16話 今、角を曲がったの
どこにでもありそうな景色なのに、人の気配だけが抜け落ちている。
窓にはカーテンがある。
玄関先には植木鉢がある。
錆びた自転車も、閉じた雨戸も、そのまま残っている。
生活の形だけが残っているのに、誰もいない。
俺はスマホを握ったまま、しばらく動けなかった。
通話はまだ繋がっている。
耳元では、ざり、ざり、と乾いたノイズが続いている。
さっきの声が、頭の奥に残っていた。
今、トンネルに入ったの。
あの言葉は、俺たちの場所を言い当てていた。
偶然ではない。
ここから先は、もう普通のダンジョンじゃない。
かぐや姫が周囲を見渡す。
美月の身体で、冷静に町の配置を確認していた。
その横顔を見て、俺は思い出す。
約束。
ダンジョン攻略の際は、美月の意識を表に出すこと。
俺が出した条件だ。
「かぐや姫」
呼びかけると、かぐや姫は静かにこちらを見た。
「約束だ。ここからは美月を表に出してくれ」
かぐや姫は一拍置いた。
拒否されるかもしれない。
そう思った瞬間、喉が少し詰まる。
だが、かぐや姫は感情のない声で答えた。
「承知しています」
美月の身体が、わずかに揺れた。
空気の温度が変わる。
整いすぎていた呼吸が、ほんの少し乱れる。
瞳の奥にあった冷たい白が薄くなる。
次の瞬間、そこに戻ってきたのは美月だった。
「……兄さん」
名前を呼ばれただけで、胸の奥が緩んだ。
声は弱くない。
視線も揺れていない。
美月は自分の手を一度見てから、腰の刀に触れた。
いつも通り、そこに刀はある。
鞘の位置を確かめるように、指先が柄の近くで止まる。
「大丈夫。ちゃんと動ける」
「無理はするなよ」
「分かってる。兄さんの方こそ、顔が固い」
その返しに、少しだけ息が抜けた。
いつもの美月だ。
完全に元通りじゃない。
それは分かっている。
それでも、目の前にいるのは美月だった。
シェヘラザードが小さく微笑む。
「約束は守られましたね、マスター」
「ああ」
俺はスマホを耳から離した。
通話は、いつの間にか切れている。
画面には、発信者不明の履歴だけが残っていた。
美月が周囲へ視線を走らせる。
「配信は?」
「ここから繋ぐ」
俺は端末を取り出す。
場所はもうダンジョン内部だ。
封鎖区域の外から位置を特定される危険は、さっきより低い。
何より、この先は俺たちだけでは見落とす。
見えないものを、視聴者が拾う可能性がある。
俺はダンジョンライブを起動した。
配信開始の確認画面が出る。
親指を置く。
一瞬だけ、迷う。
視聴者が増えれば、物語は強くなる。
それでも、観測がなければ届かないものもある。
俺はボタンを押した。
画面が切り替わり、専用小型カメラが自動で周囲を旋回し始める。
【配信を開始しました】
同時視聴者数がすぐに伸び始めた。
3421。
7190。
11342。
16008。
コメントが一気に流れ込む。
【きた】
【戻った!】
【どこだここ】
【町?】
【人いなくない?】
【さっきの特殊な場所?】
【美月ちゃんいる!】
【なんか雰囲気やばい】
配信画面の中に、無人の住宅街が映っている。
視聴者の反応は当然だった。
ダンジョン配信で映る景色ではない。
モンスターもいない。
宝箱もない。
壁も床も迷宮らしくない。
ただ、無人の町があるだけだ。
それが逆に、不気味だった。
「ここから先は慎重に行く。細かい説明はできない。何か見えたらコメントで教えてくれ」
コメントが流れる。
【了解】
【怖い言い方すんな】
【何か見えたらって何】
【ホラー系?】
【右の家暗くね?】
【普通に嫌な空気】
美月が刀の柄に指を添え、少しだけ眉を寄せた。
すぐに抜く構えではない。
いつでも動ける位置を、身体が勝手に探している。
ここで必要なのは、力で押し切ることではない。
流れを読むことだ。
俺は周囲を確認しながら、一歩進んだ。
道路は乾いている。
なのに、空気だけが湿っている。
風はある。
電線は揺れていない。
音が少ない。
遠くの道路を車が走る音も、犬の声も、家の中から漏れる生活音もない。
自分の足音だけが、妙にはっきり聞こえる。
美月が隣に並ぶ。
「変な場所」
「ああ」
「敵の気配は薄い。でも、見られてる感じがする」
その言葉に、背中がわずかに冷えた。
美月も感じている。
俺だけの恐怖じゃない。
画面の端で、コメントが流れた。
【今ノイズ入った?】
【一瞬画面乱れた】
【気のせい?】
【右側なんか白くなかった?】
俺は端末を見る。
画面は普通に映っている。
右側の家も、塀も、何も変わらない。
白いものなど見えない。
「どこだ」
言いかけて、声を抑えた。
まだ決めつける段階じゃない。
ノイズ。
白い何か。
視聴者だけが気づいた違和感。
覚えておく。
その時、スマホが震えた。
さっきと同じ振動だった。
俺の足が止まる。
画面を見る。
発信者不明。
通話履歴に残っていたはずの名前もない。
ただ黒い画面に、着信表示だけが浮かんでいる。
喉の奥が張りつく。
唾がうまく飲み込めない。
指先から体温が抜けていく。
コメント欄がざわついた。
【電話?】
【今鳴った?】
【誰から?】
【出るな】
【いや出ないと進まないやつ】
俺は喉を鳴らした。
美月が俺の横で構える。
シェヘラザードは千夜一夜の表紙に手を添えた。
俺は通話ボタンを押す。
耳に当てる前から、ノイズが漏れていた。
ざり、ざり。
乾いた音。
俺はスマホを耳へ近づける。
「……もしもし」
返事はない。
呼吸だけが聞こえる。
遠い。
近い。
どちらとも言えない。
数秒後、女の子の声がした。
「今、角を曲がったの」
視線が勝手に動きそうになる。
角。
町の中に、曲がり角はいくつもある。
どの角だ。
俺は周囲を見る。
右手に細い路地。
左手に低い塀。
正面には、少し先で折れた道路。
どこにも誰もいない。
美月が低く言う。
「見えない」
「俺にも見えない」
通話の向こうで、ノイズが続く。
コメント欄が一気に流れた。
【右の道】
【今右端に何か】
【白いのいた】
【角曲がったって右の路地?】
【いや見間違いかも】
【カメラ向けて】
俺は自動追尾カメラに対し、右の路地へ向かうように指示する。
そこには何もいない。
ただ、暗い路地があるだけだ。
けれど、コメントは止まらない。
【今いた】
【一瞬だけ】
【白い服?】
【ノイズで消えた】
俺の背中に冷たい汗が浮いた。
俺には見えない。
美月にも見えない。
だが、画面の向こうでは、何かが見えている。
スマホの向こうで、女の子の呼吸が続いている。
俺は通話を切れなかった。
切っていいのか分からない。
電話。
移動。
位置の宣言。
頭の中で何かが噛み合いかけて、すぐに目を逸らした。
俺は唇を湿らせる。
「……俺たちの動きを、なぞってるのか」
返事はない。
ただ、ノイズの奥で、小さく笑うような音がした。
その瞬間、町全体の静けさが、少しだけ深くなった。




