙なところで大胆なんだよね、あの子」
莉花と紗季の言葉に、再度意識を葵とアイリスに戻す。視線の先で、アイリスが葵の腕を動かしながら指導を行っていた。真後ろから見れば、二人羽織に見えなくもない。
「葵君、ちょっと顔が赤いね」
「教えてるアイリスもですよ」
「何でお互いに照れながらやってるの?」
明確に色付いているとまでは言えないが、葵の方はどことなくいつもよりも頬が赤いような気がした。対するアイリスははっきりと赤い。どう考えても、お互いに照れながらの指導になっている。
「二人だけにすると、すぐああいうことを始めるんだから」
呆れたように莉花が言う。それでも、その視線は二人に向いたままだった。何だかんだ言いつつも、興味を持ってしまう光景には違いないようである。
「あれでまだ一応友達なんだから、もう意味が分からないよね」
「そんな冗談、誰も信じちゃくれないぞ」
「仮にあの二人が付き合い始めたとして、今よりもっと凄いことになっちゃうってことですか……?」
「どうだろうね。葵君はあんまり変わらないかもしれないけど、アイリスさんは凄いことになりそうかも?」
「案外、湊君も面白いことになったりしてね?」
表情を呆れから悪戯っぽいものに変え、本人に言うでもないのにからかうように口にする莉花。思いの外、莉花もあの二人の関係性を気にしているのかもしれない。
「そういえば、その葵君の雰囲気、ちょっとだけ変わったような気がしない?」
「雰囲気、ですか?」
「うん。教室が違うと分かりにくいかもだけど、何となく冬休み前と違うというか……」
「そうかぁ……?」
莉花の目には疑いの色。どうやらあまりそうは思っていないらしい。
「いつも通りに見えるけどなぁ」
「何て言うんだろうね。誰に対しても雰囲気が変わったとかじゃない、のかな……?」
「それって、アイリス関係だったりするんじゃないですか?」
「かも……。朝一緒に登校してる時とか、前よりも空気が柔らかいような気がする」
「それ、もしかするともしかしません?」
「それか、完全に保護者目線になったかのどっちかだね」
莉花と純奈の考えは、アイリスにとっては綺麗に天国と地獄。前者なら未来は明るいような気がするが、後者ならもうその先を望むことはできないだろう。
「今顔が赤いんだし、もしかする方かもしれないと思うけど」
「冬休みの同棲生活で何かあったってこと?」
「それを言っちゃうと二人して逃げ出しそうになるから、あんまり言わないようにしてあげてね」
「何にしても、そう遠くないうちに何か報告があるかもしれないってことですね」
「かもね」
またもや三人揃って葵とアイリスに目を向ける。
未だ続くアイリスの指導の中、二人の距離は先程よりも少しだけ近くなっているように見えた。
「腕が……」
「ぷるぷるします?」
「普段使わない筋肉なんですね……」
「『ぷるぷるしてる』って言ってください」
「何がしたいんですか」
三戦目以降も組み分けを変え、さらに数ゲームを遊んだところでいい時間となり、本日の集まりは解散となった。
昼から雲が増し、今や空全体を覆ってしまっている。もし晴れていれば、今頃オレンジ色に染まった空が見られたのだろう。そんな空模様の下、アイリスと二人で電車に揺られる。
つい先程碧依が降りていって、残す駅はあと数駅となった頃合いだった。
「『ぷるぷる』ってちょっと可愛い言葉を、葵さんの口から聞きたいんです」
「どんなお願い?」
そんな中で、アイリスからよく分からない願いが飛んでくる。アイリスの趣味嗜好があまり理解できないのはいつものことだが、これに関しては輪をかけて理解できなかった。
「まぁ、確かに結構ぷるぷるしてますけど」
「最初はそうなりますよね。私もそうでした」
「せっかく言ったのに、どうして何も反応しないんですか」
「ちなみに、私は今もぷるぷるします」
「じゃあ、何で『最初は』って言ったんです?」
自らの右腕を持ち上げて言うアイリスに、思わずじっとりとした目を向けてしまった。今の手の平返しのような発言もそうだが、「ぷるぷる」発言を受け流したことも原因の一つではある。
「ちょっと格好つけちゃいました」
「アイリスさんの細腕でそれは無理ですって」
「葵さんだって細めじゃないですか」
「それでも、アイリスさんよりはずっと力があるはずです」
むしろないと困る。
「ほんとですか? じゃあ、ちょっとこっちに差し出してくださいよ」
「いちいち確認します?」
疑いようもないのに、何故か疑うような目を向けてくるアイリス。別に減るものでもないので差し出すこと自体は拒まないが、わざわざ確認する必要があるとは到底思えなかった。
「引っかかりましたね。えい」
「うぁっ」
奇妙な声が出た。
「何を」
「いや、つい」
悪びれる様子もなく、楽しそうに笑うアイリス。その目には、せっかくだから悪戯をしておこうという思いがはっきりと浮かんでいた。
その悪戯の内容はとても単純である。普段使わない部分を使ったことで早くも筋肉痛のような症状を引き起こしている腕を、その小さな手で軽く握られただけの話だ。力も強かった訳ではないが、それでも痛みとは違った不思議な感覚が走って思わず声が漏れてしまった。
「変な声でしたね」
「誰のせいだと思ってるんですか」
「我慢できなかった葵さんのせいですね。えいっ」
「うっ」
もう同じことはされないようにと腕を引き戻したのに、わざわざ身を乗り出してまで掴みにきた。悪戯のために全力を注ぎ過ぎている。
「いやぁ……、いっつもしてやられてばっかりの葵さんにこういうことができると、ちょっと嬉しくなっちゃいますね」
握ったまま離さない腕を人質に取りつつ、何やら物騒なことを呟くアイリス。その心の中で、何か開いてはいけない扉が開きそうになっていた。
「その分、仕返しがくることになりますけどね」
「え? 何ですか?」
「……っ」
にぎにぎ。これまでのように一度だけ握って終わるのではなく、力が強くなったり弱くなったりを何度か繰り返す。その度にむずむずとした感覚が腕を突き抜けていった。
「葵さんから変な声が出るスイッチみたいで楽しいですね、これ」
「……僕は楽しくないです」
当たり前の話だが。
「何だか顔までむずむずしてません?」
「気のせいです」
身を乗り出して近くなった距離で、じっと顔を見つめられる。正直に言うと、鼓動が速くなるのを抑えることはできなかった。気のせいだと誤魔化した表情の変化も、間違いなくその距離のせいである。
アイリスは悪戯をするのに意識を割いていて気付いていないのかもしれないが、改めて見ると相当に距離が近い。ひとたび電車が大きく揺れてしまえば、お互いの顔がぶつかってしまうのではないかと思える程だった。
「いやいや。葵さんのことならある程度お見通しですから。絶対に何か考えてますって」
確信を持ったように言うアイリス。確かに余計なことを考えているのは合っているが、だからと言って、正直にその中身を暴露することはできない。暴露すれば最後、恐らく今日別れるまで気まずい空気が漂うことになるのだろう。それは流石に避けたかった。
「ほらほら。教えてくれないんだったら、葵さんの腕が大変なことになっちゃいますよぉ?」
「もう慣れてきました。今ならマッサージみたいなものです」
「何ちょっと楽しんでるんですか」
だからこそ、考えてしまったことを打ち明けるのではなく、人質となった腕を取り戻す方向に舵を切る。
そんな思惑通り、不満そうな声がしたのと同時にようやく腕が解放された。もうこの方法では悪戯ができないと判断されたらしい。
「せっかく葵さんに悪戯できるチャンスだったのに……。慣れるのが早過ぎるんですよ」
「まぁ、別に慣れてはいないんですけどね。今でもちょっとむずむずしますし」
「え?」
「でも、こう言わないと多分離してもらえないんだろうなって思って」
「騙された……!」
素直過ぎるのも考えものだ。自分の言葉を真に受けてみすみす腕を解放してしまったアイリスには、やはり下手な小細工は向いていない。例えば、これが碧依や莉花なら、きっと未だに腕を掴まれたままだっただろう。
ただし、これはあくまで仮定の話であって、実際に碧依や莉花に相対していたのなら、まず腕を掴まれることがないように警戒していたに違いない。そういったことを考えることなく接しているアイリスだからこそ、先程までの状況が生まれてしまったのだった。
「……」
「葵さん? また何か考えてません?」
そうやってあれこれと考えている雰囲気が漏れてしまったのか、悔しがる様子を引っ込め、不思議そうにアイリスが首を傾げる。
「考えてましたけど、これは恥ずかしくて言えません」
「恥ずかしいことを考えてたってところまでは言ってくれるんですね」
「程々に情報を与えた方が、アイリスさんもこの辺りで引き下がってくれるかなと思って」
「その言い方はずるいですよ。そう言われちゃったら、これ以上は聞きづらいですもん」
「じゃあ、狙い通りですね」
「むぅ……。気になる……」
小さく頬を膨らませるという、相変わらず子供っぽい仕草だった。そこまでされても、何を考えていたのかは絶対に言わないが。
(『余計なことを考えずに、一番気楽に話すことができる相手』なんて言ったら、絶対に厄介な反応が返ってくるでしょうし)
そんな様子を見ながら、頭の中でそっと呟く。口にすれば、アイリスはきっと喜んでくれるとは思う。と言うより、そう思いたかった。
だが、その後はどうなるか。これに関しては、これまでのどんなタイミングよりも想像するのが簡単だった。
「……」
その様子を想像しつつ、横目でそっとアイリスのことを窺う。不満そうな表情は変わっていなかったが、それでもどこか楽しげな表情にも見えるのが不思議だった。
「葵君ってさ、料理は得意なんだよね?」
「得意、とまでは言いませんけど、好きではありますよ」
とある日が目前まで迫ってきた二月九日、金曜日。その昼休みに、何の前触れもなく碧依がそう切り出した。
「毎日ちゃんとお弁当を作ってくる人が何言ってるんだか」
そのやり取りを隣で聞いていた莉花が呆れ顔。周囲から見ればそう見えるのかもしれないが、個人的には得意と言いきる程の自信はなかった。
「随分いきなりだけど、水瀬さん的に何か気になることでもあったの?」
「ん? うん、ちょっとね」
悠の疑問に曖昧に答えてから、碧依が再びこちらに向き直る。
「それじゃあさ、お菓子とかも作れたりする?」
「お菓子ですか? 物によりますけど……」
「例えば?」
「オーブンで焼くようなものなら、多少は」
もっと言えば、自宅でも作りやすいものという意味だ。そういった点で、やはり焼き菓子系は比較的作りやすい。
「で、どうしました?」
「ほら、もうすぐそういう日でしょ? 何か作ったりするのかなって思って」
「あぁ……」
碧依のその一言で、言いたいことを理解する。要は「バレンタインだけど、何かするの?」ということだろう。理解してしまえば、言われる前に気付けることだったとも思う。
「これまで、そういうことはしたことがないですけど……」
内心の焦りを隠しながら答える。と言っても、誤魔化すための嘘を口にした訳ではなく、本当にこれまでそういったことに関わったことがないだけだ。
「へぇ、そうなんだ? 料理が好きって言うなら、むしろそういうイベントには積極的なのかと思ってた」
「僕がですか?」
「……その一言で納得できちゃうのも考えものだと思うけどね」
「放っておいてください」
何故か目付きが優しくなった碧依。本当に何故かは分からないが、何を考えているのか手に取るように分かった。
これは間違いなく失礼なことを考えている。
「単純にそういう機会がなかっただけですよ」
「それなら、今年はいい機会だと思わない?」
「それは……、まぁ……」
「貰って喜ぶ三人がここにいるよ?」
「え、僕まで入ってるの?」
まさか頭数に入っているとは思っていなかったらしく、会話を静観していた悠から驚きの声が上がった。いつも通り、その目は丸い。
「その日に何かするかは葵君次第だけど、もしするってなったら羽崎君にも渡すでしょ」
「ですね。最近はそういう流れもあるみたいですし」
「そういうものなのかな……? 何か複雑……」
「細かいことは気にしない」
碧依が悠の悩みを一刀の下に切り捨てる。この場の誰よりも潔かった。
「まぁ、あれこれ言ったけど、葵君が忙しいなら無理にとは言わないけどね」
「ここまで煽っておいて?」
「細かいことは気にしない」
目を逸らしながら言う碧依。これは潔さとは何か違う気がした。
「気が向いたらでいいから」
「そういうことなら……」
「私もちゃんと用意しておくからね。……市販品を」
「……」
「……だって、自信ないし。市販品って美味しいし……」
「分かりますけど」
逸らされた目は戻ってこなかった。
「だったら、どうして僕には作るかどうかなんて聞いてきたんですか」
「久しぶりに葵君の女子力を確認しておきたくて……」
「それに何の意味が……?」
もう何もかもが間違っている気しかしない。そもそも、それを碧依が確認したところで何になるというのか。活かす先が何もない。
「ねぇ、そんなことよりもさ」
「そんなことって」
碧依の謎過ぎる行動に頭を悩ませていると、珍しく会話に参加せずに黙って聞いていた莉花が口を開いた。その第一声もあんまりなものだったが、莉花がこれ程までに沈黙を守っていた事実を考えると、その後に続く言葉が怖くて仕方がない。
「湊君がそういうことを考えないといけない相手って、他にいるんじゃないの?」
「……っ!」
莉花がにやにやしながら口にした言葉に、思わず反応してしまう。莉花はそこまで深い意味で言っている訳ではないのだろうが、その実、先程内心の焦りを生んだ原因を言い当てられてしまった形だ。
「確かに。誰よりも喜びそうな人が一人いるよね」
「でしょー? 私達がどうこう考えるより、まずはそっちを考えた方がいいんじゃないの?」
「むしろ、僕達は構わなくていいからってくらいじゃない?」
「言えてる」
唐突に大きくなって再来した焦りを今度はどう誤魔化そうかと模索している間に、悠と莉花の間でどんどん話が進んでしまっていた。普段は寄り道の多い会話を繰り広げているのに、こんなところはやたらとスムーズである。
「で、何か考えてたりするの?」
「……一応は」
「ほう。やっぱりか」
結局、大した案も浮かばないままに時間切れとなった。ここで変に黙り込むのも怪しいので正直に答えておいたが、果たして今の自分は周囲からどう見えているのだろうか。
あれだけ色々と言っておいて、実際は渡す算段を立てていることがばれて恥ずかしがっていると、そう勘違いしてくれるのが最も理想的だ。それならば、個人的には何も気にすることはない。
一番悪いのは、渡すことそのものを恥ずかしがっていると解釈されてしまうパターン。誰の思考がどんな道筋を辿るか分からない以上、そんなところから感情がばれてしまう可能性も否定できなかった。
「ま、普段の葵君とアイリスさんを見てたら当然だよね」
「まあねー。これで何もないって方が、私達からしたら違和感があるし」
「……」
そう言ってお互いに頷く碧依と莉花の様子からは、そこまで深く考えている雰囲気は感じられなかった。そこまで確認して、心の中でそっと息を吐き出す。
「……?」
そうして油断していたからなのか。隣で小さく首を傾げる悠には、ついぞ気付くことができなかった。
「いよいよ迫ってきたね、アイリス」
「え? 何?」
帰り支度、と言うより、二年生の教室に向かうために教科書を片付けていると、背後から突然紗季が絡んできた。両肩を押さえ込む様は、まるで逃げ場をなくそうとしているかのよう。
嫌な予感がした。
「『何?』じゃなくて。もう来週でしょ?」
「……な、何が?」
「目が泳いでるってことは、私が何を言いたいかは気付いてるんだ」
「し、知らない……」
そのまま正面に回り込んで小声で話しかけてくる。咄嗟に嘘が口を衝いて出たが、本当のことを言うと、紗季の言う通り、何が言いたいのかは気付いている。単に認めるのが恥ずかしかっただけだ。
「それなら、分かるように言葉にしてあげようか? 『湊先輩に本命を渡すんでしょ』って」
「確認した意味ぃ……!」
「わぁ、顔が真っ赤」
結果、紗季から言われて余計恥ずかしい事態になった。これなら自分から言っていた方が、幾分かましだったような気がする。
「聞かなくても答えが分かるね」
「最初から分かってたでしょ……」
「うん、知ってた」
さも当然のように口にする紗季。自身の考えを疑う様子など、どこにも見られなかった。
「そっかそっか……。やっぱり渡すよね」
「……私を恥ずかしがらせるために、そんなことを言いに来たの?」
「それも少しはあるけど」
「あるんだ……」
迷惑な話である。そのせいで、自分の感情は乱れに乱れている。それこそ、この後どんな顔をして葵と話せばいいのか迷いそうになるくらいだった。
「本当に聞きたかった方はね」
「……」
「言うの?」
「……」
これまでのからかうような表情は完全に消え、見たこともないような真剣な顔を見せる紗季。そうして口にした言葉は、たった三文字の言葉。事情を知らない人からすれば、何を意味しているのか絶対に理解できないはずの一言。
そんな言葉だったのに、これ以上ない程はっきりと言いたいことが伝わってきた。
「……」
「アイリス?」
伝わってきたからこそ、軽々しくその答えを口にすることはできなくて。真剣な表情を浮かべていたはずの紗季が不思議そうに呼びかけてくるまで、じっと沈黙を貫いてしまった。
それでも、今度は目を泳がせてしまうことはない。
「……言う」
「お?」
他の誰にも聞こえないような、小さな一言。ただし、そこには大きな感情を込めて。
はっきりと紗季に告げた。
「ほんとに?」
「だって……」
「だって?」
「……隣にいて楽しいだけなのは、もう嫌だもん」
「お、おう……」
隠すことなく、心の内まで吐露する。もしかすると、誰かに聞いてもらって覚悟を決めたかったのかもしれない。そう思うと、思ったよりもすんなりと言葉が出てきた。
「何で紗季の方が照れてるの」
「いや……、想像以上にストレートに来たなって思って……」
「そう仕向けたのは紗季なのに」
その結果、何故か紗季の顔が若干赤くなっていた。なかなか見ることができない、珍しい部類の顔だった。
「でも、そっか……。言うのか……」
「……上手くいくと思う?」
「結構いい雰囲気だと思うけどね。こればっかりは湊先輩次第だからな……」
「うぁー……。言ってて不安になってきた……」
「来週だってのに」
気が早いと言わんばかりに苦笑いを浮かべる紗季だが、当事者としてはそうも言っていられない。早くその日を迎えて結果を知りたい気持ちと、このまま心地よい関係に浸っていたい気持ちが心の中でせめぎ合っていた。
「ま、どうなるにせよ、そこまで覚悟を決めたんだったら応援してるから」
「上手くいくって言ってよぉ……」
「突然面倒になったな」
紗季が話しかけてきた時とは、いつの間にか立場が逆転してしまっていた。今度は自分が紗季に絡む番である。
片付けを進めてはいたものの、葵に会いに行くのは、もう少しだけ先になりそうだった。




