25話 見つけてくれた?
白い影の輪郭が崩れたまま、配信画面の端に残っていた。
消えない。
完全に映っているわけでもない。
けれど、もうただのノイズではなかった。
俺は正面を見たまま、スマホを握り直す。
肩の傷は浅い。
痛みは残っているが、動けないほどではない。
問題は、動く先だ。
止まっていれば、向こうの距離宣言を待つだけになる。
見ない、答えない、場所を与えない。
それだけで凌げる時間には限界がある。
美月も同じことを考えていたのか、刀を構えたまま小さく息を吐いた。
「兄さん、このまま立っていても削られる」
「ああ。動くぞ」
コメントが跳ねた。
【動くのか】
【大丈夫?】
【でも止まってても無理】
【探索開始?】
【カメラ切るな】
俺はコメントを追いすぎない。
全てを信じれば、逆に場所を与えることになる。
拾うのは、複数の視線が重なった情報だけだ。
スマホの向こうで、少女が囁いた。
「今、見えてるの」
その言葉は、今までの距離宣言と少し違った。
近い。
後ろ。
手が届く。
そういう距離ではない。
見えている。
それは、こちらの観測に触れてくる言葉だった。
配信画面の白い影が、ざらりと乱れる。
輪郭が右へ伸び、次の瞬間には左の塀の影へ滲んだ。
俺は見ない。
直接は見ない。
画面も流すだけにする。
「見えてるから、なんだ」
返事にならない程度に、低く呟く。
少女の声は返ってこなかった。
ただ、通話のノイズだけが少し濃くなる。
俺たちはゆっくり歩き出した。
住宅街は、さっきまでより狭くなっている。
家と家の間隔が詰まり、路地が増え、同じ形のブロック塀が何度も続く。
表札が消えていた。
どの家にも名前がない。
ポストも、門灯も、窓の位置も似ている。
ただ、電話線だけが異様に多かった。
黒い線が電柱から電柱へ絡みつき、路地の上に低く垂れている。
蜘蛛の巣みたいだった。
その全部が、どこかへ向かって伸びている。
コメントが流れる。
【電話線多くね?】
【左の窓なんかいた】
【同じ家ばっかり】
【奥の電柱おかしい】
【線が全部向こう行ってない?】
俺は足を止めない。
左の窓。
奥の電柱。
同じ家。
全部に反応したら、目が足りない。
だが、電話線。
そこだけは複数のコメントが重なっている。
俺は視線を上げすぎないように、視界の端で黒い線を追った。
線は少しずつ、同じ方向へ集まっている。
美月が低く言う。
「上、変だね」
「見すぎるな」
「分かってる。気配も、あっちに寄ってる」
美月が顎を動かす。
指した先ではなく、呼吸の向きだけで方向を示した。
正面の奥。
細い路地を抜けた先。
そこだけ、配信画面のノイズが濃い。
自動追尾カメラが小さく揺れた。
正常に追っているはずなのに、映像の端だけが遅れる。
画面の奥に、白い影が残る。
俺たちが進むたび、影は消えずに同じ距離を保っていた。
追ってきているのか。
待っているのか。
分からない。
少女の声が、またした。
「どうして、そっちへ行くの?」
俺は答えない。
けれど、その問いで確信に近づいた。
嫌がっている。
少なくとも、無関係な場所ではない。
コメントがまた流れる。
【今嫌がった?】
【そっちが当たりっぽい】
【右じゃなくて正面】
【電話線の先】
【ノイズ濃い】
俺は足を進める。
肩が痛む。
血が服に張りつく感覚がある。
それでも、今は止まる方が怖かった。
路地の奥へ進むほど、家の窓に白いものが映る回数が増えた。
人形。
そう見えた瞬間には消える。
女の子。
そう思った瞬間には、ただのカーテンに戻る。
決めるな。
俺は心の中で繰り返す。
人形と決めるな。
女の子と決めるな。
そこにいると決めるな。
見えているものを、まだ固定するな。
シェヘラザードが千夜一夜を抱え、俺の横で小さく呟いた。
「良い判断です、マスター。今は名付けない方がいい」
「名前も危ないか」
「この手の物語では、名付けは輪郭を与えます」
厄介すぎる。
だが、理屈は分かった。
見たものに名前を与えれば、そこに形が生まれる。
今はまだ、断片のまま流す。
配信の向こうで、視聴者もそれを察したのか、コメントが少し変わった。
【白いの】
【窓のやつ】
【人形っぽいやつ】
【断定しない方がいい?】
【名前出すの怖い】
少しずつ、観測の仕方が変わっている。
見ているのに、決めない。
それが、今の俺たちにできる唯一の進み方だった。
路地を抜けると、古い一軒家が見えた。
他の家と大きさは変わらない。
塀も、玄関も、窓も普通だ。
だが、そこだけ電話線が異様に集まっている。
何本もの黒い線が屋根の上へ伸び、軒先を通り、玄関脇の古い電話ボックスみたいな箱へ絡みついていた。
家の玄関は、少しだけ開いている。
中は暗い。
それなのに、電話の音だけが聞こえた。
りん。
りん。
スマホの着信音ではない。
古い黒電話のベルみたいな音だった。
美月の足が止まる。
「ここ、濃い」
「ああ」
配信画面を見る。
ノイズが、逆に減っていた。
白い影も、逃げるように滲まない。
玄関の奥に、薄く立っている。
初めて、そこに固定されているように見えた。
コメントが爆発する。
【ここだ】
【ずっと映ってる】
【消えない】
【玄関の中】
【電話鳴ってる】
【核心じゃない?】
俺は即座に全部を信じない。
けれど、重なりすぎている。
電話線。
ベルの音。
消えない影。
ノイズの減少。
偶然ではない。
少女の声が、スマホから聞こえた。
「今、家の中にいるの」
初めて、背後ではなかった。
その言葉に、背中の気配が少しだけ薄くなる。
代わりに、玄関の奥の白い影が濃くなった。
画面の中でだけ、輪郭が一段はっきりする。
黒い髪。
白い頬。
小さな肩。
まだ顔は見えない。
見てはいけない。
でも、そこにいる。
美月が刀を構え直す。
「入るの?」
俺は喉を鳴らした。
入りたくない。
当然だ。
あの家の中が、この物語のさらに深い場所だと分かる。
だが、ここまで来て引き返せば、また背後に戻されるだけだ。
コメントが割れる。
【入るな】
【いや行け】
【ここ核心だろ】
【危険すぎる】
【配信切るな】
【断片で見ろ】
俺は正面の玄関だけを見る。
場所を与えるな。
だが、核心から逃げるな。
相反する二つを抱えたまま、足を一歩出す。
玄関の奥で、白い影が揺れた。
電話のベルが、もう一度鳴る。
りん。
少女の声が、ノイズ混じりに囁いた。
「見つけてくれた?」
俺は答えない。
答えないまま、開いた玄関を見据える。
白い影は、今までで一番はっきりとそこに立っていた。




