『エッジ』 第7章 祖父の贈り物(4)
願坐韻が表情を浮かべず、ジッと礼韻を見る。
礼韻は願坐韻の頭を探るが、空白だった。
「真面目に……」
しわがれた声が部屋に響いた。居合わせた側近2人が目を丸くしてベッドの方を向き、次の言葉を待っている。その一言ではなんのことか不明なのだ。
しかし心の読める礼韻は充分に意味が分かる。すぐに、関ヶ原の戦いですと訂正した。
「そうであろう。三成に偏向するお前ではな」
礼韻の頭に願坐韻の言葉が流れてきた。たしかにそうなのだが、しかし礼韻は、小牧・長久手の戦いにも興味があった。
三成が泳ぎ、昇っていった豊臣政権。その秀吉にとって重要なポイントとなったのが、その戦いだった。もしもその戦いに大きくしくじっていたら家康の服従は叶わず、そうなれば武将の頂点に君臨することもできなかっただろう。
ところで、合戦名の認知度と、合戦で戦った武将の認知度には、面白いことにずれがある。
歴史の疎い人に知っている合戦名を挙げさせれば、関ヶ原の戦いが1番となるだろう。そこから水を開けられて、川中島、桶狭間、山崎辺りが続くのではないだろうか。賤ケ岳、小牧・長久手はその次くらいとなるはずだ。
しかし関ヶ原で対峙した武将の名は、そうではない。家康を知らない人間はいなくても、石田三成を知らない人間はいる。三成は、歴史にまったく興味のない人間にまで知られている人物ではない。おそらくは今川義元も柴田勝家も、同程度だろう。最も知られている武将同士が戦ったのが、小牧・長久手の秀吉―家康となるはずだ。
礼韻は小牧・長久手の戦いも綿密に研究していた。まだ秀吉が全国の制定のために戦いを繰り返さなければならず、そこに石田三成の『知』が生かされる場はできあがっていなかった。しかし戦いで勝利を得ても、相手を壊滅させなかった秀吉だからこそ、その後に三成の才が活きる土壌ができあがることになるのだ。
願坐韻は権威者には珍しく、新説や亜流の説を受け入れ、ときには自らそれを唱えた。その亜説のいくつかが検証と物的証拠により定説となり、権威をより不動のものにしていった。その実績から、『過去を実際に見てきた男』と、半ば誉め言葉のように揶揄されることがあった。
学校に行かず、ほとんど祖父に付きっきりの礼韻だったが、時折気まぐれに顔を出した。一つは、涼香に会うため。もう一つは、優丸という、初めてできた友人に会うためだった。