【昔日】一分一秒でも
【昔日】一分一秒でも
エレオノーラとの契約を終えたばかりの悪魔は、産室を出てほくそ笑む。やがてそれは哄笑に変わった。悪魔はおかしくてしょうがない。たった今、自分は希少な魂を同時に二つも手に入れたのだから。
「ハっ、ハっ、ハっ。愚かな人間だ。まんまと騙されてくれた」
それにひきかえ巧みに彼ら夫婦を騙した自分は、なんと賢いのだろう。
悪魔でもいいから助けてくれなどと、そうそう口にしてはいけない。どれだけ追い詰められたからといっても、そんな言葉を言えば、本当に悪魔が来てしまう。
悪魔と契約した時、ヘンリック王は追い詰められていた。
敵に囚われた妻と部下たち。用意できた身代金はどちらか一方の分だけ。どちらを救うか、どちらを選んでも後悔するのは確実で、それゆえどうしても選べなかった。
そんな時だ。迷いに迷ったヘンリックの叫びが悪魔を呼んだ。
悪魔は応じた。そして願いを叶えるのと引き換えに、彼の魂を要求した。
ヘンリックの望んだ願いは、『エレオノーラの救出』。身代金は部下のために払い、妻の救出は悪魔に頼むことにした。
しかしそれこそがこの悪魔の狙いであり、姦計だった。
奸智をもって人間をはめることこそ、まさしく悪魔の所業だ。契約することそのものが罠。悪魔はどのようにしてでも契約の抜け道を探し、人を罠にはめるのだから。
「すでに命数尽きているとも知らず」
悪魔の眼には見えていた。ヘンリックにしてもエレオノーラにしても、すでにその命の最期が見えていた。どう足掻こうともヘンリックはこの戦で命を落とすし、助け出してもエレオノーラは産褥で死ぬ。もうすぐ死ぬと承知した上で契約を持ちかけたからこそ、時間を置かずに魂を狩れる。
「それにしても」
自分は本当に賢い。ヘンリック王と契約したのは予定通りだが、救出するはずのエレオノーラにも契約を持ちかけたのは思いつきだ。
慈悲深い王妃が子どもを選んだ時には内心で快哉を上げた。夫か、もしくは彼女自身の助命を望まれたら、悪魔はかなり面倒な作業を強いられただろう。エレオノーラが己を犠牲にしてくれたお陰で救出する手間が省け、彼女の魂まで手に入った。
ヘンリックに残された時間もまた短い。彼が身代金と引き換えに救った部下は、すでに敵の王に忠誠を誓っている。裏切りは間もなく始まるだろうから、エレオノーラが死んだらすぐにも魂を狩りに向かわねば。
「ハっ、ハっ、ハっ。愚かな者どもよ、下らぬ情など持つからだ。ハっ、ハっ、ハっ」
悪魔は嗤う。人間の持つ、愛とやらの愚かさを。
*
去っていくまだら模様の服の悪魔を、ヘンリックは見送った。
彼はたった今、悪魔と契約を交わし、妻の救出を頼んだところだ。完全に追い詰められていた彼は、悪魔でもいいから助けがほしかった。そう叫んだら本当に現れたのだ。
敵の誘い出しの罠にはまり、気が付いたら深追いしすぎていた。別動隊とは切り離され、戦時の出城として築いた砦にも戻れない。それでもどうにか自分が率いていた本隊は奮戦して死地を脱出し、迂回して自分の領地に入った。
だが危機には変わりなかった。エレオノーラが砦に取り残され、別動隊を任せたコリンはすでに捕虜として敵の手に落ちている。どちらもヘンリックにとっては命にも代えがたい存在だ。エレオノーラは妻で、コリンは乳兄弟でもある。
そんな時、敵から停戦の申し出が入る。意外だった。追い詰められているのはこちらで、有利なのはあちらなのに。不思議に思っていたら、その条件に息が止まった。囚われた捕虜を救うための、莫大な身代金。この手に取り戻したければ、それこそ山のような財宝を積まねばならないとわかった。王妃であるエレオノーラの分はとりわけ高額で、ひとりで何十人分にもなる
そしてヘンリックにかろうじて用意できたのは、必要な額の半分。足りなかった。
妻か。それとも乳兄弟と兵たちか。
王としては後者を選ぶが、人としてはエレオノーラを諦めきれない。永遠の愛を誓った妻を、他の誰より救いたかった。
どちらも選べず、どうしたらいいと苦悩するヘンリックを、あの悪魔は助けてくれた。
ヘンリックが、その死後、魂を捧げることと引き換えに。
「それでもいい。エレオノーラ、もう一度君に会えるなら」
必ず守るという約束を、信じて待っているだろう妻。さらに身重だ。我が子の命もかかっていると思うと、見捨てることなどできるはずがない。だからこれでよかった。
しかし自分は死んだら神の御許に召されるのではなく、悪魔に狩られることになる。
ならば。
「早く会いたい。せめて生きている間は、できるだけ長く君と過ごしたいんだ。エレオノーラ」
一日でも、一刻でも。たとえ一瞬でもいいから長く。
もう一度会えたら、二度とエレオノーラを離さない。
離さない。