『エッジ』 第11章 裏切り(7)
礼韻たちは松尾山の南側に陣取っていたが、この位置は割と全体を見渡せる。さらには現代から持ってきた望遠鏡もある。
全体を見渡せる位置にいると、西軍の異常な様子が手に取るように分かった。
まるで古い家電のように、オンかオフしかないのだ。戦っている軍は激戦の最中で、戦っていない軍は静止画像のようにまったく動きがない。その中間はなく、激戦か静観かだけ。
また、その静まる場所が異様だった。いつでも簡単に家康の背後を付ける吉川と毛利。大激戦が展開しているすぐとなりで傍観している小早川。礼韻たちは小早川軍に近いので、その将である小早川秀秋がオロオロしている様子が肉眼でも見て取れた。そしてさらには島津がより異様だった。大激戦の真ん中で我関せずと静まっているのだ。東軍もそんな島津を気味悪がって近付かない。合戦場にポカンと空白地帯ができていた。
石田軍からは狼煙が上がっては消え、上がっては消えの繰り返しだった。天満山の大軍が動けば、ほぼ勝利を手中にできるのだ。
しかし天満山は動かない。その数およそ、毛利15000、吉川3000、長曾我部6000、安国寺2000、長束1500を足して30000の兵。すでに靄はなく、三成の上げる狼煙が見えないなど絶対にない。
なぜ動かないかは、誰が考えても分かることだった。天満山の諸将をまとめている吉川広家が家康に内応しているのだ。
吉川広家の裏切りは積極的なものだ。自身の判断で、家康に付いた。このところが、小早川や島津と違うところだった。
吉川広家は毛利を代表する指揮官だが、本家ではないので最終的な決定権はない。もし広家に決定権があったなら、最初から東軍に加わっていただろう。毛利本家が西軍に名を連ねたので、仕方なく、戦いの場で裏切る方針を取ったのだ。
広家は西軍に加わったあと、なるべく三成との接触を控えた。顔を合わせても、のらりくらりと話をかわし、本格的な軍議は避けた。
天満山も、勝手に陣取ったものだ。関ヶ原で一戦を交えるとなったとき、西軍の総司令官である三成の了承も得ず、登って布陣してしまった。もちろん毛利の軍も連れてである。
そんな場所では効果がないと、三成は言いたかったことだろう。しかしこの、年齢のほぼ同じな広家に命令することができない。三成は指揮こそ振るっていても、総大将ではない。引退の身で代表者を担う権利がないのだ。そして吉川広家の本家、毛利こそが総大将だった。逆に言えば、三成に咎める力がないと見越しての、広家の勝手な振舞いだった。
天満山は戦地から離れることが予想され、傍観するにこれ以上ない場所だった。日本一の戦巧者と称えられていた家康が見れば、一発で、「我々は動きませんよ」と分かってもらえる地点だった。この点を見ると、広家は見事なパフォーマーだったと言える。
広家ほか南宮山の者たちがどのような気持ちでいたのかは、人の心なので分からない。しかし関ヶ原の合戦が収束するまでまったく動かなかったことだけは、確かなことだった。




